第41代にかぞえられる天皇。称制686-689年,在位690-697年。鸕(菟)野讃良(沙羅々)(うののさらら)皇女。諡(おくりな)は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)または大倭根子天之広野日女(やまとねこあまのひろのひめ)という。天智天皇の皇女,母は蘇我石川麻呂の女遠智娘。大化改新の開始の年に生まれ,657年(斉明3)13歳で父の弟大海人(おおあま)皇子と結婚する。国内では父の中大兄皇子(のち天智天皇)を中心に律令体制の成立が急がれていたが,国外では強大な唐の勢力の圧迫により,朝鮮半島の情勢が緊迫していた。斉明天皇は661年,唐と新羅に攻められた百済を救うために九州に出征,持統も夫大海人とともに軍に従い,662年(天智1)九州の那津で草壁(くさかべ)皇子を出生。百済救援軍は翌年白村江で大敗する。667年,天智は都を近江(滋賀県)に移し,668年ここで正式に即位する。このころから天智と大海人との間が天智の後継者問題をめぐって不和となり,671年10月大海人は朝廷を去って吉野山に隠れ,持統もそれに従った。同年12月に天智は没し,大友皇子があとを継いだ(弘文天皇)が,翌672年(天武1)6月,大海人は反乱をおこして弘文の近江朝廷を滅ぼす。これが壬申の乱で,勝利した大海人は都を大和へかえし,673年飛鳥浄御原宮で即位し(天武天皇),持統を皇后とした。持統は《日本書紀》に〈天皇を佐けて天下を定め,(中略)言政事に及び,毗(たす)け補う所多し〉とあるように,夫天武を助けて政治をとった。天武の治世に律令体制の整備が進み,681年律令の制定に着手したが,その完成をまたず,天武は686年(朱鳥1)に没した。持統は皇后として政治をとり,草壁皇子を天皇に立てる予定だったが,草壁が689年(持統3)に没したため,持統は飛鳥浄御原令の発布,戸籍(庚寅(こういん)戸籍)の作成などを命じたのち,翌690年正式に即位する。持統は令と戸籍によって国家の諸制度を充実させるとともに,律令国家にふさわしい都として藤原京の建設に着手,694年に遷都する。697年薬師寺で仏像開眼会を行ったのを機会に皇位を孫の軽皇子(文武天皇)にゆずり,太上天皇となる。そののちも文武の政治を助けたが,大宝律令のなった701年(大宝1)の翌年に没した。律令国家の形成に多大の功績のある政治家である。《万葉集》に歌6首がある。
→女帝
執筆者:直木 孝次郎
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白鳳(はくほう)時代の天皇。第41代に数えられる(称制686~689、在位690~697)。鸕野讃良(うののさらら)皇女といい、諡(おくりな)は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)または大倭根子天之広野日女(やまとねこあまのひろのひめ)という。父は天智(てんじ)天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)の女(むすめ)遠智娘(おちのいらつめ)。父の弟大海人(おおあま)皇子の妃となる。大海人は天智天皇の皇太子の地位についたが、天智の晩年に意思の疎通を欠き、671年(天智天皇10)朝廷を去って吉野山に入り、持統もこれに従った。天智の没後、持統の異母弟の大友皇子が天智の後を継いだが、大海人は672年壬申(じんしん)の乱を起こし、大友(弘文(こうぶん)天皇)を倒して皇位につき、天武(てんむ)天皇となり、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)に都を定め持統を皇后とした。持統は天武の政治を補佐し、686年の天武の死後は皇太子草壁(くさかべ)皇子を助け、689年(持統天皇3)に草壁が没したのち、飛鳥浄御原令(りょう)を施行、ついで690年正式に即位し、諸制度を整備して、律令国家の確立に努め、藤原京を建設して694年に遷都した。697年に皇位を孫の文武(もんむ)天皇に譲るが、太上(だいじょう)天皇として文武の政治を助け、大宝律令の成った701年(大宝1)の翌年に没し、天武の檜隈大内(ひのくまのおおうち)陵(奈良県明日香(あすか)村に治定)に合葬された。『万葉集』に歌6首がある。
[直木孝次郎]
『直木孝次郎著『持統天皇』(1960・吉川弘文館)』
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645~702.12.22
在位690.1.1~697.8.1
鸕野讃良(うののさらら)皇女・高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇と称する。天智天皇の皇女。母は蘇我倉山田石川麻呂の女遠智娘(おちのいらつめ)。大海人(おおあま)皇子(天武天皇)と結婚し,壬申の乱では行動をともにし,天武即位と同時に皇后となった。686年(朱鳥元)天武死後,即位せずに政治を行う称制に入り,実子で皇太子の草壁(くさかべ)皇子への謀反を理由に大津皇子を自害させた。草壁が没するとみずから即位し,天武の方針をうけつぎ,飛鳥浄御原令(きよみはらりょう)を施行し,庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作って律令にもとづく政治を進めた。藤原京への遷都後,697年(文武元)草壁の子軽(かる)皇子(文武天皇)を皇太子に定め,同年譲位してみずからは太上天皇となり,天皇とともに律令制の基盤を作った。
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…主として僧侶により採用された葬法であり,記録では《続日本紀》文武4年(700)条にある元興寺の僧道昭の火葬を初めとするが,6,7世紀の火葬墓が発見されたり,《万葉集》に火葬を詠んだ挽歌がみられることなどから,僧侶だけに限られず,またその起源もさらにさかのぼるようである。702年(大宝2)持統天皇が飛鳥岡に火葬され,天皇火葬の初例となった。文武,元明,元正の3天皇も火葬にされ,奈良時代には貴族,僧侶の火葬が普及したが,庶民のあいだでは一般的でなかった。…
…《古事記》《日本書紀》によれば,応神・雄略朝に吉野宮に行幸した記事がみえるが,確実には656年(斉明2)に造営されたとみるべきだろう。壬申の乱の勃発前夜に大海人皇子(後の天武天皇)は半年余吉野宮に隠栖していたし,679年(天武8)5月5日に天武天皇は皇后(後の持統天皇)や草壁皇子以下の6皇子と,吉野宮で有名な誓約を行っている。持統天皇は在位中に31回にわたり吉野宮に行幸した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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