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①〔周〕?~前376 山西省汾水(ふんすい)流域を本拠とする周代の侯国。前7世紀前半から強力となり,山西の大半,河南北部を支配し,文公のとき中原の覇者となり(前632年),以後100年間楚(そ)と対立した。やがて政権は権臣に移り,領域は韓氏,趙(ちょう)氏,魏氏の3家(三晋)に分割されて(前453年),滅びた。都は絳(こう)(山西省侯馬市)。
②〔魏晋南北朝〕(1)西晋(265~316)魏の権臣司馬懿(しばい)が249年クーデタで魏の実権を握り,その子司馬師をへて,弟司馬昭のとき263年蜀(しょく)を併せ,その功で晋王に封ぜられ,265年その子司馬炎(武帝)が魏の元帝の禅譲で位についた。炎は280年呉を併せて天下を統一し,占田・課田の法をしいた。炎は初め一族を諸王に封じて兵権を授けたが,炎の死後八王の乱が起こって西晋は混乱した。それに乗じて匈奴(きょうど)の劉淵(りゅうえん)が山西に国を建て,子の劉聰(りゅうそう)は洛陽を陥れて懐帝を捕え(311年),ついで劉曜(りゅうよう)は長安に愍帝(びんてい)を捕えて西晋を滅ぼした(316年)。いわゆる永嘉(えいか)の乱で,西晋は4代で滅亡し,これより華北は五胡十六国に入る。(2)東晋(317~420)これよりさき,建業にあった司馬睿(しばえい)は名族王導らの支持で即位し,東晋を建てた。これを頼って南方にくる中原の名族が多く,江南の開発も進み文化も盛んとなったが,東晋の皇室は,彼ら名族と土着の豪族との調整に苦心した。東晋の帝権は弱く,王敦(おうとん),蘇峻(そしゅん),桓玄(かんげん)ら将軍の政権争いが続いたが,その間謝玄(しゃげん)は前秦の苻堅(ふけん)の南進を淝水(ひすい)の戦いで破った。東晋の末近く道教徒の孫恩(そんおん)らの乱が起こり,これに乗じて簒奪を企てた桓玄を殺した劉裕(りゅうゆう)が台頭して,420年恭帝の禅譲を受け宋を建てた。東晋は11代で滅んだ。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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西晋とも。中国の魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国時代に続く統一王朝(265~316)。都は洛陽。魏の末,蜀を攻撃して台頭した司馬氏は,司馬炎(しばえん)に至って魏の元帝から禅譲をうけ王朝を開いた。268年泰始律令を制定し,占田・課田法により民政の安定を得,280年呉を平定して統一を達成した。東夷諸国をはじめ外夷の朝貢をよくうけ,266年には倭の女王も遣使朝貢した。しかし八王の乱(300~306)で社会は混乱し,その隙に華北に五胡(ごこ)が侵入。311年匈奴(きょうど)が洛陽を陥し,懐帝を捕らえた。ついで愍帝(びんてい)も捕らえられ王朝は滅んだ。のち江南に東晋が再興された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…前半の大半の期間のことが魯国の年代記《春秋》に,後半のことが《戦国策》とよぶ書物に書かれているからである。前453年で二分するのは,春秋の大国晋の家臣であった韓・魏・趙の3代が主家を三分独立し,晋は事実上滅亡し,以後戦国の七雄といわれる韓・魏・趙・楚・斉・燕・秦の対立抗争の時代となるからである。
[歴史]
《史記》によれば,春秋初めには140余の小国が分立していたが,勢力のあったのは,魯(山東省曲阜),斉(山東省臨淄(りんし)),曹(山東省定陶),衛(河南省淇県,のち滑県),鄭(河南省新鄭),宋(河南省商丘),陳(河南省淮陽(わいよう)),蔡(河南省上蔡,のち新蔡,さらに安徽省鳳台),晋(山西省曲沃),秦(陝西省鳳翔,のち咸陽),楚(湖北省江陵,のち河南省淮陽,安徽省寿県),燕(北京市)の十二諸侯であり,洛陽には周王室があった。…
※「晋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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