精選版 日本国語大辞典 「日米安全保障条約」の意味・読み・例文・類語
にちべい‐あんぜんほしょうじょうやく ‥アンゼンホシャウデウヤク【日米安全保障条約】
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正式には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」。「安保条約」とも略称される。1960年(昭和35)1月19日に署名され、6月23日に発効した。条約のほかに、合衆国の軍隊の地位に関する協定(いわゆる日米地位協定)をはじめ、交換公文、合意議事録がこれに付属し、またその実施のために多くの関係国内法が定立されており、それらがいわゆる日米安保体制を形成している。現行の条約は1960年の「安保改定」によって、旧安保条約(1951年9月8日調印、52年4月28日発効の「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」)に代替したものである。
[石本泰雄]
安保条約のおもな内容は次のようである。
(1)第6条によって、米軍は日本における施設・区域の使用を許され、日本はこれを無償で提供すべき義務を負う。どのような施設・区域が提供され、または返還されるかは日米合同委員会における協議で決定される。施設・区域の維持のために日本側が提供する便宜は「地位協定」によって詳しく規定されるが、その範囲はきわめて広い。とりわけ、区域の提供については、「駐留軍用地特別措置法」があり、1997年には、沖縄での米軍用地の使用期限後も収用委員会の審議中は使用の継続を可能とする同法の改正も行われた。1999年9月現在の在日米軍の兵力は、陸軍1779人、海軍6329人、海兵隊1万8770人、空軍1万3743人である。
(2)第6条は、米軍に基地を供与する目的として、「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」と規定している。米軍の基地維持の目的が、単に日本の防衛に限定されているのではなく、広く極東の平和の維持に及んでいることから、この規定は「極東条項」とよばれている。
(3)第3条は「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力」を維持し発展させることを定め、さらに第5条は「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対しては、「共通の危険に対処するように行動する」ことを明示している。これによって、いわゆる相互防衛体制が構築されている。その運用を円滑化するために、両国は、随時協議するものとされ(4条)、そのために閣僚級で構成される「日米安全保障協議委員会」(SCC、1960設置。「2プラス2」ともいう。それ以前の日米安全保障委員会の後身)、次官級の「日米安全保障高級事務レベル協議」(SSC、1967設置)、局長級の「日米防衛協力小委員会」(SDC、1976設置)、日米安全保障協議委員会の下での局長級による臨時の「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会(沖縄日米特別行動委員会)」(SACO、1995設置)および地位協定の実施に関する局長級の「日米合同委員会」(JCC、1960設置)がある。そのほかに、防衛関連技術に関係する日米協力のため、局長級の「日米装備・技術定期協議」も開かれている。
(4)条約は、発効後10年を経過した後、すなわち1970年6月23日以後は、両国のいずれでも終了の通告をすることができ、その場合には通告後1年で終了することを規定している。実際に終了の通告は行われず、現在に至っているが、これを安保条約の自動延長または自動継続とよんでいる。
[石本泰雄]
安保条約をめぐるおもな問題点は次の諸点である。
[石本泰雄]
在日米軍や基地は、太平洋軍総司令部(ハワイ)を頂点とする米国極東戦略の兵力の一環を形成している。条約上からも、それは日本防衛のためだけでなく、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に用いることが認められている(6条)。条約は極東の範囲を定義していないが、政府の統一解釈によると、「フィリピン以北、並びに日本及びその周辺地域で韓国や台湾の支配下にある地域」が含まれる。もっとも、「極東の平和と安全の維持に寄与するため」の行動は、これらの地域が直接に攻撃を受ける場合だけでなく、他の地域で発生した事態によって脅威を受ける場合にもとることができ、しかもそのような行動そのものは地域的に極東に限定されているわけではない。したがって、極東条項には、米軍の行動を実質的に制限する機能はほとんどないことになる。
[石本泰雄]
在日米軍や米軍基地が、日本自身にとって望ましくない軍事行動のために使用される危険性や、日本領域への核兵器の持ち込みの危険性に対する歯止めとして、条約締結と同時に交換された公文で、「日本国から行なわれる戦闘作戦行動のための基地としての日本国内の施設及び区域の使用」と、「合衆国軍隊の日本国への配置における重要な変更、同軍隊の装備における重要な変更」とを日米両国の事前協議の対象とすることが約定されている。しかし、事前協議が「戦闘作戦行動」に限られ、補給・移動・撤退に及ばないこと、核兵器の持ち込みについてもその検証が不可能であることなどのため、その機能はもともと限られたものであった。事実、1960年(昭和35)当時、日米間で「在日米軍が朝鮮有事で出動するときに限って、事前協議は行わない」とする秘密の合意が存在したことは、1990年代中ごろに公開されたアメリカの外交文書の分析から確認されている。また1969年の沖縄返還に関する佐藤‐ニクソン共同声明では、極東の平和と安全の維持が日本の安全にとって不可分の要素であることが随所に強調され、事前協議に際して日本側が「前向き」の姿勢をとることが示唆された。「安保の変質」という批評が行われたのはそのためである。
わが国が国是として堅持してきた「非核三原則」にもかかわらず、その当時、核兵器搭載艦の領海通過に関して、日本政府がこれを黙認していたことは、これもアメリカの公式文書からうかがえる。
[石本泰雄]
条約は第3条で「武力攻撃に抵抗するそれぞれの能力を維持し発展させる」ことを両国の義務としている。もっともそれは「憲法上の規定に従うことを条件」としているから、違憲の問題は生じえないと政府は説明してきたが、そもそもわが国の憲法第9条で、いわゆる自衛力の保有が認められるのかについてさえ、国民の間で憲法の解釈は分かれている。それは別として、条約は、第5条で相互防衛義務を規定している。相互防衛義務が発生するのは、「日本国の施政下にある領域における(日米の)いずれか一方に対する武力攻撃」(いわゆる日本有事)に限定されているから、政府は、これを「個別的自衛権」の範囲内にあるものとして、憲法第9条に違反するものではないと説明してきた。しかし、在日米軍基地は、「日本有事」に際してだけ用いられるのではない。米軍は、「極東の平和と安全」のために基地を用いることができる。このような行動の結果として、日本が外国から攻撃を受ける場合を想定すると、相互防衛は、日本の局地防衛のための共同行動というよりは、むしろいわゆる「極東有事」の際の極東戦略における日米共同行動の意味をもつことにならざるをえない。それはとりもなおさず、「集団的自衛権」の行使であり、憲法の許さないところではないかという深刻な問題を内包している。日米の軍事的結合関係が強まれば強まるだけ、それは「集団的自衛権」でなければ説明のつかぬ状態とならざるをえない。
[石本泰雄]
在日米軍施設・区域をめぐる紛争は、一般に基地問題といわれ、旧安保条約の時代から現在に至るまで、大きな政治・社会問題となってきた。農地・漁場・入会(いりあい)権・用水権などの喪失に伴う生活上の脅威、誤射・墜落などの危険、核兵器持ち込みの不安、原子力艦艇の寄港や病院の設置などに伴う生活上の脅威、米軍軍人による犯罪や風紀問題、騒音・電波障害・危険物輸送・航空路制限、さらに地方財政の圧迫など、さまざまの問題がある。わけても、基地問題が、基地の集中度のきわめて高い沖縄にあって、もっとも深刻であることはいうをまたない。1995年9月の沖縄米兵少女暴行事件の発生後、日米間で沖縄日米特別行動委員会が臨時に設置された(1995年11月設置、1996年12月最終報告)のも、政府がしばしば沖縄「経済」の振興を強調するのも、2000年サミットの開催地を沖縄・九州に決定したのも、新紙幣の図柄に守礼門(しゅれいもん)を選んだのも、基地問題の緩和の必要があるためにほかならない。にもかかわらず、米軍普天間(ふてんま)飛行場の返還に伴う代替施設の設定問題(1999年12月名護市長岸本建男(きしもとたてお)が受入れを表明した)など、基地あるかぎり解決の困難な問題が後を絶たない。
[石本泰雄]
安保条約は、旧条約以来、しばしば国論を二分する政治問題となってきたが、そのことは、安保体制が絶えず政治的弱点を内包していたことを意味する。安保体制の展開過程は、相互防衛体制の完熟過程であるとともに、他方では、このような政治的弱点に対する対応過程であったといってよい。
たとえば、第一に、1960年の安保改定、すなわち新安保条約の締結がそうであった。旧安保条約が、もっぱら米軍による日本の基地の使用権を規定するにとどまったのに対し、新安保条約は相互防衛体制を初めて明文化したのであった。しかし他方において、旧安保条約にみられた政治的弱点の克服のために、事前協議制度が取り入れられ、アメリカだけの判断で戦闘作戦行動のために基地が使用されたり、核兵器が搬入されたりすることが困難になるとして、「改定」のメリットとうたわれた。旧安保条約には期限の規定がなかったのに対して、新安保条約には廃棄条項が取り入れられた。これも世論の批判に対する対応であった。それだけに、これら事前協議制度や廃棄条項は、その後の実態としては機能しない結果となる。残るのは、これまでは明文の規定を欠いた日米相互防衛体制の明文化という体制本来の志向の実現であった。
第二に、沖縄施政権返還もまた相互防衛体制の完熟化と政治的弱点の克服という両側面をもつものであった。1969年の日米共同声明と、それを基礎とする沖縄返還協定の締結は、それまで安保体制の最大弱点であったいわゆる沖縄の異民族支配の終結をもたらすものであったが、しかし、それによって沖縄の基地機能が削減されたわけではない。むしろ沖縄の基地機能を安定化させるためにこそ、沖縄の「施政権」の返還がなされたのであった。それと同時になされた事前協議制度の機能転換すなわちアメリカの戦略体制への日本のコミットメントの促進や、沖縄に配備される自衛隊による米軍部隊の補完といった体制本来の「進化」が図られたのであった。もとより、この両側面は矛盾を含むものであり、だからこそ1960年の安保改定の反対闘争や、1972年の沖縄返還協定の反対闘争を避けることはできなかったのである。
[石本泰雄]
冷戦後、それまで安保条約の事実上の目的であった「ソ連の脅威への備え」が失われることになり、戦略環境が変化した。そのため、日米安保の目的などの立て直し(日米安保再定義)が必要となった。再定義についてはアメリカの主導で1994年(平成6)から交渉が開始され、1年余りにわたって日米政府間で軍事・外交レベルの協議が行われたが、予定より半年遅れて1996年4月17日にクリントン米大統領と橋本首相(当時)の間で、「日米安全保障共同宣言」が発表された。「安保再定義」の集大成である。
日米安全保障共同宣言は、第一に、日米安保条約を基盤とする日米関係が21世紀の「アジア・太平洋地域」における安定的情勢を維持するための基礎であることを確認している。すなわち日米安保のシフトをソ連の軍事的脅威への対抗から、アジア・太平洋地域の平和と安定へ移そうとするものである。ロシアが「中国がそれによって牽制(けんせい)されること」を期待してこの宣言を歓迎し、他方で中国がこれを警戒し批判したのは当然であった。
第二に、この地域における約10万人の前方展開軍事要員からなるアメリカの軍事的プレゼンス(存在)を維持することが不可欠であることが再確認された。在日米軍基地および兵力の削減は行わないことを意味するが、同時に、沖縄に配慮を示すため、同地域の基地の整理・統合・縮小を図る決意を表明し、1996年11月までに沖縄日米特別行動委員会の作業を完了させるという約束が表明された。
第三に、両国間の緊密な防衛協力が、日米「同盟」関係の中心的要素であることを認識したうえで、1978年に策定された「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の見直しを開始することで一致したことが表明された。さらに1996年4月15日の「日米物品役務相互提供協定」(ACSA(アクサ))の署名を歓迎し、次期支援戦闘機(F-2)などに関する共同研究開発をはじめとする技術・装備の分野における相互交流を充実し、弾道ミサイル防衛(BMD)に関する研究における協力にも言及された。
第四に、両国の「アジア・太平洋地域」の平和と安定のために努力する決意を示し、日米安保に支えられたこの地域へのアメリカの関与が、その努力の基盤となっていることを認識するとした。のみならず、日米安保が「地球的規模」の問題についての日米協力の基盤としての信頼関係の土台となっていることまで認識された。それは従来の「日本有事」への対応から、安保体制が「周辺有事」へと「法益」を広域化する「変質」を示すものであった。
[石本泰雄]
長くタブー視されていた日米軍事協力が公然と前景に登場したのは、1975年(昭和50)8月の三木・フォード首脳会談である。そこで日米両国は、防衛協力のあり方を協議することで合意した。実際に翌年8月に、日米防衛協力小委員会が設置されて協議が開始され、1978年11月に「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)が策定された。しかし、1996年(平成8)4月の「日米安保共同宣言」(安保再定義)によって、安保条約が日本有事の際の日米防衛協力の枠をはずして、アジア・太平洋地域の平和と安定のための日米防衛協力に道を開いたのと呼応して、ガイドラインの見直し作業を開始することが表明された。実際に、1996年6月に日米防衛協力小委員会を改組してその作業が開始され、9月には日米安保協議委員会(2プラス2)がその第一次経過報告を了承し、平時、日本有事、周辺有事の3分野での防衛協力強化を検討することを確認した。1997年に小委員会が、ガイドライン見直しの「中間とりきめ」を発表、日本周辺有事を「周辺事態」とし、「たたき台」として日米協力活動の40検討項目を列挙した。これを受けて9月23日、日米安保協議委員会で新しい「日米防衛協力のための指針」(日米新ガイドライン)が合意された。これによって、日本周辺有事の際の、米軍に対する補給・輸送・整備・衛生・警備・通信などの後方地域支援や自衛隊施設や民間空港・港湾の提供、経済制裁が実施されたときの不審船舶の検査、非戦闘員を退避させるための活動、機雷除去など40項目を確認、日本側の軍事的役割は飛躍的に拡大されることになった。
[石本泰雄]
新日米防衛協力のための指針を国内的に実施するためのわが国の国内法整備は、いわゆるガイドライン関連三法が1999年5月24日に国会で成立したことによっていちおう完成した。その中心的な法律が「周辺事態法(周辺事態に際してわが国の平和及び安全を確保するための措置に関する法律)」である。この法律でいう「周辺事態」とは「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態」とされている。この法律の内容は、次のとおりである。
(1)政府は、周辺事態に際して、後方地域支援、後方地域捜索救助活動、その他必要な対応措置を実施する。
(2)首相は、対応措置の基本計画について閣議の決定を求める。
(3)首相は、自衛隊の後方地域支援、後方地域捜索救助活動について、実施前に、または緊急の場合には実施後、速やかに国会の承認を求める。
(4)防衛庁長官(現防衛大臣)は、自衛隊による後方地域支援、後方地域捜索救助活動について実施要項を定め、実施を命令する。
(5)国は、地方公共団体や民間に協力の要請・依頼をすることができる(1999年7月、政府はこれらの協力の要請・依頼に関する政府解説案=マニュアルを作成した)。
(6)首相は、基本計画の決定・変更や、対応措置終了後の結果を国会に報告する。
(7)後方地域支援、後方地域捜索救助活動で、生命・身体の防護のために武器を使用することができる。
以上の内容をもつ「周辺事態法」のほかに、同時に成立した「改正自衛隊法」により、緊急事態での在外邦人の輸送手段に船舶と船舶搭載ヘリコプターが追加され、また隊員や在外邦人らの生命・身体の防護のために武器を使用することができるものとされた。また「日米物品役務相互提供協定」(ACSA、1996年調印)の改定協定も同国会で承認された。それによって周辺事態に際しての活動で物品・役務を相互に提供できること、ただし武器・弾薬の提供は含まないことが定められた。これらのガイドライン関連三法の成立によって、周辺事態で日本が米軍を支援する枠組が整い、日米安保体制は、アジア・太平洋地域を視野に入れた新たな段階に入った。
[石本泰雄]
『安全保障問題調査会編『朝日市民教室 日本の安全保障』(1967・朝日新聞社)』▽『『法律時報臨時増刊 安保条約――その批判的検討』(1968・日本評論社)』▽『防衛省編『日本の防衛――防衛白書』各年版(ぎょうせい)』▽『外務省編『外交青書』各年版(佐伯印刷)』
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アメリカとの同盟関係を戦後日本の安全保障上の機軸として位置づけた条約であり,「平和憲法」下の軽武装路線を支えた日本の安全保障体制の根幹。1951年9月,サンフランシスコ講和条約調印と同時に署名された旧条約は,「基地貸与協定」としての性格が強い一方で,アメリカの日本防衛義務が明文化されていないうえ,米軍による日本の治安維持を想定したいわゆる「内乱条項」があった。60年1月に新条約が締結されたが,旧条約との主な相違点は国連憲章との関係を明確化し,「内乱条項」を撤廃し,条約の実施に関する協議制度および10年間の条約期間を設けたことである。新条約調印に際しては激しい反対運動が起きた。70年代末から日本は米軍に多額の資金提供を行っている。冷戦後には「日本の防衛」に加え「地域の安定」を重視すべきとの認識が生まれ,96年の「日米安全保障共同宣言」を通じて日米安保体制は再確認され,97年には新たな「日米防衛協力のための指針」(「ガイドライン」)が策定された。
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1951年(昭和26)9月8日,サンフランシスコ講和条約と同時に調印,翌年4月28日発効。略して安保条約。前文と5条からなり,有効期間は定めない。第1条で,米軍が極東平和・安全を維持するため日本本土の基地を使用することを認めた。これは,在日米軍の地位を具体的に定めた日米行政協定の内容とあわせて,占領期からの継続の色あいが濃かった。また,前文で日本の自衛力増強を期待しているが,自衛力漸増とともにより対等な内容の条約に改正すべきだという要求が強まり,60年1月19日,日米相互協力及び安全保障条約が署名された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1国が武力攻撃を受けたときは,自国の憲法上の手続に従って共通の危険に対処することなどを定めている。この条約は,日本とのサンフランシスコ講和条約の締結(1951年9月8日)と対日占領解除に伴い,日本の軍国主義復活からオーストラリア,ニュージーランドを守るというアメリカによる保障の意味を持っていたが,同時に,前後して締結された米比相互防衛条約(1951年8月30日)や日米安全保障条約(1951年9月8日)とともに,アメリカのアジア地域における反共軍事体制の一環としての意味も持っている。さらにオーストラリア,ニュージーランドにとって,イギリスからアメリカへという軍事的パートナーの転換をも意味していた。…
…56年12月,同党総裁選で石橋湛山に敗れ,外相に就任したが,石橋首相の病気辞任により57年2月,首相に就任。58年,日米安全保障条約の改定交渉に入り,60年5月19日,衆議院で新条約を強行単独採決。同条約は6月19日,〈アンポ,ハンタイ。…
… ところで憲法9条の戦争放棄および戦力の不保持に関する政府の解釈は,大きく分けて,(1)自衛権をも実質的に否定する見解をとった時期(憲法制定時から1949年ごろまで),(2)〈武力なき自衛権〉を肯定する見解をとった時期(1950年以降53年まで),(3)〈自衛力〉論にもとづいて軍事力による自衛権を主張するに至った時期(1954年以降),さらに,(4)1991年の湾岸戦争時の〈国際貢献〉論,およびPKO協力法(国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)の成立(1992年6月)を転機として自衛隊を一定の要件のもとに国連部隊(PKO)に参加させるに至った時期(1991年以降)の四つの時期に分けられる。(2)の時期は戦後日本の再軍備の始動期に相当するが,朝鮮戦争の勃発(1950年6月)とともに警察予備隊が創設され(1950年8月),またサンフランシスコ講和条約による片面講和の際に同時に締結された旧日米安全保障条約(1951年9月締結,52年4月28日発効)を背景として保安庁が設立され(1952年8月),保安隊・警備隊という実力組織が成立した。この時期,内閣法制局は,〈“戦力”とは近代戦争遂行に役立つ程度の装備,編成を具えるものをいう〉旨の〈統一見解〉(1952年11月)を発表し,〈その本質は警察上の組織である〉保安隊・警備隊を〈侵略防衛の用に供することは違憲ではない〉との見解をとった。…
…中国は会議に招請されず,インド,ビルマ(現ミャンマー)は参加を断り,ソ連,チェコスロバキア,ポーランドは条約に反対して調印しなかった。同日日米両国間に日米安全保障条約も調印され,講和後もアメリカ軍の駐留がつづき,日米関係を固定化させることとなった日米安保体制が成立した。両条約の批准国会では,賛否をめぐって社会党が左右に分裂するなど国論を分けたが,民主自由党の圧倒的な優勢の下に批准は成立し,52年4月28日講和が発効して占領時代を終わったのである。…
…57年,かねて親交のあった岸信介首相の強い要請を受けて外相に就任,58年の総選挙で当選し政界に入った。3年にわたって外相を務め,岸を助けて日米安全保障条約の改定と取り組み,60年1月,現行の日米安保条約を締結した。藤山の意図は不平等条約の是正にあったが,岸の政治的体質への国民の反発もあって,〈60年安保〉と呼ばれる国論の対立,抗争を招いた。…
※「日米安全保障条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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地震や風雨などによる著しい災害のうち、被災地域や被災者に助成や財政援助を特に必要とするもの。激甚災害法(1962年成立)に基づいて政令で指定される。全国規模で災害そのものを指定する「激甚災害指定基準に...
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