皇統譜上第122代とされる天皇(在位1867~1912)。孝明(こうめい)天皇の第2皇子で、母は権大納言(ごんだいなごん)中山忠能(ただやす)の女(むすめ)、慶子(よしこ)。嘉永(かえい)5年9月22日生まれ、祐宮(さちのみや)と命名された。1860年(万延1)皇太子となり、睦仁(むつひと)と改名。1866年(慶応2)12月孝明天皇の急逝により、翌1867年1月践祚(せんそ)。この年、幕府側と討幕派はそれぞれ朝廷への工作を強め、若年の天皇を擁する朝廷は、天皇の名において10月将軍徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還の上表に勅許を与える一方、薩長(さっちょう)両藩主に討幕の密勅を下すという複雑な対応を迫られた。さらに12月、討幕派の主導で王政復古の大号令を発し新政府を樹立、1868年(明治1)から翌年にかけての戊辰(ぼしん)戦争では東征を命じ旧幕府勢力を打倒した。この間、五か条の誓文を発布して新政府の基本方針を宣言し、政体書によって新しい政治制度を採用、明治と改元し一世一元の制を定めた。1869年には東京に遷都し、版籍奉還の上表を勅許した。政府内では初め公家(くげ)や旧大名が中心を占めていたが、しだいに三条実美(さねとみ)、岩倉具視(ともみ)、木戸孝允(たかよし)、大久保利通(としみち)らの発言権が大きくなり、1871年廃藩置県を断行し中央集権体制を実現した。他方、大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔を出し、神道(しんとう)の国教化と天皇の絶対化の推進を図った。岩倉らは天皇を主体的な君主として育成するため、宮廷改革を行って旧習を廃止し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に努力した。1873年征韓論をめぐる政府内の対立には勅許をもって西郷隆盛(さいごうたかもり)の朝鮮大使派遣を中止させ、1875年には漸次(ぜんじ)立憲政体を立てるとの詔書を出して政体改革を進めるなど、天皇は政府内部の対立を調停する役割を果たした。さらに自由民権運動の高まりに対しては、1881年国会開設の時期を明示して運動の鎮静化を図り、1882年の軍人勅諭では軍隊を天皇の軍隊と位置づけ、大元帥(げんすい)として軍隊の統率にあたり、軍備の増強に努めた。1884年以降は内閣制度創設をはじめ立憲制に対応する諸制度の整備に着手し、市制・町村制、府県制・郡制の制定による地域末端までの官僚支配体系の整備と、莫大(ばくだい)な皇室財産を確保した。
1889年、大日本帝国憲法を公布して広範な天皇大権を規定して天皇制国家の基礎を確立し、翌1890年には教育勅語を渙発(かんぱつ)して国民道徳の規範を示した。帝国議会開設後は、衆議院に依拠する政党勢力と藩閥政府が鋭く対立するが、天皇はしばしば詔勅によって調停者的機能を果たし、元勲(げんくん)間の政策上の対立や感情的反目を宥和(ゆうわ)することにも努めた。日清(にっしん)・日露戦争では大本営で直接戦争指導の衝にあたり、また、日英同盟を締結して列強の一員たるべく軍事的、経済的内実の充実を図った。日露戦後には韓国併合や満州経営を進め、植民帝国として膨張政策を採用するとともに、1911年(明治44)には懸案の条約改正を完成させたが、このころから持病の糖尿病が悪化し1912年7月30日に病没した。
若年にして即位した天皇は、幕末から明治時代の激動期を、いわゆる維新の元勲らとともに明治国家の建設に努め、絶対君主として国民に畏敬(いけい)された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること厳しく、天皇としての威厳を堅持した。そのため明治天皇の死は明治国家の終焉(しゅうえん)として意識され、明治天皇を中軸に構築された天皇制国家のあり方にも変容が迫られることになった。
[宇野俊一]
『渡辺幾治郎著『明治天皇』上下(1958・明治天皇頌徳会)』▽『藤田省三著『天皇制国家の支配原理』(1966・未来社)』▽『『類纂新輯明治天皇御集』(1990・明治神宮)』▽『沼田哲編『明治天皇と政治家群像――近代国家形成の推進者たち』(2002・吉川弘文館)』▽『堀口修編『「明治天皇紀」談話記録集成』全9巻(2003・ゆまに書房)』▽『ドナルド・キーン著『明治天皇を語る』(新潮新書)』
第122代に数えられる天皇。1868年に即位し,明治国家の主権者として君臨した。孝明天皇を父とし権大納言中山忠能の女慶子を母として,京都の中山邸で生まれた。祐宮(さちのみや)と命名され,60年(万延1)儲君(ちよくん)となり,立親王の宣下とともに睦仁(むつひと)と改名した。66年(慶応2)12月25日,孝明天皇の急逝にともない,翌67年1月9日に践祚(せんそ)し,関白二条斉敬(なりゆき)が摂政となる。幕末の激動に対処して10月将軍徳川慶喜の大政奉還を勅許し,他方,薩摩,長州両藩主に対して討幕の密勅を下した。12月には王政復古の大号令によって旧来の政治制度を一新,翌68年1月からの戊辰戦争に征討軍を派遣して旧幕勢力を制圧した。その間に五ヵ条の誓文を発布して新政府の基本方針を宣言するとともに政体書によって新しい政治体制を採用,また〈明治〉と改元,一世一元の制を定めた。翌69年には東京に遷都,さらに版籍奉還の上表を勅許し,71年には廃藩置県を断行して中央集権体制の基礎を築いた。他方,大教宣布の詔を出して神道の国教化をはかり,同時に天皇の絶対化が試みられた。とくに藩閥政府内の矛盾が表面化した征韓論をめぐる政争では,内治優先の勅裁を下し,また,75年には木戸孝允,板垣退助の政府復帰の条件として漸次立憲制を採用するとの詔を発して政体改革の方向を明らかにした。
自由民権運動の高まりに対しては,1881年詔勅をもって国会開設の期日を約束して運動の鎮静化をはかり,同時に欽定憲法主義と天皇大権の確立を基本方針とする憲法制定の原則を定め,それに対応する制度的整備に着手した。一方,78年の参謀本部の創設,82年の軍人勅諭によって統帥権の独立を確保し,軍隊を天皇の軍隊として位置づけ,以後,対清戦争を想定した軍備の増強に努めた。議会開設を前に内閣制の創設,府県制・郡制・市制・町村制を制定するなど,地域末端までの官僚支配の体系を整え,他方,莫大な皇室財産を確保して皇室自律主義を貫いた。89年,大日本帝国憲法を発布,天皇主権を明示するとともに,広範な天皇大権を保障し,さらに翌90年には教育勅語を渙発して国民教化の理念を定めた。議会開設後は,政府と議会の対立が先鋭化するとしばしば詔勅によって政争を収拾し,日清戦争,日露戦争に際してはみずから大本営において戦争指導に当たった。韓国併合に臨んで韓国王室を優待して併合の実をあげようと努めたが,このころから糖尿病による身体の衰えが目だつようになり,1912年7月30日病没した。
明治初年には三条実美,岩倉具視らの指導で君徳の培養のため身心を鍛え,また,全国各地を巡幸して国民との接触をはかった。日常生活は質素を旨とし,自己を律すること厳しく,天皇の威厳を堅持することに努めた。明治維新以後,明治国家の指導者として君臨し,多くの国民は天皇への畏敬の念を抱き,天皇の病気が発表されると,容態の変化に一喜一憂し,平癒を祈願した。したがって明治天皇の死は多くの人々にある脱落感を覚えさせ,これを明治国家の終焉(しゆうえん)としてうけとめる者も少なくなかった。
執筆者:宇野 俊一
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1852.9.22~1912.7.29
在位1867.1.9~1912.7.30
近代国家形成期の天皇。日本最初の立憲君主。名は睦仁(むつひと)。幼称は祐宮(さちのみや)。孝明天皇の第2皇子。母は権大納言中山忠能(ただやす)の女慶子(よしこ)。京都の中山邸で生まれる。1860年(万延元)親王宣下。幕末の倒幕運動の高まりのなかで孝明天皇が急死し,67年(慶応3)1月践祚(せんそ)して皇位を継承。徳川慶喜(よしのぶ)の大政奉還後,同年12月,王政復古により新政府を樹立。68年9月,明治と改元。翌10月,京都から東京に移り江戸城(のち宮城)に入った。近代国家の建設が進むなかでヨーロッパ的君主としての教育をうけた。89年(明治22)欽定憲法として発布された大日本帝国憲法により,天皇は国の元首で統治権の総攬(そうらん)者と定められ,文武官の任免,陸海軍の統帥と編制,条約の締結,宣戦・講和など大きな権限を保持し,国務大臣の輔弼(ほひつ)と帝国議会の協賛によりこれを行使した。94~95年の日清戦争には広島の大本営に起居し国務・統帥にあたった。1912年7月29日死去(宮内省の公式発表は7月30日)。9月13日大葬。
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…天皇が写真化されると,写真という複製メディアの性格によって全国に配付可能になり,有効な権力の視覚的中心になる。明治天皇がはじめて写真に撮られたのは1872年(明治5),まだ和装であった。翌年,断髪した天皇は,今度は洋装での写真を撮られ,それがかなり長期間使用される。…
…また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。明治天皇を生祠とした例は,第2次大戦前まで全国的に分布していた。明治天皇宗ともいうべき信仰心意が存在していたのであるが,生祠成立の直接の契機は,大部分が天皇の行幸を記念とする所にある。…
…天長の語は《老子》の〈天は長く地は久し〉に由来し,すでに中国の皇帝もその誕辰の日を天長節と称していたが,日本では,775年(宝亀6)9月光仁天皇が,10月13日の誕辰の日を天長節と称し,その日百官に酺宴(ほえん)を賜い,天下諸寺の僧尼に経を読み仏道を行い,国家安泰,聖寿万歳の祈禱を行わしめ,あわせて殺生を禁断させると勅し,ついで同年10月13日初めて天長節が祝われたのが起源である。その4年後にも天長節を祝った記事が正史にあるが,以後永くすたれ,1868年(明治1)9月22日明治天皇の誕辰を天長節と称して復活した。この間,室町時代から江戸時代の記録に,天皇の誕生日に読経や内々の祝宴,祝品の贈答の行われたことがうかがえるが,宮中行事として内々天皇の誕辰が祝われていたにとどまり,国家的行事となったのは明治の復活以後である。…
※「明治天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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