デジタル大辞泉 「斉」の意味・読み・例文・類語
せい【斉】
春秋時代の列国の一。周の武王によって
戦国七雄の一。前379年、田氏がの国政を奪い建国。前4世紀後半に最盛期を迎え、山東省の全域を支配したが、前221年、秦に滅ぼされた。田斉。
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中国の王朝。550-577年。北斉,高斉ともいう。東魏の実力者高歓の死後,その地位を引き継いだその子の高澄は政権奪取を計画していたが,不慮の死をとげた。弟の高洋は革命を敢行して斉を建て(文宣帝),引き続き鄴(ぎよう)を首都としたが,高氏の軍事根拠地である太原もその重要性を失わなかった。文宣帝は酒乱の暴君で,漢人貴族楊愔(よういん)らを股肱として一族,功臣をしきりに誅殺した。帝の死後その不満が爆発して宗室の諸王が楊愔らを殺し,その中心人物常山王演が功臣たちの支持によって即位した(孝昭帝)。孝昭帝は質実なやり方で政治を引きしめたが,1年余りで病死した。第3代湛(武成帝)の時代には,寵臣たちが政治を乱脈に陥れ,功臣や名臣たちを排斥した。こうして軍や官僚機構は機能麻痺に陥り,これに乗じた北周は577年,まず太原を陥れ,ついで鄴に進撃して第4代緯(後主)を捕らえ,ここに運命が決した。北斉は政情不安定のために滅んだが,すぐれた文人官僚を擁し,隋・唐律令に大きな影響を与えた河清三年律令の制定,《太平御覧》の原本となった《修文殿御覧》の編纂など,文化上の功績は大きい。
→魏晋南北朝時代
執筆者:谷川 道雄
中国,南朝4王朝の一つ。479-502年。北朝の斉を北斉と呼ぶのに対して南斉と呼ぶ。晋陵武進(江蘇省常州)に僑置された南蘭陵蘭陵の人,蕭道成(しようどうせい)(高帝)が創業。対北魏防衛の拠点である淮陰(わいいん)(江蘇省淮陰)の軍閥として実力を蓄え,中央に召されて軍政を担当,江州刺史桂陽王劉休範,荆州刺史沈攸之(しんゆうし)などの挙兵を平定して宋から王朝を譲られた。高帝と武帝の2代は開国の功臣や貴族の支持によって比較的安泰であったが,北魏との交戦によって疲弊し,また社会的には社会の底辺の寒人層の台頭が目だった。485年(永明3)に浙江地帯に起こった唐㝢之(とううし)の乱は,戸籍の書きかえによって士人身分の獲得をめざした庶民の反乱である。明帝は諸王をつぎつぎに殺害する恐怖政治をしいて王室の結束を弱めたが,悪童天子として世に聞こえる東昏侯の時代には地方州鎮の挙兵があいつぎ,結局23年の短命をもって蕭衍(しようえん)(梁の武帝)に王朝を奪われた。
→魏晋南北朝時代
執筆者:吉川 忠夫
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①〔戦国〕前386~前221 戦国の七雄の一つ。山東地方を領有。周初以来の斉を,その臣の田氏(でんし)が奪って建国。前4世紀後半威王,宣王のとき国勢は絶頂に達し,国都臨淄(りんし)は繁栄をきわめた。前284年燕に大敗して以後国力が傾き,秦,趙(ちょう)に圧迫され,秦に滅ぼされた。斉は山東の漁塩の利を占め,商業活動が盛んで,刀銭が流通した。
②〔南朝〕479~502 魏晋南北朝時代の南朝の王朝。宋の武人蕭道成(しょうどうせい)(高帝)が順帝の禅譲を得て建てた王朝。その子の武帝(賾(さく))は民政に努め,永明(えいめい)の治といわれたが,諸帝は寒人(かんじん)を用いて貴族の支持を失い,一族の蕭衍(しょうえん)(梁(りょう)の武帝)に国を奪われ,7代で滅んだ。北朝の斉(北斉)に対し,南斉という。
③〔北朝〕北斉
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中国、戦国時代の国。春秋時代までの斉国を姜(きょう)斉ともよぶのに対し、紀元前379年田敬仲(でんけいちゅう)が公位について以後、代々田氏一族が公(王)位につくようになった戦国時代の斉国を田斉(でんせい)とよんで区別する。前4世紀中期、田斉4代目の威(い)王から王を称するようになり、現在の山東省全域を支配する強国に成長し、戦国七雄の一つに数えられる。その子宣(せん)王の時代に勢力は絶頂に達し、学問のうえでも全国の諸家の学者を臨淄(りんし)の稷門(しょくもん)の下の学館に集めて政治論議をさせ、いわゆる「稷下の学」をおこした。次の湣(びん)王の時代には宋(そう)、中山(ちゅうざん)などを滅ぼして勢力を維持したが、前284年に、北方の燕(えん)が将軍楽毅(がくき)統率のもとで他の4国(秦(しん)・魏(ぎ)・韓(かん)・趙(ちょう))と結んで斉を大敗させて一時臨淄をも占領した。以後、勢力は下り坂となり、西方の秦、北方の趙に圧迫され続け、前221年、秦の東伐軍に滅ぼされた。
[太田幸男]
『司馬遷著、小川環樹他訳『史記世家』(岩波文庫)』
中国、周代の侯国。姜(きょう)斉ともいう。周の文王に用いられて、武王の殷(いん)の討滅を助けた太公望(たいこうぼう)呂尚(りょしょう)が営丘(えいきゅう)(現在の山東省益都(えきと)県付近)に封ぜられたのに始まるとされる。7代目献公(けんこう)のときから都を臨淄(りんし)(現在の山東省淄博(しはく)市東方)に移し、以後都は変わらなかった。紀元前7世紀初頭ごろから勢力を伸ばし、桓公(かんこう)(在位前685~前643)が即位すると、名宰相管仲(かんちゅう)の補佐の下で富国強兵策を推進し、前651年には覇者となり、周辺の小国を併合し、衛(えい)国を復興させ、楚(そ)の侵入を阻止し、斉を一躍強国にした。桓公以後は覇者とはならなかったが、晋(しん)、楚と並ぶ大国として君臨した。しかし、前5世紀以後は有力貴族の台頭や内乱によって国内は混乱し、前379年、有力貴族の田敬仲(でんけいちゅう)が康公(こうこう)にかわって公位についた。
[太田幸男]
『司馬遷著、小川環樹他訳『史記世家』(岩波文庫)』
中国の王朝(479~502)。南朝の一つ。南斉ともいう。都は建康(いまの南京(ナンキン))。蘭陵(らんりょう)(江蘇(こうそ)省武進県付近)出身の蕭道成(しょうどうせい)(高帝)が宋(そう)王朝にかわって建国した王朝である。7代24年間続いたが、11年在位した第2代武帝のほか、初代高帝の3年、第5代明(めい)帝の4年を除けば、ほかはいずれも若年の皇帝が短期間に廃立されている。もっとも安定していたのは武帝時代で、貴族にかえて身分の低い官僚を重用し、また混乱していた戸籍を正すなどの政策がみられ、比較的専制的な政治が行われた。その後、傍系から帝位を継いだ明帝が帝室の一族を大量に殺害し、また彼の子東昏侯(とうこんこう)の南朝随一といわれる虐政によって人心を失い、一族の蕭衍(しょうえん)(梁(りょう)の武帝)によって滅ぼされた。
[中村圭爾]
中国、淮河(わいが)の流域を中心に、漢人の劉予(りゅうよ)を皇帝として金国の後援で建てられた傀儡(かいらい)国家(1130~37)。1126年に宋(そう)の都、開封が陥落したあと、ただちに金人の手によって漢人の張邦昌(ちょうほうしょう)を盟主に建てられた楚(そ)国は1年足らずで瓦解(がかい)した。その後、さらに綿密な計算のもとに、金国はその占領地域の安定的確保の前提としてこの間接統治の政策を進めた。このことは当時の南宋の士人や武将たちにも少なからぬ動揺をもたらした。1133年以降は金、宋(南宋)両者の勢力は淮河の線で事実上均衡し、劉予の政策にも意外な不安定要因がみえてきたことからついに廃止された。その地は金国の直接統治となり、そのことは1142年の和議で南宋からも認知された。
[山内正博]
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中国の南北朝時代の王朝の一つ(479~502)。北朝の北斉に対して南斉ともいう。蕭道成(しょうどうせい)(高帝)が宋の順帝の禅譲をうけ,王朝を開いた。しかし内政は振るわず内紛が続き,和帝が梁王の蕭衍(しょうえん)に禅譲して王朝は滅んだ。外交では479年にはじめて加羅(から)王の朝貢使をうけ,倭王の武を鎮東大将軍に叙し,百済(くだら)と倭を軸に北朝と高句麗に対抗した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中国,金の傀儡(かいらい)政権斉国の皇帝。在位1130‐37年。…
…このように,地勢や気候からみて,山東は華北平原のなかで最も安定した自然条件をもつ地域であるといえよう。
【斉魯文化】
[大汶口文化と竜山文化]
新石器時代,黄河中下流域には多様な文明が形成されたが,山東では約5000年前,大汶口(だいぶんこう)文化(泰安県大汶口遺跡を代表遺跡とする)と呼ばれる進んだ文化が,ほぼ山東全域に広がっていた。この文化は,同時期に西の中原地方にみられる仰韶文化とはやや性格を異にし,むしろ江南地方から淮河(わいが)下流域にみられる青蓮崗文化と共通するところが多く,山東より沿海に長江(揚子江)下流域まで続く,一連の文化が形成されていたと考えられる。…
…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
… 春秋時代には生産力が増大し,土地私有が現れるようになると,各諸侯の国々では田賦をはじめとする賦税の徴収など,封建生産関係のなかで度量衡の整備が進んだ。春秋斉の国の右伯君銅権,楚の国の銅環権などの分銅が考古学的な証拠である。《左伝》の昭公3年(前539)の記事には,量目の升,豆(4升),区(4豆),釜(4区),鐘(10釜)が見え,陳氏が台頭した前5世紀の斉の国では四進法の容量が普及した。…
…220年漢帝国が滅亡してから589年隋によって中国が再び統一されるまでの時代。建康(南京)に首都を置いた呉・東晋・宋・斉・梁・陳の江南6王朝を六朝というが,六朝の語でこの時代を総称する場合もある。この時代の特徴は政治権力の多元化にあり,短命な王朝が各地に興亡して複雑な政局を織りなし,はなはだしい場合には十指に余る政権が併立した(図)。…
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