日本歴史地名大系 「日光御成道」の解説
日光御成道
につこうおなりみち
日光道中の脇往還として江戸日本橋を起点に
〔日光社参〕
将軍の日光社参は京都上洛と並び将軍の威厳を誇示する場として日本の近世交通史上注目され、日光御成道の性格を意味するものとして重要である。元和二年(一六一六)四月一七日、家康は
遺体が日光山に改葬され、元和三年四月一七日二代将軍秀忠は一周忌の法会に参詣した。これが日光社参の始まりで、これ以後、将軍の社参は合計一九回を数える。このうち元和九年と慶安二年(一六四九)はいずれも将軍でなく嗣子であるが、嗣子は将軍に準ずる者ということで社参回数に入れている。
日光御成道
につこうおなりみち
- 東京都:総論
- 日光御成道
江戸時代、江戸と日光を結び、日光道中の西側を並行して通る脇往還の一つ。本郷追分(森川、現文京区)で中山道から分岐し、
日光御成道が本格的に整備されたのは元和二年(一六一六)四月の徳川家康の死去後、日光への改葬が行われて以降と考えられる。第一回目の日光社参では将軍徳川秀忠は千住を経て岩槻に出ており、二回目については経路の詳細は確認できない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報