江戸時代、原野や山林を開発して新たに田、畑、屋敷を造成すること。新田とは本田(ほんでん)に対する語。本田とは、江戸前期の総検地により決定された田、畑、屋敷のことであり、総検地以降開発されたものを新田と総称する。自村内の土地に接続して開発し、その高を新田高として本田高につけ加える場合を切添新田(きりぞえしんでん)といい、新たに一村をたてる開発を村立新田(むらだてしんでん)という。
[木村 礎]
16世紀末、太閤検地(たいこうけんち)段階の耕地は約200万町歩(約200万ヘクタール)と推定されるが、19世紀後半の明治初期には約400万町歩に増大。その間、石高(こくだか)は約1800万石より約3200万石に増加。村(江戸時代の村は現在の大字(おおあざ)程度)の数も江戸初期の五万数千(推定)から、1834年(天保5)の6万3500余に増加した。以上の数字は不安定なものではあるが、耕地、石高、村数ともに著しく増加したことは確実である。これらは主として新田開発による増加である。新田開発は、江戸前期と中・後期とではその特色に差がある。前期には大規模な水田開発が多く、中・後期には畑作新田の開発が目だつ(もちろん、前期にも畑作新田、後期にも水田開発はある)。前期における水田開発の圧倒的優越は、中世における水田限界が、戦国末の領国統一、それを受けた幕藩体制による全国統一という社会的条件によって突破されたことを主因とする。大規模な労働力の集中と戦国以来の技術の発展により、大河川の氾濫(はんらん)抑止、大規模な灌漑用水(かんがいようすい)の開通などが不十分ながらも可能になり、これによって平野部の未墾地や粗放田(そほうでん)が徐々に安定水田化した。幕政初期における伊奈忠次(いなただつぐ)以来の利根川(とねがわ)付替え工事(利根川主流を江戸川筋より銚子口(ちょうしぐち)へ変更)により、江戸東郊の地が氾濫から救われ、大規模な水田が出現したことは有名である。また、各地における大用水路の設定はきわめて多い。大規模な水田開発はしだいに限界に達し、元禄(げんろく)(1688~1704)ごろには緩やかになり、かわって畑の開発が享保(きょうほう)(1716~1736)ころから目だってくる(最大の事例は武蔵野(むさしの)の全面的開発。ただし、享保以降にも下総(しもうさ)飯沼の開発のような大規模な水田開発事例もある)。これは領主の年貢増徴の意図と関係している。領主は財政難の進行に伴い、これまで水田に比して低かった畑作年貢の引上げと台地の畑作開発を奨励したのである。
[木村 礎]
新田が開発されれば年貢が増えるわけだから、本田の妨げにならない限り、領主はこれを奨励し保護政策をとった。そのおもなものは、新田農民に対する食料や種子の貸与、鍬下年季(くわしたねんき)つまり年貢をまったくとらない期間(3年程度)の設定、鍬下年季経過後も年貢を低くする、などである。このような政策は江戸時代の全期を通じて基本的には実施されたが、享保期に入ると厳重な管理という色彩が濃くなってきた。幕府はいわゆる享保の改革(1716~1745)の一環として新田開発を奨励したが、同時に1726年(享保11)新田検地条目32か条を発布し、荒れ地の開発、検地の厳正、年貢の確実な徴収などを規定した。その後天明(てんめい)期(1781~1789)に入ると全国的に冷害による大飢饉(だいききん)があり、餓死者も多く出て、耕地が荒廃し、新田開発どころか本田の維持も容易ではなくなり、以後はむしろ本田の維持、回復に政策上の重点が置かれた。しかし、農民の間には、年貢の高い本田を放棄し、低い新田を維持、開発したがる傾向がつねに存在した。
[木村 礎]
新田開発は、領主の許可を得てそれを主導する人物の社会的性格によって分類されるのが普通。それは、成立時の様相がその後の村落構造を規定することが多いからである。
(1)土豪開発新田 戦国末期には武士であったような有力農民が、農民を集め、自費をもって開発。主導者たる有力農民は広い除地(じょち)(年貢のかからない土地)や各種の特権を獲得。入村農民は本百姓となるが、主導者への隷属性は強い。
(2)町人請負新田 有力町人が領主に請負金を納め自費をもって開発。この場合、入村農民は小作人となるが、その小作権は強い。町人のほうは年貢と小作料をあわせたものを農民からとる。
(3)代官見立新田(だいかんみたてしんでん) 幕府の代官が適地を見立てて開発。これに成功すると代官は新田年貢の10分の1を取得。農民は本百姓となる。
(4)藩営新田 藩が出資して開発。その土地は直轄地。農民は本百姓。藩営新田に似たものに藩士知行新田(はんしちぎょうしんでん)がある。これは藩士が新田を開発し、それを知行地として取得する。
(5)村請新田 一つの村が村として開発を請け負う。中期以降、村請で村立新田をつくることが多くなった。この場合、新田村での農民耕地は均分化される傾向が強い。
だいたい以上のような種類があるが、このほか寺社請新田や、主導者が寄合(よりあい)世帯(寄合新田)の場合もある。
[木村 礎]
新田出百姓(でびゃくしょう)は、一部の主導者層を除いては、古村における貧窮農民や隷属農民であった。したがって、彼らは新田へ出ることによって一人前の百姓になる場合が多かった。また、領主にとっても新田出百姓の増加は年貢徴収対象の増加に直接つながるので、これを奨励した。このように、貧窮・隷属農民の自立の欲求と、領主の政策とが合致して、新田開発は本百姓の自立を促進する結果を生んだ。
[木村 礎]
『菊地利夫著『新田開発』(1958・古今書院)』▽『木村礎著『近世の新田村』(1964・吉川弘文館)』
一般に戦国時代~近世における未開発地の耕地化をいう。国土地理院発行の2万5000分の1,5万分の1地形図には地名や人名の下に新田をつけた名称を日本中いたるところで発見することができる。ところで,耕地開発は日本に稲作が定着した弥生時代よりいかなる時代にも奨励されてきたが,けっして直線的に増加したわけではなく,いくつかの画期をもっていた。それは条里制施行時代,戦国時代~近世初頭,明治30年代の3画期である。とりわけ戦国時代~近世初頭の耕地開発は戦国大名,幕藩領主による領国経営の重要な施策として,築城・鉱山採掘技術の用水土木事業への応用により,飛躍的な発展をみている。また新田開発は単に耕地の量的拡大にとどまらず,封建小農民の自立をうながし,近世社会の物質的基盤を創出させた歴史的意義をも含んでいる。
新田開発は1村ないし数ヵ村を新規に生み出す規模の耕地造成を意味するのが一般的である。つまり新田開発は新田村落の形成でもあった。新田村落は戦国時代から近世初頭にかけて全国各地に出現,小農民相互の村落共同体として最も近世的性格をそなえ,日本農村の原型を形成した。しかし,小農民が農閑期にみずからの労働力,資材を用いて村内既耕地の地先を小規模開発する切添新開も広義には新田開発と呼ばれる。また新田の名称は地方によっては荒野,興屋,新宿,新開,牟田,新地,籠(こもり),搦(からみ),開田などともいう。幕藩領主は年貢量の増加を意図して新田開発を奨励した。また新田が成立してから一定期間は無年貢(鍬下年季(くわしたねんき)),本田に比べ一般的に年貢率が低いことから,新田経営は農民・町人などの民間人にとっても有利な経営・投資対象であった。新田開発は開発地域と開発主体によって類型化できる。前者は河川の上・中・下流の地域区分により,上流では山林原野,洪積台地,扇状地,中流では河岸平野,湖沼干拓,下流では低湿三角州,浅海干潟干拓,海岸砂丘などでの開発である。開発地域の新田類型化はその規模,土木技術などの比較検討を容易にする。しかし新田開発における資本・労働力の調達あるいは村落構造の歴史的性格を究明するには,開発主体に着目することが有効であろう。開発主体による新田類型は幕藩領主による官営新田と被支配者である土豪・農民・町人などによる民営新田である。
幕府の新田開発は代官見立新田と勘定所の監督工事であり,近世初頭に大規模かつ積極的に行われた。代官見立新田とは全国の天領を支配している代官が管内に開発可能地を見いだし,勘定奉行の許可を得て適当な担当者に開発させたものである。関東郡代伊奈氏は,利根川流域の新田開発を積極的に行い,享保年間(1716-36)には代官小宮山昌世(杢之進)が小金牧,佐倉牧の見立新田を成功させた。勘定所が新田開発に関与した事例は多くあり,九十九里平野の椿海干拓では測量・設計に代官を用い,開発資本は江戸町人に負担させており,享保年間には井沢弥惣兵衛に命じた飯沼,見沼,手賀沼などの干拓新田がある。諸藩が推進した開発を藩営新田という。諸藩は幕府と同様に領内を新田開発し,その結果幕府に認定された表高と実高に著しい差を発生させた。弘前藩では津軽平野の岩木川流域開発,加賀藩では改作法実施を契機とした大規模開発,尾張藩では伊勢湾の干拓,岡山藩では児島湾の幸島新田,沖新田など,熊本藩では領内主要河川,有明海,八代海の干拓と,それぞれに藩営新田として実施した。また,藩営新田に類似したもので藩士の知行に組み入れる藩士知行新田がある。藩士知行新田は地方知行制の段階では多くみられたが,中期以降の俸禄制への移行にともない姿を消した。
民営新田ではまず土豪開発新田があげられる。土豪は本来支配層に属する身分であったが,兵農分離過程で武士層に上昇しえず,主家の没落もしくはみずから土着の道を選び,在地化した階層である。近世初頭の土豪開発新田の事例は多く存在し,信州佐久平の新田群,尾州の入鹿新田,武州小川新田などは著名である。農民が新田開発の主体となるのは村請新田ないし百姓寄合新田である。村請新田は農民が資本・労働力を負担した新田であり,百姓寄合新田は有力農民が仲間を募集し,出資額に応じて新田を配分する開発である。中期以降には,有力商人が資本の投資対象を流通過程のみならず新田経営にも求めるようになる。これが町人請負新田である。資力のある商人が当初から利殖を目的として,幕府や諸藩に一定の開発権利権(地代金,敷金)を支払って開発を認可され,多量の資金・労働力を投下して耕地造成を行い,新田小作人から小作料を徴収する寄生地主となった。町人請負新田の著名なものには,大和川,木津川の河口三角州地帯における二千町歩開発,摂州川口新田,名古屋の材木商神戸(かんど)家が開発した尾州神戸新田などがある。寺社が開発の主体となる寺社請新田は少なく,寺社はただ名目を貸すだけで資本提供者は有力町人,農民であった。
→新田 →新田集落
執筆者:佐藤 常雄
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新田畑の開発は農業の開始以来行われてきたが,一般には江戸時代における屋敷を含む新たな耕地の造成をさす。新田開発が盛んに行われたのは江戸前期で,この間に日本の耕地面積は2倍近くに増加した。中・後期には減少するが,下総国飯沼新田,武蔵国見沼新田,越後国紫雲寺潟(しうんじがた)新田,備前国興除(こうじょ)新田などの大規模な新田開発があった。地域的には東国・東北・西南地方が多く,畿内とその周辺は少ない。新田は開発を主導した人や組織から,土豪開発新田・村請新田・百姓個人請新田・町人請負新田・百姓寄合新田・藩営新田・藩士知行新田・代官見立新田などにわけられる。開発には種々の特典が与えられた。新田地代金を徴収されることもあった。小規模な開発の場合は既存の村にくみいれられたが,大規模な場合は新たに村が立てられた。
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…また関東郡代伊奈氏の支配権も勘定所によって限定され,畿内の支配体制も勘定所に一元化された。
[年貢増徴と新田開発]
幕領の年貢率は17世紀後半にしだいに低下し,1712年(正徳2)には2割8分9厘になった。そのうえ技術的限界から鉱山収益が激減,貿易収入も頭打ちとなった。…
…このように,近世の地主は多様な経営内容をもち,幕藩領主と一般農民層の中間に位置する存在であった。近世の地主はその発生要因から新田開発地主,土地集積地主に大別され,その身分関係からは郷士地主,普通地主,寺院地主,村地主などに分類できる。 新田開発地主は近世初頭の土豪開発新田や中期以降の村請新田,百姓寄合新田,町人請負新田などによって田畑屋敷地の所持面積を広げ,小作経営を拡大していったものである。…
…しかし,大河川流域の平野で水田の開発が本格化するのは,乱流していた川筋を一定にし,水害を防御しうる治水技術が登場してくる戦国末期から江戸時代前期にかけてである。江戸幕府成立前から開始され,幕府成立後も継承された利根川瀬替え工事は,その代表例であって,これらの新田開発により,大河川流域の平野は大水田地帯に変貌し,今日の農業水利施設体系の原型も整えられた。江戸時代前期の新田開発は幕府,藩によって行われたが,中期以降になると町人請負の新田開発が多くなった。…
※「新田開発」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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