(読み)あかるい

精選版 日本国語大辞典 「明」の意味・読み・例文・類語

あかる・い【明】

〘形口〙 あかる・し 〘形ク〙
① 光が強い。また、光線が十分にさして、物がよく見える状態である。⇔暗い
※俳諧・曠野(1689)員外「木ばさみにあかるうなりし松の枝〈長虹〉」
② 澄んで、はなやかな色をしている。明度彩度が高い。⇔暗い
※流行(1911)〈森鴎外〉「明(アカ)るい色の背広を着てゐる」
③ ものごとが、はればれとしているさま。多く「明るい…」の形で連体修飾語となる。⇔暗い
(イ) (性格、表情、雰囲気、表現内容などが)朗らかで楽しそうである。陽気である。
※行人(1912‐13)〈夏目漱石〉兄「明(アカ)るい家の中に陰気な空気を漲(みな)ぎらした」
(ロ) (集団、組織などが)争い、不正などがなく、明朗公明である。「明るい政治」「明るい選挙」
※おぼろ夜(1899)〈斎藤緑雨〉「勤務の上にも大分(だいぶ)(アカ)るからぬ仕末の出来て居たさうなに」
(ハ) 将来のことについて、希望が持てるさまである。
※ガトフ・フセグダア(1928)〈岩藤雪夫〉二「自分一個人のみならず労働者の明るい未来が見え出して来た」
④ 疑わしい点がない。身のあかしがたった。また、やましいところやさしさわりになるものがない。
和英語林集成初版)(1867)「ミノウエ akaruku(アカルク) スル」
⑤ (多く「…に明るい」の形で) その方面に通じていて、よく知っている。精通している。⇔暗い
洒落本・南客先生文集(1779‐80)「しらきちょうめんの、取(とっ)てあるの明(アカル)いお客様だ」
※門(1910)〈夏目漱石〉四「此男は書画骨董の道に明(アカ)るいとかいふので」
あかる‐さ
〘名〙
あかる‐み
〘名〙

あかり【明】

〘名〙 (動詞「あかる(明)」の連用形名詞化)
① 物を明らかに見せる光。光線。
※大唐西域記長寛元年点(1163)五「燈火忽(たちまち)に空の中に翳(かく)れて大なる明りあり」
※新撰六帖(1244頃)六「影くらきまきのしげ山つれづれといつを月日あかりとも見ず〈藤原信実〉」
※滑稽本・浮世風呂(1809‐13)二「行燈がひっくる返(けへ)るとおべそがわアわアと吼(ほえ)る。コレヱ明(アカ)りをつけやアがれといひながら」
③ 明るい所。また、比喩的に、おもてだった場所。
日葡辞書(1603‐04)「Acariye(アカリエ) ヅル〈訳〉公の所へ出る」
逆境の中で見いだす、希望や解決の糸口。光明。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)江戸「猿丸太夫の顔して、何共明(アカ)りの見へぬ談合」
⑤ 疑いを晴らす証拠。あかし。→明(あかり)が立つ明(あかり)を立てる
※浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油屋「結構なお家様の御了簡で久松様の明りも忽(たちまち)
⑥ その事が終わること。特に、暗い気分・状態の期間がすむこと。あけ。あき。
※言継卿記‐永祿九年(1566)四月二七日「一女官むめ断抹魔念仏昨日迄、今朝念仏あかりの振舞、餠にて一盞有之」
[語誌]もともとは日・月を中心とする自然の光を意味し、灯火のことはいわなかった。灯火の意味で使われるようになったのは江戸時代からで、明治時代になると、上代・中古の「ひ」、中近世の「ともしび」にとってかわり、灯火の総称となった。

あか・す【明】

〘他サ五(四)〙
① 明るくする。
※万葉(8C後)一五・三六四八「海原の沖辺にともし漁(いざ)る火は安可之(アカシ)てともせ大和島見む」
② 火をつける。ともす。
※日葡辞書(1603‐04)「ヒヲ acasu(アカス)
③ 夜が明けるのを待ち過ごす。眠らないで夜を過ごす。
※万葉(8C後)四・四八五「思ひつつ いも寝かてにと 阿可思(アカシ)つらくも 長きこの夜を」
※平家(13C前)灌頂「月は夜な夜なさし入れども、ながめてあかすぬしもなし」
④ (「証す」とも書く) 証明する。疑いをただして明らかにする。
※法華義疏長保四年点(1002)二「彼の経には、一切衆生は〈略〉種種道に成ると明(アカス)
※王城の護衛者(1965)〈司馬遼太郎〉「この秘儀の実否を証(アカ)すよすがはない」
⑤ (秘密などを)打ち明けていう。表わす。
※源氏(1001‐14頃)手習「此の人にもさなむありしなど、あかし給はん事はなほ口重き心地して」
※まぼろし(1898)〈国木田独歩〉渠「自分はここに其姓名を明(ア)かしたくない」
[語誌]「あく(明)」に対する他動詞形で、①の「明るくする」意が原義。名詞は「あかし」。③の意の「明かす」は「暮らす」と対義の関係にあり、「明かし暮らす」で「夜を明かし日を暮らす=日々を過ごす」意を表わす。④の意の早い例は、和文よりもむしろ訓点資料に見られるところから、漢文の訓読によって生じた用法と推定される。

あか・い【明】

〘形口〙 あか・し 〘形ク〙
① 光などが強くはっきりしている状態である。明るい。
※万葉(8C後)五・八九二「天地は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 安可之(アカシ)といへど 吾がためは 照りや給はぬ」
※蜻蛉(974頃)中「月いとあかければ、格子などもおろさで」
② 夜が明けて明るい。また、まだ日が暮れないで明るい。
※枕(10C終)三六「うちかすめ、うらみなどするにあかうなりて人の声々し、日もさしいでぬべし」
※浄瑠璃・夏祭浪花鑑(1745)四「まだ明い内に其形(なり)で往(い)なしては」
③ 心が清い。偽りがない。→明(あか)き心
※続日本紀‐文武元年(697)八月一七日・宣命「国の法を過(あやま)ち犯す事無く、明(あかキ)(きよ)き直き誠の心を以て」
[語誌]→「あかい(赤)」。
あか‐さ
〘名〙

あきら・める【明】

〘他マ下一〙 あきら・む 〘他マ下二〙
① (心を)明るくする。晴れやかにする。さわやかにする。
※万葉(8C後)一八・四〇九四「陸奥(みちのく)の 小田なる山に 金(くがね)ありと 申し給へれ 御心を 安吉良米(アキラメ)給ひ」
② 明らかにする。はっきり見定める。事情などを明白に知る。判別する。
※書紀(720)皇極四年六月(岩崎本訓)「臣(やつこ)罪を知らず。乞ふ、垂審察(アキラメ)たまへ」
※読本・雨月物語(1776)貧福論「徃古(いにしへ)に富る人は、天の時をはかり、地の利を察(アキ)らめて、おのづからなる富貴を得るなり」
[語誌](1)上代では①のように、花や景色を「見」て心を曇りない状態にし、晴ればれさせることをさす。中古には自動詞となって心が晴ればれしくなることにも使った(→あきらむ(二))。
(2)中古には「言ふ」「聞く」などと複合する例が多く、事情を明らかにする意味になる。この明らかにする意味が中世・近世へと続き、複合語にも「問ひあきらむ」「あきらめ知る」などがある。

めい【明】

〘名〙
① あかるいこと。くもりのないこと。
※中野重治論‐晴れた時間(1946)〈荒正人〉「あのメーデーのすばらしさは、こういった暗をもふくみながらなお明であるところにあるのだと思う」 〔春秋左伝‐昭公二八年〕
② 物を見る力。視力。
※万葉(8C後)五・八八六・序文「望我違時必致明之泣」 〔礼記‐檀弓・上〕
③ 理があきらかで疑いのないこと。また、物事の道理を見通す力。眼識。眼力。
※運歩色葉(1548)「明歴々 メイレキレキ」
※古活字本毛詩抄(17C前)一四「のけたい褒姒が王の明をかくす程にぞ」
※珍太郎日記(1921)〈佐々木邦〉九「時勢を見る明(メイ)がない」 〔易経‐乾卦文言〕
④ 月の、太陽光であかるくなっている部分。〔遠西観象図説(1823)〕

あけ【明】

〘名〙 (動詞「あける(明)」の連用形の名詞化)
① 夜が明けること。また、その時。明け方。夜明け。⇔暮れ
※西大寺本金光明最勝王経平安初期点(830頃)六「天の暁(アケ)に至らむ毎に」
② 年月日や季節が新しくなること。
※今昔(1120頃か)四「一夜を経る程、象、此の経を聞き奉る。其の明なる日、象、極て、禁したり」
③ ある期間が終わること。また、終わった時。「梅雨あけ」「夏休みあけ」など。
※狂歌・徳和歌後万載集(1785)一四「ととせには一年(ひととせ)たらぬここのとせ苦界ももはや来年があけ」
④ 韻塞(いんふたぎ)の時、隠してある字を何の字であると推し当てたこと。
※能因本枕(10C終)一八三「ゐふたぎの明、とうしたる」

あか・る【明】

〘自ラ四〙
① 明るくなる。また、灯火がよく光を出す。
※枕(10C終)一「やうやうしろくなり行く山ぎは少しあかりて」
② 清くうるわしくなる。→あかるたえ(明妙)
※書紀(720)神代上(水戸本訓)「素戔嗚尊、天(あめ)に昇(のぼ)りせむとする時に一の神有り。号(な)は羽明(はアカル)玉」
③ 雨があがる。〔日葡辞書(1603‐04)〕
[語誌]上代には光と色とがまだ分化しきっていなかった(→あかあかい)。中古には「枕草子」の例以外には用例を見出し難く、色に重点をおく場合は「赤む」を用いるのが普通だったようである。

みょう ミャウ【明】

〘名〙
[一] 仏語。
① 智慧。煩悩の闇を破り、真理を悟る智慧をいう。また、六神通のうち、とくに宿住・生死・漏尽の三通について、それが過去・現在・未来の愚闇を破するところから、これを三明という。〔往生要集(984‐985)〕
② 学問や知識などをいう。声明・因明などの五明。
③ 密教の真言・陀羅尼。愚闇を除くところからいう。
※太平記(14C後)一八「覚洞院の清憲僧正の室に入、一印一明(ミャウ)を受て」
[二] (ある時間の幅や時期を表わす名詞の上に付き、接頭語的に用いて) 次にくる日、年であることを明示する。「明三日」「明平成一九年」など。
※浮世草子・新色五巻書(1698)二「明(ミャウ)十五日より、大坂女舞の三勝、芝居興行の立札」

あきら・む【明】

[1] 〘他マ下二〙 ⇒あきらめる(明)
[2] 〘自マ四〙 物事が明らかになる。晴れやかになる。→「あきらめる(明)」の語誌。
※たまきはる(1219)「ならはぬ御たびゐの心ぐるしさを、むすめのもとに、ひまなく言ひやれど、おぼつかなさの、あきらむかたなし」

あくる【明】

(動詞「あく(明)」の連体形。「夜、年などが明けてから」の意。連体詞としても用いる) 次の。翌。次にくる日、月、年などについていう。
※平家(13C前)一一「あくる卯の時に阿波の地へこそ吹きつけたれ」
※倫敦消息(1901)〈夏目漱石〉一「明る土曜は先(まづ)平常の通りで」

みん【明】

中国、朱元璋(太祖洪武帝)が元を倒して建てた漢民族の王朝(一三六八‐一六四四)。初め南京に都を置いたが、二代恵帝から帝位を奪った永楽帝は、北京に遷都して蒙古を親征、南海諸国にも朝貢を求め、その勢威は一時は黒龍江からアフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は北虜南倭に苦しみ、宦官の専権が国政を乱した。崇禎帝の改革にもかかわらず満州族の脅威を前にして内乱・党争が止まず、李自成に北京を占領されて滅びた。

あきらめ【明】

〘名〙 (動詞「あきらめる(明)」の連用形の名詞化) 物事を明白にすること。はっきり知ること。
※石清水文書‐天文二三年(1554)一〇月二〇日・中坊孝海田地売券「違乱煩申輩出来候者、何時成共、売主其明可申者也」

あけし・い【明】

〘形口〙 (多く「あけしい間(隙・事)がない」の形で用いる) 晴れ晴れとした気分である。ゆとりのある気持になる。晴れ晴れとすがすがしい。
※洒落本・契情買虎之巻(1778)一「どふらくな夫の身のうへ、ほんにあけしい間はござりませぬ」

あかる・む【明】

〘自マ五(四)〙 「あからむ(明)」の変化した語。
※不如帰(1898‐99)〈徳富蘆花〉下「真黒き木立の背ほのかに明(アカル)みたるは、月出でむとするなる可し」

あかく【明】

〘副〙 (形容詞「あかい(明)」の連用形の副詞化) まだ日の明るいうちに。日中に。あこう。
※大鏡(12C前)三「あかく大路などわたるがよかるべきにやと思ふに」

あこう あかう【明】

〘副〙 (形容詞「あかし」の連用形「あかく」が変化した語) 日の明るいうちに。日中に。
※平家(13C前)三「三月十六日、少将鳥羽へあかうぞ付き給ふ」

あかる・し【明】

〘形ク〙 ⇒あかるい(明)

あか・し【明】

〘形ク〙 ⇒あかい(明)

あかう【明】

〘副〙 ⇒あこう(明)

あから・む【明】

〘自マ五(四)〙 夜が明けて、空が明るくなる。

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デジタル大辞泉 「明」の意味・読み・例文・類語

めい【明】[漢字項目]

[音]メイ(漢) ミョウ(ミャウ)(呉) ミン(唐) [訓]あかり あかるい あかるむ あからむ あきらか あける あく あくる あかす
学習漢字]2年
〈メイ〉
光があってあかるい。はっきり見える。あかるさ。「明暗明月明滅明朗月明失明照明清明鮮明澄明透明薄明幽明
夜があける。「天明未明黎明れいめい
事がはっきりしている。「明確明晰めいせき明白明瞭簡明公明克明自明不明分明平明
あきらかにする。「明記解明究明言明釈明証明声明せいめい説明闡明せんめい表明弁明
物事を見分けたり見通したりする力がある。「明君明哲明敏英明賢明聡明そうめい
世の中が開ける。「開明文明
神。「明器神明
〈ミョウ〉
あかるい。「明星みょうじょう
光。あかり。「光明灯明無明
はっきりしている。「分明
夜・年があけて、次にくる。「明春明朝明日みょうにち明年明後日みょうごにち
神や仏を尊んで呼ぶ称。「明王明神
仏教で、知識や学問。「因明五明声明しょうみょう
〈ミン〉中国の王朝名。「明朝
[名のり]あか・あかる・あき・あきら・あけ・きよし・くに・さやか・てる・とおる・とし・のり・はる・ひろ・みつ・よし
[難読]明後日あさって明日あす明日あした明明後日しあさって松明たいまつ明太めんたい

みょう〔ミヤウ〕【明】

[名]《〈梵〉vidyāの訳》仏語。
無明むみょうの闇を破り、真理を悟る智慧。
密教の真言
[連体](日付・年月などで)その次の。「4月25日」「1997年」
[類語]明けて明くる

みん【明】

中国の王朝の一。1368年、朱元璋しゅげんしょう(太祖洪武帝)がを倒して建国。都は当初南京であったが、永楽帝の1421年、北京に遷都。南海諸国を経略、その勢威は一時アフリカ東岸にまで及んだ。中期以降は宦官かんがんの権力増大による内紛、北虜南倭ほくりょなんわに苦しみ、1644年、李自成に国都を占領され、滅亡。

さや【明/清】

[副]
(多く「に」を伴って用いられる)はっきりとしたさま。
「足柄のみ坂に立して袖ふらばいはなる妹は―に見もかも」〈・四四二三〉
清らかにすがすがしいさま。
「菅畳いや―敷きて」〈・中・歌謡〉
音色が澄んで響くさま。さやさや。
「鈴は―振る藤太巫女みこ」〈梁塵秘抄
音が静けさを乱して響くさま。ざわざわ。
「あしひきのみ山も―に落ちたぎつ」〈・九二〇〉

めい【明】

あかるいこと。「勝敗のと暗とを分ける」
理のあきらかなこと。また、道理を見通す力。眼識。「先見の
物を見る力。視力。「を失う」

みん【明】[漢字項目]

めい

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「明」の意味・わかりやすい解説


みん

中国の江南を根拠地として、全国を統一した漢人王朝(1368~1644)。

[鶴見尚弘]

政治

14世紀中ごろ、元(げん)の圧政に対抗して各地で反乱が起こったが、なかでも白蓮(びゃくれん)教の一派である紅巾(こうきん)軍が優勢であった。貧農出身の朱元璋(しゅげんしょう)は紅巾軍に加わり、しだいに頭角を現した。彼は白蓮教を排して地主勢力と結び付き、群雄陳友諒(ちんゆうりょう)や張士誠を滅ぼし、揚子江(ようすこう)デルタ地帯の穀倉を押さえた。1368年、都を応天府(南京(ナンキン))に定め、国号を明、年号を洪武(こうぶ)と称した。これが明の太祖であり、年号を冠して洪武帝ともよばれる。太祖は華南を平定する一方、北伐を行い、元の都大都(北平=北京(ペキン))を占領し、元を漢北に追いやった。元の残存勢力北元は、その後も反攻の機をうかがったので、明は遼東(りょうとう)を占領して北元と高麗(こうらい)との交渉を絶ち、ついで青海、雲南を平らげて北元を圧迫し、ノモンハン付近に軍を送ってこれに大打撃を与えた。明は南京に都を置いたから、政治と経済との中心は一致したが、都と北辺とが遠く離れることとなり、その防衛に苦慮した。太祖は諸子を王として各地に分封し世襲としたが、その地の支配権は与えなかった。ただ、北辺の諸王には外敵の侵入に備えて兵権を付与したから強大化を招き、太祖晩年の悩みとなった。

 太祖の没後、孫の恵(建文)帝が16歳で即位した。彼は諸王の勢力を削減しようとしたため、叔父燕王(えんおう)の背反にあった。4年間の戦いののち、太祖に疎んじられた宦官(かんがん)の内応もあって都の南京は陥り、恵帝は自殺した(靖難(せいなん)の変)。1402年燕王すなわち成祖(永楽帝)が帝位についた。彼は自らの経験を生かして諸王を廃したり、彼らの勢力を削り、戦略上の必要から自己の本拠地である北平に遷都して北京と改め、南京を陪都とした。このため都と江南とが隔たることとなったが、大運河を改修して江南の物資を都や北辺に送った。成祖は政治的反対勢力の台頭を警戒して、皇帝直属の秘密警察である東廠(とうしょう)を設け、また簒奪(さんだつ)の汚名をそらすために『永楽大典』を編纂(へんさん)したり、大規模な外征を行った。安南(ベトナム)では内乱に乗じてこれを併合し、イスラム教徒の宦官鄭和(ていわ)に南海大遠征を命じた。遠征は永楽から宣徳年間まで7回に及び(1405~33)、ジャワ島、インド、セイロン島から一部はアラビア半島、アフリカ東岸にまで達した。遠征の結果、南海方面の知識や珍奇な品物が中国にもたらされるとともに、朝貢貿易は一段と活発になった。モンゴル高原では、靖難の変に乗じてモンゴル人が反攻の機をうかがっていたので、成祖は5回にわたって漠北に親征を行った。このため明の威令は東北奥地から黒竜江下流域にまで及んだ。

 第5代皇帝宣宗(宣徳帝)は成祖の対外積極策を受け継いだが、中途より対外消極策に転じ、ベトナムを放棄し、北辺の防衛線を長城線にまで後退させた。しかしながら内政を重視したので、財政は安定し平和がしばらく続いた。ついで即位した英宗(正統帝)は、宦官王振を寵信(ちょうしん)したため、宦官の横暴を招き人民を苦しめた。1448年には、鄧茂七(とうもしち)の乱が起こり、小作料をめぐる佃戸(でんこ)の反地主闘争(抗租)が激化して社会不安を助長した。モンゴル高原ではエセン・ハンの統一後、オイラート部が強大となった。明は茶・馬市を開いて和平を求めたがまとまらず、1449年にはオイラート部の侵入を受けた。英宗は功名をねらう王振の議に従って不用意に親征を行った結果、土木堡(どぼくほ)において捕虜となり(土木の変)、都の北京は危機に陥った。ただちに即位した代宗(景泰帝)は、于謙(うけん)の策をいれて固い防衛体制を敷いたので、かろうじて都の陥落を免れた。翌1450年英宗は明へ送還されたが異母弟代宗と対立、1457年には代宗の病に乗じて復辟(ふくへき)(天順帝)した。その後オイラート部も内紛によって衰え、北辺はやや小康を保った。しかしながら、これ以後、明のモンゴル高原に対する威令はまったく失われ、明の守勢は明らかとなった。明は万里の長城を修築し、九辺鎮を設けて防衛体制を強化しようとしたが、大量の軍隊をいかにして維持するかが財政上の難問となった。

 15世紀末、孝宗(弘治帝)のころは政治も比較的安定したが、ついで帝位についた武宗(正徳帝)は逸楽にふけり、宦官劉瑾(りゅうきん)の専横を許したため、16世紀初頭には劉六(りゅうろく)・劉七の乱をはじめ内乱が続いた。武宗の叔父(おじ)の子世宗(嘉靖(かせい)帝)が帝位につくと、皇位の継承をめぐって無意味な論議(大礼の儀)が繰り返された。世宗はしだいに政治を疎んじ道教を盲信したため、政治が乱れ財政は逼迫(ひっぱく)した。そのうえ、北方からは約30年間にわたってアルタン・ハンの侵入を受け、馬市を再開することを約して、ようやく和議が成立した。同じころ東南沿海地方では倭寇(わこう)や反権力的な海寇反乱が横行し、いわゆる北虜南倭(ほくりょなんわ)に苦しんだ。明は、1567年に海禁令を緩めたため、ようやく南倭の害も治まった。1517年ポルトガル人が初めて中国に来航し、ポルトガル・スペイン人との貿易が開始され、大量の銀がメキシコや日本から流入した。

 第14代皇帝神宗(万暦(ばんれき)帝)は張居正(1525―82)を起用し、社会的危機を乗り切るために、戸口・田土を調査し、税制を改革して政治・財政の立て直しを図った。しかしながら張居正の死後、綱紀はたちまちにして乱れ、宦官の専横もあって政治は混乱した。そのうえ、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略などに対するいわゆる万暦の三大征に女直(じょちょく)(女真)の興起も加わったため、多額の軍事費を費やし、財政は窮乏した。一部の正義派官僚によって結成された東林党は、閹党(えんとう)の政治的腐敗を激しく批判したため、東林・非東林の対立が激化した。17世紀前半、熹宗(きそう)(天啓帝)の信任を得た宦官魏忠賢(ぎちゅうけん)は、恐怖政治を断行して東林党を弾圧した。相次ぐ廷争に政治は乱れ、加えて社会矛盾の顕在化に伴う階級対立の激化によって、各地で抗租や民変(都市で働く傭工(ようこう)をはじめとする都市民衆の闘争)、奴変(ぬへん)(奴隷身分に転落した奴隷たちの闘争)などが起こった。最後の皇帝毅宗(きそう)(崇禎(すうてい)帝)は、魏忠賢らを断罪して綱紀の粛正を図ったが、すでに遅く、李(り)自成や張献忠の大乱が起こった。1644年李自成の軍が北京に入城するや、毅宗は宮殿の裏山で自殺し、明は滅亡した。このあと明の遺臣が華中・華南で次々に帝を称し、李自成軍を破った清(しん)軍に抵抗したが、ついに1661年永明王がビルマで捕らえられた。これを南明ともいう。

[鶴見尚弘]

官制

漢民族の民族意識を利用して全国を統一した太祖は、異民族の制度を改め、上代の理想に復すと称して、皇帝独裁制の強化に努めた。中央では、1380年の胡惟庸(こいよう)の事件を機に、元(げん)制に倣った行政機関中書省を廃止し、その所属の機関六部(りくぶ)を独立させた。軍事機関では、軍令系統にあたる大都督府を中・左・右・前・後の五軍都督府に分轄し、監察機関では、御史台(ぎょしだい)を廃して都察院を設け、全国を13道に分けて監察都御史や監察御史らの官を置いた。地方でも、元制を踏襲した行中書省を廃止し、一般民政をつかさどる承宣布政使司、軍事機関である都指揮使司、監察機関である提刑按察(あんさつ)使司を設置して、3機関(三司)に対等の権限を与えた。このように太祖は、一部の官僚に権限が集中することを極力排除し、皇帝親政の制度を確立しようとした。この結果、皇帝の政務は膨大なものとなり、皇帝1人で処理することはとうてい不可能となった。このため、殿閣大学士を補佐役としたが、成祖のときには内閣(ないかく)が設けられ、殿閣大学士らは内閣大学士とよばれるようになった。当初、内閣大学士の官位は低かったが、内閣の権限が強まるとともに宰相としての権限をもつようになった。

 一方、三司の間に統属関係がなかったので、有事の際に不便を生じた。このため3司の上に臨時に総督・巡撫(じゅんぶ)が置かれたが、のち常設の官となった。地方の行政区画は2直隷・13布政使司からなっていたが、布政使司の管轄区域は省ともよばれ、省の下に府・州・県が置かれた。北辺の要地には九辺鎮を設けて国境警備にあたったが、南西地方の広西・雲南などの少数民族居住地域には土司・土官を置いた。兵制では、新たに全国に衛所が設けられた。1衛は軍戸500、600戸からなり、衛には屯田(とんでん)が設けられ、都指揮使司の下に置かれた。律令では、模範とされた唐律・唐令が実情にあわなくなったため大改革が加えられ、1397年に明律が完成した。明令はすたれたが、のちに明初以来の諸法令を集大成した明会典が公布された。

[鶴見尚弘]

社会・経済

明代社会の支配者階級には、皇帝を中心とする皇族や官僚ならびにこれに連なる地主・商人がおり、被支配者階級として、それらを除いた良民や賤民(せんみん)があった。良民は職業によって軍・民・匠・竈(そう)(製塩)などの戸籍に分類され、民戸を除いて戸籍上の専門的な徭役(ようえき)に従事した。これらの戸はすべて里甲に編成され、里長は里甲を統率し、10年ごとに賦役黄冊(ふえきこうさつ)を整備したが、土地丈量を行って魚鱗(ぎょりん)図冊(土地台帳)を作成することもあった。租税は、両税法により夏税・秋糧が徴収されたが、徭役として里甲正役が課せられたほか、民戸には雑役が割り当てられた。

 太祖は、明初一時的に地主の土地所有を制限し、徙民(しみん)・開墾政策を採用して自作農を保護・育成しようとした。この結果、自作農はやや増大したが、先進地帯である江南デルタ地帯をはじめとする華中・華南では、元代以来の大土地所有制が引き続き展開した。田土には官田と民田とがあり、官田は民田に比して税額が高かった。官田とは国家が地主となり、実際上の地主・自作農を小作人とみなしてこれを官佃戸(かんでんこ)とよび、国家が土地所有権と高額の小作料とを確保しようとする制度であった。明初、江南デルタ地帯に広大な官田が設置されたのは、官田を王朝存立のための経済的基礎とするためであり、それが可能となったのは、この地の土地所有関係が地主と佃戸とを基本とするものであり、それが社会的通念としてもすでに定着していたからであった。

 宋(そう)代以降の貨幣経済は、元末の争乱によって一時衰えたが、国家や官僚の貨幣に対する欲求は強く、明初現物納や力役(りきえき)を原則とした税役も15世紀以降銀納化が認められ、16世紀には一条鞭法(いちじょうべんぽう)が施行された。徴税による上からの銀収奪は、多くの産業部門に商品生産化を促したが、地域間分業も成立し、塩の専売で力を伸ばした新安(徽州(きしゅう))・山西商人などの客商によって全国的な流通機構が整備された。農業では、江南・湖広の米、華北・松江府の綿花、太湖周辺の養蚕、四川(しせん)・湖広・江西・福建の茶、福建・江西の甘蔗(かんしょ)、福建・江西の藍(あい)などが商品作物として栽培された。

 手工業では、官営のほか民間手工業の発展が目覚ましく、景徳鎮(けいとくちん)の陶磁器、仏山鎮の鉄などのほか、特筆すべきは江南の衣料であった。松江府の綿布業、蘇(そ)州・湖州・嘉興(かこう)・応天府の生糸・絹織物業、鎮江・常州府の麻織物業などは、都市はもちろんのこと農村にまで広がった。農村工業の主要な担い手は零細な自作農や佃戸であった。彼らは国家や地主の収奪に対抗して、家計補充の手段として家族をあげて家内工業に励んだ。農民は、零細な資金を急速に回転させねばならず、また資金を地主・商業資本に依存せざるをえなかったから、ますます各生産工程ごとに商業資本によって分断され、自ら利潤を蓄積することは困難であった。明代社会の有力者は科挙出身の官僚であったが、彼らの大多数は地主であり、商人を兼ねるものもあった。官僚には徭役免除(優免)の特権があったが、明代にはその範囲は現役・退職の官僚のほか、科挙の予備試験合格者にまで拡大された。そのうえ、明中期以降には里甲正役の一部まで優免の対象とされたから、優免を受ける特権地主とそれ以外の地主を含む里甲成員との負担差は一段と増した。一方、明末には佃戸の自立化が高まり、抗租などを通じて在地地主の地代収取は制約されたから、優免特権をもたない在地地主が土地所有を維持することは困難であった。彼らは土地を特権地主に投献して徭役を忌避したり、奴僕・傭工労働による集約的な手作経営を行うことによって没落を防ごうとした。これに対して優免特権を有する地主は、土地所有を拡大し、里甲制下の在地地主にかわって郷村の支配権力に成長した。これらの特権地主は、明末には郷紳(きょうしん)とよばれ、新たな社会的身分層を形成した。郷紳支配のもと、郷紳地主と佃戸層との階級対立はますます先鋭化した。16世紀以降各地で頻発した抗租運動は、佃戸一般に広がりをもつ闘争となり、奴変・民変とも重なり合って、18世紀中葉以後は集団的な日常闘争へと発展した。

[鶴見尚弘]

文化

思想面では、太祖は朱子学を儒教の正統と定めた。成祖もこれを受け継ぎ、朱子学を集大成して『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂(へんさん)し、科挙受験者の必読書とした。明初は思想統制が厳しく、しばしば学者を弾圧したため思想界は久しく沈滞した。明中期末ごろの人、王守仁(陽明)は、朱子学とは別派をたてた陸九淵(りくきゅうえん)(象山)の説を発展させ、知(認識)と行(実践)の統一を説く知行合一説を唱えて、いわゆる陽明学を成立させた。この説は、実践を重んじかつ簡明・率直であったから、明代後期思想界の主流となり、わが国の江戸時代にも大きな影響を与えた。宋代の東林書院を再興した反宦官派の東林党は、朱子学の流れをくむものであり、学問の政治性を重視した。この影響のもとに古学の復興を唱えたのが復社である。彼らは実証に基づく真実の究明と経世実用のための学問を重視した。明末にマテオ・リッチ、アダム・シャールらのイエズス会宣教師によってヨーロッパの思想や暦学・天文・地理・数学・砲術などの新知識が紹介された。彼らは布教の手段として西洋風の知識や技術を伝授したが、布教の成果はあがらなかった。しかしながら、明末には新たな西洋文化の刺激も加わり、経世実用のための技術書が盛んに刊行された。徐光啓の『幾何原本』『農政全書』、趙子禎(ちょうしてい)の『神器譜』、李(り)時珍の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』、宋応星の『天工開物』らはその例であり、リッチが公刊した世界地図『坤輿(こんよ)万国全図』も中国人の世界観に大きな影響を与えた。

 宗教面では、仏教は概して低調であったが、明末には教界刷新の機運が生じて仏教各派の融合が進み、儒・仏・道三教一致の傾向が強まった。道教は全真教とともに正一教や金丹(きんたん)道派が盛んとなり、庶民の間に根強い支持を得、道蔵の編集も行われたが、世宗の狂信的な道教保護はかえって道教を腐敗堕落させた。

 文芸面では、庶民的な小説や戯曲などの通俗文学が、長年月多くの人々の筆を加えられ、16世紀ころに大成した。小説では、『三国志演義』『水滸伝(すいこでん)』『西遊記』『金瓶梅(きんぺいばい)』などの四大長編小説が有名である。戯曲では、元末以来の北曲(雑劇)は衰えて南曲(伝奇)が盛んとなった。明末、湯顕祖(とうけんそ)の傑作『玉茗堂四夢』は、一節が「還魂記」の名で知られ、とくに有名である。絵画では、北宋以来の院体画の流れをくむ北画と文人画系の南画の流れとがある。前者は、とかく形式主義に陥りがちであったが、唐寅(とういん)(伯虎(はくこ))や独特の風俗画を描いた仇英(きゅうえい)(実甫(じつほ))、花鳥画に独自の境地を開いた徐渭(じょい)らが有名である。後者は、山水を描く素朴な表現主義が健康さを保ち、沈周(石田)と弟子文徴明(ぶんちょうめい)(衡山(こうざん))が先駆的役割を果たし、明末の文人官僚董其昌(とうきしょう)によって様式的にも確立された。工芸面では、陶磁器の発達が目覚ましく、宣徳年間にみられる瀟洒(しょうしゃ)な染付(そめつけ)、嘉靖・万暦年間の赤絵などは、国内はもちろんのこと、海外でも大いに珍重された。

[鶴見尚弘]

『鶴見尚弘他著『岩波講座 世界歴史12』(1971・岩波書店)』『愛宕松男・寺田隆信著『中国の歴史6 元・明』(1974・講談社)』『小山正明著『ビジュアル版世界の歴史11 東アジアの変貌』(1985・講談社)』


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百科事典マイペディア 「明」の意味・わかりやすい解説

明【みん】

中国の統一王朝。1368年―1644年,17代277年間存続。を倒し,中国史上初めて江南を根拠地に天下を統一した。始祖は朱元璋(洪武帝)。金陵(南京)に都し,官制・律令・里甲制・衛所制・賦役制など,政治・軍事・財政を整え,一世一元の制を立て,皇帝独裁の支配体制を確立した。靖難(せいなん)の変後即位した永楽帝は,1411年北京に遷都,漠北親征,鄭和(ていわ)の南海遠征など異例の壮挙をなし,最盛期を迎えた。その後,宦官(かんがん)の台頭,北虜南倭に苦しみ,農民反乱も続発し,16世紀以後は衰運に向かった。一時的には万暦帝時代の張居正の善政もあったが,結局農民出身の李自成が首都を占領するに及んで崇禎帝は自殺,明は滅亡し満州人の中国支配()となる。明代は農業・商業が発達し,銀の流通により税制も一条鞭法(べんぽう)に改められたが,貧富の差は拡大し社会矛盾は深化した。文化面では朱子学に対し陽明学が現れ,経世実用の学が重視された。欧州人との交易,宣教師の渡来もあった。日本との間には勘合貿易が行われた。→日明貿易
→関連項目江南尚巴志中華人民共和国朝貢貿易定陵日本国王琉球琉球貿易

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「明」の解説

明(みん)
Ming

1368~1644

モンゴル民族の元朝を漠北に退け,中国を統一した漢民族の王朝。17代277年継続。始祖は朱元璋(しゅげんしょう)すなわち太祖洪武帝。今の南京で即位。江南を拠地に中国統一に成功した最初の王朝でもある。洪武帝は官制,律令里甲制,衛所制,賦役制など,政治,軍事,財政を整えて皇帝独裁の支配体制を確立し,王朝の基礎を築いた。ついで靖難(せいなん)の変後即位した3代永楽帝は,漠北親征,鄭和(ていわ)の南海巡航など異例の壮挙をなし,都を北京に移し,北に長城を築くなど,勢威を外に示した。しかし明初の盛時も,その後は宦官(かんがん)の台頭などで内からゆらぎ,外はオイラト,タタル(韃靼(だったん))などの侵入,倭寇(わこう)の再燃など,いわゆる北虜南倭(ほくりょなんわ)に苦しみ,農民反乱の続発もあって,特に16世紀以後衰えた。もとより万暦(ばんれき)帝を助けた張居正(ちょうきょせい)の善政なども一時的にはあったが,結局,宦官の専横,万暦三大征などによる財政困難,それに伴う反乱の続発を招き,1644年李自成(りじせい)に首都を攻略されて滅びた。明代には農業生産力が回復し,江南を中心に綿業などの手工業も盛んとなり,商業も発達して都市には会館,公所なども設立された。またヨーロッパ人との交易が盛んになり,が一般に流通するようになって,税制も一条鞭法(いちじょうべんぽう)に改められるなど,経済は大きく変化し始めた。経済の発展は社会的変化をも招来し,貧富の差など社会矛盾をはなはだしくし,階級闘争を激化させた。こうした事情から明末清初は転換期として注目される。学問では朱子学が重視されたが,中期には社会の変化を反映した陽明学が現れ対立した。また経世実用の学が発達し,『農政全書』『天工開物』など多くの実用書がつくられた。庶民文化としては,小説が盛んにつくられ,その他美術工芸も発達した。また『永楽大典』『四書大全』ほかの官撰の編纂事業も行われ,宣教師による西洋学術の紹介もみられた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「明」の意味・わかりやすい解説


みん
Ming

中国,モンゴル民族の元朝を倒し,漢民族の支配を復興した王朝 (1368~1644) 。元末の動乱期に貧農から身を起し,紅巾軍に投じて頭角を現した朱元璋 (→洪武帝 ) は,江南の経済力を基盤に各地の群雄を下して,華中一帯を制圧,洪武1 (1368) 年南京で帝位につき (太祖) ,国号を明と定め,さらに元朝を漠北に追放して中国の統一を完成した。太祖は内政改革に意を用い,君主独裁による中央集権体制を確立した。太祖の死後,諸王の勢力が次第に強大となり,中央政府を脅かすほどになったが,靖難の変を起した永楽帝は太祖の後継者をもって任じ,安南の征服,モンゴルの親征,南海経略など,対外的に積極策を用い,明の国威を内外に発揮した。しかし土木の変 (1449) を契機として中期以後の明の対外政策は消極的となり,嘉靖年間 (1522~66) 頃には北虜南倭に苦しみ,財政的にも窮迫した。万暦年間 (73~1619) 初期の張居正の改革は,従来の弊政を粛正し財政の立直しを成功させたが,それも一時的で,やがて万暦の三大征 (ボバイの乱,朝鮮の役,播州の乱) をはじめ,宦官の全国的派遣による鉱税の害 (新しく鉱山を開き,商税を増徴して過酷な誅求を行なった) を生じて国民経済は再び破綻した。加えて満州の勃興は財政を一層緊迫化させ,遼餉 (りょうしょう) など軍事付加税の増大を招いた。しかも政局は東林派と非東林派の無責任な党争が激化し,また宦官による暴力政治が横行した。このようにして過酷な徴税で民生は崩壊し,各地に起った農民暴動は大規模な反乱となり,李自成の北京侵入により,崇禎帝 (毅宗) が自殺して明は滅んだ (→李自成の乱 ) 。

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旺文社世界史事典 三訂版 「明」の解説


みん

1368〜1644
モンゴル民族の元朝を北に追って建国した,中国の漢民族としては最後の王朝
元末期に貧農出身の朱元璋 (しゆげんしよう) (太祖洪武 (こうぶ) 帝)が長江下流域の経済力を利用して強大となり,南京 (ナンキン) を首都とし,元を北に追って中国を統一した。成祖永楽 (えいらく) 帝のとき,1421年北京 (ペキン) に遷都し,5度モンゴル遠征を行って中国東北部を制圧,また一時ヴェトナムを服属させ,7回にわたる南海遠征も行った。中期以後は外からの北虜南倭に苦しみ,内にあっても官僚の党争や宦官 (かんがん) の専横がはなはだしくなった。16世紀後半の隆慶 (りゆうけい) 帝・万暦 (ばんれき) 帝のときに張居正 (ちようきよせい) の改革があったが,その死後混乱が続いて党争が絶えなかった。いっぽう,宦官が勢力をふるい,さらに北方の女真族が興起し,各地で農民暴動が起こるに至った。ついに1644年李自成 (りじせい) が北京を陥れ,崇禎 (すうてい) 帝は自殺して明は滅亡し,その一族や遺臣鄭成功 (ていせいこう) が南方各地や台湾によって清の支配に抵抗した。明代には法典・官制が整備され,兵制も充実し,里甲制を通じて農村支配が徹底した。明代における経済の発展は著しく,長江の中・下流域は穀倉地帯となり,絹・綿の織物業も盛んになった。また景徳鎮 (けいとくちん) を代表とする製陶業・遠隔地商業の発達もめざましく,都市には商人や職人の同業組合の組織として会館・公所がつくられた。また,商業や貿易の発達によって日本銀やメキシコ銀が大量に流入し,銀が貨幣として大いに流通し,税制においても16世紀後半から銀納化の一条鞭法 (いちじようべんぽう) が実施されるようになった。文化では,朱子学が官学的な地位をしめて『永楽大典』をはじめとするぼう大な国家的編纂 (へんさん) 事業が行われ,陽明学がおこるいっぽう,実用的学問や庶民文学がもてはやされた。16世紀末にはマテオ=リッチらが来朝し,カトリックや西洋の学術が紹介された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「明」の解説


みん

漢民族が建てた中国統一王朝(1368~1644)。紅巾(こうきん)軍の一部将だった貧農出身の朱元璋(しゅげんしょう)が元を倒して建国,太祖洪武帝となる。皇帝権の強化をはかり,中書省を廃止して宰相をやめ,六部を皇帝直属とした。靖難の変により建文帝にかわって帝位についた成祖永楽帝は,南京から北京に遷都し,モンゴル高原の旧元勢力への親征,ベトナム遠征,鄭和(ていわ)の大艦隊による南海経略などを行った。中期以降,北辺ではオイラート部・タタール部など外敵が侵入し,江南では倭寇(わこう)の活動が激しくなるなど北虜南倭(ほくりょなんわ)の対策に苦しんだ。また中央では宦官(かんがん)が権力をふるい党争が続き,東北地方では女真族との交戦で財政が破綻した。各地で反乱もおこり,1644年李自成(りじせい)に北京を攻略されて滅亡した。

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世界大百科事典 第2版 「明」の意味・わかりやすい解説

みん【明 Míng】

モンゴル族の支配した元朝を打倒して,朱元璋が創建した漢民族による王朝。1368‐1644年。
【王朝の創建と政治】
 元朝の末期,政治の混乱に乗じてモンゴル人の支配に反抗する群雄が各地に割拠したが,なかでも明教,白蓮教を奉ずる紅巾軍が最大の勢力であった(紅巾の乱)。その中から身を起こし,金陵(後の南京)を根拠として,西の陳友諒,東の張士誠らの強敵を下し,1368年明朝を建てて帝位についたのが朱元璋で,年号によって洪武帝とよばれる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「明」の解説


みん

中国の統一王朝(1368〜1644)
1368年,朱元璋 (しゆげんしよう) (太祖)が元を滅ぼして建国。皇帝独裁制を強化し,15世紀初めには成祖永楽帝が出て最盛期を現出した。中期以後,政治の腐敗ならびに北方民族や倭寇 (わこう) の侵略に悩まされ(北虜南倭),1644年李自成の乱によって滅亡した。日本に倭寇の鎮圧をしばしば求め,15世紀初頭足利義満のときから勘合貿易が開かれた。これは朝貢という形の統制貿易であった。ついで豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を行ったときには,朝鮮側に援軍を送り危機に瀕していた明国の財政はますます窮迫した。

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世界大百科事典内のの言及

【地主】より

…1184年(元暦1)5月の後白河院庁下文(案)によれば,越前国河和田荘はもと藤原周子の先祖相伝の私領であったが,待賢門院のはからいで法金剛院に寄進し,その際〈地頭預所職〉は周子が留保して子孫相伝することになったという由来が述べられている。いわゆる寄進地系荘園成立の一例であるが,文中に〈当御庄者,是当預所帯本公験,代々相伝之地主也〉と記され,領家への荘園寄進によってその預所となった本来の領主が,その後も依然として地主と呼ばれていたことが判明する(仁和寺文書)。また1105年(長治2)2月10日の橘経遠寄進状にも,〈地主〉経遠が右衛門督藤原宗通に寄進した相伝所領田畠30町歩について,〈経遠之子孫を地主とせしめ給うべき也〉(原漢文)との文言が見られ,これまた類似の例である(九条家文書)。…

【琉球征服】より

…島津侵入事件ともいう。徳川政権は16世紀半ばに断絶した日明両国の国交回復を対外政策の基本とし,そのための対明交渉を琉球に斡旋させる目的で,1602年冬陸奥の伊達領に漂着した琉球人を島津氏に命じて本国に送還させ,琉球に聘問使(へいもんし)の派遣を要求したが,琉球側がそれに応ぜず,来聘問題は薩琉間の政治問題となった。琉球出兵はこのような対明政策を背景として行われた。…

※「明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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