モンゴル族の支配した元朝を打倒して,朱元璋が創建した漢民族による王朝。1368-1644年。
王朝の創建と政治
元朝の末期,政治の混乱に乗じてモンゴル人の支配に反抗する群雄が各地に割拠したが,なかでも明教,白蓮教を奉ずる紅巾軍が最大の勢力であった(紅巾の乱)。その中から身を起こし,金陵(後の南京)を根拠として,西の陳友諒,東の張士誠らの強敵を下し,1368年明朝を建てて帝位についたのが朱元璋で,年号によって洪武帝と呼ばれる。全国統一が一応完成するのは,71年の四川平定をまたねばならないが,華中から興って全国を統一したのは,明朝が史上最初である。
洪武帝と永楽帝
ところで朱元璋は,明朝建設以前から紅巾軍の色彩を払拭して,儒教的な政治理念を採用し,漢民族の伝統的な王朝支配を実現したのであった。制度面においても,当初は元朝のそれを受けつぐ点が多かったが,まもなくこれに改変を加え,宋代以来の中央集権的な体制を,一段と強化整備した。民政面では,移民などの方策により,戦乱によって荒廃した農業生産を復興するとともに,自作農を中心とする農村体制を志向した。また帝室の地位を安定永続させるため,丞相胡惟庸や将軍藍玉の謀反事件(胡藍の獄)を機に,有力な建国の功臣をほとんど誅殺し,他方自分の23人の皇子たちを国内各所に王として封じた。ことに北辺には対モンゴル防衛の意味もあって,有力諸王を配置した。98年帝が死んで皇太孫(建文帝)があとをつぐと,側近たちは諸王の勢力を削減して皇帝の地位を強化しようと考えたが,これを察知した叔父の燕王が,君側の奸を除いて国難を靖(やす)んずるという名目で挙兵した。これが靖難の変で,諸王が帝室の藩屛になると考えた洪武帝の意図は,まったく裏目に出た。4年にわたる内戦の後,南京を陥れた燕王は帝位につき,年号を永楽と改めた。このとき,方孝孺が即位の詔を起草せよとの命を拒否して,〈燕賊国を(うば)う〉とののしって殺されたというのは,有名な話。
永楽帝は即位の後,きわめて積極的な対外政策を進めた。靖難の変の内戦中に,北方ではモンゴルの勢力が回復したので,まず親征してこれを討ち,結局死ぬまで5回の遠征を試みた。東北にも意を用い,建州衛を設けて女真族を羈縻(きび)し,黒竜江下流に奴児干(ぬるがん)都司を設けた。南方ではベトナムの混乱に乗じて出兵し,安南布政司を設けて直接支配下に置いたほか,宦官(かんがん)鄭和に大船団を率いさせ,南海からインド洋,さらに東アフリカに達する大遠征を行わせた。鄭和の遠征は,洪武帝の海禁政策のわくの中で,海外諸国の朝貢貿易を促進するところに,最大の意味があり,それはある程度成功を収めたと考えられるが,後の時代への影響としては,中国人の海禁を犯した海外活動を勢いづけたように思われる。またベトナム支配は,民族的な抵抗を受けて,宣徳帝(在位1426-35)のときには安南布政司を廃止して撤退し,ベトナム人のレ(黎)朝を認めざるを得なくなった。なお室町幕府の足利義満が日本国に封ぜられて,明の朝貢国となったのも,永楽帝のときである。永楽帝が内政面でなしたことでは,後代への影響の大きいものが二つある。北京遷都がその一つで,遷都の目的は北辺防衛の強化にあったが,南京をも国都として存続したことに,内政上の配慮をみることができる。また北京遷都は,明朝が実現した政治の中心と経済の中心の一致を,再び引きはなし,流通経済の発展を大きく促進することになった。もう一つは宦官の重用で,鄭和らのような対外使節ばかりでなく,東厰という特務機関を設け,宦官にこれを担当させたので,以後宦官が勢力を伸張するいとぐちとなった。正統帝の時代には,早くも帝の信任を得て権勢をふるった王振が現れる。永楽帝の北征は,必ずしも十分な成果をあげず,このころにはオイラート部のエセンがモンゴル高原を制覇し,明に対して貿易の拡大を要求していた。
北虜南倭
これに対し,正統帝(在位1436-49)は王振の扇動を受けて親征に出発したが,土木堡で奇襲され,帝自身は捕虜となり,王振はじめ多数の高官が殺された。いわゆる〈土木の変〉である。このため北京は一時混乱に陥ったが,于謙らは正統帝の弟を即位させて北京の防備を固め,エセンの侵入を撃退した。その後和議が成立し,北京に帰還した正統帝は,しばらくは太上皇の地位にあったが,やがて復位して天順帝(在位1457-64)となる。モンゴル高原では,内部対立があってエセンが殺され,オイラート部に代わってタタール部が勢力を伸張し,天順以降しばしば明の北辺に侵入した。これに対して明は万里の長城を修築し,九辺鎮と呼ばれる守備隊を整備するなど,もっぱら防衛を事とした。今日残っている長城は,ほとんどこの時代に修築されたものといわれる。その後,タタール部のアルタン・ハーンは,1532年(嘉靖11)ころからほとんど毎年のように明に侵入した。50年には北京に迫り,明ではこれを庚戌(こうじゆつ)の変とよんでいる。その後も侵入はやまず,1570年(隆慶4)に至ってようやく和議が成立した。嘉靖帝はこの間,道教にこって国事を顧みず,首席大学士の厳嵩(げんすう)に政務をまかせきりにすること20年にわたった。厳嵩は帝の信任を背景として権勢をふるったが,その力はもっぱら蓄財に注がれ,政治上は目前を糊塗するに終始し,最後は弾劾を受けて罷免された(1562)。
北でモンゴル人の侵入がくり返されている間に,東南沿海地方では後期倭寇の騒乱が起こった。両者は北虜南倭と併称されるが,経済的要求に対して明朝の対応が適切でなかったと考えられる点では,両者共通の契機があった。倭寇の場合は,明代中期以降拡大しつつあった密貿易が,すでに内地の手工業者や商人,あるいはこれらに出資する有力者を含めて,流通経済の一環をなすにいたっていた実態を顧慮することなく,急激に密貿易を取り締まったことが発端になったと考えられる。倭寇とはいうものの,中国史料自体の中で,真倭は3割にすぎないと述べられているのも,こうした事情からみれば不思議ではない。もっとも,この時期,中国沿海に進出したポルトガル人が,武力によって意思を通そうとする粗暴な態度を示したことも,取締り強化の重要な契機になったと思われる。
宦官と東林党
しかし軍備の充実と海禁政策の緩和により,隆慶年間(1567-72)には倭寇も鎮静に向かい,アルタン・ハーンとの和議によって北辺も平穏になったが,あとには財政の窮迫が残された。財政については,国初以来の古い原則と現実との間の矛盾が大きいうえ,官僚機構の腐敗と有力者の不当行為が結びついて,徴税の不当不正と非能率は目に余り,すでに正徳年間(1506-21)から地方的に改革が試みられていた。徴税の基礎となる丈量(土地測量)を全国的に実施し,一時的にもせよ財政を再建したのが,万暦(1573-1619)初期の張居正である。彼は幼い万暦帝の師傅(しふ)として母后の信頼を背景に,官僚の綱紀粛正に努力し,土地の丈量・再登記によって,嘉靖以来徐々に実施されていた税制改革を,いっそう効果あらしめたと考えられる。しかし彼の施政はかなり強権的であったうえ,丈量は土地所有者の利益をそこなう性質のものであるから,多くの反対を招くことになり,丈量は一応完結したものの,張居正は1582年(万暦10)に死ぬと,官位財産を追奪された。
張居正の死後,万暦帝は政務を怠り恣意的な行動が多くなった。16世紀の末には,豊臣秀吉の朝鮮侵入をはじめ,国内では哱拝(ボハイ)や楊応竜の反乱,併せて万暦の三大征とよばれる軍事行動が必要となったが,そのためにいったん再建された財政は,たちまち窮乏し,宮殿の火災もあって宮廷費用の不足を感じた万暦帝は,政府機関を通さず,勝手に宦官を派遣して商税の徴収や鉱山の開発に当たらせた。このこと自体が政府の体制を崩すものであったうえ,地方に出た宦官は地方官を無視して無法な取立てをし,略奪集団と変わらなかったから,民衆の抵抗を呼び起こして各地に暴動が発生し,多くの官僚からも反対が表明された。これが礦税の禍と称されるもので,民衆の疲弊と社会の混乱を増幅した。この間,官僚層の中に正義派と目される東林派が形成され,万暦末から天啓初にかけて,立太子問題にからむ挺撃案をはじめ,紅丸案,移宮案のいわゆる三案と呼ばれる三つの事件をめぐって党争が展開された(東林党)。
おりから遼東では建州衛を中心とする女真族が後金国を建て,明の東北辺を脅かした。しかし天啓帝(在位1621-27)の信任を得た宦官魏忠賢が権力を振るい,東林派を弾圧して官界の混乱腐敗を深めるばかりであった。明朝最後の崇禎帝(在位1628-44)は,即位すると魏忠賢の一党を処分し,東林派を復活させ,政治を建てなおそうとしたが,退勢をひきもどすことはできなかった。崇禎の初めから飢饉の続いた華北では,各地に農民反乱が起こり,やがて李自成,張献忠を指導者とする二大集団にまとまって,華北・華中の各地に転戦した。内外の敵に気ばかりあせった崇禎帝は,大臣の首を次から次へとすげかえ,一貫した方針を打ち出すこともできぬまま,1644年,李自成軍に北京を攻略され,みずからくびれて死んだ。ここに明朝は滅亡したが,このあと南方各地では,諸王が次々と帝を称し,李自成軍を破って中国に入った清軍に抵抗し,61年(永暦15)に及んだ。これを南明という。
皇帝独裁の統治機構
明朝成立当初の政治制度は,元制に倣った点が多いが,1376年(洪武9)に行中書省を廃して承宣布政使司(布政司,藩司)を設けたのをはじめ,中央では80年に丞相胡惟庸の謀反事件を機に中書省を,したがってその長官たる丞相を廃し,六部その他の政府機関を皇帝の直轄下に置くなど,一連の制度改革を行った。その方向は,官僚の権限分割による相互規制と地方分権化の防止を基礎にして,皇帝独裁の制度的確立をめざしたものであり,宋代に現れた中央集権的な方向をいっそう徹底したものである。
中央
明代行政機構の要点は図に示すとおりであるが,簡単に説明を加えておく。中央では六部その他の各官庁が皇帝直轄になった結果,各官庁の重要事項にはすべて皇帝みずから決裁を下さねばならなくなり,政務の量が激増した。洪武年間(1368-98)のある数字によれば,平均1日200以上の文書に目を通さねばならなかった。内容の事項でいえば400件以上を処理したという。これでは文書の処理だけで莫大な時間と精力を要し,その全部にわたって十分理解して判断するのは非常に困難である。自然,皇帝の労を省くために別のくふうが必要となり,結果として内閣制度が定着した。洪武年間から皇帝の顧問として置かれた数名の殿閣大学士が,永楽年間(1403-24)からは機務に参与するようになって,内閣と称されたが,さらにその後は,皇帝のもとに提出される上奏文を,あらかじめ下読みして,これに対する皇帝の決裁の文案を用意するようになった。これを票擬という。
一方,大学士の位は正五品であまり高くなかったが,永楽から宣徳・正統にかけて,楊士奇をはじめ長期在任の大学士が続出し,しかも六部の侍郎(次官)や尚書(長官)を兼ねる者が多くなったため,自然大学士の格が非常に高くなった。その後,票擬がもっぱら首席大学士の手によって行われるようになると,実質的に昔の宰相とほとんど変わらぬ存在となってしまい,内閣は政務の中枢機関となる。行政は主として吏・戸・礼・兵・刑・工の六部に分担されるが,ほかにも大理,光禄などの五寺があり,さらに上奏文などを扱う通政使司,官吏養成機関としての国子監などが置かれた。また明初にいったんは廃止された御史台に代わって,都察院が設置され,監察の職を担当した。なお注意すべきことは,永楽帝の北京遷都に際して,南京の政府機関は,ほぼそのまま存置され,両京ともに中央政府が存在する形になったことである。もちろん実質上の中央政府は北京で,南京のそれはほとんど形式的なものとなり,南京は副都とか陪都とか呼ばれるようになった。このような形をとったのは,王朝創建当初の事情と,江南支配の重要性に配慮した結果であろう。
地方
地方制度では,布政司(布政使)の管轄区域が最大の行政単位で,行省の名を残して省と通称される。布政司が一般民政を担当するほか,省には司法・監察を担当する提刑按察使司,略して按察司と,軍隊を管轄する都指揮使司,略して都司が置かれ,併せて三司と呼ばれ,重要事項は3者の合議によって決定された。行省時代のような単一の長官は存在しなくなったのである。しかしこのような体制は実際上問題が多く,宣徳ごろからしだいに各地に巡撫が派遣され,やがて各省常置の,事実上の省長官としての機能をもつようになった。省の下の単位としては,府,州,県の3者があるが,州は府と同格のものと県と同格のものとがあり,実際上は2級制である。また布政司・按察司の補佐官が,省内を数個の地域に分けて分担する道という監督区分もあった。布政司関係は分守道,按察司関係は分巡道といい,他の特定の職務を分担する者を含めて道員と称する。分守道と分巡道の分担区域は,別々に設定されて一致しない場合が多い。また各省には中央から監察御史が派遣されて,巡按と称せられたが,中期以降は巡按の機能が単なる監察にとどまらず,行政に重要な役割を果たす場合がしばしば見られる。なお首都の周辺地域には三司が置かれず,府や州が中央政府に直属する形をとっており,直隷府州と呼ばれた。ただし道員は,隣近の各省に所属する形で設置されていた。北京遷都以後は,北京周辺は北直隷,南京周辺は南直隷と呼ばれたが,その地域は前者が後の河北省に,後者が江蘇・安徽2省の地に,ほぼ該当する。巡撫・巡按の派遣されたことは,直隷地方も各省と同じである。
官僚の選抜
官僚の選任については,中央に国子監があって官僚養成機関とされたが,これが実質的機能を果たしたのは初期だけであって,やはり科挙に合格した進士が,高級官僚としては圧倒的な地位を占めた。科挙について前代と変わった点は,郷試の受験資格として府州県に置かれた儒学の生員たることが求められ,したがって事実上儒学の入学試験が科挙の第1段階となったことと,地方試験たる郷試の合格者に与えられる挙人が固定した資格となり,進士に合格するのを待たず,挙人の資格で官界に入る者が出てきたことである。官庁事務を実際に扱うのは,多数の胥吏(しより)であって,彼らは中央から任命される官僚とは,截然たる身分上の差があるが,下級の官僚にはその中から選抜された者が多かった。
里甲制と税制
民政関係について述べるならば,まず人民は戸籍上,軍,民,匠,竈(そう)の4種に分けられているが,これは負担する徭役(ようえき)の違いによる分類である。すなわち,軍戸は兵役,民戸は一般行改の運営上必要な労働,匠戸は技術労働,竈戸は製塩労働を負担する者であった。数の上からいえば,民戸が圧倒的多数を占めていたので,以下は民戸を中心として解説する。さて最下級の地方官庁として直接人民を支配するのは,州・県であり,長官たる知州・知県(知事)は,行政官であると同時に裁判官でもあり,人民に対して広範な権限をもっていた。人民掌握の手段としては里甲制が施行された。戸数110戸を基準として里を組織する。そのうち経済的に有力な10戸を里長戸として,1年交替で里長の役に当たらせる。残る100戸を10甲に分け,甲ごとに1年交替で甲首の役に当たらせる。以上の110戸は正管戸と呼ばれ,租税,徭役の両方を負担する戸である。里にはそのほかにも,帯管戸あるいは畸零戸と呼ばれるものが付属し,実際の戸数は110戸よりも多いのが普通である。戸籍の作製も里を単位として行われ,黄冊(賦役黄冊)と呼ばれるが,10年ごとに作製し直すことになっている。その際,各戸の消長に応じて,里長戸の編制替えや,正管戸の入替えなども行われる。里甲制の最も重要なねらいは,租税徴収や徭役の割当てを円滑に行うことであったが,教化や治安維持についても期待され,里長とは別に里老人が置かれた。しかしこの面は中期に至って有名無実となった。
租税制度は,当初唐代以来の両税法をうけつぎ,田賦を夏税秋糧,略して税糧と称した。米麦を中心とする現物徴収が原則であったが,中期以降はしだいに銀納化が進行した。田賦以外では,課程と総称される消費税的なものが何種類もあったが,その中では塩課が最も大きかった。また行政運営に必要な労働を民戸に課する徭役は,田賦とならぶ人民の二大負担であったが,これも中期以降しだいに銀納が拡大した。田賦,徭役の銀納化は,税制の簡素化,徴税の能率化と結びついて,嘉靖(1522-66)以後,一条鞭法として普及することになり,両税法以来の大きな税制改革となった。
軍事
軍事関係では,明初全軍が大都督府のもとに統率されていたが,1380年(洪武13)中書省廃止の際,大都督府も分割されて前後左右中の五軍都督府となった。その結果,皇帝以外に全軍を統率する機関はなくなった。軍隊の基本的な単位は衛で,5千戸所から成り,基準定員は5600人である。首都に駐屯するものを京衛といい,そのうち26衛は皇帝に直属する親軍で,上直衛と称せられる。この中には,特高警察的な業務を行い刑獄をも備えた錦衣衛が含まれる。また五軍都督府に属するものが33衛あった。北京には別に京営と称する部隊があり,1424年(永楽22)設置されたが,のちしばしば改編が行われた。地方に駐屯する衛は省ごとに都指揮使司に管轄され,五軍都督府に分属する。また地方の事情により,衛に属さない独立の千戸所が置かれることがある。なお辺境の異民族を羈縻する場合,衛という名称をつけ,酋長を指揮使に任命する方法がとられた。女真族の建州衛などはその代表的な例である。また北辺においてはつねに臨戦体制がとられ,要地に鎮守総兵官が配置された。中期にはその数が増して九辺鎮(遼東,薊州,宣府,大同,偏頭,楡林,寧夏,甘粛,固原)と総称された。しかし明末になると,内地の各所にも総兵官が配置されるようになる。
ところで初期の経済政策の一環として,軍隊にも自給自足が求められ,その手段として衛所には屯田が設定された。これを兵士に配分して耕作させ,その収入をもって軍隊の経費にあてたのである。しかし中期以降は屯田制が崩壊に向かい,軍隊の自給率は大幅に低下したと考えられる。また兵員は軍戸から供給されるしくみであったが,これも中期以降しだいに困難になり,一般からの募兵に頼ることが多くなった。これらの矛盾は特に北辺駐屯軍において顕著に現れ,軍隊の内部崩壊と財政負担の増大を招くことになった。
社会と経済
郷紳の登場
中国の社会は近代に至るまで,基本的に農業社会であったが,宋代以降においては,流通経済の発展がかなり著しい。そのことは元代にも変りなかったにもかかわらず,明朝ははじめ非常に復古的な経済政策をとった。租税も官僚の給与も,米などの現物を基本とし,前述のように軍隊も自給自足をたてまえとした。しかし現実には,明朝創建以後,一応平和状態が継続すると,元末の戦乱期に衰退した流通経済は活気をとり戻し,ことに北京遷都は,流通経済促進の大きなてことなった。明代の社会において力をもったのは,官僚層とその母胎としての地主層である。明朝ははじめ徙民(しみん)(移民)などによって自営農を育成し,農業生産を充実させる政策をとり,地主に対しては抑圧的な政策をとったこともあるが,支配機構を構成する官僚の大多数が地主層の出身であるから,結局は地主を容認し,さらには優遇せざるをえなかった。また流通経済の発展につれて,これに商人層が加わるが,商人も官僚地主層と別なものではなく,地主一族の中に官僚もいれば商人もいるというように,互いにかさなり合う部分が大きく,3者相寄って一つの階層を形成した。特に官僚は一定限度の徭役を免除される特権をもっており,このことは土地所有上非常に有利であり,また官界のつながりによって,郷里の社会に大きな発言力をもったので,郷紳としてその役割が注目されている。注意すべきことには,家産の男子による均分相続と,流通経済の発展によって土地所有の流動が意外に激しいこと,官僚身分がおおむね個人的なものだったことなどから,個々の大土地所有者が何世代にもわたってその経済力を保持するのが比較的困難であり,このことはさらに階層間の流動性とも結びついていた。
農業経営と商工業
他方人民の大多数を占める農民には,自作農と佃農(小作農)とがあり,初期においては,自作農育成策の影響もあって,前者の比率が比較的高く,中期以降には土地所有の集中が進行して,佃農の比率が増したと考えられる。それにはもちろん地域的な偏差があって,華北では他に比べて自作農の比率が高く,江南デルタ地帯では特に佃農の比率が高かった。また中期以降には,江南をはじめとして農業における雇用労働者の存在も注目される。
→小作制度 →地主
農業経営については,大規模経営もなくはなかったが,通常は小経営であって,大土地所有者の場合も,佃農に貸しつけて小経営をやらせるのが普通であった。また明初は農家に耕地の一部に木綿または桑を植えることを義務づけ,自給自足を奨励したが,流通経済が発展するにつれ,農家もしだいにその中に組み込まれた。地域によってはもっぱら商品的作物を栽培し,食糧は他から購入するといった現象も見られ,明末には肥料を他から購入することも行われた。最も重要な生産物が米であり,ついで麦であることに変りはないが,商品化という点では,昔からの茶に加えて,明代全国に栽培の普及した木綿が最も注目される。そのほか後期には海外からカンショ,ラッカセイ,トウモロコシ,タバコなどが伝えられた。
手工業も全面的に発展したが,特に著しいものをいくつか挙げるなら,第1には綿布である。明代における綿布生産の中心は松江府(現,上海市)で,元末に南方から伝えられた技術によって始まり,明代に入って飛躍的に生産が増大した。そのため地元産だけでは原料綿花が足りず,華北・華中の広い範囲から集荷され,製品は全国的な販路をもっていた。綿布の生産者は都市の専業機戸と副業農家の2種類があり,前者はどちらかといえば高級品を中心とし,後者は普通品を生産したが,多数の零細農家がこれによって重税あるいは重い小作料負担に堪えて生活を維持した(綿織物)。同じ事情で江南デルタ地帯(揚子江デルタ地帯)では,綿布以外にも副業生産が行われたが,特に蘇州府下では絹織物生産が目だっている。絹織物の高級品は,政府工場の置かれた南京,蘇州,杭州などの大都市で生産されたが,農家の副業としては最も工程の簡単な紬が生産された。蘇州近辺には,紬の生産と取引を中心に発展した小都市がいくつも出現した。また絹織物の原料となる生糸の生産は,太湖南岸の湖州府(現,呉興県を中心とする地方)に最も盛んで,湖糸の名が広く知られるようになった。
こうした商工業の発展による非農業人口の増大と,原料作物の作付増加による主穀生産の相対的減少は,江南デルタ地帯における食糧事情に変化をもたらした。唐・宋以来,〈東南熟すれば天下足る〉などといわれて,この地方は天下の穀倉とみなされていたが,明の中ごろからはその地位を湖広(湖南・湖北)に譲り,〈湖広熟すれば天下足る〉といわれるようになった。ところで,綿布や絹織物生産の中で,都市の機戸については,その規模(織機の台数)や雇用労働者の数などから,マニュファクチュアとみなし得るものが出現していたという見解はかなり多い。そして同様な形態は,繊維関係だけでなく,中国の輸出品の中で絹とならんで代表的な地位を占める陶磁器の製造についても認められる。特に江西の景徳鎮は,宋代以来著名な産地で,明代にも官窯すなわち政府工場が置かれていたが,その技術や生産方式が民窯にも拡大し,分業方式による大規模な生産が行われた。また広東の仏山鎮(現,仏山市)における鉄器の生産も,同様な規模と方式をそなえ,その製品は全国的な販路を持っていた。政府の管理下に徭役労働によって生産されていた塩でさえ,明末には民間資本によって支配され,マニュファクチュア的形態がみられるという。そのほか炭鉱や銅山,あるいは製紙,製材その他多くの業種について同様なことが言及され,資本主義の萌芽形態が論じられている。しかしまた,当時の中国社会の全体的構造が,その発展を阻止する性格をもっていたから,資本主義へと発展する可能性はなかったという見解もある。それがいずれであるにせよ,明代後期の社会が,資本主義以前の社会としては,きわめて発展した段階に達していたとみることには,ほとんど異論がないであろう。当時中国に来たイエズス会士たちも,文明社会中国を,驚きの目で見ていたのである。
大商人の活躍と銀の流通
商業の発展については,北辺防衛策が密接に関係している。明朝は北辺に配備した軍隊の糧食を補給するため,開中法を実施したが,これは商人に辺倉への糧米納入を行わせ,その代りに専売品たる塩の販売を許可する制度であった。塩の販売は大きな利益があるので,商人は競ってこれに参加したが,北辺に接する山西・陝西の商人が,地の利を得て大きく力を伸ばすことになったのである(塩法)。かくて明代前半期には,山・陝商人が商業界で最大の勢力を占めた(山西商人)。ところが中期になると,流通経済のいっそうの発展にともない,開中法に変更が加えられ,辺境に糧米を納める代りに,直接産塩地(おもに両淮(りようわい)地方)の主務官庁に銀を納入して,販売許可を得る方法が主流となった。そうなると従来の山・陝商人の優位が崩れ,これに対抗する形で徽州(新安)商人が進出し,明代後半の経済界を二分する大きな勢力をもつにいたった(新安商人)。これらの大商人たちは,塩の販売を通じて力を得た者が多いが,その取り扱う商品は塩だけにとどまらず,米,綿,絹,茶,木材など多岐にわたり,その活動地域は全国にまたがっている。またこの時代唯一の金融業というべき当鋪を兼営する者が多く,高利貸的活動を行った(票号)。このような大商人に対し,地方の小都市には,周辺農村を含めた狭い範囲で活動する土着商人がおり,またこれら土商や生産者と大商人を仲介する牙行(がこう)も存在した。中国では商法的なものが未発達であったから,商人たちことに大商人は,利益や権利を護るために官僚の保護を必要とすることが多く,その意味で政商的な性格が強かった。
流通経済の発展には,これにともなう通貨量の増加が必要であるが,明代にはそれは主として銀流通の拡大として現れた。明朝の正式通貨は最初銅銭だけであり,1375年(洪武8)には宝鈔と呼ばれる紙幣も発行したが,どういうものか初めから兌換準備なしに発行され,しかも回収のルートを作らないたれ流しであった。一方において宋代以来銀の使用があり,宝鈔の発行に際してはその使用を禁止したが,一片の法令で経済の原則を曲げることはできず,宝鈔の流通価格はたちまち下落し,永楽年間にはいくつかの対策がとられたが,結局鈔価下落の趨勢を止めることはできず,中期には宝鈔は有名無実の存在となった。これに対して銀はしだいに流通を拡大し,政府も1430年(宣徳5)ごろから,なしくずしに銀の流通を認めざるをえなくなり,租税の一部の銀納化から始まって,軍人,官僚の給与にも銀を使用するようになった。この間,政府・民間が乏しい国内の銀鉱開発を争った時期もあるが,むしろ貿易を通じて国外から流入するほうが多かったと考えられる。特に後期には,来航したポルトガル人やマニラにおけるスペイン人との貿易,さらには日本との貿易を通じて,莫大な銀が流入した。一条鞭法などの税制改革において,もっぱら銀が納税手段とされたのも,こうして銀の流通が普遍化した事実を背景としている。なお明朝は銀を貨幣として鋳造したことはなく,したがって銀塊,銀粒の形で流通しており,取引に際しては色などで品質を見きわめながら,いちいち秤(はかり)にかけたので,商人はつねに懐中秤を携帯していた。
→貨幣
花開く大衆文化
明代は中国史の上では文化的にはあまり目だった時代ではない。歴史的にみて,文化的作品の制作は,知識人を中心とする少数者の手に握られ,その享受も支配階層と知識人に限られる面が大きかったが,宋代からは少なくとも享受者の中に,庶民の加わる面がかなり出てきたことが知られている。明代においても,制作の面ではなお多くを知識層に依存していたが,享受の面ではさらに広がりを示したところに,全体としてこの時代の文化の特色が認められる。そのことは,経済的な発展によって,庶民の中になにがしか生活に余裕をもつ層が増してきたこと,他方科挙体制によって知識層の幅が広がるとともに,庶民との境界線が薄れてきたこととも関係するであろう。以下では,領域別の説明を省き,知識層を中心とする文化事象と,庶民とのかかわりにおいて考えられる事象という観点から,ごく簡略に述べる。
陽明学とその左派
知識人中心の文化事象としては,儒学を軸とする思想学術や,古典語を駆使した詩文などの文学が代表的であるが,これらに共通するのは,明代において画期的な新しいものは現れず,それまでに出現したもののうち,何が主流となり何が規範となるか,その交替の形で事態が動いていることである。儒学でいえば,明初以来,朱子学が官学とされ,永楽年間には《五経大全》などが勅撰されて,科挙試験の基準となった。これに対して中期になって現れた陽明学は,陸王学とも呼ばれるように,宋代の陸九淵(象山)の学を受けついだもので,王守仁(陽明)が基本から新しく始めたわけではない。またこれが朱子学の官学たる地位にとって代わったわけでもない。しかし陽明学の考え方が発展すると,その中から人間性をあるがままに認め,また古典の研究を学問に必須のものとは考えないような方向も出てきて,無学な庶民にも受け入れられるようになった。王艮(おうこん)(心斎)などは自分自身,製塩人夫の出身であったが,その門下にはさまざまな職業の庶民が多かったという。この系統からはさらに進んで,拘束的な倫理道徳は,かえって道の実現をさまたげるものだとする李贄(りし)(卓吾)が現れた。彼はその立場から,歴史における従来の価値評価を覆す《蔵書》などの書物を著したから,儒教に反する者としてきびしく非難され,著書が禁止されただけでなく,最後は捕らえられて獄中で自殺した。しかし彼の考え方は陽明学の一つの帰結であり,その中には近代思惟に通ずるものも含まれていた。
口語文学の盛行
文学においても,知識人の古典的な教養としては,文章は唐宋八大家を宗としていたが,明代半ばをすぎて出現した古文辞派が,唐・宋を越えて直接秦・漢の古典に学ぶべきだと主張したことが注目される程度である。それよりも,戯曲や小説などの口語文学が盛んだったことに,この時代の特色をみなければならない。戯曲では,元の雑劇の後を受けて,形式のより自由な長大な作品が現れた。明初の代表作は《琵琶記》であり,明末には湯顕祖が現れて,《牡丹亭還魂》をはじめ数々の傑作をものにした(戯文)。ただ戯曲には文語的表現も多く,完全な口語作品とはいえない面があるが,その点小説のほうがいっそう口語に徹底していた。短編では,馮夢竜(ふうぼうりゆう)の《喩世名言》など,三言二拍と総称される短編集が有名であり,長編では四大奇書が代表作である。四大奇書のうち,《三国演義》《西遊記》《水滸伝》の3者は,宋代以来語り物などで知られていた多くの伝承説話が,明代に長編としてまとめられたものであるのに対し,《金瓶梅》は明末社会の実状を描いたものである(作中の時代設定は宋代)。これら口語文学の作者は,依然として知識層に占められていたが,読者の大きな部分が庶民によって占められ,その嗜好が反映していることは,版本に多くの挿絵が刷り込まれていることにも現れている(白話小説)。そして専門的な作者によって描かれる画院風の絵や,知識層の文人画などの流れとは別に,このような挿絵が多く現れたことは,絵画史としても注意すべき新現象というべきであろう(木刻)。
儒・仏・道の三教一致
宗教関係については,仏教がやや復興したとされるが,明朝からある程度の保護を受けたとはいえ,逆に統制も受け,大蔵経の出版はたびたび行われたが,教理・教団などに格別の発展があったとはいえない。禅と浄土教が比較的盛んだったが,ことに前者は陽明学と親近である。それだけでなく,知識層には仏教が浸透して,いわゆる居士仏教が盛んとなり,表看板では儒教を奉ずる官僚層でも,家庭生活の中では仏教あるいは道教と密着するのが,むしろ一般的だったとみられる。道教においても,仏教の大蔵経に相当する《道蔵》が刊行され,また嘉靖帝が道教に熱心で道士を取り立てたりしたが,それよりも陰隲(いんじつ)文(陰隲録)とか功過格といった形で,知識層,庶民を通じて,日常生活の中に入り込んだ面が注目される。明代後期において,儒・仏・道の三教一致論が現れてきたのも,こうした両教の現実の姿を背景としているのである(善書)。
宣教師による西洋科学の伝来
最後に忘れてならないのは,明末におけるヨーロッパの科学・技術の伝来である。ポルトガル人が初めて中国の沿岸に現れたのは,1518年(正徳13)のことであるが,イエズス会士の来華は,それから60年以上を経た82年(万暦10)にマテオ・リッチ(中国名は利瑪竇)がマカオに来着して以後のことである。彼らはキリスト教伝道の方便として,ヨーロッパの学問や技術を中国に伝え,それを媒介として知識層や宮廷の心をつなぎとめ,ある程度の入信者も獲得した。彼らの伝えたものは多いが,リッチの《坤輿万国全図》が,中国人に初めて世界の正確な形を知らしめたほか,暦法,数学その他種々の面で影響を与えた(暦)。技術面では大砲の鋳造法を伝えて,これが東北方面の後金軍に対する防衛戦で使用されたことは有名である。徐光啓の《農政全書》や《崇禎暦書》などには,新伝来の知識ももり込まれているが,同時にこれらは,中国古来の知識を集大成したものであり,その意味では《本草綱目》も同じ性格であり,また当時の産業技術の集成として《天工開物》は特に注目される。このような科学技術関係の書物が多く現れたのも,この時代における産業の発展を背景としており,ヨーロッパからの知識の伝来は,たまたまそれらと時を同じくしたのである。
執筆者:岩見 宏
日本との関係
先述にあるように,明はモンゴル民族の征服王朝であった元を倒して,漢民族の支配を回復した国家であり,太祖洪武帝は儒教主義にもとづく中華帝国の再建を建国の原理とした。したがって,〈華夷の弁〉を明らかにし,四夷の君主を〈中華の主〉である明の皇帝のもとに朝貢させるという国際秩序の確立は,国初の重要政策の一つとなった。
倭寇と勘合貿易
洪武帝は1368年に即位すると,同年安南,占城,高麗とともに日本にも使者を派して建国を告げさせ,翌年には日本に使いを派して倭寇のことをきびしく責めた。14世紀の中ごろに朝鮮半島南岸に起こった倭寇は,やがて朝鮮半島の全土を侵し,さらに中国大陸の山東から浙江方面へと侵寇を進めていた。沿海の人民を略取する倭寇は,統治の責任者にとっては放置することの許されない問題であった。洪武帝は日本での交渉の相手を征西将軍懐良(かねよし)親王と考えていたために折衝は難航し,日本国王を冊封しようとする意図は実現しなかった。洪武帝の死後,建文帝が立つが,1401年(応永8)足利義満は明に使船を送り,これが日明外交開始の契機となった。やがて義満は,建文帝から帝位を奪った永楽帝によって〈日本国王〉に封ぜられ,日本は明中心の国際秩序のなかに位置づけられることになった。これにより,永楽帝は義満に倭寇を取り締まらせることにも成功した。以後,遣明船は明より送られてきた勘合を所持して渡航し,多彩な中国の文物をもたらした(勘合貿易)。五山の僧は,遣明船の使節や国書の起草者として活躍したが,中国禅林に存した士大夫層の文化を日本に移植することにも大きな役割を果たした。書籍をはじめ,印刷術,口語文学,医術,絵画,建築,陶磁器,能楽,三味線,礼式,食物(砂糖,饅頭,豆腐,料理法など),現在の日本人の生活と深い関係をもつ諸文化が取り入れられた。また,輸入中国銭(銭(ぜに))の流通は,進展する商品流通と大きな関係があった。
遣明船派遣の権利は,幕府から離れ,細川,大内2氏の間で争われていたが,1523年(大永3・明の嘉靖2)の寧波(ニンポー)の乱ののちは大内氏がこれを独占することになった。しかし,47年(天文16)の勘合船派遣後,大内氏が滅亡し,遣明船の派遣は途絶した。それに,このころには,中国東南沿岸の地を中心に国際的な密貿易が行われるようになり,中国人が日本に密航したり,日本船が中国沿岸に密航することが増え,遣明勘合船は中国物資獲得のための唯一の手段ではなくなっていた。16世紀の初頭,明人密貿易者の首領の王直が日本に来て,五島列島に根拠をおき,みずからは平戸に住み,松浦氏の保護下に王者のような生活をしていたという。この時期の倭寇の構成員は,大部分が中国人であって,日本人の参加は3割くらいであったとされている。明からは,蔣洲,陳可願あるいは鄭舜功などの人物が日本に渡航し,倭寇と直接に会って投降をすすめたり,要路の諸大名に倭寇の禁止を要求したりした。このような中国知識人の日本渡航は旧来の中国人の日本観を大きく変えた。
文禄・慶長の役と日本乞師
倭寇が鎮静におもむいた時期は,日本における国内統一進行の時期とほぼ一致している。豊臣秀吉は,その国内統一戦争遂行の途中の1585年(天正13)に早くも〈征明〉の意志を表明している。そして,92年(文禄1)には入明を名目とする大軍を朝鮮に送りこんだ(文禄の役)。数ヵ月の戦闘で朝鮮の要地は日本軍に占領された。明では,朝鮮側の要請にこたえて救援の部隊を派遣し,平壌を奪回して漢城(ソウル)にせまり,翌年竜山の和議が成立した。折衝のすえ,明では秀吉を日本国王に封ずることによって戦争を終結させようとし,96年(慶長1)に使節を日本に送ってきた。秀吉は交渉の内容と条件の不備を知って怒り,和議は決裂し,翌年再び朝鮮の南部を占領した(慶長の役)。98年,秀吉の死後,日本軍は撤収したが,明軍は日本軍の再襲に備えて1600年まで朝鮮に駐留した。
江戸幕府は明との通交貿易の再開を希望したが,達成できなかった。しかし,1610年(慶長15)ころから日本渡航の明船が急増し,明側でもこれを制止できなくなった。日本からも多数の朱印船が南下し,明船が通商していた南方の地に至って明船と出合(であい)貿易を行い,生糸などの中国商品を入手した。17世紀の中ごろになると,商人ばかりではなく庶民の中国人で日本に来航するものが多くなり,長崎をはじめ九州の各地に定住して唐人町を形成した。明・清王朝の交替期には,朱舜水をはじめ多くの学者や僧が大陸での乱をのがれて日本に渡航した。とくに,黄檗(おうばく)宗の開祖隠元隆琦(いんげんりゆうき)の渡来は日本の宗教界に大きな刺激をあたえた。陳元贇(ちんげんぴん)のように陶芸や武術に長じたもののほか,絵画や医術などに影響をおよぼした人物も少なくなかった。さらに,明朝の回復をはかろうとする周鶴芝,馮京第,鄭芝竜,鄭成功,鄭経らは,島津氏や幕府に対して救援の軍隊を派遣するように要請してきた。これらの日本乞師(きつし)は,いずれも日本側の多少の応援があっただけで失敗に終わった。
→日明貿易 →文禄・慶長の役
執筆者:田中 健夫