広義の有明海は、長崎県の
近世にはこの海をさす統一的・固定的名称はなく、単に「前海」といい、あるいは各地それぞれの称でよんでいたと思われる(元禄五年のケンペル「江戸参府旅行日記」には「有馬湾」の称が紹介されている)。近代に入ると明治中頃までに北部(狭義の有明海)を「筑紫海」、南部を「島原海湾」とよぶようになったと思われ、明治二〇年代前半の輯製二〇万分の一図はこの名称を採用している。
往古、筑後国の沿岸が沈下した際に神功皇后が駐留したという伝説をもつ
諫早方面と肥前佐賀方面を結ぶ航路をはじめ、早くから肥前・筑後・肥後の諸国を結ぶ海路が開かれていたものと考えられる。天正年間有馬氏を討つために島津氏の兵船が派遣され、また軍勢を乗せた船が島原半島北部の「神代・井福・森山」などの諸郷村を偵察しているが(「上井覚兼日記」天正一二年四月三日条など)、江戸時代は長崎路を補佐する舟運として諫早津と佐賀の間が用いられた。元禄五年(一六九二)江戸に赴くケンペル一行は諫早から竹崎まで船三艘(うち一艘は荷物船)を櫓で漕いで向かっており、船頭らはこの湾を
県北西部の海、
島原湾湾奥部の湾入で、長崎・佐賀・福岡・熊本の四県に囲まれた内海。有明海の名称は明治三九年(一九〇六)刊「佐賀県案内」の付図、佐賀県実測図にみえるのが最初で、それ以前は有明沖(「佐賀県地理小志」明治一七年刊)、筑紫海(「大日本地名辞書」明治三四年刊)と記され、また筑紫潟(「帝国地名辞典」明治四五年刊)とも記されている。土地の者はたんに
有明海は古代から
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
九州西部、長崎、佐賀、福岡、熊本の4県に囲まれた内海で、島原湾の湾奥部を占める。ほぼ熊本県長洲(ながす)町と長崎県雲仙(うんぜん)市国見(くにみ)町地区辺とを結んだ線以北の海域をいう。明治時代の地図類などには筑紫海(つくしかい)・筑紫潟・有明沖と記され、干潟(ひがた)での漁労活動など沿岸の人々と深く結びついた海であることから、前海(まえうみ)ともよんできた。干満差は、六角川(ろっかくがわ)河口付近で大潮時には約6メートルにも達し、日本最大である。この有明海の潮汐(ちょうせき)活動と、九州第一の大河、筑後(ちくご)川をはじめ、矢部(やべ)川、嘉瀬(かせ)川、六角川、塩田(しおた)川などの諸河川の堆積(たいせき)作用によって、沿岸には広大な干潟が形成され、筑後川河口付近では最大幅員が約7キロメートルにも及ぶ。干潟は、潟土(がたつち)の泥質干潟と砂の混じる砂質干潟からなり、湾奥部の佐賀・福岡県側と西部の諫早(いさはや)湾などでとくに泥質干潟が発達する。この干潟の発達による自然陸化に、中世末期ごろから始まった干拓による人工陸化が加わって、筑後川下流右岸地域では、100年間に約1キロメートルの割合で平野が伸展してきたという。この陸地には有明粘土層が厚く堆積し、軟弱地盤地帯となっている。
[川崎 茂・五十嵐勉]
有明海は古くから不知火(しらぬい)燃ゆる神秘の海として知られたが、その風土はやはり広大な干潟によって代表される。干潟には、北原白秋(はくしゅう)の『わが生ひたち』に登場するムツゴロウやワラスボなどの干潟性生物が多く生息する。はね板(潟スキー)を利用してのムツゴロウとりなどの干潟漁労は、干潟の代表的風物詩である。干潟はまたシギ、ガンなどの野鳥の楽園でもある。蒲原有明(かんばらありあけ)の詩にみるカキや、白秋の名文にあるアゲマキなどの貝類の養殖にかわって、ノリ養殖が1950年代後半以降急激に伸び、東京湾をしのいで日本最大の産地となっている。
また、有明海の東岸の海底には、粘結性の石炭を埋蔵する。三井資本によるその開発は、大牟田(おおむた)地域に日本屈指の三池炭鉱(みいけたんこう)と、石炭化学コンビナートの成立を導いた。明治後期の閘門(こうもん)式三池築港は、遠浅で干満差の大きい障害を克服するための大工事であった。大牟田沖のノリひびの広がる海面に、海底の原料炭を本格的に開発するため、初島(はつしま)など世界初の人工島が出現した(1951)。しかしながら、1970年代以降は産炭量の減少が続き、1997年(平成9)の三池鉱山の閉山によって地域経済の衰退を招いた。
有明海に面する4県では、1952年(昭和27)に有明海地域総合開発協会が設立され、有明海の締め切りによる干拓計画や地下資源開発などの開発構想が企図されたが、1970年代以降のノリ養殖業の発達や米の生産調整によって計画は頓挫(とんざ)した。
[川崎 茂・五十嵐勉]
有明海の干潟の干拓は、元寇(げんこう)後の鎌倉時代末期ごろから始まり、江戸時代の新田開発で土居(どい)(土手)構築による地先の干拓が大きく進展した。その面積は肥前(ひぜん)(佐賀県)分約6300ヘクタール、筑後(ちくご)(福岡県)分約2000ヘクタールに及んだ。肥前佐賀藩の干拓は農民主体で、搦(からみ)などの名がつく地名で知られる零細な村請け干拓であった。それに対し筑後柳川藩(やながわはん)や肥後藩の干拓は、開(ひらき)の名が多く、とくに藩営や商人請負による新田開発に特色があった。明治以後は築堤技術が進み、干拓規模も大型化した。1951年(昭和26)に国営事業として潮止めを完成した有明干拓は、全面積約1174ヘクタール(有明工区)にも及び、入植農家数318戸を数えた。干拓地では海神を祀(まつ)り、高潮災害などからの安全を祈る竜王、海童信仰や、潮止観音信仰などがみられた。
しかしながら、大規模な水利組織の再編を伴わない干拓は、慢性的な水不足を招き、満潮時に遡(さかのぼ)る海水と淡水の比重の差を利用した不安定な潮汐逆水灌漑(かんがい)(アオ灌漑。アオとは潮によって逆流する淡水のこと)や地下水の揚水(ようすい)に依存する農地が拡大した。また、白石平野(しろいしへいや)のように地下水に依存する地域では、地盤沈下が深刻化した。これらの干拓地では、大規模な生産性の高い稲作が行われているが、第二次世界大戦後の干拓では、その多くが1970年代のコメの生産調整によって計画が途絶し、完成した干拓地が空港用地に転用されるなどの変化をみた。諫早湾では湾入部を締め切る潮受堤防が1997年(平成9)に締め切られて干拓地の造成が行われ、2008年から営農も開始された。しかし、潮受堤防閉門後のノリ不作など、周辺海域の環境悪化との因果関係が問題となり、堤防水門の開閉をめぐって争いが続いている。
有明海は、干潟特有の魚介類や底性生物が多く生息し、それを餌(えさ)とするシギやガンなどの野鳥が数多く集まる、国内でも貴重な湿地となっている。開発による干潟の減少が続く日本において、生物の多様性が微妙なバランスで維持されている有明海の干潟の保全が大きな関心をよんでいる。
[川崎 茂・五十嵐勉]
『千手正美著『有明海干拓の展開過程』(1967・九州農政局)』▽『『有明干拓史』(1969・九州農政局)』▽『平岡昭利編『九州 地図で読む百年』(1997・古今書院)』
筑紫海ともいう。古くは〈ありあけのうみ〉といい,不知火(しらぬい)燃ゆる神秘な海として知られた。九州本島の北西部,福岡,佐賀,長崎,熊本の4県に囲まれた内海。その範囲はまちまちで,広くは西を早崎瀬戸に限られた海域を指すが,ここでは島原湾の湾奥でほぼ熊本県長洲町と長崎県雲仙市の旧国見町を結んだ線以北の海域とする。日本最大の干満差があり,湾奥の六角川河口付近では大潮時最大約6mに及ぶ。このような潮汐の干満作用は筑後川,六角川,矢部川など大小河川の運搬する土砂の堆積作用とあいまって有明海を埋積し,大部分が水深20m以下の浅海となり,沿岸に広大な干潟を形成している。この沿岸の干潟地はきわめて肥沃で,古くから自然陸地化の開墾や日本最古とされる干拓工事が鎌倉時代から行われ,とくに江戸時代以後は大規模となった。干潟の発達は筑後川河口西岸の川副(かわそえ)地区に最も顕著で,佐賀平野に面する海岸では年平均1mずつ平地がのび,地名には搦(からみ),籠(こもり),開(ひらき)のつくものが多い。沿岸の干拓地は溝渠(こうきよ)網にめぐらされた九州最大の筑紫平野を形成し,米作を中心とする日本の農業の先進地となっている。沿岸では日本一の生産量を誇るノリ養殖のほか,モガイ,アサリ,アゲマキ,タイラギなどの魚介類の採取が多く,はね板(ガタスキー)を利用しての珍奇なムツゴロウとりは,干潟の代表的風物詩である。このほか特産のウミタケ,生きている化石オオシャミセンガイ,有明海のみにいる美しい〈エツ〉(カタクチイワシ科の魚)など貴重な生物が生息している。また大牟田付近の海底には,三池炭田の炭脈がのび,良質の石炭が掘り出されていたが,1997年3月閉山した。石炭の積出港として明治末期築港の閘門式三池港は,遠浅で大干満差の障害を克服した人工港である。
執筆者:岩本 政教
有明海での干拓の進展は主として江戸時代以降であり,江戸時代には干潟や地形および藩の対応などによって異なった動きがみられた。熊本藩では藩営開,御内家開,御一門開,手永開,御赦免開などがあり,藩,藩主,家老,惣庄屋によって行われ,干拓規模が大きかった。江戸初期には加藤氏による行末塘外新地(139ha)などの干拓があり,中期以降横島新地(一番開から十番開まで)計464ha,北浦新地(150ha),住吉新地(154ha)などが造成された。柳河藩では,五給人開,矢島開,惣左衛門開と開名がついた干拓地が多く,その主体は藩,家臣,豪農で,商人が資金提供などで間接的に参与して行われ,十六町開,六丁開といったように比較的中規模のものが多かった。佐賀藩では,庄右衛門搦,二十人搦,孫十搦など搦と称した干拓地が多く,おもに農民が行ったが,規模は零細で舫(もあい)組織によって進められた場合が大半である。佐賀藩での干拓工事は泥土の堆積を有効に活用した方式だった。まず築堤場所を定め,そこに松の丸太木をほぼ1.5m間隔に打ち込み,その杭に竹などをからませて柵を作り,数年間放置して泥土を自然に堆積させる。これを搦と称した。泥土堆積後に潮止堤を構築したが,これに多くの労力を要した。佐賀藩での干拓は500余ヵ所で行われたが,その大半は5ha以下であった。有明海の干拓は明治期から昭和初期には技術の向上もあり企業として行われたこともあって規模が大きくなった。諫早平野の山田新開280haが佐賀郡早津江の弥富家によって行われたことなどはその一例である。第2次世界大戦後は国営事業として大規模干拓が進められたため,著しく干拓地が拡大した。白石平野の有明干拓をみるとその規模は1700haに及ぶ。同干拓は1902年に計画が定まり,33年に県営事業として着工する。台風による堤防決壊などで工事が難航したが,46年9月に国営事業となり大規模に進められ,69年3月に完工した。有明海の干拓面積は,江戸時代1万2715ha,明治以後8256ha(《有明干拓史》)といわれ,江戸時代と第2次大戦以後が主になっている。国営干拓事業による干拓地は入植者に割り当てられたが,有明干拓の場合は約2haであった。現在は長崎県諫早湾の湾奥部干潟(3350ha)を全長7kmの潮受け堤防で閉め切り,調整池と干拓地を造成する国営事業が行われている。一方,貴重な干潟を守るため干拓反対の運動も起きている。
執筆者:長野 暹
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…日本最大の干満差があり,湾奥の六角川河口付近では大潮時最大約6mに及ぶ。このような潮汐の干満作用は筑後川,六角川,矢部川など大小河川の運搬する土砂の堆積作用とあいまって有明海を埋積し,大部分が水深20m以下の浅海となり,沿岸に広大な干潟を形成している。この沿岸の干潟地はきわめて肥沃で,古くから自然陸地化の開墾や日本最古とされる干拓工事が鎌倉時代から行われ,とくに江戸時代以後は大規模となった。…
…九州本島の北西部,福岡,佐賀,長崎,熊本の4県に囲まれた内海。《水路誌》では西は早崎瀬戸を経て外海の天草灘に,南は本渡(ほんど),三角(みすみ),柳の各瀬戸で八代(やつしろ)海に通じる海域全体を島原湾と呼び,湾奥部の浅い海面を有明海と通称する。一般には島原湾全体を有明海と呼ぶことが多いが,狭義には熊本県長洲町と長崎県国見町を結ぶ線以北を有明海,以南を島原湾と呼ぶ。…
※「有明海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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