日光御成道(読み)につこうおなりみち

日本歴史地名大系 「日光御成道」の解説

日光御成道
につこうおなりみち

日光道中脇往還として江戸日本橋を起点に本郷ほんごう追分(現東京都文京区)中山道と分れ、岩淵いわぶち宿(現同北区)川口宿鳩ヶ谷宿、大門だいもん宿(現浦和市)岩槻宿を経て幸手さつて宿の南の上高野かみたかの(現幸手市)で日光道中に合流する四宿(岩淵と川口は合宿)一二里の街道をいう。この街道は徳川家康を祀った下野国日光東照宮を将軍が参詣するために通行する将軍専用の街道であったところに特徴がある。日光御成道の道筋は中世の鎌倉街道中道にほぼ合致するとみられており、慶長五年(一六〇〇)奥州会津あいづ(現福島県)の上杉攻めに出陣した徳川家康は、川口・鳩ヶ谷から岩槻・幸手を経て下野小山へ向かっている(風土記稿)。いまだ開発途上の関東にあって数万の大軍が鎌倉街道中道を進軍したことは、この街道が当時の重要な交通路であったことをうかがわせている。しかし日光御成道としての成立はいうまでもなく江戸幕府の将軍による日光社参が始められてからである。

〔日光社参〕

将軍の日光社参は京都上洛と並び将軍の威厳を誇示する場として日本の近世交通史上注目され、日光御成道の性格を意味するものとして重要である。元和二年(一六一六)四月一七日、家康は駿府すんぷ(現静岡市)で没し、久能くのう(現同上)に葬られたが、翌三年遺言により日光山へ改葬することになり、同年三月相模小田原、武蔵府中・川越・行田、上野館林、下野佐野・栃木・鹿沼・今市を通り四月八日日光山に安置された。家康の遺体の通ったこの道は後年東照宮警護のため八王子千人同心が通行した八王子千人同心はちおうじせんにんどうしん(日光脇往還)となった。

遺体が日光山に改葬され、元和三年四月一七日二代将軍秀忠は一周忌の法会に参詣した。これが日光社参の始まりで、これ以後、将軍の社参は合計一九回を数える。このうち元和九年と慶安二年(一六四九)はいずれも将軍でなく嗣子であるが、嗣子は将軍に準ずる者ということで社参回数に入れている。


日光御成道
につこうおなりみち

江戸時代、江戸と日光を結び、日光道中の西側を並行して通る脇往還の一つ。本郷追分(森川、現文京区)で中山道から分岐し、岩淵いわぶち(現北区)・川口・鳩ヶ谷、大門だいもん(現埼玉県さいたま市)、岩槻の五宿を経て、幸手さつて宿で日光道中に合流する。約一二里、将軍の日光社参の通行に利用されたことからこの名がある。東京都内では駒込こまごめ王子おうじ(飛鳥山)十条じゆうじよう赤羽根あかばね(現北区)を経て岩淵宿に至り、荒川を渡船で渡る。日本橋から岩淵宿までは三里一五町、岩淵宿・川口宿間は荒川の渡しを含め約七町あったが、両宿が合宿で伝馬役を勤めたため、人馬継立のうえでは距離としては計上されなかった。現在の国道一二二号は当往還が元になっている。

日光御成道が本格的に整備されたのは元和二年(一六一六)四月の徳川家康の死去後、日光への改葬が行われて以降と考えられる。第一回目の日光社参では将軍徳川秀忠は千住を経て岩槻に出ており、二回目については経路の詳細は確認できない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「日光御成道」の意味・わかりやすい解説

日光御成道【にっこうおなりどう】

江戸時代,将軍が日光社参に利用した専用の街道。通称,岩槻(いわつき)街道。江戸の本郷追分で中山(なかせん)道と分岐,武蔵国岩淵(いわぶち)で荒川を渡り,川口・鳩ヶ谷・大門(だいもん)・岩槻の5宿を経て幸手(さって)宿の南で日光道中に合する。およそ12里,道中奉行管轄であった。将軍社参に利用されるようになったのは寛永期(1624年−1644年)以降とみられ,荒川には船橋が架けられ,岩槻城に宿泊するのが通例とされた。参勤交代に利用したのは岩槻藩のみであった。
→関連項目宿村大概帳

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改訂新版 世界大百科事典 「日光御成道」の意味・わかりやすい解説

日光御成道 (にっこうおなりどう)

江戸時代に将軍が日光社参する専用道。江戸の本郷追分から中山道と分岐,岩淵から荒川を渡り川口,鳩ヶ谷,大門,岩槻の5宿を経て幸手(さつて)で日光道中に合する。およそ12里で道中奉行の支配。参勤交代の大名通行は,岩槻藩だけである。将軍日光社参時の通行路になった時期は不詳だが,日光奉幣勅使日野資勝の紀行文からみて1632年(寛永9)以降のこととみられる。荒川に船橋が架せられ,川口と幸手が昼食の場にあてられるのが通例となった。街道の保存状態は比較的よく,膝子,相ノ原,下野田,下高野に一里塚が残されており,当時の面影がしのばれる個所も少なくない。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日光御成道」の意味・わかりやすい解説

日光御成道
にっこうおなりみち

近世、徳川将軍が日光社参のときおもに利用した街道。江戸日本橋を出て、本郷追分で中山道(なかせんどう)と分かれ、岩淵(いわぶち)(東京都北区)から荒川を越え、川口(埼玉県川口市)、鳩ヶ谷(はとがや)(川口市)、大門(さいたま市緑区)、岩槻(いわつき)(さいたま市岩槻区)の各宿を経て幸手(さって)宿(幸手市)で日光道中に合する。各宿の宿立人馬は25人、25匹。将軍の宿所に岩槻城が利用されたので、とくにこの街道が整備されたと考えられる。道中奉行(ぶぎょう)の管轄道路。

[山本光正]

『『日光御成道宿村大概帳』(『近世交通史料集6』所収・1972・吉川弘文館)』

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世界大百科事典(旧版)内の日光御成道の言及

【街道】より

…それらの管理は初期には代官また老中なども関与していたが,1659年(万治2)以降は道中奉行を置いて専管させた。道中奉行の管理下にあったのは,東海道(品川~京都・大坂),中山道(板橋~守山,次の草津で東海道となる),日光道中(千住~日光),奥州道中(宇都宮~白河),甲州道中(内藤新宿~上諏訪,次の下諏訪で中山道に結ぶ)の五街道のほか,東海道と中山道を結ぶ美濃路(熱田~垂井),東海道の脇街道というべき佐屋路(熱田~桑名),本坂通(浜松~御油または吉田),山崎通(伏見~山陽道の西宮),中山道と日光道中を結ぶ例幣使道(倉賀野~壬生(みぶ)通の楡木へ),日光道中の脇街道というべき日光御成道(岩淵~岩槻を経て日光道中の幸手へ),壬生(みぶ)通(日光道中の小山から分かれ,飯塚,壬生等を経て日光道中の今市へ)がある。また千住から新宿(にいじゆく)・八幡(やわた)・松戸を経る水戸佐倉道はこの3宿だけが道中奉行の管轄であった。…

※「日光御成道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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