木下尚江(読み)キノシタナオエ

デジタル大辞泉 「木下尚江」の意味・読み・例文・類語

きのした‐なおえ〔‐なほえ〕【木下尚江】

[1869~1937]評論家・小説家・社会運動家。長野の生まれ。キリスト教徒となる。普選運動社会主義啓蒙運動に奔走。また、日露戦争の際には非戦運動を起こす。小説「火の柱」「良人りょうじんの自白」など。

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精選版 日本国語大辞典 「木下尚江」の意味・読み・例文・類語

きのした‐なおえ【木下尚江】

  1. 社会思想家、小説家。名は「しょうこう」とも。長野県出身。東京専門学校英法科卒。毎日新聞社に入り、社会主義に共鳴して非戦運動を行ない、天皇制を批判。社会主義小説「火の柱」「良人(りょうじん)自白」を発表する。のちキリスト教社会主義を経て、静座法による修行生活に専念。著はほかに「霊か肉か」、自伝「懺悔」、評論集「荒野」など。明治二~昭和一二年(一八六九‐一九三七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「木下尚江」の意味・わかりやすい解説

木下尚江
きのしたなおえ
(1869―1937)

社会運動家、小説家。明治2年9月8日、信州松本(長野県松本市)の下級武士の長男に生まれる。1888年(明治21)東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)を卒業、帰郷して新聞記者となるが、正義の主張は郷党にいれられず、政治運動から矯風運動に方向をかえた。93年には代言人(だいげんにん)試験に合格、キリスト教にも入信した。97年中村太八郎(たはちろう)らとわが国初めての普通選挙運動を起こし、最初の犠牲者として獄窓を経験した。99年上京して島田三郎の『毎日新聞』に入社、以来、廃娼(はいしょう)問題、足尾(あしお)鉱毒問題などの社会問題を取り上げて、キリスト教ヒューマニズムに裏づけられた情熱と弁護士の論理で、激しい言論活動を続けた。1901年(明治34)5月の社会民主党の結成にも参加し、日露開戦にあたっては堺利彦(さかいとしひこ)・幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らを促して非戦運動を開始し、『毎日新聞』に『火の柱』(1904)、『良人(りょうじん)の自白』(1904~05)を連載して非戦論と家族制度批判を展開した。戦争が終わると社会主義者間の対立が表面化し、尚江は唯物論派と別れ、石川三四郎らとキリスト教派の雑誌『新紀元』の刊行に尽力していたが、06年秋、社会主義運動から離脱した。新聞社を退社し、一時群馬県の伊香保(いかほ)に住んで作家活動に沈潜したものの、理想社会の実現を人々の「悔い改め」に求めて宗教への傾斜を強め、10年からは岡田式静坐(せいざ)法に没頭した。共和主義者であったがため、小説の多くは発禁となり、新聞雑誌上の評論は出版社に危険視され、評論集としてまとめられたのは『飢渇(きかつ)』(1907)ただ1冊。長い間世間から忘れ去られていた。33年(昭和8)堺利彦が亡くなると執筆を再開し、明治史の調査に打ち込んだが、胃癌(いがん)の進行によって中断され、昭和12年11月5日死去した。

[後神俊文]

『『木下尚江著作集』全15巻(1968~73・明治文献)』


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百科事典マイペディア 「木下尚江」の意味・わかりやすい解説

木下尚江【きのしたなおえ】

社会運動家,作家。信州松本生れ。東京専門学校卒。キリスト教徒となる。1897年日本最初の普選運動を起こして入獄。1899年島田三郎の毎日新聞に入社,廃娼運動足尾鉱毒事件に活躍。1900年社会主義協会に入会。片山潜らと社会民主党創立に参画し,日露戦争に当たっては反戦運動を展開,かたわら《火の柱》《良人(りょうじん)の自白》と明治社会主義小説の代表作を書く。戦後母の死を契機に社会主義運動から離れ,自然主義的傾向を強くした。
→関連項目石川三四郎社会小説新紀元中里介山普通選挙期成同盟会

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20世紀日本人名事典 「木下尚江」の解説

木下 尚江
キノシタ ナオエ

明治〜昭和期のキリスト教社会主義者,小説家,新聞記者,社会運動家



生年
明治2年9月8日(1869年)

没年
昭和12(1937)年11月5日

出生地
信濃国松本天白町(現・長野県松本市)

別名
筆名=樹蔭生,緑鬢翁,松野翠,残陽生

学歴〔年〕
東京専門学校(現・早稲田大学)邦語法律科〔明治21年〕卒

経歴
郷里で弁護士開業、明治26年信府日報の主筆となり、30年中村太八郎らと普選運動を行い検挙された。32年上京して毎日新聞社に入り、廃娼運動、足尾鉱毒事件、星亨筆誅事件、天皇制批判の論説で活躍した。34年安部磯雄、幸徳秋水らと社会民主党の創立に参加。また幸徳らの週刊「平民新聞」を支援、日露非戦論を展開した。この時期に小説「火の柱」(37年)「良人の自白」(37〜39年)などを発表。35年総選挙に立候補したが落選。38年東京で立候補したが官憲の圧迫が強く演説会すら開けず、日比谷焼打事件で平民新聞は発行停止、平民社は解散に追い込まれた。38年石川三四郎らとキリスト教社会主義を唱導して雑誌「新紀元」を発刊、時事評論の筆をふるった。39年以降母に死別の打撃も加わり、心機一転、社会主義を捨て、毎日新聞を退き、「新紀元」を廃刊、伊香保に転居。小説「霊か肉か」を書き、次いで三河島に隠栖、「乞食」を書いた。43年岡田虎二郎の下で静坐法の修行に入った。「木下尚江集」(全4巻 春秋社)、「木下尚江著作集」(全15巻 明治文献社)、「木下尚江全集」(全20巻 教文館)がある。

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改訂新版 世界大百科事典 「木下尚江」の意味・わかりやすい解説

木下尚江 (きのしたなおえ)
生没年:1869-1937(明治2-昭和12)

作家,社会運動家。松本に生まれ,松本中学校,東京専門学校卒業後,郷里で新聞記者,弁護士をし,廃娼,禁酒,普選運動などに従事。国家主義者の攻撃に自己弁解するキリスト教に義憤を覚え,1893年これに入信。99年上京,島田三郎の毎日新聞社に入社,足尾銅山鉱毒問題で活躍し(足尾鉱毒事件),社会民主党結成(1901)に参加。日露戦争には非戦論を展開し,人道主義,共和主義の立場から資本主義の害悪,忠君愛国思想の偽善を鋭く批判した。小説《火の柱》(1904),《良人(りようじん)の自白》(1905)は平民社の財政的支えともなった。1906年の母の死より従来の自己に疑問を持ち,キリスト教社会主義を捨て,鉱毒問題で抵抗する谷中村農民の心情に触れて一種の自然主義的傾向を強くし,以後それを視点とした小説,評論を公刊した。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「木下尚江」の意味・わかりやすい解説

木下尚江
きのしたなおえ

[生]明治2(1869).9.8. 松本
[没]1937.11.5. 東京
社会運動家,評論家,小説家。 1888年東京専門学校法律科卒業後帰郷し,若くして『信濃日報』主筆となったが,地方政治家の不正をあばいて迫害され,弁護士を開業 (1893) 。その後上京し『毎日新聞』記者となり (99) ,廃娼運動,足尾鉱毒問題などに論陣を張る。 1901年片山潜とともに社会民主党結成をはかったが禁止され,03年幸徳秋水,堺利彦らが創立した平民社に参加,『平民新聞』の中心メンバーとして日露戦争に反対する非戦運動を展開,「筆の幸徳,舌の木下」といわれた。『火の柱』 (1904) はこの間の事情を描写した小説で,当時の社会悪を余すところなく描出した『良人の自白』 (04~06) とともに明治の社会主義文学の代表作である。しかしその後思想的動揺が生じ,母の死 (06) を機として毎日新聞社を退社,大逆事件 (10) 後,その著作はすべて発禁処分を受けて,隠棲,宗教生活へ入っていった。天皇制国家観念打破の思想と情熱は終生変らなかったという。その他の著書『懺悔』 (06) ,『飢渇』 (07) ,『墓場』 (08) 。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「木下尚江」の解説

木下尚江 きのした-なおえ

1869-1937 明治-昭和時代前期の社会運動家,作家。
明治2年9月8日生まれ。信濃(しなの)(長野県)松本藩士の子。郷里で新聞記者,弁護士となり,受洗。明治30年日本最初の普選運動をおこし入獄。32年毎日新聞社に入社,足尾鉱毒事件や廃娼(はいしょう)運動などに論陣をはる。34年社会民主党結成に参加。日露戦争に際し反戦小説「火の柱」をかく。のち社会主義運動を離脱。昭和12年11月5日死去。69歳。東京専門学校(現早大)卒。
【格言など】何一つもたで行くこそ故(ふる)さとの無為の国へのみやげなるらし(辞世)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「木下尚江」の解説

木下尚江
きのしたなおえ

1869.9.8~1937.11.5

明治・大正期のキリスト教社会主義者・小説家。長野県出身。東京専門学校卒。郷里で新聞記者となり受洗。中村太八郎らと普選運動などに従事したのち,上京して「毎日新聞」記者となり,足尾鉱毒問題で活躍。社会民主党結成や平民社の活動にも参加,日露戦争前夜には「火の柱」など反戦小説を執筆した。平民社解散後は月刊誌「新紀元」を創刊,東京市電値上反対事件に関係したが,母の死などから運動の第一線を離れた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「木下尚江」の解説

木下尚江
きのしたなおえ

1869〜1937
明治時代のキリスト教社会主義者・文学者
長野県の生まれ。普選運動・廃娼運動・足尾鉱毒事件などの社会問題に活躍。1901年社会民主党結成に参加。『平民新聞』によって日露戦争に対する非戦論を展開し,また『毎日新聞』に小説『火の柱』『良人の自白』を連載。のちキリスト教社会主義を説く『新紀元』を創刊したが,'06年ごろから政治運動を離れた。

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367日誕生日大事典 「木下尚江」の解説

木下 尚江 (きのした なおえ)

生年月日:1869年9月8日
明治時代-昭和時代のジャーナリスト;小説家
1937年没

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世界大百科事典(旧版)内の木下尚江の言及

【クロムウェル】より

…日本においては彼の生涯と業績は,主としてカーライルの《クロムウェルの書簡と演説》(1845)などを通して伝えられ,国王を処刑した〈ピューリタンの英雄〉として,明治時代の一部の知識人の生涯に決定的ともいえる影響を及ぼした。広範な社会活動を展開した小説家木下尚江の出発点には,松本中学の歴史の教室でのクロムウェルとの出会いがあったし,また教育勅語の発布を契機に起こった〈内村鑑三不敬事件〉(1891)の背後には,カーライルの書物を愛読した内村のクロムウェルへの傾倒があり,その後も内村はしばしばクロムウェルの生涯を論じている。なお日本で最初に彼の伝記を執筆したのは,竹越与三郎であって,その《格朗穵(クロムウェル)》は,1890年民友社から刊行された。…

【社会民主党】より

…宣言書を掲載した《東京横浜毎日新聞》《労働世界》《万朝報》なども発禁となった。発起人は,安部磯雄,片山潜,河上清,木下尚江,幸徳秋水,西川光二郎の6人で,幸徳を除きすべてキリスト者である。結党の背景には,労働組合期成会(1897結成)を中心とした労働組合運動が1900年治安警察法制定により衰退,期成会中心メンバーの一人の片山らが政治運動によって局面を打開しようとしたことがある。…

【徳冨蘆花】より

…《思出(おもいで)の記》(1900‐01)を経て,民友社と決別し《黒潮(こくちよう)》の第1編(1903)を自費出版。独自の自然観・社会観を根底に置いた当時の創作は,木下尚江(なおえ)らに影響を与えた。1905年心的革命を経験,翌年パレスティナ順礼の旅に出て帰途トルストイを訪問。…

【普選運動】より

…自由民権運動のなかから,中江兆民らの普選論が生まれたが,それはごく一部で,有権者は納税者に限るという考え方が一般的であった。1892年東洋自由党の党内組織として普通選挙期成同盟会が設立されたが,継続的な運動としては97年,松本に中村太八郎,木下尚江らにより同名の組織が結成されたことに始まる。同盟会は99年東京に進出し,翌年1月第14議会に請願書を提出,1902年第16議会で河野広中,花井卓蔵らの名で法案を提出した。…

※「木下尚江」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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