江戸中期に山県大弐,藤井右門らが処罰された事件。山県大弐は儒学,兵学の塾を江戸日本橋に開き,上野小幡藩の家老吉田玄蕃と親交があった。ところが玄蕃の失脚を図る者が,大弐や友人藤井右門が甲府や江戸攻略の話をすると聞いて,それを藩主の父に告げ,玄蕃は監禁された。そこで危険が身に及ぶことを案じた大弐の門人らは,大弐が謀反を企てていると幕府に密告し,幕府が大弐らと竹内式部を捕らえて糾問した。その結果,謀反の事実はないとわかったが,1767年(明和4)に,大弐は兵学の講義で甲府その他要害の地をたとえに用いたり,天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが,不敬,不届きであるとして死罪,右門も獄門となった。そして玄蕃は無罪,式部はこの事件とは無関係と判明したのに,禁を犯して京都に立ち入ったとして八丈島に遠島となった。これが明和事件だが,その正体はほとんど不明であり,後世いわれたような幕府による尊王思想の弾圧事件とは思われない。
執筆者:田原 嗣郎
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1766~67年(明和3~4)山県大弐(やまがただいに)、藤井右門(うもん)らが江戸幕府への謀反の嫌疑で逮捕され、処刑された事件。倒幕思想の最初のものとして注目される。江戸八丁堀長沢町の浪人、儒者、兵学者の山県大弐は、家塾が繁栄し数多くの門弟を擁していた。1766年たまたま上野(こうずけ)国(群馬県)小幡(おばた)藩に内紛があり、大弐門人で同藩家老の吉田玄蕃(げんば)が用人松原郡太夫(ぐんだゆう)によって失脚、監禁されるという事件が起こった。これがあたかも大弐の陰謀計画があって玄蕃もその同類のごとく捏造(ねつぞう)されたため、漏れ聞いた大弐門弟の浪人桃井久馬、医師宮沢準曹(じゅんそう)らは連累者として禍(わざわい)の及ぶのを恐れて、幕府に大弐の倒幕陰謀計画なるものを訴人したので、大弐は同居中の門人藤井右門らと町奉行(ぶぎょう)の手で逮捕された(66年12月)。翌67年8月21日判決が下り、陰謀は無根だが、兵書の講義や日ごろの言動が幕府に対して不敬の至りふとどきとして、翌日、大弐は死罪に処せられ、獄死した右門は死屍(しし)を獄門に、関連して捕らえられた宝暦(ほうれき)事件の竹内式部(たけのうちしきぶ)は八丈島流罪となった。
[山田忠雄]
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江戸中期に軍学者山県大弐(やまがただいに)らが処罰された事件。江戸で軍学の教授をしていた元甲府与力山県大弐の門人で上野国小幡藩家老吉田玄蕃(げんば)が,同藩用人松原郡大夫との私怨により藩から処罰されると,大弐の門人桃井久馬・宮沢準曹らは,禍いが自分に及ぶことを怖れて,大弐に謀反の企てがあると老中に直訴するとともに町奉行所に出訴した。そのため幕府は,1766年(明和3)大弐と大弐方に寄宿していた藤井右門(うもん)を捕縛し,8カ月にわたって取り調べ,その言動が幕府の忌諱にふれたとして大弐を死罪,右門を獄門という極刑に処した。また宝暦事件で重追放の処分となっていた竹内式部(たけのうちしきぶ)も連坐させ,八丈島へ遠島とした。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…しかし宝暦事件で処罰された竹内式部と親交があったため,1758年(宝暦8)名を変えて逃亡し,甲斐を経て江戸に出,山県大弐と交わり,その家に寄宿した。ところが,大弐が上野小幡藩の内紛にからんで,門人らから謀反を企てていると幕府に密告され,処罰されたとき(明和事件),連座して幕府の糺問をうけた。告発されたような事実はなかったが,兵学を談論した際,江戸城攻略の話などしたのは不敬であり,不届き至極であるとして獄門を申しつけられた。…
※「明和事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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