中国において文人の語は《詩経》など先秦の古典にすでに見えるが,それらは文徳ある祖先の意で,後世の語義に直接にはつながらない。文章の作者の意味に文人の語を用いるのは後漢時代ごろ,宮廷文学者とは異なる自覚を持った作者の出現を背景とする。近世社会の中では,文学だけに限らず,ひろく詩文書画の実作者としての文人たちが士大夫層の文化の代表者の一つとして時代をこえて存在する(琴棋書画)。彼らは単なる技術者ではないことを誇りとするが,同時にそれゆえにその実作は趣味的芸術として一定の限界をもつものであった。
執筆者:小南 一郎
江戸中期,享保(1716-36)ごろから存在が顕著になる,ある傾向を帯びた知識人を称した。享保ごろには近世社会もすでに100年をこえ,天下太平の中で教育・文化が普及して知識人層が増大した。その一方で,身分制度の固定化,社会全般の停滞という現象もあらわになり,知識人たちの間には身につけた学問・教養を現実社会に生かすことができないという不満や挫折感が広まった。そこから,現実への関心を切り捨てて,芸術や趣味の世界に自己の才能を生かそうという生活意識が生まれる。そうした生活意識を抱く知識人が文人である。彼らが好んだ芸術・趣味は必然的に知識性の強い高踏的なものであり,具体的には漢詩文,書道,南画(文人画),篆刻(てんこく),煎茶などであった。こういう生活意識はいつの時代にもありうるが,江戸中期のそれは時代の文化の中で大きな役割を果たし,たとえば池大雅の文人画のようなすぐれた芸術を生み出した。おりしも享保期には儒学界に荻生徂徠が登場して,朱子学の道学主義を否定する新しい儒学説(徂徠学)を唱えた。徂徠学には,個性の伸張を肯定し,漢詩文の制作を奨励する主張が含まれていて,これが文人たちの活動に理論的根拠を提供したので,文人意識は徂徠の門流を中心に普及した。初期の文人としては,徂徠門下の漢詩人服部南郭,大和郡山藩の家老で趣味人として聞こえた柳沢淇園(きえん),紀州藩儒で漢詩と文人画をよくした祇園南海などが有名である。明和・安永(1764-81)ごろになると,現実を離れて芸術・趣味に遊ぶことをよしとする意識は,漢詩文,文人画などにたずさわる人々をこえてより広い層に行きわたり,蕪村や上田秋成などにも文人的な面影が認められる。また平賀源内や大田南畝など知識人出身の初期戯作者の,高い教養を身につけていながらことさら卑俗な文芸をもてあそぶという生き方も,文人意識の屈折した現れと見ることができる。
執筆者:日野 竜夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
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