朝日日本歴史人物事典 「本多庸一」の解説
本多庸一
生年:嘉永1.12.13(1849.1.7)
幕末明治期のキリスト教界の指導者で日本メソヂスト教会初代監督,教育者。津軽藩士本多久元,とも子の長男。陸奥国(青森県)弘前生まれ。幼名徳蔵。慶応1(1865)年藩校稽古館司監。明治3(1870)年に漢訳聖書の創世記を一部読む。同年藩命で横浜に留学,英語を学ぶためJ.H.バラの塾に入り,キリスト教と出会う。同5年に再び自費で横浜遊学,バラより受洗,日本基督公会に参加し,神奈川県をはじめ,房総地方に伝道。同7年に帰郷,稽古館の後身東奥義塾塾頭となり,J.イングと共に伝道,翌年弘前公会を設立。共同会を結成して自由民権運動に参加,国会開設を請願する。同15年青森県議会議員に当選,議長として活躍。東京―青森間鉄道敷設問題で上京奔走する。同19年に議員を辞し,仙台教会(仙台五橋教会)牧師として赴任。翌年東京英和学校(青山学院の前身)校主兼教授および青山美以教会牧師に就任する。同21年に渡米,列車事故をまぬかれたのを契機に伝道・教育に専心する決意をかため,ドゥルー神学校に学ぶ。同23年東京英和学校校長に就任,以後17年間学校経営に当たる。その間,同25年の「教育と宗教の衝突」や同32年の宗教教育を禁止する文部省訓令第12号反対運動の指導者として活躍するとともに,日清,日露戦争では戦地慰問団を組織するなど,戦争協力に励んだ。同40年メソヂスト3派合同がなり初代監督となる。同45年の神仏基三教会同ではキリスト教の代表者として活躍。「尊皇愛国」の志をもってキリスト教を日本に根づかすべく尽力した。<著作>高木壬太郎編『本多庸一先生遺稿』<参考文献>岡田哲蔵『本多庸一伝』,青山学院編『本多庸一』
(大濱徹也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報