昭憲皇太后(読み)ショウケンコウタイゴウ

共同通信ニュース用語解説 「昭憲皇太后」の解説

昭憲皇太后

名前は美子はるこ。1869(明治元)年に皇后となる。86(同19)年、華族女学校卒業式の際に初めて洋服で外出、87年の新年の宮中儀式で大礼服を着用した。同年、洋服は身体の動作に便利だとする思召おぼしめし(所感)を示して女性の洋装を奨励。その際、国産品を用いれば美術の進歩や商工の利益につながるだろうとも述べた。1914年に亡くなった後、明治天皇と共に明治神宮に祭られている。

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精選版 日本国語大辞典 「昭憲皇太后」の意味・読み・例文・類語

しょうけん‐こうたいごうセウケンクヮウタイゴウ【昭憲皇太后】

  1. 明治天皇の皇后。左大臣一条忠香(ただか)の女(むすめ)。母は新畑大膳種成の女民子。初名は勝子(まさこ)、のち美子(はるこ)。慶応三年(一八六七)女御となり、翌年皇后に冊立(さくりつ)。女子教育や社会事業振興に尽力。和歌に秀で、歌集に「昭憲皇太后御集」がある。嘉永二~大正三年(一八四九‐一九一四

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20世紀日本人名事典 「昭憲皇太后」の解説

昭憲皇太后
ショウケンコウタイゴウ

明治期の歌人 明治天皇皇后。



生年
嘉永2年4月17日(1849年)

没年
大正3(1914)年4月11日

別名
御名=美子(ハルコ),幼名=勝子(マサコ),富貴君,壽栄君

経歴
五摂家の一つ、左大臣一条忠香の三女、母は新畑大膳種成の娘民子。幼名勝子、富貴君、寿栄君、後に美子。慶応3年女御に内定、明治元年12月入内して皇后となる。幼少より古今和歌集を読み、和歌をよくし、その数3万6千首。「昭憲皇太后御集」「現代短歌全集」(改造社)に収められている。維新の志士遺族、日清、日露戦役の傷病者を慰問日本赤十字社などを通じて社会事業に尽され、また東京女子師範、華族女学校(女子学習院)の設立など女子教育の振興に貢献された。明治天皇死去の後は皇太后となり青山御所に移り、死後昭憲皇太后と追号された。実子はなかった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「昭憲皇太后」の意味・わかりやすい解説

昭憲皇太后
しょうけんこうたいごう
(1849―1914)

明治天皇の皇后。嘉永(かえい)2年4月17日、左大臣一条忠香(ただか)の三女として生まれる。初めの名は勝子。1867年(慶応3)6月女御(にょうご)となる。この年、天皇との年齢差、3歳の年長を、「世俗四つ目と称してこを忌む」として、1年遅い嘉永3年を公式の生年とした。1868年12月美子(はるこ)と改名、28日入内(じゅだい)の儀を経て皇后に冊立(さくりつ)された。勧業博覧会や各種共進会、富岡製糸場などに行啓して産業を奨励し、華族女学校、東京女子師範学校などの設立援助、開成学校、学習院への行啓など教育の振興にも努めた。また博愛社の設立、日本赤十字社、慈恵病院、愛国婦人会への援助など社会事業に力を注いだ。能楽、美術、工芸の発展にも心を配り、日清(にっしん)・日露戦争には出征軍人や傷病兵に下賜品を与え、慰問使を送った。和歌や古典文学に造詣(ぞうけい)深く、とくに作歌では3万6000首にも上る歌を残し、『昭憲皇太后御歌集』はその片鱗(へんりん)を示すものである。大正3年4月11日死去。昭憲皇太后と追号された。墓地は京都伏見(ふしみ)桃山東陵。

[宇野俊一]


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改訂新版 世界大百科事典 「昭憲皇太后」の意味・わかりやすい解説

昭憲皇太后 (しょうけんこうたいごう)
生没年:1850-1914(嘉永3-大正3)

明治天皇の皇后。名は美子(はるこ)。左大臣一条忠香の女で,1868年(明治1)皇后となる。文藻に秀で,和歌集に《昭憲皇太后御集》がある。華族女学校を創立し,東京慈恵医院を眷顧(けんこ)するなど,欧米の婦人の活動にならって女子教育や慈善事業の近代的発達を援助し,また万国赤十字連合に基金を贈り,国際的な赤十字事業も援助した。
執筆者:

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「昭憲皇太后」の解説

昭憲皇太后 しょうけんこうたいごう

1849-1914 明治天皇の皇后。
嘉永(かえい)2年4月17日生まれ。一条忠香(ただか)の3女。明治元年皇后,45年皇太后。博愛社(のちの日本赤十字社)などの社会事業や女子師範,華族女学校などの女子教育の発展につとめた。和歌や書をよくした。大正3年4月11日死去。66歳。墓所は伏見桃山東陵(京都市伏見区桃山町)。名は美子(はるこ)。
【格言など】みがかずば玉も鏡も何かせむまなびの道もかくこそありけれ(明治8年女子師範開校式での歌)

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百科事典マイペディア 「昭憲皇太后」の意味・わかりやすい解説

昭憲皇太后【しょうけんこうたいごう】

明治天皇の皇后,名は美子(はるこ)。父は左大臣一条忠香(ただか)。1868年12月入内の儀を行う。和歌に秀で,《昭憲皇太后御集》がある。
→関連項目明治天皇

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世界大百科事典(旧版)内の昭憲皇太后の言及

【入内】より

…女御入内の時期は,天皇の践祚または元服の年あるいはその翌年を標準とするが,必ずしも特定していない。なおこの儀は南北朝期以降中絶し,後陽成天皇のときに再興されて江戸時代末に及び,1868年(明治1)12月一条美子(昭憲皇太后)が立后の儀に先立って女御入内の儀を行ったのが最後である。しかし1910年制定の皇室親族令に,大婚の儀に先立ち,皇后となるべき人を后氏といい,その皇居に参入の儀式を后氏入内の儀と称しているのは,平安時代以来の女御入内の儀に倣ったものである。…

【フランクリン】より

… その点,明治維新以降日本が〈近代化〉を目ざすときに,この代表的近代人が一つのモデルとされたことは当然であろう。宮中でも彼の《自叙伝》が講ぜられ,昭憲皇太后がフランクリンの12の徳目を和歌にし,それが華族女学院の校歌にまで発展する。もちろん,フランクリンが広く日本に受け入れられたのは,その自主,独立,勤労の教えのゆえであり,その《自叙伝》は1887年に《名華之余薫》(御手洗清和訳)として訳出され,国木田独歩なども《自叙伝》によりつつフランクリンの伝記(少年伝記叢書第1巻《フランクリンの少壮時代》1896)を公にしている。…

※「昭憲皇太后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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