目次 星座の歴史 南天の星座 星座の新設 現行の星座 中国の星座 全天の恒星をいくつか適当に結び,図形を作り,身近な動物や器物の姿を想像して命名,区別したもの。夜空に見える恒星は,明るさ,色の差異はあるが,その1個1個については形状の差異はなく単なる1光点にすぎないので,天球面での配列により,よく目につく明るい数個の星をつないで図形を考え,識別,記憶した。現行の星座は1930年に国際天文学連合により決定されたもので,全天を88の区画に分けている。
星座の歴史 前3000年ころ古代オリエントのメソポタミア地方では,カルデア人が牧羊民族として生活し,夜ごとの羊番に星空を仰いで星座を名づけた。とくに1年の季節の移り変わりを知る必要から,太陽や月,諸惑星の通路である黄道帯については早くから12個の星座が定着した。前7世紀のアッシリアでは黄道12星座,北天12星座,南天12星座の合計36星座が記録されている。そして,これらのバビロニアの天文知識はフェニキア人の手によりギリシアに伝えられた。ギリシアの大詩人ホメロスの作品にはおおぐま座,オリオン座,うしかい座などの諸星座が登場し,また前8世紀ころの詩人ヘシオドスの作《農と暦》の中では農業耕作に必要な季節の目印としての星座が歌われている。そしてギリシア神話に登場する英雄,巨人が星座に登場するようになる。ヘレニズム時代に入り,ソロイの詩人のアラトスは天文詩《現象》の中でクニドスのエウドクソス の天文知識を反映させ,1000行あまりの詩で星座とその神話および天候予知の兆候を歌っている。ここにはプレヤデスを単独星座にした黄道13星座,北天19星座,南天15星座が記録されている。さらに下って2世紀に活躍した天文学者プトレマイオスはその著作《アルマゲスト 》の第7,第8の2巻を星表とし,ここに48星座を記録している。またローマの詩人オウィディウスは叙事詩《転身物語》でギリシア神話の神々や英雄の物語を述べているが,今日語りつがれている星座の神話はこの著作に負うところが多い。
《アルマゲスト》のギリシア語写本はイスラム文化圏に渡り,9世紀にアラビア語への翻訳が行われ,このアラビア語版が中世世界に流布した。そして12世紀にはこのアラビア語版はヨーロッパの学者によって注目され,1175年クレモナのゲラルドにより,アラビア語版からラテン語訳が完成し,近世ヨーロッパに再登場する。今日の星の固有名にベガ,アルタイル,アルビレオ,アルデバラン,ベテルギウスなどアラビア語に由来するものが多いのは,この間の事情を物語る証拠とみることができる。
プトレマイオスの体系は13世紀の神学者トマス・アクイナスにより是認され,カトリック神学の教義体系に組み込まれたので,その天動説の天文体系とともに48個の古代星座も近世に至るまでなんらの変更もなく伝えられている。《アルマゲスト》に記載されている星座は,北半球では,こぐま,おおぐま,りゅう,ケフェウス,うしかい,かんむり,ヘルクレス,こと(琴),はくちょう,カシオペヤ,ペルセウス,ぎょしゃ(馭者),へびつかい,へび,や(矢),わし,いるか,こうま,ペガスス,アンドロメダ,さんかく(三角)の21星座。黄道帯上では,おひつじ,おうし,ふたご,かに,しし,おとめ,てんびん,さそり,いて(射手),やぎ,みずがめ,うおの12星座。さらに南半球のくじら,オリオン,エリダヌス,うさぎ,おおいぬ,こいぬ,アルゴ,うみへび,コップ,からす,ケンタウルス,おおかみ,さいだん(祭壇),みなみのかんむり,みなみのうおの15星座で,合計全天で48個ある。
南天の星座 近世になり新しい星座が追加されたのは,14世紀の大航海時代に入ってからのことであり,多くの航海者が南半球の海にのり入れ,あるいは喜望峰,あるいはマゼラン海峡 と大陸の南端にまで航路をすすめた。このため従来ヨーロッパでは見えなかった天の南極付近の天域が航海者の目にさらされることになった。イタリアの航海者A.ベスプッチの著書《新世界》(1503)には新しい星空の記述があり,ポルトガルの航海者マゼランに同行したイタリア人A.ピガフェッタ の《世界一周の記録》(1523)には南十字星や大,小マゼラン雲 の記録がある。南天星座を初めて命名したのはドイツのバイエルンの法律家バイヤーJohann Bayer(1572-1625)で,1596年ジャワ島沖で客死したオランダの航海者テオドリPetrus Theodoriの手記にしたがい12星座を設定し,全天を51枚に描いた星図《ウラノメトリアUranometria》(1603)にこれらの星座を描写している。バイヤーの星座はふうちょう(風鳥),つる,くじゃく,きょしちょう(巨嘴鳥),みつばち,ほうおう(鳳凰),かじき(旗魚),とびうお,カメレオン,みずへび,インディアン,みなみのさんかくの12星座で南方原産の珍奇な動物名を用いたのが特色である。フランスのロアイエAugustine Royerは1679年に星図を発表し新たな星座を命名しているが,南天のはと座とみなみじゅうじ座だけが残っている。南天の星座ではフランスの天文学者N.L.ラカイユがアカデミー・デ・シアンスの観測隊に参加し,1750-54年ケープ・タウンに遠征,南天の星を観測して1万個の星を含む南天恒星目録を1763年に刊行,13星座を新設した。ぼうえんきょう,けんびきょう,はちぶんぎ(八分儀),コンパス,レチクル,ポンプ,がか(画架),じょうぎ(定規),テーブルさん(山),とけい,ろ(炉),ちょうこくぐ(彫刻具),ちょうこくしつ(彫刻室)で,新発明の機械,器具の名まえが多いのも新鮮な感じがする。またラカイユはアルゴ(船)座があまり大きい天域なのでとも(船尾),ほ(帆),らしんばん,りゅうこつ(竜骨)の4つの星座に分割した。
星座の新設 歴史上最初に恒星目録をつくったのはニカイアのヒッパルコス で(前150年ころ),1000個あまりの恒星の位置を観測し,この結果はプトレマイオスの《アルマゲスト》に48星座1022星として記載された。1437年イスラムの天文学者ウルグ・ベク はプトレマイオスの目録の星の位置を全部観測しなおし,天文表を改訂し,38年《新欽定天文表》を作成した。デンマークの天文学者T.ブラーエはヘッセン侯ウィルヘルムWilhelm4世とともに,N.コペルニクス が1543年に出版した《天球の回転について》の説を検定するため惑星位置の観測を始め,さらにこのための基礎観測として四分儀,八分儀,アストロラーブ ,渾天儀(こんてんぎ)を駆使し,1600年には777個の星を含む恒星目録を刊行,さらに星数1000個をめざして観測にはげんだ。かみのけ座はブラーエが追加した星座である。ダンチヒ(現在のグタンスク)生れの天文学者J.ヘベリウスはこのブラーエの結果をただし,さらに星数を3000個に増加しようとつとめた。41年私設天文台を開設以来,観測を続け,彼の死後90年に恒星目録が発表された。ここにはもとの星946個,新たに観測した星617個と合計1563個の星の等級・位置が記載され,以前の観測者ブラーエ,ヘッセン侯ウィルヘルム4世,17世紀イタリアの天文学者リッチオリGiambattista Riccioli(1598-1671),ウルグ・ベク,プトレマイオスの値と比較されている。そして従来の大星座の分割では分類できない星が出てきたので,12個の小星座を新設した。これらは(1)アステリオン,(2)カラ((1)(2)あわせてりょうけん),(3)とかげ,(4)こじし(小獅子),(5)やまねこ,(6)ウラニアのろくぶんぎ(ろくぶんぎ(六分儀)),(7)ソビエスキーのたて(たて(楯)),(8)しょうさんかく(小三角),(9)こぎつね,(10)がちょう((9)(10)あわせてこぎつね),(11)ケルベロス,(12)マエナルスやま,であるが,現在使用されているのは7星座のみである。
このほか,王侯の栄誉をたたえた星座として〈カエサルの玉座〉(命名はローマの大プリニウス),〈チャールズ(イギリス王チャールズ2世)のカシの木〉(E. ハリー)などがある。またすい星発見で有名なフランスの天文学者C.メシエを記念して,J.ラランドは監視者メシエ座という星座をカシオペヤ座とケフェウス座の間につくった。またオーストリアの天文学者神父ヘルMaximilian Hell(1720-92)は1781年の天王星の発見を記念し,やまねこ座とふたご座の間にハーシェルの望遠鏡座という星座をつくった。このほか自分の好みで使った星座にはティグリス座( J.ケプラーの女婿(じよせい)バルチウスJacob Bartschius(1600-33)),軽気球座,猫座(ラランド)などがあるが,いずれも現在星座名としては残っていない。
現行の星座 このように18世紀から19世紀初めにかけて多くの新星座が新設された結果,乱立,重複などの混乱が起こり,20世紀に入って,星座の整理・統合,境界線の確立が要望された。第1次世界大戦終了後,1920年に国際天文学連合が結成され,22年ローマの総会でこの問題が取り上げられ,専門委員会を組織し,ベルギーのユックル天文台長デルポルトEugine Joseph Delporte(1882-1955)を委員長に原案作成をすすめた。全天を88星座に分割(黄道12,北天28,南天48)すること,アメリカの天文学者B.A.グールドが南天星図に行ったように,1875年元期の赤経・赤緯の線で境界線を確定すること,星座の学名はラテン語でその所有格を使用し,アメリカの天文学者H.N.ラッセルとデンマークの天文学者E.ヘルツシュプルングの発案に従い,3文字に略記することが,1930年の総会で決定され,その結果は《星座の科学的区画法》として発表された。星座に関しては,これ以後の変更は行われていない。現行の88星座を表,図に示す。 執筆者:石田 五郎
中国の星座 中国の星座はヨーロッパとはまったく別の系統のもので,これは日本にも伝えられ,江戸末期まで使われたが,国際的に通用するものにはならなかった。中国の星座の名称は朝廷の組織や官名になぞらえたものが多く,星座の体系の原型が成立した前5~4世紀の戦国時代の諸国や動物などによって命名したものもあって,中国の社会や文化の特徴が反映されている。初期の時法と結びついた北斗七星 などは古くから注目され,また《詩経》に現れる星座のほかに,四季の目印とされた鳥(うみへび座α),火(さそり座α),虚(みずがめ座β),昴(ぼう)(おうし座プレヤデス=すばる)のような星や星座も《書経》に見える。赤道帯に沿った二十八宿 の星座体系も前8~6世紀の春秋晩期には成立していたが,4世紀に魏の石申,斉の甘徳らによって星座が体系化された。司馬遷はこの伝統を集成して《史記》天官書を書いたが,天人相関説にのっとって星座を官階に比して天官とし,北極を中心とした中官と,二十八宿を7宿ずつに分けて東,西,南,北の4官に区分した星座群が記録されている。こぐま座β星は天帝である太一 (たいいつ)にあてられ,北斗七星は帝車とみなされているのは道家的な思想の反映である。瑞祥とされた南極老人(カノープス星)なども見える。
〈天官書〉を踏襲した《漢書》天文志によれば,星官の総数は118官,星の数は783個である。三国時代の呉の陳卓(3世紀)は戦国期以降の伝統に従って,当時知られていた星座を甘公,石氏,巫咸の星に分類し,色分けして合計283官,1464星として星図をつくった。〈天官書〉に比べて星座の数は3倍近く増加した。600年前後の丹元子は星座を詠みこんだ《歩天歌》をつくったが,北極を中心に三つのグループに分けて紫微垣,太微垣,天市垣とし,残りを二十八宿に分属させて,全天の星を三垣二十八宿(舎)に分けた。《歩天歌》の星官と星数の総数は陳卓のそれと一致する。後世の星座の体系はこの方法によっている。1094年(紹聖1)宋の蘇頌の《新儀象法要》はこの星座体系によってつくられた天文学史上重要な資料である。 執筆者:橋本 敬造