安土桃山時代の武将。明智氏は美濃土岐の一族だが,光秀は初め越前の朝倉義景に仕え,そして足利義昭が朝倉氏のもとに流寓したとき出仕し,ついで織田信長の家臣となり義昭の上洛に尽力,義昭と信長に両属して申次(もうしつぎ)を務め,京都の施政にも関与した。室町幕府滅亡後は信長に登用され征服戦に参加,1571年(元亀2)近江坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)日向守と称し,丹波の攻略に着手,79年八上城の波多野秀治らを下して平定し,80年亀山城主となり,ついで細川藤孝,筒井順慶,中川・高山諸氏を与力として付属され,京都の東西の要衝を掌握,美濃・近江・丹波の諸侍や幕府旧臣を中核とする家臣団を形成した。彼は故実・典礼に通じ,民政にすぐれ,茶湯・連歌を好む理性的で教養豊かな武将だったところに特色があり,1579年誠仁(さねひと)親王の二条御所移徙(いし),81年京都馬揃の奉行を務め,また1573年越前の支配を行い,80年大和の寺社本所領指出(さしだし)を,81年丹後の検地を実施する一方,精緻(せいち)な軍法を制定した。そして82年春甲州征伐に従軍,5月徳川家康・穴山梅雪の接待を命ぜられ,つづいて中国征伐を支援するため出陣を命ぜられたので亀山において軍容を整え,6月1日夜出発したが,翌2日黎明信長を京都本能寺に襲い,織田信忠を二条城に囲んで敗死させた(本能寺の変)。この行動は信長の虚を突いた絶妙の作戦であったが,予想外に早く反撃してきた羽柴(豊臣)秀吉に山城山崎の戦で敗れ,逃走の途中小栗栖(おぐるす)で土民に殺された。彼が信長を弑逆(しいぎやく)した原因には,怨恨,前途に対する不安,政権欲,武士の面目維持などの諸点が指摘されているが,長い間機会をうかがったうえで決行したわけではなかった。法名は明窓玄智。妻は妻木範凞(のりひろ)の女。系図類では数子を数えるが,確認されるのは2男3女である。イエズス会士の記録によれば長子はヨーロッパの王侯に比するほど優美な貴公子だったという。女子では細川忠興(ただおき)の妻となったキリシタン女性ガラシャ(実名玉)が有名である。
執筆者:岩沢 愿彦
光秀のイメージは,江戸時代の文学や芸能における一連の〈太閤記物〉を通じて形成される。その場合,実名を使用するのをはばかって,光秀は武智光秀の名で登場する。ちなみに織田信長を尾田春永,羽柴秀吉は真柴久吉といいかえられるのが約束であった。それら〈太閤記物〉のなかで光秀像を決定づけたのは,1799年(寛政11)初演の浄瑠璃《絵本太功記》であろう。この作品は歌舞伎では翌1800年に上演されている。ここでは,光秀の春永への諫言,それに対する報復として森蘭丸に鉄扇で光秀の額を傷つけさせる場面,光秀の四天王が謀反を勧めるくだり,光秀親子の別れなど,光秀を悲劇性の濃い主人公とする挿話がふんだんにもりこまれていた。春永を悪役とし,さらにそれに謀反を企てるもう一人の悪役を配することで,光秀のイメージは複雑な陰影を帯びることになった。このような光秀像は,のちの鶴屋南北の歌舞伎台本《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》(1808初演)において,いっそう鮮明になる。
執筆者:守屋 毅
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安土(あづち)桃山時代の武将。光綱の子、通称十兵衛。美濃(みの)国(岐阜県)の人。守護土岐(とき)氏の支族と伝えるが明らかでない。越前(えちぜん)の朝倉義景(あさくらよしかげ)に仕え、のち織田信長に従う。将軍足利義昭(あしかがよしあき)の臣細川藤孝(ふじたか)(幽斎(ゆうさい))とともに、つねに義昭と信長の間を取り持ち、公家(くげ)たちとの交渉にも鮮やかな手腕を発揮した。1571年(元亀2)近江(おうみ)坂本に築城し、各地の戦いに参加するとともに、京都の民政をつかさどった。そのなかでも武人としてとくに力を尽くしたのは、丹波(たんば)、丹後(たんご)地方の経略である。1575年(天正3)6月信長の命により丹波の経略に着手。当初は国人(こくじん)も多く味方し、11月には氷上(ひがみ)郡中部の黒井城まで進むことができた。ところが翌1576年正月八上(やがみ)城の波多野秀治(はたのひではる)の叛(はん)により、丹波一円の抵抗が強まった。その後丹波以外にも適時動員されたが、鋭意丹波の攻略を続け、4年後の1579年にはもっとも強く抵抗した八上城を陥れた。その後細川藤孝を助けて丹後地方も平定した。1582年5月、毛利討伐のため中国出兵を命ぜられたときには、西江州(ごうしゅう)、丹波を直轄領とし、丹後の細川藤孝、大和(やまと)の筒井順慶(つついじゅんけい)、摂津の高山、中川、池田の諸将を組下とし、近畿を統率する地位に上っていた。ところが同年6月2日、本能寺に泊っている信長の警護の手薄なのに乗じて突然これを襲い自刃させ、ついでその長男信忠(のぶただ)を二条城で倒した。しかし羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉があまりにも早く毛利氏と和して東上したために計画が狂い、山崎で秀吉らの連合軍と戦い、13日夜敗死した。享年55歳とも57歳ともいう。世にいう「明智の三日天下」である。山崎の戦いの際の光秀の本陣跡は京都府大山崎町下植野の共同墓地付近と考えられ、その拠(よ)ったと思われる土塁と周濠(しゅうごう)の跡も、サントリー工場内で発掘調査により確かめられた。
[中山修一]
『高柳光寿著『明智光秀』(1958・吉川弘文館)』▽『桑田忠親著『明智光秀』(1973・新人物往来社)』
(林屋辰三郎)
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?~1582.6.13
織豊期の武将。十兵衛。日向守。朝倉義景に仕えていた1568年(永禄11),足利義昭の織田信長上洛依頼に参画した。上洛が実現すると,京都支配に政治力を発揮し,義昭に属しながら信長に仕えた。信長軍として各地を転戦し,71年(元亀2)近江国坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)の名字を得,信長の丹波攻略の先鋒となった。79年平定終了後,丹波一国支配を認められた。82年信長が中国赴援に向かったおりに,京都の宿所の本能寺を襲撃し,戻って近江・美濃を支配下においた(本能寺の変)。しかし豊臣秀吉の反撃をうけ,山崎の戦で敗れ,山城国小栗栖(おぐるす)(現,京都市伏見区)で自刃した。女の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。
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…そして翌82年木曾義昌の来属を機に甲斐・信濃に侵入,武田勝頼を田野に敗死させ,信濃・甲斐・上野に部将を分封して国掟を与えた。ついで神戸信孝らに四国征伐を命じ,6月中国征伐の指示を与えるため上洛し本能寺に宿泊したところを明智光秀に急襲されて2日朝自殺,信忠も二条城で敗死した(本能寺の変)。 織田政権の軍事的特質は加地子(かじし)領主として農業経営から分離しうる濃尾地方の地侍・有力名主層を中核に軍団を編成し,鉄砲・長槍で武装,専業武士団として機動性を与えたところにあった。…
…口丹波の交通の要地。地名の起りは1579年(天正7)明智光秀が築城して亀山城と名付けたことによる。城郭は大堰川右岸の台地にあり,城下町はその南部に建設されたが,人家を移住させた柏原(かせばら),三宅,古世などの9ヵ村を母体に,惣外堀内に取り込んだ城下町16町と城下外の4町で構成された。…
…1808年(文化5)7月江戸市村座初演。先行の浄瑠璃《祇園祭礼信仰記》《三日太平記》《絵本太功記》などに拠りながら武智光秀(明智光秀)が主君小田春永(織田信長)を本能寺で討つまでの経緯を主軸に脚色した作品(太閤記物)。序幕は祇園社拝殿から饗応仮御殿までの5場で,光秀が蜘蛛の振舞いを見て怪しむくだりは饗応仮屋の木戸前の場,春永が蘭丸に鉄扇で光秀の眉間を割らせるのが饗応仮御殿の場。…
…平安時代末期から中世にかけては皇室領六人部(むとべ)荘,松尾社領雀部(ささいべ)荘など,いくつもの荘園が置かれていた。1579年(天正7)に明智光秀が横山城を改修して福智山城と名付け(のち福知山と改める),城下町が形成された。また京都や綾部,山陰と結ぶ街道の宿駅,由良川の河港として水陸交通の要衝であった。…
…諡号(しごう)は秀林院。明智光秀の次女。母は妻木勘解由左衛門範凞女。…
…1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を急襲して自殺させた事件。羽柴(豊臣)秀吉の備中高松城攻防をめぐって織田・毛利両軍が全面的に対決する局面を迎えた信長は,とりあえず堀秀政を派遣するとともに明智光秀に出陣を命じ,みずから近臣を伴って5月29日上洛した。…
…1582年(天正10)6月13日羽柴(豊臣)秀吉,織田信孝らが山城乙訓郡山崎付近で明智光秀を破った戦い。備中高松城を攻囲中に本能寺の変を知り直ちに毛利氏と講和,6日播磨姫路に帰った秀吉は,摂津の諸将を糾合して富田に着陣,信孝らの兵を合わせ,軍を山手,中手道筋,川手の三手に分け13日進撃し,一方これより前に山崎の天王山を占領させていた。…
※「明智光秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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