近代西洋の文明を導入しつつ,人民の精神から政治,経済,社会のあり方までを全面的に変革していこうとした明治初年の動向をいう。
幕末に西洋列強が接近してくるにつれて,現実に関心をもつ一部の武士層の間に,日本全体が一つの政治単位であるという国家意識が出てくると同時に,列強に対抗して日本の独立を達成するには,優れた西洋の文明を導入する以外にないという思想が現れはじめる。日本の近代化はこの線に沿って展開していくわけであるが,西洋文明への関心はさしあたっては軍事やその基礎をなす科学技術に向けられる。有名な佐久間象山の〈東洋道徳・西洋芸術〉の観念(芸術は技術の意)は,この段階を代表する。ペリー来航後になると,国防は軍事よりもむしろ政治の問題であり,〈民心の一致〉を達成することこそがその根本であるという考えが現れてくる。それにつれて,儒教の民本主義的な観念が改めて強調されると同時に,この観念を媒介として近代西洋の立憲的ないし民主的な思想や制度が理解・評価されはじめる。こうして社会政治体制の面でも西洋文明を摂取しようとする動向の基礎がおかれるが,この動向は,西洋議会制度の影響のもとで形成された列藩会議論という形をとって明治維新実現の過程において重要な役割を演ずる。もちろん,維新の過程で主たる動力となったのは〈王政復古〉の動向であるが,西洋の文物制度を導入しようとする〈文明開化〉の動向は,五ヵ条の誓文に象徴されるように,明治新政府の基本態度の一つとなっており,1869年(明治2)の版籍奉還をへて71年に廃藩置県が実現される前後になると,これが王政復古の動向を圧倒していく。通常考えられているように,文明開化は廃藩置県を画期として本格化するといってよかろう。
文明開化を思想の面で指導したのは,明六社(1873年発起。74-75年存続)の人々に代表されるいわゆる啓蒙思想家である。彼らは洋学や洋行を通じて,幕末の段階においてすでに個人の自由権利を基礎とする西欧政治体制の骨格を理解し,著述や翻訳によってそれを紹介していたが,廃藩置県の前後になると,政府の動向の変化に刺激されつつ民衆に対する啓蒙活動を本格的に開始する。彼らの思想には人によってかなりの相違があるが,(1)人間の感性的〈自然〉を解放し,現世的幸福の追求を肯定する傾向,(2)自然法的な〈天賦人権〉の観念,(3)自然科学を学問のモデルとして重視する態度,(4)人類の普遍性を信じ,日本も西洋と同一の歴史的発展をするとみる歴史の単線的進歩の観念,などの点では一応の共通性があったといってよい。彼らはこうした立場から儒教的な名分論や国学流の天皇中心主義を批判し,日本の文明化を推進しようとした。なかでも福沢諭吉は,西洋文明の〈精神〉と〈外形〉とを区別し,その精神--人民独立の気風と自然科学的実験的思考方法とを根本から摂取することによって,民衆の精神のあり方を根底から変革しようと試みた。彼にとって,これはそのまま日本の独立を達成するための唯一の方法でもあった。いいかえれば,文明開化と対外的独立とは不可分の関係にあったわけである。この反面,彼は西洋文明の現状は歴史の進歩の過程において相対的にもっとも進んでいるというだけにすぎないことを明らかにしながら,その現状,その外形を盲目的に崇拝することをたえず厳しく戒めていた。
啓蒙思想家の思想はさまざまな通路を通じて政府の指導者に影響を与えるのであり,廃藩置県後の政府は文明開化の推進にきわめて積極的であった。その場合,政府もナショナリズムの観点からして,民衆の自発的能動性を高めることに無関心であったわけではないし,ある意味では個人の自由権利の普及を促進したといってよい。しかし,その主たるエネルギーは,当面の富国強兵をめざして軍事をも含めた国家機構や法律制度,またそれを支える工場制度や交通通信制度,あるいは学校制度など,欧米の既成の文物制度を断片的に模倣・導入することに注がれた。
こうした制度輸入型近代化は,制度的物質的な側面における近代化と,民衆の精神の次元における近代化とを跛行(はこう)させるだけでなく,官と民,中央と地方,(県庁所在地など)都会と農村との間にむしろ逆比例的な発展を結果する。このため,没落する士族層だけでなく農民層の間からも政府による文明開化に対してさまざまな反抗が現れる。こうした反抗は,いずれの場合にも伝統的な立場からする〈近代化〉への抵抗という性格をもつが,文明開化によって自由権利の観念がすでに流通しているために,やがてそれはみずからをこの観念で武装しはじめる。こうして自由民権運動が勃興し,1870年代末に農村を中心として全国的に普及すると,政府は以前とは逆に民衆の自発的能動性を抑圧することに狂奔し,伝統的な忠孝の道徳の復活・再生を企てるにいたる。もちろん,これ以後も政府は制度輸入型近代化を推進しつづけるだけでなく,80年代には条約改正と結びついて風俗慣習から文芸,さらには宗教の面にまでわたって欧風化を促進する政策をとる。こうした動向と関連して,80年代を通じて〈文明開化〉は色あせつつもなお標語でありつづける。しかし,一つの歴史的現象としての文明開化は,1870年代末までに限定して考えるほうがよいと思われる。
文明開化の思想的性格を知るかっこうの手掛りを提供するものとして,後に〈開化物〉と総称されるようになった出版物がある。これは日常的生活様式から国際政治にまでわたって,文明開化したあり方を通俗的な形で庶民相手に説いた本であって,1873年から75年にいたる時期に集中して刊行されている(出版元は東京と大阪)。この時期は明六社の活動期であり,文明開化の最高潮期にほかならないが,開化物についてまず注意すべき点は,それが政府の民衆教化政策に沿って著されていることである。当時の政府は教部省を設置し,民衆教化を自己の仕事としていたが,1873年になるとそれまでのいわば敬神尊王主義のほかに,文明開化主義を民衆教化方針に加えると同時に,従来からの神官,僧侶のほかに戯作者や講談家を教導職に採用するようになる。開化物の著者はこの教導職と同一の社会層に属する人々であり,そのなかの一部は実際に教導職であったことが確認できる。この社会層は伝統的に庶民教化を担っていた層にほかならないが,彼らは政府の教化方針の変化に応じて,今や文明開化を庶民に向かって普及しはじめたわけである。
その内容を見ると,啓蒙思想家の著作の影響が随所にうかがわれるだけでなく,民衆の自主的判断力を啓発しようという傾向をもつものがないわけではない。しかし,全体として見ると,そこには伝統的な善玉・悪玉の論理を思い起こさせるような,旧弊に対して文明を,暗愚に対して開化を固定的に対置する傾向がはっきりと出ている。たとえば,開化物には問答体のものが多いが,その問答は開明を代表する人物と暗愚を代表する人物との間で行われ,前者が後者を一方的に説き伏せる形になっているわけである。しかも,開化物が説く開明化したあり方とは,四民平等であれ改暦であれ,政府が現に実行している〈近代化〉をそのまま受け入れることであるという色彩がきわめて強いのである。こうして開化物には,政府に指導される形が強く,政府を絶対視する傾向があること,伝統的に庶民教化を担っていた社会層がそのまま新しい文明開化普及の担い手となっていること,思想内容は新しくなっているが思考方法の面では伝統との連続性が強いことといった特徴が認められるが,これらの点は明治初年の文明開化の風潮全体を特徴づけるものといってよかろう。しかし,文明開化はこのような底の浅さ,変革性の弱さにもかかわらず,否,まさにそのために,瞬間的には都会を中心として爆発的ともいうべき激しさで展開したのである。ちなみに開化物の著者たちは,1870年代末から政府の姿勢が反動化すると,その線に沿って再び〈伝統的〉道徳を庶民に向かって普及することになる。
→欧化主義
執筆者:植手 通有
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明治前期における西洋文明の摂取による近代化の現象をいう。「文明開化」の字義は、学問が進み世の中が開けることであり、また「近代化」と同義に使われることもあるが、普通には明治前期の歴史的現象をさすことばとして使われ、明治10年(1877)ころまで(自由民権期と対比して)または明治前半期(明治20年代のナショナリズムと対比して)をさして「文明開化期」と称したりする。
明治前期においては、「チョンマゲ頭を叩(たた)いてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする、ザンギリ頭を叩いてみれば文明開化の音がする」と歌われたように、前時代の古いものを野蛮未開と否定し、怒濤(どとう)のように入ってくる西洋文物を摂取することが社会進歩の道であると観念され、「文明開化」はこの時期の優越的な合いことばとなった。「文明開化」ということばは、漢書に出典をもつ「文明」と「開化」を結び付けた造語であって、福沢諭吉が『西洋事情』において初めて使用したといわれる。
文明開化の現象は、生活の洋風化としては、シャボン、ランプ、洋傘、シャッポ、洋服や洋館、ガス灯、あるいは学校、新聞、雑誌、さらには和洋折衷の建築から牛鍋(ぎゅうなべ)まで、開化物として流行した。これらは東京、大阪、京都や開港場の横浜、神戸など大都市の中心街に際だってみられ、地方には一般化していなかったが、新聞、雑誌、錦絵(にしきえ)などによって、あるいは仮名垣魯文(かながきろぶん)『安愚楽鍋(あぐらなべ)』、加藤祐一(ゆういち)『文明開化』など文明開化の宣伝教化の出版物によって、全国の人々の心を魅了した。しかしなによりも全国民に「文明開化」を実感させたのは、岩倉使節団や海外留学生、御雇い外国人など、政府の意欲的な西洋文明摂取のもとに展開される開化政策であって、それは学制、徴兵令、地租改正などとなって全国民に降りかかってきた。それら諸政策は、これまでの生活慣習を急激に変えるとともに、民衆に負担を強いるものであったので、政府はたびたびの布達や教導職の動員、あるいは博覧会開催などの宣伝教化に努めた。地方への浸透は、都市部では比較的スムーズに、また農村部でも豪農商層にとっては新しい世界で自分たちが活動できる場の出現として受け止められたが、一般民衆にとっては大きな衝撃として受け止められ、血税一揆(いっき)など新政反対一揆が続発した。
[広田昌希]
『木村毅著『文明開化』(至文堂・日本歴史新書)』▽『ひろたまさき著『文明開化と民衆意識』(1980・青木書店)』
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明治維新後使用された新語。英語のシビリゼーションの訳語で,1873~75年(明治6~8)を頂点として憲法制定頃までの文化・世相に表れた西洋化現象を示す語。学制・地租改正・徴兵制,新橋―横浜間の鉄道,電信・郵便の開設,新聞の発行などである。文明開化の最初の用語は福沢諭吉の「西洋事情」外編(1868)とされる。明治政府は西洋風の新国家を建設すべく,多大の経費を投じ開化政策を強行し,国民生活に大きな影響を与えた。
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…そうした政府の積極的な施策にもかかわらず,当時における日本経済の現状は,これら先進的技術や設備を活用する条件を欠き,たちまち赤字経営に直面し,1880年には工場払下概則を制定して,軍需工場を除く一連の官営工場や鉱山,炭鉱などを三井,三菱,古河などの政商に払い下げた。
[文明開化]
こうした先進諸国を範とする近代化政策は,教育・文化の面でも必要とされ,欧米の教育制度や学問・思想が積極的に導入された。たとえば1872年(明治5)の学制は,欧米の学校制度をモデルとしており,また多数の御雇外国人(表,表(つづき)参照)を政府顧問や学校教師,技師などに採用して先進的な学問・技術の直接的な摂取をはかろうとした。…
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