精選版 日本国語大辞典 「日本社会党」の意味・読み・例文・類語
にっぽん‐しゃかいとう ‥シャクヮイタウ【日本社会党】
にほん‐しゃかいとう ‥シャクヮイタウ【日本社会党】
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1945年(昭和20)11月2日に、共産党を除く戦前の無産政党関係者で結成した、日本の代表的な社会民主主義政党で、1996年(平成8)1月19日に党名を社会民主党に変更するまで存続した。社会党の歴史は五つの時期にくぎることができる。
[田口富久治]
第一期は結党以来1951年の左右両社会党への分裂までである。反共右派主導で発足した社会党は、その新憲法構想も「国家主権論」で天皇制の修正存続を考えていたし、1946年初頭の民主人民戦線運動にも反共主義の立場から参加しなかった。1947年の二・一ストをピークとする労働運動の高揚を背景として行われた4月総選挙では143人の当選者を得て第一党となり、片山哲(てつ)を首班とする社会・民主・国民協同の3党連立内閣を組織した。片山内閣は新憲法に基づく国家公務員法、新警察法の制定、民法改正などを実現したが、その政策的表看板であった炭鉱国家管理法は骨抜きにされたばかりか、経済再建のため労働賃金を抑制するなどの政策をとらざるをえなかったため、鈴木茂三郎(もさぶろう)ら党内左派の「造反」にあい、1948年2月総辞職した。続く芦田均(あしだひとし)(民主党)内閣にも西尾末広(すえひろ)ら8名が入閣したが、同内閣も政令二〇一号で国家公務員の団体交渉権・争議権を剥奪(はくだつ)して労働者の不満を買い、昭電疑獄事件で1948年10月総辞職した。その後1949年1月の総選挙で社会党は48議席にまで転落し、同年4月の再建大会では党の路線と性格とをめぐって、改良的漸進と国民大衆の党を唱える右派と、社会主義革命と階級政党を主張する左派との間にいわゆる森戸(辰男(たつお))・稲村(順三)論争が行われた。左右の対立は1950年1月の第5回大会では人事と青年部問題をめぐって紛糾し一時党分裂を招いたが、1951年1月の第7回大会では講和と平和問題をめぐってふたたび激化し、左派優位のうちに全面講和・中立・基地反対・再軍備反対の平和四原則が採択され、空席の委員長に左派の鈴木茂三郎が選出された。しかし講和会議直後の10月、臨時大会で、左派の講和・安保両条約反対論と右派の講和賛成論が激突し、左右両社会党に分裂した。
[田口富久治]
第二期は1950年代から1960年代前半までであるが、三つの小段階に区別されよう。
(1)社会党分裂から1955年10月の再統一に至るまでの時期で、この間に伸長しつつあった日本労働組合総評議会(総評)と結び付き(「左社・総評ブロック」)、平和・反戦の路線を明確にした左社が議席数でも右社を追い抜き、勢力的には左派優位のもとで、ただし綱領(平和革命による社会主義への移行と階級的大衆政党をうたった)と人事では右派と妥協して(委員長鈴木茂三郎、書記長浅沼稲次郎)再統一がなった。
(2)再統一後の社会党は、鳩山(はとやま)一郎内閣の改憲・再軍備、続く岸信介(のぶすけ)内閣の日米安保条約改定に対して、護憲・平和、安保反対の旗を掲げて正面から対決し、とくに60年安保闘争においては安保改定阻止国民会議の中心勢力として活動した。この間、西尾末広らの脱党と民主社会党(後の民社党)の結成(1960年1月)、また安保闘争の終結後、当時の浅沼委員長の右翼青年による刺殺事件が起こった。
(3)浅沼の死後、党の最高指導者となった江田三郎書記長は、1960年11月の臨時党大会で、経済構造の改良によって社会主義に至るという構造改革路線を提唱したが、社会主義協会を中心とする左派はこれを改良主義として鋭く攻撃し、江田を追い落とし(1962年12月第22回大会。後任書記長成田知巳(ともみ))、1964年12月の第24回大会では、労働者階級を中核とする「反独占国民戦線」の形成によって社会主義への道を切り開く過渡的政権構想を示した新しい綱領的文書「日本における社会主義への道」を採択した(1966年党大会で補強・完結)。
[田口富久治]
第三期は1960年代後半から1970年代末までである。1960年代後半から1970年代前半にかけてのほぼ10年は、経済の高度成長のもたらした矛盾がとくに大都市部において顕在化したのを背景として、東京をはじめ全国の主要な自治体で革新首長(当時の住民運動の高揚を背景に、社会党・共産党系の公認・推薦・支持で当選した都道府県知事や市町村長)が輩出した時期である。社会党は共産党との連携による社共共闘を軸にその実現に大きな役割を果たし、1974年1月の第37回大会では、護憲・民主・中立の国民戦線を基礎にした国民統一政府の構想を発表した。しかし低成長経済に移行した1970年代後半には、保守側の反撃、社共間の軋轢(あつれき)の増大などによって、主要な革新自治体は次々と崩壊していった。また、労組(総評)依存、議員党的組織体質を脱却できなかった社会党は、1960年代後半以降の野党の多党化、とくに都市部における公明、共産両党による挟撃や、党の主要な組織基盤である総評の地盤沈下、1977年の江田副委員長の離党、1978年3月の社会民主連合の結成などによって、1969年12月総選挙の敗北以降、長期低落傾向を示し、相対得票率で20%を割り続けた。この間、委員長は、佐々木更三(こうぞう)(1965年5月)、勝間田清一(かつまたせいいち)(1967年8月)、成田知巳(1968年10月)、飛鳥田一雄(あすかたいちお)(1977年12月)と交替したが、党勢の回復はならなかった。
[田口富久治]
第四期は1980年から1993年7月の総選挙までである。もともと1970年以降の党の基本方針である全野党共闘路線は一方での社共共闘、他方での社公民路線という矛盾をはらんでいたが、1980年1月、当時の飛鳥田執行部は、前年1979年総選挙で進出した中道勢力に接近し、共産党を除外する政権構想を採択し、社公民路線に踏み切った。それに伴って、政策的にも安保・防衛問題で自衛隊の「違憲合法論」を唱えるなど手直しを試みるとともに、1955年「綱領」、1964年「道」にかわる綱領的文書として、1986年1月には「愛と知と力による創造」と題する「新宣言」を採択した。人事面では、1983年9月以来の石橋政嗣(まさし)委員長が1986年7月の衆参同時選挙での惨敗(衆院議席86)ののち辞任、党内公選で土井たか子を委員長に選んだ(同年9月)。政治路線の「現実化」と新人事が党再建につながるか注目され、1989年(平成1)7月参院選挙、1990年2月総選挙で議席を大幅増、低落傾向に歯止めをかけた。
[田口富久治]
1993年総選挙から「社会民主党」への党名変更まで。1993年7月総選挙の結果、自民党が過半数割れをおこし、8月には8党派の連立による細川護熙(もりひろ)政権が成立するが、社会党はこの連合政権に加わった。しかし、翌1994年4月の羽田孜(つとむ)内閣の発足に際しては、新生党などによる統一会派「改新」の結成に反発して、社会党は与党から離脱し、同年6月30日には、村山富市(とみいち)社会党委員長を首班とする自民・社会・新党さきがけの連立による村山内閣が成立した(1996年1月まで)。そして、1996年1月19日に開催された日本社会党第64回大会で社会党は党名を社会民主党に変更し、半世紀に及ぶ歴史をひとまず閉じたのである。
[田口富久治]
『『資料日本社会党50年』(1995・日本社会党中央本部機関紙広報委員会)』
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1明治末期の合法的社会主義政党。1906年(明治39)1月,西川光二郎(みつじろう)らが日本平民党,堺利彦らが日本社会党の結党届を提出し,リベラルといわれた第1次西園寺内閣はこれを受理。翌月,両党が合同して日本社会党を結成した。正式党員は約200人。機関誌は半月刊「光」と復活した日刊「平民新聞」。普選運動,東京市電運賃値上げ反対運動,足尾銅山争議などを支援。党内に片山潜・田添鉄二らの議会政策論と幸徳秋水らの直接行動論との対立が発生し,07年2月の党大会で両派は激突。西園寺内閣は結社禁止を命令した。
2第2次大戦後の政党。1945年(昭和20)11月,戦前の無産政党の諸系列を大同団結して結成。連立ながら47年片山内閣,48年芦田内閣と続いて政権を担当した。51年にサンフランシスコ講和への対応をめぐって左右に分裂したが,55年10月に統一。以後,護憲を掲げて野党第1党の地位を保つが,60年には右派が離党して民社党を結成し,その後も左右両派は対立した。86年にマルクス主義を払拭した新綱領を採択し,89年(平成元)労働組合の統一組織「連合」の結成で総評とのブロック体制が崩れ,転機を迎えた。94年7月,委員長村山富市を首班として,自民党・新党さきがけと連立内閣を発足させた。96年1月,社会民主党と改称。
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…1955年(昭和30)秋に,左右両派社会党の統一によって再発足した日本社会党と,日本民主党と自由党の保守合同によって結成された自由民主党の2党を軸として成立した政党制をいう。
[背景]
1951年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約の締結への賛否をめぐって左右両派の対立が激化,分裂してから4年ぶりに統一した社会党と,戦後の保守勢力の離合集散に終止符を打って誕生した自民党によって,政治勢力が2極的に配置される形となり,この体制は,二大政党制の幕開けとして広く歓迎された。…
…平民社創立の1周年には幸徳との共訳による《共産党宣言》を掲載する。同紙廃刊後も《直言》や《光》によって運動を継続し,06年2月日本社会党を結成し評議員となる。同党が議会政策派と直接行動派の対立を招いた際には中間的な立場から両者の仲介に努めるなど,運動の組織者としての優れた資質をもつ。…
…1906年3月1日,東京市内の東京市街鉄道,東京電車鉄道,東京電気鉄道の3会社が各3銭均一の電車賃を3社共通5銭均一に値上げする申請を府知事と警視総監に提出した。結党直後の日本社会党は党勢拡張もかねて国家社会党とともに反対運動に取り組み,演説会・市民大会の開催,ちらし配布等を行った。田川大吉郎らの自由主義者や一般市民も加わり運動は盛り上がった。…
※「日本社会党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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