日本と中国の宋との間の貿易。中国商人の活発な対日貿易活動は唐代の9世紀半ばころからみられたが,五代の混乱期を経て,宋による中国の再統一が成ると,国内産業の発達,南海貿易の繁栄などを背景に,宋商人の来航が以前にも増して頻繁になった。彼らは明州を拠点に,東シナ海を横断して博多付近に来着した。宋商人のもたらす貨物は唐物と称され,貴族たちに珍重された。それには香料・薬品類,顔料類,豹皮・虎皮などの皮革類,茶碗などの陶磁器,綾錦などの唐織物類,呉竹・甘竹など笛の材料,書籍,経典,筆墨などの文房具,さらにはオウム,クジャクなどの鳥獣までが含まれていた。そして日本からは金・銀・水銀・真珠・硫黄・銅・鉄・木材などを持ち帰った。宋商船が来着すると,大宰府が商人の身分・来航目的・積載貨物などについて尋問し,朝廷ではその報告に基づいて商人の滞留,貿易の許否などを決めた。頻繁に来航する商人に対しては,10世紀初めに制定された毎三年一航という来航制限規定を適用して貿易を許さないこともあった。しかし貴族たちの唐物欲求は根強く,事実上貿易を認める場合が多かった。貿易を許可すると,まず朝廷が先買権を行使し,その後に一般の貿易を許すという方法がとられた。そのために朝廷から唐物使とよばれる使者が遣わされて購入にあたったが,後には大宰府に購入貨物の目録を送り買い上げさせるようになった。この結果,大宰府の貿易管理権が一段と強くなり,その高官に職権乱用による不正行為が多くなった。そこで宋商船はしだいに大宰府の管理貿易を避けて,不入権をもつ荘園地域の港に入るようになった。荘園領主の貴族たちもまた,入港した宋船との自由な貿易を得策としたのである。こうして宋船の入港地は博多付近から薩摩に至る九州沿岸の諸地域に広がり,貿易の管理をめぐる荘園側と大宰府との間の争いがたびたび起こった。また宋商の中には,京都に近い越前・若狭などに入港するものもでてきた。
12世紀後半にいたるまでの日宋貿易の担い手はもっぱら宋商人であった。それは日本の朝廷が10世紀以降対外関係に消極的になり,日本人の海外渡航を禁止していたからである。しかし12世紀後半に武士階級出身の平清盛が政権を握ると,対外貿易を積極的に奨励する政策をとったため,日本人で宋へ渡航するものがでてきた。清盛はまず大輪田泊(兵庫港)の修築,音戸ノ瀬戸の開削などによって大船の瀬戸内海航行の便宜をはかった。また明州刺史から後白河法皇と清盛に書状と品物が送られてきたときも,貴族たちの反対を押し切って受納したうえ,返書・贈物を送って日宋交流の促進をはかっている。清盛のこのような開国的な方針は鎌倉幕府にも受けつがれ,宋に渡航して貿易を営む日本人が飛躍的に増えた。鎌倉幕府は一時期貿易制限を企てたが,あまり効果はなかった。こうして宋が元によって滅ぼされるまで,日宋間には両国商人による活発な貿易が展開され,いわゆる唐物のほか,宋の新しい文化・技術・思想などが伝えられ,日本の社会・経済・文化の諸方面に大きな影響を与えた。中でも禅宗の流布および宋銭の大量輸入による貨幣経済の飛躍的な展開はとくに重要であった。
→日元貿易
執筆者:石井 正敏
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10世紀後半~13世紀後半の間、日本と中国の北宋(ほくそう)・南宋(なんそう)との間で行われた貿易。中国人の海外発展は7~8世紀ごろよりアラビア商人の活発な通商活動に刺激されて、広州(こうしゅう)を中心とする南海方面を舞台に始まった。9世紀中葉からは、南海貿易で得た東南アジアの特産品を日本へももたらす唐(とう)の海商が現れた。
唐末五代の混乱期を経て宋朝の中国再統一がなると、治安の安定、国内諸産業の発展、南海貿易の復興などによって、宋海商の日本来航は唐代をはるかにしのぐようになった。宋海商らは、東シナ海のモンスーン・海流を熟知し、日宋間を片道5~7日で航海した。彼らは、5、6月の西南風に乗って来日し、翌年3、4月の東北風を利用して帰航するのが通例であった。
前期(10世紀後半~12世紀前半)には、博多(はかた)を交易の場とし、大宰府(だざいふ)の統制の下に交易が行われた。宋海商が携帯する渡航証である「公凭(こうひょう)」(商人の身分、積載貨物の内容、来航目的などを記載。高麗(こうらい)・日本との貿易のために開港した明州の貿易監督機関である市舶司(しはくし)が発給した)を基に大宰府に派遣された朝廷の唐物(からもの)交易使が先買権を行使し、その後に一般の交易が許されるという形態をとった。のち、朝廷からの目録を基に大宰府官吏が先買権を行使するようになり、大宰府の貿易管理が強化されたため、これを嫌う宋海商らは不入権を獲得した権門寺社領の荘園(しょうえん)内の港湾に着岸して私貿易を行うようになった。このため、九州西岸を中心として博多から薩摩(さつま)に至る広い地域に交易の場は拡大し、貿易統制権をめぐって大宰府と荘園領主との訴訟が頻発した。
後期(12世紀後半~13世紀後半)には、日本側に平氏政権が成立し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修築して宋商船を瀬戸内海へ引き入れて貿易を行うなど新たな局面が切り開かれた。続く鎌倉幕府も基本的に対宋貿易には積極的に関与し、鎌倉の外港和賀江(わかえ)(飯島津(いいじまのつ))、六浦(むつら)にも宋商船の来航があったようである。こうしたなかで、日本人で宋に渡航する者が輩出した。南宋に渡る日本船は、1年に40~50艘(そう)に及んだといわれる。北宋・南宋ともに一貫して対日貿易には積極的だったが、1127年以後、華北を支配する金(きん)と対抗する財源を貿易の利に求めたため、日本側の対外政策の積極化と相まって日宋貿易は空前の活況を呈した。
日宋貿易を通じて、宋側からは「唐物」といわれる香料・陶磁器・書籍・南海産の鳥獣・医薬品・銅銭などが輸入され、日本からは刀剣・水銀・硫黄(いおう)・木材・砂金などが輸出された。とくに日宋貿易を通じて輸入された銅銭、最新の建築・土木技術、禅宗は日本の社会経済・文化の諸分野に多大な影響を与えた。
[横井成行]
『藤田豊八著『東西交渉史研究 南海篇』(1932・岡書店)』▽『『蒲寿庚の事蹟』(『桑原隲蔵全集 第五巻』所収・1968・岩波書店)』▽『曽我部静雄著『日宋金貨幣交流史』(1949・宝文館)』▽『『森克己著作選集1~4』(1975・国書刊行会)』▽『張祥義「宋代市舶司貿易研究の現状と課題」(『亜細亜大学教養部紀要』24所収・1982・亜細亜大学)』
中国の宋朝(北宋・南宋)と日本との貿易。遣唐使の廃止後,国家レベルでの交渉が絶え,律令にもとづく日本人の渡航禁止と10世紀初めに定められた来航制限のもとで,宋の商船が福建や浙江(とくに明州の寧波(ニンポー))から大宰府に来着し,鴻臚館(こうろかん)で日本との貿易を行った。宋商が来航すると,朝廷は唐物使を派遣して優先的に貿易を行い,残りを民間の交易にゆだねたが,大宰府官人や荘園を通じての私貿易も展開した。南宋期になると日本商人の渡航も盛んになり,平氏による大宰府の掌握や大輪田泊(おおわだのとまり)の修築などの積極策によって貿易が活発化した。鎌倉時代には北条氏が統制を試みたが,民間貿易はますます盛んになった。おもな輸出品は砂金・水銀・硫黄・真珠や扇・刀剣などの美術工芸品で,輸入品は陶磁器・漢籍・経典や綾錦などの高級衣料,文具・絵画のほか,南海産の沈香・麝香(じゃこう)などの香料や薬品,蘇芳(すおう)をはじめとする染料などであった。とくに12世紀以降には大量の宋銭が輸入され,日本の貨幣経済の進展を促した。
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…銅銭の質量が悪化軽小となって世の信用を失ったのである。12世紀に日宋貿易が発展して中国銭輸入が始まり,13世紀に輸入はますます増大した。中国の銅銭は唐代から諸外国へ流出,宋代にはその量はいよいよ増加した。…
…平清盛は福原荘を領有するようになると,ここに別荘(福原山荘,雪見御所などという)をつくり,1168年(仁安3)に出家入道してからは主としてそこに住み,平家一族の別荘も多く営まれるようになった。清盛がこの地に着目したのは,日宋貿易の推進とも密接に関係しており,福原の町づくりと並行して大輪田泊の修築,経ヶ島の築造など港湾施設の整備につとめ,70年(嘉応2)には宋船がはじめて福原まできた。80年(治承4),源平の争乱が勃発すると,6月突如として清盛はこの福原へ都を移した。…
…この間,動乱の余波として,新羅の辺民がしばしば対馬や北九州を侵したので,日本は辺境の防備を厳にするとともに,対外交渉にいちだんと消極的になった。しかし大陸の情勢が安定した10世紀後半には,宋の商船の来航と日本僧の入宋が盛んになり,ことに11世紀後半には,北方の遼の圧迫に苦しむ宋の神宗が,国書を贈って積極的に対日接近を図り,日宋貿易もますます活発になった。その後1127年,宋は女真族の金に追われて南遷し,南宋として再建されたが,12世紀後半に入ると,平清盛の貿易振興政策によって,再び日宋貿易が盛んになった。…
※「日宋貿易」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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