日露講和条約に反対する民衆暴動。日露講和反対運動は1905年8月末,講和会議の内容が報道されて以降,約1ヵ月間全国的展開をみたが,その頂点となった,都市型暴動の最初の事件である。
ポーツマス条約に不満を抱く国民の一部は,かねて20億円の償金,沿海州の割地などを主張しており,《万朝報》《大阪朝日新聞》をはじめ各紙は条約破棄の論調に終始した。条約締結日の9月5日,対露同志会,黒竜会を中心とする対外強硬論者の9団体が主催して東京日比谷公園で〈講和条約反対国民大会〉を計画した。政府は治安警察法によって大会を禁止したが,会場周辺には数万の民衆がつめかけ,警官隊と衝突して公園内になだれ込んだ。大会幹部は開会を宣言し,憲政本党の河野広中が座長をつとめ〈講和条約破棄決議〉〈満州各軍に打電すべき決議〉〈枢密顧問官に対する決議〉を採択し約30分で終わった。散会後民衆は自然発生的に暴動化した。うちつづく戦勝の報道と過大な講和条件への期待を裏切られ,加えて戦争で多大な犠牲が生じたことに民衆が怒りを爆発させたのである。桂太郎内閣の御用新聞である国民新聞社,内相官邸を襲い,市内二つの警察署,大部分の分署・派出所・交番を焼き打ちし,キリスト教会を打ちこわしたりした。翌6日もその事態が続き,深夜緊急勅令をもって戒厳令の一部を東京市および周辺5郡に施行して近衛師団を出動させた。言論統制,新聞・雑誌の発行停止を行ったため,暴動はしだいに鎮静し,戒厳令は11月29日に解除された。死者17人,負傷者2000人,検束者2000人に及んだ。兇徒聚衆罪で起訴された者は311人,うち有罪87人でその大部分は職工,人足,車夫などの都市民衆であった。東京の暴動は大きな反響を呼び,全国各地の講和反対運動は急速に広がった。県・市・町民大会等の反対決議は165を超え,ほとんどの地方大都市で大規模な集会が開催された。これは国民とくに都市民衆による排外主義・膨張主義的行動の全国的あらわれであったが,他面では藩閥専制に対する抵抗運動でもあり,大正デモクラシー運動の出発を意味するものであった。
執筆者:橋本 哲哉
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…調印の日の9月5日東京の日比谷公園で開催された同志連合会主催の国民大会は講和条約の破棄を決議し,大会参加者の一部は街頭に出て,各所で警官隊と衝突,政府系新聞を襲撃し,内務大臣官邸や警察署,交番,電車,教会などをつぎつぎと焼き打ちした。7日にかけて市民による騒擾(そうじよう)は続き,政府は6日東京市と府下5郡に戒厳令をしき,政府批判の新聞・雑誌を発禁や停刊処分とした(日比谷焼打事件)。このほか講和反対の運動は,20日ごろまで全国各地で大会や演説会を開いて決議や宣言を発し,神戸市や横浜市では民衆が暴動化した。…
… 講和の内容が,領土割譲は樺太南半だけであり,償金はまったくないことに不満を抱く対外硬派は講和反対を唱えた。9月5日の調印の日に東京日比谷で開催された講和反対国民大会には,民衆が騒擾(そうじよう)化して日比谷焼打事件を引き起こしたのをはじめ全国的に非講和運動が展開された。戦争中,国民の多くは,開戦以後のあいつぐ勝報に熱狂し,旅順陥落や奉天会戦,さらに日本海海戦などの報道は国民を狂喜させ,ちょうちん行列や戦勝祝賀会などが各地で開かれていた。…
※「日比谷焼き打ち事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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