擦文土器の使用を指標とした文化。北海道の続縄文文化が東北地方の古墳文化の影響をうけて変容,成立した文化で,北海道一円から東北地方北部にも広がりをみせている。この文化の初期に注目される遺構として,江別市や恵庭市など道央部に発見されている,いわゆる北海道式古墳がある。律令政府とかかわりのあった人が被葬者と考えられている東北地方の末期古墳と同形で,出土遺物も,土師器(はじき),直刀,蕨手(わらびで)刀,鉄斧,鉄鎌,銙帯(かたい)金具,勾玉や和銅開珎など似たものが多い。古墳そのものの分布は地域が限られているが,その文化的影響は広く全道に及んでいる。土器製作のうえでは,縄文文様が失われた擦文土器が盛行し,また石器の使用がほとんどなくなり,鉄製の利器が普及する。鉄器は本州からの移入品が多かったであろうが,鞴(ふいご)の羽口の出土例があるところから,野鍛冶程度の技術があったと考えられている。鉄器のなかには,鍬先,斧,鎌など農耕具があり,大麦,アワ,ソバなどの種子の発見とあわせて,生業は前代の続縄文文化当時の狩猟・漁労をベースにしながらも,初歩的な農耕のあったことも考えられている。住居は方形の竪穴式で,1辺が4~5mから7~8mのものが多く,屋内の中央部の炉のほかに,東側の壁に,煙道が戸外に通ずる竈が付設されているのが多く,海岸や内陸部の河川や湖沼に近い段丘上に大住居群を残している。この文化が盛行していたころ,道東北部では,オホーツク海岸を中心にしたオホーツク文化が,一部は根室半島を越えて北海道太平洋岸の東部や,宗谷岬を越えて日本海岸の北部の利尻・礼文の島々にまで広がっており,両文化は互いに影響し合っていた。道東のいくつかの遺跡では,擦文土器と,オホーツク式土器の融合した,いわゆるトビニタイ式土器が発見されて,北海道の土器文化の終末期の様相を考えるうえで注目されている。最近は,アイヌ文化を擦文文化までさかのぼらせる見方が定着しつつあり,アイヌ文化のなかの,ある種の漁・狩猟儀礼の祖型をオホーツク文化に求める説もある。また,日本海岸の奥尻町,小平町,天塩町などの遺跡から出土した擦文土器の杯の底面に記号様の刻文のあるものがみられるが,アイヌの父系印として伝えられているエカシ・イトクパにつながるものとして留意されている。
→アイヌ
執筆者:藤本 英夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
続縄文文化を継承し,東北北部から北海道に分布する紀元7世紀頃から13~14世紀までの600~700年間続いた文化。アイヌ文化へ続くといわれるが詳細は不明。この文化で作られた土器が擦文式土器で,土師器(はじき)・須恵器(すえき)をともなうことがある。住居は方形・隅丸方形の竪穴(たてあな)で,4本の柱と中央に炉,壁の1辺にカマドを設ける例が多い。擦文文化は,鉄製の刀・刀子(とうす)・鏃(やじり)・斧・鎌・鍬先などをもち,コメ・オオムギ・アワなどの穀物とソバ・アズキ・ウリ科などの植物を栽培し,川をさかのぼるサケ・マス漁とあわせた農耕社会を維持した。墓には北海道式古墳とよぶ高塚があり,副葬品は東北北部の終末期古墳と類似のものが出土することもあるが,多くの場合は不明。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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【歴史】
[初期の歴史]
アイヌ民族の起源や初期の歴史についてはいまだ不明な点が多い。現在の考古学の知見では,続縄文文化(紀元前後‐7,8世紀)まではさかのぼることが可能で,次の擦文文化(8,9‐13世紀)は後代のいわゆるアイヌ文化の先行形態と解されている。もっとも,今のところ擦文文化にはアイヌ文化に特有な熊送り儀礼(イオマンテ(熊祭,熊送り))の痕跡がみられないことから,擦文文化からアイヌ文化への移行過程については,今後解明すべき問題が多く残されている。…
※「擦文文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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