日露和親条約(読み)にちろわしんじょうやく

精選版 日本国語大辞典 「日露和親条約」の意味・読み・例文・類語

にちろ‐わしんじょうやく ‥ワシンデウヤク【日露和親条約】

安政元年(一八五四ロシア使節プチャーチンと徳川幕府全権との間で締結された九か条よりなる条約箱館下田長崎開港を定め、エトロフ・ウルップ両島間を国境とし、樺太は両国人の雑居地とした。

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デジタル大辞泉 「日露和親条約」の意味・読み・例文・類語

にちろ‐わしんじょうやく〔‐ワシンデウヤク〕【日露和親条約】

安政元年12月21日(1855年2月7日)下田で、日本とロシアとの間に結ばれた条約。下田箱館長崎を開港、択捉エトロフ得撫ウルップ島間を国境とし、樺太を両国雑居地と定めた。下田条約日露通好条約

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世界大百科事典 第2版 「日露和親条約」の意味・わかりやすい解説

にちろわしんじょうやく【日露和親条約】

1855年2月7日(ロシア暦1月26日,安政1年12月21日)下田で締結された日露国交を開いた条約。日露修好条約,安政条約などともいう。ロシア側全権の海軍中将プチャーチンは1852年10月出発以来,帰国までに3年2ヵ月を費やして使命を達成した。クリミア戦争の開始や旗艦ディアナ号の沈没などの苦難があったが,平和的な外交交渉に徹して,ペリーの用いた軍事力の誇示も一切行わなかった。日本側全権の筒井肥前守政憲と川路左衛門尉聖謨(川路聖謨)も,幕府内の頑迷論をかわしつつ情理をつくして交渉した。

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百科事典マイペディア 「日露和親条約」の意味・わかりやすい解説

日露和親条約【にちろわしんじょうやく】

1855年日本とロシア間に締結された条約。前年日米和親条約に準じて結ばれ,下田・箱館・長崎を開港。千島(ちしま)列島は択捉(えとろふ)島(日本)とウルップ島間を国境とし,樺太(からふと)は両国雑居地と規定
→関連項目サハリン

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旺文社日本史事典 三訂版 「日露和親条約」の解説

日露和親条約
にちろわしんじょうやく

1854年,江戸幕府とロシアとの間に結ばれた条約
下田条約ともいう。使節プゥチャーチンと下田で締結。日米和親条約とほぼ同じ内容であるが,下田・箱館・長崎の開港を定め,択捉 (えとろふ) ・得撫 (うるつぷ) 両島間を日露の国境とし,樺太 (からふと) を両国人の雑居地として境界を定めなかった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日露和親条約」の解説

日露和親条約
にちろわしんじょうやく

1855年2月7日,ロシアのプチャーチンと下田で締結した条約。日露通好条約ともいう
日米和親条約とほぼ同じ内容で,片務的最恵国待遇が規定されているが,領事裁判権は相互に承認した。エトロフ島とウルップ島の間を国境とし,樺太では国境を分けず従来どおりとした。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日露和親条約」の解説

日露和親条約
にちろわしんじょうやく

日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「日露和親条約」の解説

日露和親条約(にちろわしんじょうやく)

日露(にちろ)通好条約

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世界大百科事典内の日露和親条約の言及

【神奈川条約】より

…条約書全文が公にされたのは,55年9月(安政2年8月)になってからであった。日米和親条約の調印に続いて,幕府は54年10月14日(嘉永7年8月23日)日英和親条約に調印し,イギリスに長崎,箱館を開き,55年2月7日(安政1年12月21日)には日露和親条約の調印を行い,ロシアに下田,箱館,長崎を開いた。また,オランダとも56年1月30日(安政2年12月23日)に和親条約を結んだ。…

【樺太・千島交換条約】より

…同年8月22日批准,11月10日布告。明治政府が旧幕府からひきついだ北方領土の状況は,安政1年12月21日(1855年2月7日)調印の日露和親条約以来,樺太(サハリン)は日露両国民雑居の地とされ帰属未解決のままであり,千島(クリル)列島は択捉(えとろふ)島,ウルップ島の間を日露の境界とし,その以北をロシア領としてきた。イギリス公使パークスは日本の樺太放任はロシア領化を招くと警告し,ロシアに売却するか代地と交換するのを良策とし,むしろ北海道開拓に専念するよう忠告した。…

【川路聖謨】より

…ペリー来航以前にたたきあげでここまで上ったのは珍しい例だった。53年プチャーチンが長崎に来ると露使応接掛を命じられて西下,続いて翌年には下田で日露和親条約を結んだ。老中阿部正弘,堀田正睦につらなる開明派幕吏の一人とみなされて安政の大獄で左遷,退隠を余儀なくされ,文久年間に短期間外国奉行を務めたがすぐ辞職隠居,中風で半身不随となった。…

【サハリン】より

…海軍士官ネベリスコイG.I.Nevel’skoiらによって外洋を航海する船もアムール河口に出入りできることが確認され,またサハリン北部において良質で豊富な石炭層が発見されたことにより,この島の戦略的・経済的重要性が著しく高まり,53年(嘉永6)ロシア政府は露米会社にその占領を命じた。同年長崎に来航したロシア使節プチャーチンも,幕府にサハリンおよび千島の国境画定を要望し,その結果55年2月7日(安政1年12月21日)の〈日露和親条約〉ではサハリンは両国の間で〈界を分たず〉と規定された。幕府は1821年以来松前藩領に復していたこの島を,55年に再び直轄して漁場を北緯49゜付近まで拡大し,またロシア側は少数の兵士を北緯48゜のイリインスキー(久春内(くしゆんない))地峡に定住させるなど,日露両国のサハリン進出が積極化した。…

【下田条約】より

…アメリカ人の遊歩区域,上陸場,民家出入り,休息場,物品購入のしかたなどについての規定がある。(2)日露和親条約 1855年2月7日(安政1年12月21日)調印。箱館・長崎・下田の3港を開くこと,択捉(えとろふ)島は日本領,ウルップ島以北の千島列島はロシア領とし,樺太は両国民雑居の地とすること,などを定めている。…

【プチャーチン】より

…おりからクリミア戦争前夜でイギリス,フランス両国との関係が悪化したためいったん長崎を退去,54年1月(嘉永6年12月)再び来航して幕府が派遣した筒井政憲,川路聖謨(としあきら)らと会談を重ねたが,交渉は不調のまま長崎を去った。しかしロシア領沿海州でディアナ号に移乗して54年11月(嘉永7年9月)大坂湾に姿を現し,ついで下田に入港,55年2月(安政1年12月)日露和親条約を締結した。談判中に大津波にあってディアナ号を失い,伊豆戸田(へだ)で新艦を建造した。…

【ロシア】より

…その余波を受けて,11年に海軍士官ゴロブニンらが日本側に捕らえられ,2年近く松前に拘禁された。幕末の53年(嘉永6)になってプチャーチン使節が来航し,ねばり強い交渉の末55年(安政2)下田で日露和親条約が締結された。63年(文久3)には通商条約も結ばれて,箱館にロシア領事館がおかれた。…

※「日露和親条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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