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原義は軍陣で主将旗のある所(本陣)の意であるが,転じて主将の旗下にある直属の近衛兵をいう。江戸時代には,将軍の直属家臣である大名・旗本・御家人のうち,旗本は知行高1万石以下で将軍に謁見できる御目見(おめみえ)以上の格式の者を称した。旗本と御目見以下の家臣である御家人とを総称して直参(じきさん)または幕臣といった。ただし,同じく1万石以下の直臣ではあるが,名家の子孫で幕府の儀礼をつかさどる高家(こうけ)と参勤交代の義務をもつ交代寄合は別格であり,老中支配に属した。旗本は御家人とともに若年寄の支配に属し,江戸居住(在府)を義務としたが,大名に対しては直参としての自負をもっていた。幕府は直参を規制するため3代将軍家光のとき諸士法度を発布したが,5代将軍綱吉以降は武家諸法度によった。
旗本の人数は1722年(享保7)には5205人(御家人1万7399人),寛政期(1789-1801)もほぼ同数値である。直参総人数約2万2600人に幕府軍役規定による陪臣数を加算すればいわゆる〈旗本八万騎〉に近い数値となる。旗本の出自は三河以来の旧臣・近国衆に属する者を中心に,大名の絶家・分知で一族家臣の登用された者,名家の子孫,学問技芸によって登用された者などとなっている。寛政期の旗本の知行(ちぎよう)形態は知行取の人数2264人(43%),知行高262万7540石(80%),蔵米取の人数2941人であり,蔵米高の内訳は切米取62万1525俵(2836人分)が大部分を占め,現米取と扶持取は僅少である。
旗本の幕府勤仕は有職を原則としたが無役の者も少なくない。有職の旗本は武事系の番方(ばんかた)と文事系の役方に分かれ(番方・役方),はじめは番方が重視されたが,泰平のためしだいに役方が重視されるにいたった。番方は江戸城の警備および将軍に随行警衛することを任務とし,これに大番,書院番,小性組番,新番,小十人組の5番があった。このほかにも番方に類する諸役がある。番方には番頭(ばんがしら)がおり組頭,組衆を率いてその任に当たった。番方には付属下級職として与力,同心,中間(ちゆうげん)などの御家人が配備されている。また,戦時には幕府軍役規定により知行高に応じた人馬,武器などを供出する義務を負った。役方は文事系の行政,司法,財政などの諸役を勤仕したが,職種によっては付属下級職として御家人が配備された。ただし,譜代大名から任命される大老,老中,若年寄,奏者番,寺社奉行,所司代,大坂城代など幕府の要職はこれを除く。無役の旗本は3000石以上・布衣(ほい)以上職は寄合組に,それ以下は小普請(こぶしん)組に編入され,知行高に応じた小普請金を幕府に上納した。
旗本知行所(旗本領)は分散相給(あいきゆう)形態で分布する傾向が強く,1人で数ヵ国に知行所をもつ者が44%もおり,村内でも他領との相給が多い。宝永期(1704-11)の旗本知行所の国別・地域別の全国分布をみると,7地方39ヵ国に3778知行所が分布している。その内訳は関東地方(8ヵ国)3009知行所(79.6%),近畿地方(10ヵ国)401知行所(10.6%),中部地方(11ヵ国)319知行所(8.4%)であり,中国,奥羽,九州,四国地方は僅少である。約80%を占める関東地方のうち武蔵国は21%を占め,他の国々も多い。近畿地方は近江,京坂地帯,大和,丹波に多く,中部地方は東海道筋に多い。
旗本の家臣団数は幕府の軍役規定によって200石は5人,500石は11人,1000石は21人,3000石は56人,5000石は102人のごとく概算できるが,一般に平時には大幅減員にとどめる傾向が強い。彼ら家臣団はすべて蔵米取である。旗本の支配機構は,知行取の上級旗本の場合は江戸詰と知行所詰に両分され,江戸には家老・用人・給人,近習・中小性(ちゆうごしよう),徒士(かち)・足軽・中間などが,知行所には代官,徒士・足軽・中間などがおり,各役職に就いている。知行所の代官は年貢収納を中心に領内村々を支配した。ただし,中小知行取旗本の支配機構は簡略であり,領内の名主や有力百姓に代官業務を委託する場合が少なくない。蔵米取旗本の支配機構は江戸詰のみで簡略化されている。
旗本の主要財源は,知行取は知行所からの年貢収入,蔵米取は幕府支給の蔵米であり,役料などがつく場合もある。しかし,知行・俸禄高の固定化と大江戸生活費の高騰などにより初期から財政経済の窮迫をきたし,中期以降はとくに激化した。年貢強化,御用金賦課,半知借上(かりあげ)などにもかかわらず借金は膨大化し,赤字財政は恒常化した。この旗本債は藩債のごとく明治新政府の肩代りを得られなかった。
執筆者:鈴木 寿
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江戸時代1万石未満の幕臣の総称。将軍と謁見する資格のある者を旗本といい、ないものを御家人(ごけにん)という。もともと征夷(せいい)大将軍の唐名を幕下(ばっか)といい、旗本は帷幕(いばく)と軍旗を守る将士の意味で一般に使用された。江戸初期には旗本の語意は幕臣一般の総称として使われ、御家人との区別は明確でなかったが、17世紀後半以降、両者を分ける風が定着していった。公式文書では御目見(おめみえ)以上と書くことが多い。総数は約5200家。ほかに御家人は約1万7000家に上った。三河以来の譜代(ふだい)の士や分家、織田(おだ)氏や豊臣(とよとみ)氏以来の旧家の子孫や学問技芸により新たに召し出された者など多様な家で構成されていた。
[佐々悦久]
旗本の俸禄(ほうろく)には知行取(ちぎょうとり)と蔵米取(くらまいとり)があった。知行取は実際に領地が与えられるもので、蔵米取は直轄領から収納した蔵米のなかから決まった額の米を支給されるものである。知行取は武家本来の知行形態のあり方として意識され、望む者が多かった。このため大名の家臣では18世紀以降になると蔵米取が大部分を占めるのに対して、旗本の場合には知行取も多い。18世紀後半の知行取は2908人・275万石余、蔵米取は2030人・45万俵余となっている。蔵米取にはさらに切米(きりまい)取、現米(げんまい)取、扶持米(ふちまい)取の3種類があった。もっとも多いのが切米取で、俵高で示された。たとえば切米100俵は、1俵3斗5升の割合で計算され35石の米が幕府の米蔵から支給された。階層的には100俵から500俵が中心である。
[佐々悦久]
旗本は江戸集住を原則とし武家諸法度(ぶけしょはっと)などにより幕府の統制を受けた。非役の者も多く、家禄の高と由緒に応じて交替寄合(こうたいよりあい)、寄合、小普請(こぶしん)などの溜(たまり)の役に編成され、無役御役金を上納することとされた。就職・昇進は寄合と小普請で異なり、家柄や家禄、父親の勤功、本人の特技などにより決定された。寄合は布衣(ほい)に相当する格式をもち、番士となることは少なく、中奥小姓(なかおくこしょう)などの役職についた。小普請の場合、そのなかに両番筋、無筋、大番筋などの番方各職に対応する家格があり、これにしたがって番士となるのがもっとも一般的である。
[佐々悦久]
知行取の旗本を地頭(じとう)といい、その領地を知行所、地頭所といった。知行所は近世を通して46か国にわたって分布している。うち約8割が関東地域に集中し、畿内(きない)、東海地域の順となっている。知行所はひとまとまりに与えられるのでなく、数か村に分散したり、相給(あいきゅう)といい一村を複数の領主で支配するのが一般的である。支配は陣屋か、もたない場合は有力な村役人を在役(ざいやく)に任命して行った。行政や司法は幕府に準拠して行われたが、なかには知行所法度を定めて基本法とした所もある。家臣は幕府の軍役規定に応じて抱えられたが、実際はずっと少なく、必要なときは日雇いにするか知行所に勤めさせた。財政は知行規模が小さいため初期から困窮し、近世を通してそれが恒常化していることが多い。
[佐々悦久]
『新見吉治著『旗本』(1967・吉川弘文館)』▽『鈴木寿著『近世知行制の研究』(1971・日本学術振興会)』
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将軍の直臣で1万石未満・御目見(おめみえ)以上の者。寛政頃の総人数は約5200人ほど。このうち地方(じかた)知行取は約4割程度で,知行高では500~3000石の者が6割を占め,知行地は関東・中部・近畿地方に多い。3000石以上の者は,知行地に陣屋をおき農民支配を行った。旗本は江戸在府で,幕府から下付された拝領屋敷に家族と用人以下の家臣とともに居住した。幕府の役方・番方の諸役について,その吏僚機構の主軸を構成。勘定奉行や町奉行などの重職に就任すると従五位下に叙されて大名と同等の格式となり,幕政の枢機に参画する。しかし非役の者も多く存在し,3000石および布衣(ほい)以上は寄合組,それ以下は小普請組に編入された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…このように私的に発生した武力を全国的規模において公的に組織した権力という鎌倉幕府の基本的性格は,室町幕府を経て江戸幕府にも受け継がれている。近世においては,大名,旗本あるいはその家臣たちの所領支配と武力の私的性格は極限的にまで失われていたが,彼らはなお独立した戦闘単位としての性格を保存しており,彼らを公的な軍隊に編成・統制するところに江戸幕府の将軍権力の本質があった。 次に頼朝が直接動員しえたのは彼と主従関係を結んだ御家人だけであり,当時の社会には朝廷,寺社,国衙などと結ぶ諸勢力が広範かつ強固に存在し,武士であっても頼朝と主従関係にない非御家人は幕府の統制外にあった。…
…これによって官位を通じて武家の統制が可能になった。そのほか大名,旗本の江戸城内の詰所,大名の城の有無など,いずれも家の格式を表示するものとして考えられるようになる。そのほかにも行列に立てる飾り道具や乗物までが家によって規制されていた。…
…江戸幕府が旗本・御家人を対象として発布した法令。万石以上の大名に対して出された武家諸法度に対応するもので,1635年(寛永12)3代徳川家光のとき,64年(寛文4)4代家綱のときの2度出された。…
…【石井 紫郎】
[近世領主の知行]
江戸時代の領知・知行は,領主の領地に対する支配権をいう。近世の知行は,室町時代に形成された大名領地の一円知行を継承したものといってよいが,戦国大名領の知行がみずからの相続,購入,割譲などによって形成されてきたのに対し,江戸期領主(大名,旗本)の知行は,日本全土を領有する将軍から朱印状によって領地を宛行,または安堵されることによって成立した。したがって,みずからの意に反し,将軍(幕府)の意向で知行の没収(改易),知行高の削減(減封),もしくは知行地の変更(転封,国替)を余儀なくされることもあった。…
…御料は幕府直轄領(天領)であり,佐渡,足尾,石見などの主要鉱山や,大坂,京都,江戸,長崎などの主要都市もその中に含まれていた。私領は公儀と主従関係にある部将に預けられた知行地で,その部将の公儀との間の位階制的序列によって,大名領(大名),旗本領(旗本)に区分された。約270にのぼる大名の中にも,加賀前田氏のような100万余石の国持大名から,1万石前後までの小大名があり,また,三家以下,譜代,外様などの格による区別もあったが,それらの大名は,みずからの家臣団を抱え,その家臣=給人(きゆうにん)に,位階制的な主従関係に基づいて知行=給人知行を与えた。…
…江戸幕府の大番頭(役高5000石),書院番頭(同4000石),小性組番頭(同)が諸藩の番頭にあたる。いずれも諸大夫(しよだいぶ)の格であり,側衆(そばしゆう)(役高5000石),留守居(るすい)(同)と並んで,旗本の役職中最高の格式を誇った。【北原 章男】。…
…その際自己の所領の一部を分与し,独立した武士として幕府や藩に仕えさせるが,この分家を分知配当による分家という。分知には2種類あり,その一つは上級領主に公認されて正式に大名,旗本,藩士に取り立てられ,所領の宛行状を交付される場合と,上級領主に公認されながらも宛行状を交付されない場合とがある。通常前者が狭義の分知で,後者を内分(うちわけ)と称する。…
…江戸時代,大名・旗本の家臣で,家政の中枢に位置した役人。財務,礼式,記録などを管理し,諸役人に法令を伝達し,近習,小姓,医師,儒者,右筆などを支配した。…
…(1)江戸幕府の役職。旗本役の最高で,役高5000石。城主格の待遇を受け,次男まで将軍の御目見を許され,下屋敷を拝領した。…
※「旗本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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