精選版 日本国語大辞典 「新劇」の意味・読み・例文・類語
しん‐げき【新劇】
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日本において明治以降に展開された新しい演劇ジャンルの一つで、それ以前の能・狂言、歌舞伎(かぶき)などの伝統演劇をさす「旧劇」に対する呼称として、日本の近代・現代演劇運動とほぼ同義に用いられる。なお「新劇」の用語が一般に登場したのは、1913年(大正2)『朝日新聞』の劇評からである。
新劇は内容的には、小説・詩と並ぶ文学ジャンルである戯曲(ドラマ)を土台にして、その指示する内容全体を俳優を中心とする集団の協力(アンサンブル)によって表現する芸術的な演劇形式ということができる。すなわちヨーロッパの市民社会で成長した近代戯曲上演の日本版であるが、より狭義には19世紀末にヨーロッパに誕生した近代劇運動の日本版である。また、人気俳優を際だたせようとする娯楽的なウェルメイド・プレイ(うまくつくられた芝居)による商業的・営利的な上演傾向に対するものとして、劇団の理念によって統一された舞台表現を志向する小劇場運動である。したがって新劇は、「型」の伝承を重視する日本の伝統演劇にはなかった演出家の存在を不可欠なものとし、その芸術的な指導のもとに上演戯曲の解釈や舞台表現の様式・方法の統一を期するのが普通である。なお新派劇や新国劇などは「旧劇」ではないが、大衆的・娯楽的な脚本のもとに特定俳優の芸を優先させる点で、むしろ「旧劇」の系譜に連なるものと考えられるし、また興行資本を背景にもっぱらスター俳優の魅力や技芸を前面に押し出す大劇場での現代劇なども、新劇のカテゴリーには含めない。しかし今日では、社会の変化と多様化を反映して新劇も少なからず変貌(へんぼう)してきており、かつての商業演劇対新劇の図式はやや薄れつつある。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
一般に新劇の歴史は1906年(明治39)の文芸協会の設立に始まるとされるが、それ以前にもいくつかの試行錯誤を含む演劇の近代化の動きがあった。明治維新後、伝統的な歌舞伎(かぶき)の世界でも、当時の新風俗を登場させた散切(ざんぎり)物や、時代狂言(歴史劇)の荒唐無稽(こうとうむけい)さを否定して史実を強調した活歴(かつれき)が出現し、また従来の座付作者と異なる福地桜痴(おうち)のような局外作者も活躍した。
こうして「新劇」への可能性をはらみつつ、歌舞伎の改良・近代化へと収斂(しゅうれん)していく動向が展開され、その一つとして坪内逍遙(しょうよう)の史劇論「我が国(くに)の史劇」(1893~1894)と、その実践としての史劇『桐一葉(きりひとは)』(1894~1895)がまず現れた。これらは本来文学(小説)における『小説神髄』と『当世書生気質(かたぎ)』の試みに対応するものであったが、小説の場合とは異なり、歌舞伎の前近代性は全否定されず、時代狂言の部分的改良にとどまった。他方、北村透谷(とうこく)は戯曲『蓬莱曲(ほうらいきょく)』(1891)において歌舞伎からまったく離れた世界を構築したが、その台詞(せりふ)は完全に文語調であった。
さらに1888年(明治21)自由党の壮士角藤定憲(すどうさだのり)らが「日本改良演劇」と銘打って旗揚げした壮士芝居の流れは、当初は社会変革と演劇創造の統一という意味をはらみ画期的であったが、演技の面では技術的基礎をもたず、またここから育った新派劇も、技術的には成熟したが逆に思想的側面を欠落させ、歌舞伎の変種の性格を強めていった。この意味で、新劇の開拓者小山内薫(おさないかおる)が運動の出発にあたって述べた「歌舞伎劇に非(あら)ず新派劇にも非ざる『或(ある)新しい演劇』」ということばは、「新劇」の意義と方向を自ら規定したものといえよう。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
文芸協会は当初、東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)を背景に島村抱月(ほうげつ)が発企し、文芸全般の運動を目ざして1906年(明治39)に発会式を行い、同年秋の演芸部大会で『ヴェニスの商人』『桐一葉』などを部分的に上演した。ついで1909年坪内逍遙が前面に出て、自邸内に協会付属の演劇研究所を設立し、女優を含む俳優養成から始める画期的な演劇活動を開始した。ただ逍遙の演劇理念は、狭義の近代劇運動の推進だけではなく、歌舞伎劇改良の一面をもっていた。この研究所一期生の女優松井須磨子(すまこ)らによる『ハムレット』『人形の家』などの上演は、技術面には問題はあったにせよ、従来にない新しい舞台によって話題をよんだ。
他方、小山内薫が革新的な歌舞伎俳優2世市川左団次と組み、1909年にイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』で旗揚げした自由劇場は、その名が示すようにヨーロッパでの一連の自由劇場運動(近代劇運動)を推進しようとしたものであった。この劇団はヨーロッパ近代戯曲の紹介を活動の柱とし、森鴎外(おうがい)をはじめ島崎藤村(とうそん)、田山花袋(かたい)ら「イプセン会」に集まった自然主義文学者の強い支持を得た。日本における近代小説の嚆矢(こうし)『浮雲』の出現に遅れることほぼ20年である。ただ左団次一門には女方(おんながた)しか存在せず、近代演出術も手探りの状態であったため、「旧劇」風の演技は払拭(ふっしょく)できなかった。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
自由劇場は10年続いたが、左団次一門の歌舞伎出演のためしだいに先細りになり、1919年(大正8)第9回公演を最後に解散した。文芸協会も抱月・須磨子らの脱退によって1913年に分裂し、抱月・須磨子らの芸術座と、旧協会員らによる無名会、舞台協会が設立された。これ以外にも大正期には、上山草人(かみやまそうじん)らの近代劇協会、伊庭孝(いばたかし)らの新劇社、村田実らの踏路(とうろ)社、畑中蓼坡(りょうは)(1877―1959)らの新劇協会など、多くの新劇団が生まれ、かつ消え、あわただしい推移の様相を示した。さらにこれらに呼応して、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、木下杢太郎(もくたろう)、吉井勇、有島武郎(たけお)、里見弴(とん)、中村吉蔵、長田(ながた)秀雄、正宗白鳥(まさむねはくちょう)、菊池寛、久米(くめ)正雄、秋田雨雀(うじゃく)ら、流派や傾向を超える文学者たちが近代戯曲の創作に乗り出し、こうして「大正戯曲時代」とよばれる劇文学繁栄の時期が形成されていった。
この期を代表する芸術座は大衆化の道を歩み、とくに1914年に上演した『復活』(トルストイ原作)は、劇中で須磨子の歌う「カチューシャの唄(うた)」(中山晋平(しんぺい)作曲)によって一世を風靡(ふうび)した。このような通俗化の要素をはらむ新劇の大衆化・職業化の問題は、今日なお新劇界が直面している大きな問題である。しかし抱月は半面では、小劇場の牛込芸術倶楽部(くらぶ)を付設してトルストイの『闇(やみ)の力』などの近代戯曲を試演するなど、「二元の道」を通しての新劇の将来を遠望していたが、その緒についたばかりで急死し、その後を追って須磨子が自殺、芸術座は1919年その幕を閉じた。この期の新劇団の演目やそれに呼応する大正の戯曲作品のすべてが、十分に近代演劇(新劇)としてのドラマか、それとも歌舞伎や新派の革新的な俳優の近代化の試みにこそむしろふさわしいものか、画然とした境界線を引くことはきわめてむずかしい。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
築地(つきじ)小劇場は、ヨーロッパ遊学中に関東大震災の報に接し帰国した土方与志(ひじかたよし)が、師の小山内薫を擁し、私財を投じて建設した日本最初の本格的な近代劇場であり、1924年(大正13)6月に開場した。これは「演劇の実験室」「演(新)劇の常設館」「民衆の見世物小屋」のスローガンを掲げた日本最初の「非商業主義的」「理想的な小劇場」の誕生であり、日本演劇史上画期的な事件であった。ただヨーロッパでは世紀末に誕生したものが、日本では20世紀も四半世紀過ぎて誕生したのであり、この問題性は第1回公演の演目に、チェーホフの『白鳥の歌』、マゾーの『休みの日』、ゲーリングの『海戦』の3本が選ばれたことにも表れていた。発足時、小山内は彼なりの厳しい演劇理念から日本の戯曲には演出意欲をそそられないと発言して、山本有三、岸田国士(くにお)らの反発を引き起こした。しかし2年後には坪内逍遙の『役(えん)の行者(ぎょうじゃ)』を取り上げ、以後も武者小路、秋田、北村小松(1901―1964)、藤森成吉(ふじもりせいきち)らの計27作品の日本の戯曲を上演したが、小山内の死によって劇団の内部対立が表面化し、1929年(昭和4)劇団築地小劇場と新築地劇団の二つに分裂した。
築地小劇場の5年間にわたる活動の特徴と功績は、約90作品に及ぶヨーロッパの近代戯曲の多様な上演にあり、当初に掲げた「常設館」の基盤のうえにたつ「実験室」の役割を十二分に果たしたといえる。また、これを支えた舞台美術、照明、衣装、効果など裏方陣の研鑽(けんさん)の功も見逃せず、これらや演出の仕事が演劇創造に不可欠の専門的な芸術分野として広く認められるようになったのは、この小劇場の実験を通してである。山本安英(やすえ)、千田是也(これや)、田村秋子、杉村春子、滝沢修(おさむ)、東山千栄子(ちえこ)らの俳優もここから巣立った。築地小劇場は、いわば今日の新劇の、とくにその技術面における直接の源泉であった。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
築地小劇場と並行して、1920年(大正9)ごろから労働者階級の成長を反映して、社会変革と演劇創造の統一を志向するプロレタリア演劇運動が展開され始めた。その本格的な活動は1926年結成の前衛座の活動からで、その後身の東京左翼劇場が中心になり、1929年(昭和4)には全国組織日本プロレタリア劇場同盟(後の日本プロレタリア演劇同盟。ともにプロットと略称)が結成された。これらの活動の中心になったのは佐々木孝丸(たかまる)(1898―1986)、村山知義(ともよし)、佐野碩(せき)らで、村山の『暴力団記』(1929)などの優れた作品を生んだ。土方与志らの新築地劇団もプロットに加盟して活躍し、『西部戦線異状なし』(レマルク原作)などで労働者・知識人の間に浸透したが、当局の弾圧のため1934年プロットは解体した。この運動は新しい民衆的な観客層を生み出し、革命的な主題をもつ戯曲の創造、演劇の理論的探求、検閲制度との闘争など、未熟さからくるいくつかの誤謬(ごびゅう)はあったにせよ、その思想的・精神的遺産は今日にまで引き継がれている。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
プロット解体の1934年(昭和9)、村山知義の「新劇団大同団結の提唱」により、旧左翼劇場を主体に新協劇団が結成され、新築地劇団との並立時代を迎えた。これらは1940年8月に当局より「自発的解散」の表明を余儀なくされるまで、進歩的かつ良心的で水準の高い公演活動を持続し、第二次世界大戦前の新劇の頂点をつくりあげた。築地小劇場で培った技術とプロットが播(ま)いた思想とが、プロット挫折(ざせつ)の経験の反省のもとに交配され、一つの成熟を生んだといえる。久保栄(さかえ)の『火山灰地』二部作(1937~1938)を筆頭に、久板(ひさいた)栄二郎、三好(みよし)十郎、伊藤貞助(ていすけ)(1901―1947)、村山知義などの戯曲(脚色を含む)のほか、プロット時代では機械的な階級史観のため無視されていたヨーロッパの古典遺産(シェークスピア、ゲーテ、シラーなど)が再認識され、また演劇におけるリアリズムの問題が理論的・実践的に探求された。
一方、築地小劇場発足時の同人の一人であった友田恭助(きょうすけ)は妻の田村秋子とともに、小山内と対立した岸田国士、久保田万太郎らを顧問に1932年築地座を結成し、非政治的・芸術的演劇の旗印のもとに活動を始めた。岸田門下の田中千禾夫(ちかお)、小山祐士(こやまゆうし)らの新進劇作家も同年『劇作』を創刊してこれに呼応し、ここから田中の『おふくろ』(1933)、小山の『瀬戸内海の子供ら』(1934)などの作品が生まれた。
築地座の理念は分裂・解散後も1937年創立の文学座に引き継がれ、反新協・新築地の線を強めていき、その後友田の戦死、田村の引退などによって力をそがれたが、杉村春子らによって、久保田、岸田、真船豊(まふねゆたか)、飯沢匡(ただす)らの創作劇を中心に活動を続けた。
新協・新築地解散後は、検挙・出獄に続く困難な状勢のなかで、旧劇団員は戦時体制下に許された移動演劇隊に参加するなど、その対応は多様であった。それらのなかで千田是也は1944年(昭和19)新協・新築地の枠を超えた俳優たちを結集して俳優座を設立し、他方では丸山定夫(さだお)のように移動公演中、原爆のため広島で落命した犠牲者もいた。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
1945年(昭和20)12月の新劇合同公演『桜の園』(チェーホフ作)で幕を開けた第二次世界大戦後の新劇は、中絶させられた戦前の新劇団の単なる復活ではなかった。俳優座を主宰する千田是也は、新劇史への反省を踏まえて「演劇(演技・俳優)アカデミズム」「近代俳優術」の確立による再出発を提唱し、日本の近代戯曲の実験的上演、喜劇に力点を置くヨーロッパの古典劇・近代古典劇の上演に力を注いだ。俳優座劇場の建設(1954)、付属の俳優養成所(桐朋(とうほう)学園芸術短期大学演劇専攻の前身)の開設(1949)などもこの活動の一環であり、後者からは若い演技陣が既成劇団に参加したほか、新たに劇団仲間、新人会、三期会(現在の東京演劇アンサンブル)、青年座などの劇団を結成して、新劇界の新しい勢力となった。一方、村山知義は戦後まもなく新協劇団(第二次)を再建したが、日本共産党の内部対立(「50年問題」)の影響などもあって先細りになり、1959年(昭和34)東京芸術座として再発足した。また久保栄も滝沢修(旧新協)、薄田(すすきだ)研二(旧新築地)と組んで敗戦直後に東京芸術劇場を結成したが、政治と演劇の統一の面で問題を抱えて解散した。滝沢、宇野重吉(じゅうきち)(旧新協)らの民衆芸術劇場(第一次民芸)も同じ問題で解散し、1950年(昭和25)新たに劇団民芸として再出発し、リアリズム路線を目ざした。他方、森本薫(かおる)の『女の一生』(杉村春子主演)などで戦中を切り抜けた文学座は、基本的には戦前からの方向を受け継ぎ、非政治的・芸術的戯曲を上演した。しかし、昭和10年代には進歩的な新築地劇団だけがリアリズムの観点からシェークスピアを上演したのに比し、戦後はそういう傾向と対抗した文学座(福田恆存(つねあり)演出)のシェークスピアも出現し、新劇史の歯車が1回転し、戦後段階を画していることを物語っている。
この三ないし四大劇団と中・小劇団という劇団配置の構図は、戦後の新劇人が結集した1960年の安保条約阻止新劇人会議(のち安保体制打破新劇人会議)以降も大枠においては変わらず、戦前新劇の担い手たちが新劇界の主流を占めた。この1960年以降の舞台では、『火山灰地』の連続上演や、木下順二作・宇野重吉演出の『オットーと呼ばれる日本人』(1962)などの新作上演で劇団民芸がとくに優れた成果をあげた。
総じて戦後は作家では木下順二のほかに加藤道夫、椎名麟三(しいなりんぞう)、田中澄江、福田恆存、安部公房(あべこうぼう)、三島由紀夫(ゆきお)、秋元松代、福田善之(よしゆき)らが戦前派と並んで活躍し、また「戦後改革」の高揚を受けた自立演劇(職場演劇)からも大橋喜一(1917―2012)、宮本研(けん)らが現れた。また戦後新劇の目覚ましい成果として全国組織の勤労者・市民などの観客団体(いわゆる労演)があり、新劇の観客層の開拓を通して劇団の公演収入を維持した功績は大きい。なお終戦直後のスタニスラフスキー・システムの紹介に続いて、ブレヒトの叙事演劇、サルトルの実存主義演劇、ベケットらの不条理演劇など、外国の演劇界の動向にも関心が集まり、論議の対象となった。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
こうして1960年代前半にかけて新劇の再編成がほぼ完了したが、1960年代後半に入るころから自然主義的な方法への疑問からリアリズムの基調が後退し、非合理的な劇空間・時間を駆使した新しい戯曲・舞台が目だつようになった。さらに1960年代後半から始まった「アンダーグラウンド・シアター」(いわゆるアングラ演劇)とよばれる小劇場運動が広がりをみせ、戯曲至上主義の否定、俳優の肉体の復権を旗印に、若い世代の支持を得て新劇界の一角を形成した。状況劇場、早稲田(わせだ)小劇場(のちSCOT(スコット))、アンダーグラウンド自由劇場(のち68/71)、天井桟敷(さじき)、現代人劇場(のち桜社)などで、寺山修司、清水邦夫(くにお)、別役実(べつやくみのる)、唐十郎(からじゅうろう)、鈴木忠志(ただし)(1939― )、佐藤信(まこと)(1943― )、斎藤憐(れん)(1940―2011)、蜷川幸雄(にながわゆきお)らの作家・演出家が活躍。彼らは「大学解体」を叫び、内には暴力活動を抱えた、この期の学生運動に代表される既成秩序を全否定する社会的風潮と通底し、伝統演劇との絶縁から出発した「新劇」がもはや既成秩序の補完物と化しているとみて、その根底にあった近代劇の理念、ひいては近代そのものを全否定しようという演劇姿勢を示した。こういう演劇現象を「新劇」のカテゴリーに入れていいかどうかという問題がある。ただ、小劇場演劇の「第一世代」とよばれるようになった彼らは、たとえば自由劇場を結成した佐藤信、斎藤憐たちが俳優座養成所出身であったように、「新劇」から生まれ、それへの対抗意識から出発した。
それにもかかわらず、彼らを支えたのが、既成の新劇がとらええなかった新しい観客層であったところに断絶的な違いがあった。日本経済の「高度成長」に伴い、社会の都市化が異常に進み、若者たちが多く大都会へ集まってきた。見知らぬ市民相互の連帯がほとんど形成されないために味わわざるをえない群衆のなかの孤独。進学率が急速に伸びたため大学へ入っても高い社会的地位や収入が保証されない未来への不安・焦燥、それらを押しつける正体不明の社会への漠とした反抗・批判。こういう新しい若者たちの心情・心性を小劇場演劇の舞台表現は代弁し、呼応し合った。だから、論理よりも情念を優先し、身体表現を前面に押し出す主観的な小劇場演劇の舞台は、一面では集まってきた若者たちの共感を熱狂的に呼び起こしたが、まさにそれゆえに、彼らだけで納得し合うひとりよがりに陥る可能性も大きく、しかもより普遍的な演劇のことばと論理をつくりだす志向を最初から拒否するという問題を抱えていた。その結果、学生運動の崩壊と見合って小劇場演劇の衝撃力も衰えた。そのかわりに、一つの風俗現象としては認知され、演劇界ひいては社会の秩序のなかに相応の位置を占めるに至る(小劇場出身の俳優が演技力のあるテレビ俳優として活躍している例は数多くあり、拒否したうわさは伝わってこない)。1973年の「石油ショック」に凝縮された日本経済の転機が、この旋回の動きの背景にあったろう。新劇団青俳から脱退し、岡田英次(1920―1995)らと現代人劇場を結成した蜷川幸雄が、清水邦夫と組んだ桜社の活動のあと、1974年に興行資本東宝に迎えられ大劇場の日生劇場で近代の古典と位置づけてよい『ロミオとジュリエット』を演出したのは、その象徴的な現象である。
これを追いかけるように、『熱海殺人事件』(1973)によって華々しく登場したつかこうへいを先頭に、いわば「第二世代」の活躍が始まる(時の流れとともに、当然「第三世代」「第四世代」も登場する)。「第一世代」との違いを際だたせると、ナンセンスやパロディーの笑い、ことば遊び(言語遊戯)の面白さなどを押し出す舞台表現、つまり喜劇といえよう。ただ、観客や俳優と密着した、そのときどきの即興性を重視した流動する上演台本による舞台は、定着した文学作品としての戯曲の世界を表現しようとする近代劇の理念とは完全に切れている。むろんこれはこの国の現代演劇の一翼を担っていて、しかもこういう小劇場演劇出身の劇作家の作品を、既成の新劇団が上演することも珍しいことではない(そもそも、つかの『熱海殺人事件』そのものが雑誌『新劇』に発表され、初演は文学座アトリエ公演であった)。つまり「新劇」を軸とした現代日本演劇の流動化・多様化・重層化と押さえることも許されよう。しかし、仲間うちだけの一過性的な流行現象ではない現代日本の演劇の豊饒化(ほうじょうか)のためには、客観的・普遍的な力をもつ戯曲の創出が大前提で、「新劇」ひいては近代劇の遺産の積極的・批判的な継承は、なお現代日本演劇の課題の一つといわざるをえない。
こういう推移のなかで、たとえば『夕鶴(ゆうづる)』(木下順二作)上演1000回に達した山本安英の仕事などは、戦後新劇の達成した一つの象徴的な事例といえよう。ただ、山本安英たち新劇の第一世代、つまり築地小劇場とプロレタリア演劇でその演劇的基盤を培い、その後の新劇を担い、導いてきた山本、千田是也、滝沢修、杉村春子、宇野重吉といった劇場人たちも1980年代後半から1990年代後半にかけて逝去し、新劇界の世代交替が進み、「新劇」の目鼻だちがはっきりしなくなった。それが多様化・豊饒化の一階梯(かいてい)なのか、それとも自己喪失の過程なのか、今後の展開によって決まってくることだろう。しかし、たとえば1985年に始まり、毎年7月から8月にかけて全国を巡演し広汎(こうはん)な人々に深い衝撃を与えている朗読劇、原爆体験をした母と子の手記を編集した『この子たちの夏』(演出木村光一、1931― )に出演しているのは、基本的には新劇女優たちであり、「新劇」が培ってきた、よきなにものかが生きていることの証左であろう。
なお今日の新劇が依然として抱えている大きな問題の一つに、新劇人・新劇団の商業劇場や映画・放送(とくにテレビ)出演があり、劇団活動とどう発展的に統一させるか、いわゆるマスコミ社会での新劇のあり方が問われている。いずれにしても、これらの諸問題を内にはらみながらも新劇の本流は、もはや都市の知識人層にのみ依拠したかつての「新劇」の枠を乗り越え、現代の日本演劇全体のなかに一つの大きな位置を占めるに至ったといえよう。
[祖父江昭二 2018年8月21日]
『秋庭太郎著『日本新劇史』上下(1955、1956・理想社)』▽『田中栄三著『明治大正新劇史資料』(1964・演劇出版社)』▽『松本克平著『日本新劇史』(1966・筑摩書房)』▽『倉林誠一郎著『新劇年代記』全3巻(1966~1972・白水社)』▽『菅井幸雄著『新劇・その舞台と歴史』(1967・求龍堂)』▽『茨木憲著『日本新劇小史』増補版(1973・未来社)』▽『松本克平著『日本社会主義演劇史』(1975・筑摩書房)』▽『河竹登志夫著『近代演劇の展開』(1982・日本放送出版協会)』▽『大笹吉雄著『日本現代演劇史』全8巻(1985~2001・白水社)』▽『小櫃万津男著『日本新劇理念史』3巻(1988~2001・未来社)』▽『松本克平著『新劇の山脈』(1991・朝日書林)』▽『大岡欽治著『関西新劇史』(1991・東方出版)』▽『諏訪春雄他編『講座 日本の演劇』全8巻(1992~1998・勉誠社)』▽『下村正夫著『新劇』(岩波新書)』▽『石沢秀二著『新劇の誕生』(紀伊國屋新書)』▽『内村直也著『新劇の話』(社会思想社・現代教養文庫)』▽『菅井幸雄著『新劇の歴史』(新日本出版社)』▽『扇田昭彦著『日本の現代演劇』(岩波新書)』
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日本演劇の一部門。明治期の歌舞伎(旧劇)に対して新しい表現様式をとる演劇一般を新劇と称した時期をへて,日露戦争後に新派劇の語が定着。さらに新しくヨーロッパの近代演劇を本格的に導入しておこった演劇を一般に新劇とよぶ。明治20年代から坪内逍遥(しょうよう)・森鴎外らのヨーロッパ演劇の紹介や論争があったが,1906~09年(明治39~42)に島村抱月(ほうげつ)・逍遥が文芸協会を設立し,09年に2世市川左団次と小山内薫(おさないかおる)が自由劇場の第1回試演を行い,新劇運動は活気を呈した。大正期には松井須磨子のような人気女優も出現し,多くの劇団が誕生した。24年(大正13)小山内と土方与志(ひじかたよし)が中心となって築地小劇場を設立したが,プロレタリア演劇の流れや左翼運動の影響もあり,昭和期に入ると,多くの劇団が誕生・分裂をくりかえす。第2次大戦後は,主要劇団の活動も活発化したが,60年代以降アングラ演劇の台頭により新劇の地盤も動揺を続けている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…当時の生活は小説《大川端》に書かれているが,青年の日の小山内の多感な姿が示されている。やがて狂歌仲間として親しかった2世市川左団次が外遊から帰国したのを迎えて,1909年〈自由劇場〉という会員制で新劇を見せる形の演劇運動をはじめ,イプセンの《ジョン・ガブリエル・ボルクマン》以降,ゴーリキーの《夜の宿(どん底)》,ハウプトマンの《寂しき人々》,森鷗外の《生田川》など9回の公演を行い,坪内逍遥の〈文芸協会〉とともに,わが新劇界の草創期を形成した。その間1913年には帝政ロシアに行き,モスクワ芸術座を見て,再演の《夜の宿》を大きく訂正している。…
…近代リアリズム演劇もまた,社会問題から人間の内面的問題にまで及ぶ〈問題劇〉たる性格をあらわにする(社会劇)。この種の劇は既成劇場でなかなか受け入れられず,若い演劇人による〈小劇場〉運動によって広められていったが,その運動はヨーロッパの外までも波及し,日本では明治後期から形をなしてくる〈新劇〉運動の基盤ともなった。
[成立過程]
近代社会あるいは近代人の諸矛盾を客観的・再現的に舞台上に表現しようとする〈近代劇〉の萌芽は,18世紀の〈市民劇〉に求められる。…
…その一方,商業劇場では,アメリカで発達した演劇制作者(プロデューサー)主体のオーディション制度が各国にも普及し,制作者がある演目を公演する都度,それにふさわしい俳優を特定の所属劇団等に制約されない自由な形で,公募等の形も含めて組織する,いわゆるプロデューサー・システムによる上演集団づくりも行われている。
[日本の新劇団]
日本では,明治以降の演劇近代化に基づく新劇団として,1888年(明治21)大阪で角藤定憲(すどうさだのり)一座,91年堺で川上音二郎一座がそれぞれ旗あげして,新派劇の基盤をつくった。しかし新派の諸劇団は1910年に興行会社松竹の傘下に入り,以後は歌舞伎同様に,商業的劇団の道をたどった。…
…新劇の代表的な演出家,俳優。本名は伊藤圀夫(くにお)。…
…(1)劇場名。1924年(大正13)6月,東京市京橋区(現,中央区)築地2丁目に新築開場した日本で最初の新劇の専門劇場。関東大震災後ヨーロッパから帰国した土方(ひじかた)与志が私財を投じ,客席400余のゴシック・ロマネスク様式1階建ての小劇場を建設した。…
…すなわち,福地桜痴作《舞扇恨之刃(まいおうぎうらみのやいば)》(V.サルドゥー原作《トスカ》,1891年歌舞伎上演)や尾崎紅葉作《夏小袖》(モリエール原作《守銭奴》,1897年新派上演)のように日本化されて歌舞伎や新派の脚光を浴びる翻案上演が進む一方で,森鷗外訳のG.E.レッシング戯曲(1892)や高安月郊訳のH.イプセン劇(1893)など,さまざまな西欧近代戯曲の翻訳も始まった。 原作に忠実な文学的翻訳戯曲の上演は明治40年代(1908‐12)に入ってからであり,文芸協会,自由劇場の新劇運動ではイプセン劇などの翻訳劇上演が主体となり,1924年の築地小劇場創立により名実ともに翻訳劇時代を確立するにいたった。つまり西欧近代の自然主義的写実劇の影響を強く受け,赤毛のかつらをつけた扮装,つけ鼻や顔の凹凸を強調する化粧,物言いや動作にいたるまで外国人らしさをまねる演技術を生み出し,日本独自の翻訳劇上演様式を創りだしたのである。…
※「新劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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