精選版 日本国語大辞典 「本木昌造」の意味・読み・例文・類語
もとき‐しょうぞう【本木昌造】
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長崎の人。字(あざな)は永久、梧窓(ごそう)と号した。北島三弥太の四男に生まれ、母の実家、オランダ通詞の本木家を継ぐ。家業がら、西洋の機械技術、ことに印刷、活字製造に興味をもち、1851年(嘉永4)自著『蘭和通弁(らんわつうべん)』をオランダ輸入の印刷機で印刷している。その後ロシア使節プチャーチンの通訳として伊豆戸田(へだ)でロシア艦の建造に関係し、幕府の長崎海軍伝習所通訳となったことから航海、製鉄術を習得した。1860年(万延1)幕府の長崎飽ノ浦(あくのうら)製鉄所(現在の三菱(みつびし)重工長崎造船所)御用掛に任命され、のちには頭取となり、西ノ浜鉄橋を架設し、その間1861年(文久1)には蒸気船を輸入し自ら船長として航海するなど、幅の広い活動をした。1869年(明治2)同製鉄所構内に活版伝習所を設け、上海(シャンハイ)からアメリカ人宣教師ウィリアム・ガンブルWilliam Gamble(?~1886)を迎えて、金属活字の鋳造に成功した。翌1870年頭取を辞任し、長崎新町に活版所を創設、門下の平野富二、陽其二(ようそのじ)(1838―1906)らとともに近代日本の印刷技術発展の道を開いた。明朝活字(みんちょうかつじ)といわれる大小各種金属活字の合理的なシステム、活字への日本の書のもつ美しさの導入、また印刷業の利潤を割いての長崎新塾開設による新しい市民の育成などは記念すべき業績である。
[飯田賢一]
『柴田四郎著『印刷文化の黎明――本木昌造の生涯』(1954・日本印刷新聞社)』
(有山輝雄)
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1824.6.9~75.9.3
幕末~明治初期のオランダ通詞,日本の活版印刷業の創始者。本姓は北島。幼名は作之助,名は永久,号は梧窓・点林堂。長崎の乙名(おとな)の家に生まれ,オランダ通詞本木昌左衛門の養子となり,昌造と称した。小通詞となり,プチャーチンやペリー来航の際に通訳を勤める。1860年(万延元)飽ノ浦(あくのうら)製鉄所御用掛となり,蒸気船艦長。明治期以後は新町活版所・築地活版製作所などを創設。活字の製造や体系化を行う。「長崎新聞」も発行した。
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…【山本 隆太郎】
【日本の印刷業】
[沿革]
江戸時代以前にも,木版による出版は多くみられたが,印刷業が近代企業として活発になったのは明治以降である。日本活版術の始祖とされている本木昌造は,1869年(明治2)長崎に〈新街私塾〉という学塾を開き,その維持費を得るために活版印刷の工業化を考えた。彼は,上海美華書館から多量の活字,活字鋳造機,印刷機などを買いつけ,上海美華書館の館長ガンブルWilliam Gambleを迎えて活版伝習所を設立した。…
…外国で行われている様式には,訂正個所に斜線を記し,欄外に訂正字または記号を記入するブック・システムbook system(欄外式)と,訂正個所から欄外に線を引いて訂正字を記入するパスライン・システムpath line system(引出し式)とがある。日本では多く引出し式が採られ,校正記号については,活版印刷を創業した本木昌造が1870年(明治3)に外国の方式を勘案して和文向きに作成したものが初めであるが,今日では,1934年に日本印刷学会校正記号委員会が定め,その後65年に工業技術院がそれをさらに取捨整理して日本工業規格(JISZ8208)として制定した記号が普及している。 校正は,著作者がする場合ばかりでなく,新聞社や出版社では,熟達した専門の係,すなわち校正者が担当する。…
※「本木昌造」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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