日本大百科全書(ニッポニカ) 「教会堂建築」の意味・わかりやすい解説
教会堂建築
きょうかいどうけんちく
初期キリスト教時代のカタコンベとよばれる地下墓室は、それ自体まだ建築物とみなすことはできない。キリスト教徒による建築活動が本格的に始まるのは、4世紀初頭コンスタンティヌス大帝によるキリスト教保護令が発布されたのちのことである。
[濱谷勝也]
初期
長い地下活動のため固有の建築技術をもたなかった初期のキリスト教徒たちは、当初は既存の建造物のなかから教会堂に適したものを選んでこれを改築した。裁判所と市場とが結合した古代のバシリカの基本形式を応用したのが初期キリスト教時代のバシリカ式教会堂で、4~6世紀のものはおおむねこの形態である。これは木組の天井をもつ矩形(くけい)(長方形)の建物であるが、奥の突き当たりに半円形に張り出す祭室(アプス)が設けられ、その中央に祭壇、そしてその背後に司教座が置かれた。その手前は2列に並ぶ円柱によって中央の身廊と左右の側廊に分けられる。それに続いて横に細長い玄関の間(ナルテックス)が設けられ、さらにその手前は柱廊に囲まれた前庭部になっている。教会堂のこのような移行する空間秩序は、浄化、集会、神顕に伴う人間の宗教精神の諸段階に対応する。司祭は祭壇の後方から会衆に向かって祭式を行ったが、司祭席は教会堂の東側、すなわち祭室の壁面に沿って取り付けられていた。しかし司祭席のための空間が不十分となり、それが両側に拡張され、やがて翼廊が成立する。身廊と翼廊を隔てるために幅広い横断アーチ(凱旋穹窿(がいせんきゅうりゅう))が設けられ、内陣の聖性を強調する。
初期キリスト教時代のバシリカ式教会堂は、建築における空間的統一を具象化することができなかった。空間的統一の要求は、単純かつ実際的なローマ人よりも、思惟(しい)的で調和的精神に富むギリシア人にとって親密なものであった。彼らは東方の建築的要素を加味して、ビザンティン建築の古典的様式であるギリシア十字形教会堂を実現させた。この集中式プランによる建築様式はコンスタンティノープル(イスタンブール)を中心として、広く東方キリスト教世界に伝播(でんぱ)するが、技術上や装飾上の変化を交えながら魅力ある教会堂建築を残している。
[濱谷勝也]
中世
ヨーロッパ中世の文化の担い手であるキリスト教の隆盛とともに建築活動は教会堂に集中され、11世紀以降各地に大規模な教会堂が相次いで造営された。ロマネスクとよばれるこの時期の建築様式は、キリスト教的秩序そのものの表現といえる。装飾は控え目で周壁は重厚であり、窓は小さく、そしてこの様式を端的に特徴づける半円形アーチは純朴である。初期ロマネスクにはまたバシリカ式の木組み天井が残されるが、祭室や側廊には石材の穹窿天井が架せられ、やがて身廊にもそれが採用されていった。
ロマネスク様式の盛期と前後して繰り返された十字軍の遠征は、ヨーロッパにおけるキリスト教統一の実現にほかならないが、一方、東方の華美と洗練された世俗文化をヨーロッパにもたらすことにもなった。ロマネスク式教会堂の重厚な壁体はもはや尊重されず、教会堂のプランそのものも多様な変化に富むようになる。人々は教会堂内部の具象化された空間的統一よりも、上方に高く広がる抽象的空間を希求するようになった。このような精神的態度の純粋に実現されたものがゴシック様式である。ロマネスクからゴシックへの建築様式の移行にあたり、重要な意味をもつ最初の変化は尖頭(せんとう)アーチの出現である。かなり自由に角度を調整できる尖頭アーチを交錯させることにより、建築上きわめて重要な穹窿の高低や構造に大きな可能性がもたらされた。窓、玄関、壁龕(へきがん)(ニッチ)、列柱の連結部その他に尖頭アーチが使用された結果、ロマネスク式教会堂では未知であった、上方空間を志向する垂直性が獲得された。そしてこの垂直な上昇を主眼とする建築構造には、必然的に屋根や穹窿の側面推力を支えるためのバットレス(控壁(ひかえかべ))や、フライング・バットレス(飛梁(とびばり))が採用されることになる。そのために壁体は薄くされ、巨大な窓をうがつことも可能となり、建築それ自体が軽快にして優美なものとなった。一方、陽光の豊かなイタリアのゴシック式教会堂は、窓は狭く垂直な上昇効果は認められず、その形式感情はロマネスク式教会堂とそれほど異なるものではない。そして壮重にして明朗なその外観効果は、ルネサンスの教会堂建築に継承されていく。
[濱谷勝也]
ルネサンス
ルネサンスは、キリスト教の偉大さを教会堂の壮麗、華美と広大さをもって具象化しようとした時代である。ブルネレスキはフィレンツェ大聖堂のクーポラを完成して、その後の教会堂建築の道標を打ち立てた。中心にクーポラを架構し、求心的な空間構成を保有する教会堂形式が究極的な完成をみせるのが、ミケランジェロの設計によるサン・ピエトロ大聖堂である。つねに絶賛されてきた巨大なクーポラは他に類例のない形式美に輝いている。
16世紀後半に始まるカトリック教会内部の革新運動は、感覚的陶酔を伴う宗教精神を生み出すことになった。その結果、教会堂建築にもバロック様式とよばれる絢爛(けんらん)豪華な装飾デザインが多用されることになった。その世俗性は否定すべくもないが、バロック様式は宗教精神の動揺期を背景に、最後の独自な教会堂様式を実現したということができる。
[濱谷勝也]
近世以降
18世紀におけるヘルクラネウムやポンペイの発見は教会堂建築にも祭式用建築には適さない古典主義の出現を促した。これに対する人々の反感は、ヨーロッパの各国に根をもつゴシック様式に規範を求めることになり、しばらくは新ゴシックが唯一の教会堂様式とされた。19世紀後半の歴史主義はビザンティンやロマネスクを手本にルネサンスやバロックの建築様式に傾いていった。しかしこれらはいずれも模倣の域を出るものではなく、独自の教会堂様式といえるものではなかった。今日でも空間構成やデザインの面で種々の新しい試みが行われている。しかし設計者の意欲とは裏腹に、現代人における宗教精神の冷却がそのまま露呈されているようである。
[濱谷勝也]