日韓協約(読み)ニッカンキョウヤク

デジタル大辞泉 「日韓協約」の意味・読み・例文・類語

にっかん‐きょうやく〔‐ケフヤク〕【日韓協約】

日露戦争から韓国併合まで、日本朝鮮支配を推進するために、三次にわたって締結した協約。(第一次)明治37年(1904)8月、韓国が日本政府推薦の外交財政顧問を採用することなどを決めた協約。(第二次)同38年11月、日本が韓国の外交権を握り、統監がそれを統轄することを規定した協約で、保護条約ともいう。(第三次)同40年7月、司法警察権を含む内政権を統監の下に置くことを決めた協約。

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精選版 日本国語大辞典 「日韓協約」の意味・読み・例文・類語

にっかん‐きょうやく‥ケフヤク【日韓協約】

  1. 明治三七~四〇年(一九〇四‐〇七)まで、三次にわたって日本と韓国の間で締結された協約。この協約によって、日本は大韓国(大韓帝国)の支配を漸次強化して、韓国植民地化への道を開いた。第一次は明治三七年で日本人顧問の採用を規定、第二次は同三八年で韓国の外交権を掌握し、統監政治を始めた保護協約、第三次は同四〇年で韓国の内政権を掌握した。

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改訂新版 世界大百科事典 「日韓協約」の意味・わかりやすい解説

日韓協約 (にっかんきょうやく)

20世紀の初頭,日本が韓国(旧大韓帝国)を植民地として併合する以前に,韓国の国としての機能を次々と奪うことを目的として締結した条約。同じ名称の条約が三つあり,それを締結された順に第1次(1904年8月22日),第2次(1905年11月17日),第3次(1907年7月24日)と区別している。このうち第2次日韓協約は,日韓保護条約もしくは乙巳(いつし)保護条約(乙巳は干支で示した締結の年)と呼ばれて重視されている。この条約によって,韓国は日本の〈保護国〉とされ,国際的には国家として認められない地位に転落したからである。

 第1次日韓協約では国政の根幹である財政と外交を監督する日本政府派遣の顧問を韓国政府に置くことが決められた。また,外交上の重要案件は日本政府と協議しないかぎり処理できないようにされた。こうして,いわゆる〈顧問政治〉が始められ,韓国政府の対日従属性は動かしがたいものになった。第2次日韓協約では韓国の外交権が完全に奪われ,韓国統監府が設置されて内政面でも日本人統監が韓国政府の上に君臨するようになった。これから統監(初代統監は伊藤博文)が国王以上の絶大な権力をふるうようになって,韓国はほとんど植民地同然の状態に置かれることになった。第3次日韓協約では韓国政府が施政の全般にわたって統監の指導を受けなければならなくなり,韓国政府はただあるというだけで有名無実化された。わずかに残されていた軍隊もこのとき解散させられた。1910年8月に結ばれた日韓併合条約はこの政府をも解体し,朝鮮を日本領内に編入することを意味したのである。こうした歴史的経緯をみるとわかるように,日韓協約は韓国を植民地化するために日本が支配権を拡大していく過程で必要とした諸条約であった。各条約の締結の際には韓国官民の頑強な抵抗義兵闘争などの反対運動があった。これを抑えるために日本の朝鮮支配はいっそう暴力的なものになっていった。
日韓併合
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百科事典マイペディア 「日韓協約」の意味・わかりやすい解説

日韓協約【にっかんきょうやく】

明治時代,3次にわたる日本と韓国(大韓帝国)の協約。1904年8月締結の第1次協約は韓国政府に日本人の財政・外交顧問をおくことを認めさせ,いわゆる顧問政治の道を開いた。1905年11月の第2次協約(韓国保護条約,乙巳(いっし)保護条約)で韓国外交権を掌握して保護国とし,韓国統監府を設置。1907年6月のハーグ密使事件を機に,同7月第3次協約を締結し,司法権,官吏任免権を掌握して統監権限を強化。秘密取極書で韓国軍隊の解散を決めた。これらの協約で韓国主権は実質上日本に握られた。各条約締結の際には韓国官民の抵抗や義兵闘争などの反対運動があり,これらを抑圧するために日本の支配はより暴力的となっていった。→日韓併合
→関連項目朝鮮独立運動日韓議定書林董李完用李朝(朝鮮)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「日韓協約」の解説

日韓協約(にっかんきょうやく)

日本の韓国に対する保護権確立のため,(1)1904年8月,(2)05年11月,(3)07年7月に日本と韓国との間で締結された3協約。日清戦争ののち,満洲,朝鮮へ進出してきたロシアに対抗して朝鮮を確保し,政治上,軍事上の保護権を収め,経済上の利権を拡大しようとしていた日本は,04年2月,ロシアに宣戦すると,ただちに日韓議定書を交換して韓国と内政および軍事上の協力関係を緊密にした。8月には第1次日韓協約を結んで,日本政府の推薦する財政・外交顧問を韓国政府に送り込み,条約その他重要な外交案件の処理については日本政府とあらかじめ協議させることにした。日露戦争が終結すると,ポーツマス条約によって日本の韓国に対する指導監督権が国際的に承認されたので,05年11月,日本は第2次日韓協約(韓国保護条約)を結び,韓国の外交事務をいっさい日本政府に移管し,ソウルに日本政府を代表する統監を置いて外交の監督にあたらせることとした。さらに07年7月,第3次日韓協約を結び,韓国の内政改善,法令の制定,高等官吏の任免などにつき,指導・監督の権限が統監に与えられ,司法・警察関係には多数の日本人官吏が採用されることとなった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日韓協約」の解説

日韓協約
にっかんきょうやく

1904~07年(明治37~40)に日本が韓国支配を強固にするために結んだ協約。

1第1次。1904年(明治37)8月22日調印。韓国の財政と外交を監督する日本政府推薦の顧問をおくことと,外交交渉における日本との事前協議とを韓国政府に義務づけた。日韓議定書をうけて日本軍の制圧下に結ばれた。

2第2次。日露講和条約締結後の1905年(明治38)11月17日調印。日本が韓国の外交権を掌握し,日本政府代表者を統監として漢城(現,ソウル)におき,韓国の外交を監督することを決めた。日本はこの年保護権確立を閣議決定し,特派大使伊藤博文(のち初代統監)を派遣,韓国に強要して結ばせた。韓国の外交権は剥奪され日本の保護国となったため,日韓保護条約・乙巳保護条約ともいう。

3第3次。1907年(明治40)7月24日調印。ハーグ密使事件で高宗を退位させたことを機会に締結。韓国政府は施政改善について統監の指導を,立法・行政および高等官吏任免には統監の同意をうけ,また日本人を韓国官吏に任命するとした。秘密覚書・施行細目が定められ,韓国軍も解散されるなど,韓国の内政全般にわたる指導権を日本が得た。この時併合はなされなかったが,朝鮮植民地化の決定的一歩となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日韓協約」の意味・わかりやすい解説

日韓協約
にっかんきょうやく

日露戦争開戦後,日本が韓国を保護国化する目的で結んだ3つの協約。 (1) 第1次日韓協約は 1904年8月 22日に調印され,韓国政府に,日本政府が推薦する日本人の財務顧問,外国人の外交顧問各1名を招聘すること,および外国との条約締結など重要外交案件は日本政府と協議することとを認めさせた。 (2) 第2次協約 (乙巳保護条約) は日露戦争の勝利を背景に列強了解を取付け,05年 11月 17日に調印したもので,その内容は日本政府が韓国の外交権を掌握するだけでなく,統監府をおいて韓国の内政全般を日本政府が事実上支配することを認めさせたものである。この協約を知った韓国官僚の自殺による抗議が相次ぎ,また商店ストをはじめとする各種の市民抗議運動が展開され,反日義兵闘争が拡大した。 (3) 第3次日韓協約はハーグ密使事件を契機に高宗を退位させ,07年7月 24日調印したもので,この協約および付属の覚え書の内容は統監が韓国の行政,司法を指導,統轄し,高級官僚に日本人を採用し,韓国軍隊を解散させるものであった。そのため日本軍の増強にもかかわらず,義兵闘争が韓国全土に広がった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日韓協約」の解説

日韓協約
にっかんきょうやく

日本と大韓帝国との間の3回にわたる協約。日本による主権の強奪過程であった
【第1次】1904年8月22日調印。2月の日韓議定書を受け,日本軍の制圧下において,韓国の財政と外交に関する顧問を置くことと,外交交渉に際して日本政府と事前協議を行う義務を課した。ここにいわゆる「顧問政治」が始められた。
【第2次】1905年11月17日調印。王宮を軍隊で取り囲み,反対する大臣たちを脅迫して結ばせた。韓国の外交権を剝奪して日本政府が代行することとなり,韓国の政治を監督する日本の統監が置かれて保護国とされた。漢城に置かれた韓国統監府の初代統監には伊藤博文が就任し,国王以上の権力をふるった。韓国保護条約,乙巳 (いつし) 保護条約ともいう。
【第3次】1907年7月24日調印。ハーグ密使事件で高宗を退位させたことにより強要。内政の全般にわたって統監の指導と同意が必要とされ,韓国軍も解散させられた。実質的な植民地化の完成であった。

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旺文社日本史事典 三訂版 「日韓協約」の解説

日韓協約
にっかんきょうやく

日露戦争から韓国併合までに3度にわたって締結して,日本の韓国支配を強めた協約
〔第1次〕1904年8月調印。日本政府推薦の人物を韓国政府の財政・外交顧問とすることと重要外交案件の日本政府との事前協議とを認めさせた。
〔第2次〕'05年11月調印。韓国保護条約。
〔第3次〕'07年7月調印。ハーグ密使事件が契機となる。韓国軍隊を解散させ,韓国の内政権を統監の指導監督下に置き,東洋拓殖会社('08)などの設立により経済的支配を進めた。このような植民地政策は韓国人民の反日感情を高めた。

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世界大百科事典(旧版)内の日韓協約の言及

【日韓保護条約】より

…日露戦争に勝利した日本が大韓帝国政府に強要して1905年11月17日に締結した条約。第2次日韓協約または乙巳(いつし)保護条約という。この条約によって韓国は日本の〈保護国〉とされ,国際社会における独立国としての地位を失った。…

※「日韓協約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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