中国,南宋の朱熹(しゆき)(子)によって集大成された思想体系。朱熹自身は自己の教義を〈道学〉〈理学〉〈聖学〉〈実学〉〈義理の学〉などと呼んだ。これらは本来,北宋時代に興った新儒教の一派の自称であって,朱熹はその教義のもっとも正統な後継者をもって自任していたのである。とりわけ〈道学〉という呼称は,朱熹の晩年,当局がこれを〈偽学〉と貶称(へんしよう)して危険思想の烙印(らくいん)を押し,朱熹とその学団を弾圧するに及んで,かえって社会的に定着した。後世ではこれらの呼び名のほかに,北宋・南宋の道学を総称して〈程朱学〉〈洛閩(らくびん)の学〉〈性理学〉などという呼称も行われた。欧米ではNeo-Confucianism(新儒教主義)という。朱熹の教義だけに限定する場合には,〈朱子の学〉〈朱子の道〉などと称した。
以上のような事情があるので,朱熹の思想を述べるに先立って,北宋の道学について少し触れておかねばならない。唐末五代の動乱を平定して中国を統一した宋王朝は,従来の社会を再編成して新たな体制を作りあげた。そのもっとも重要なポイントは,社会の指導層がそれまでの貴族から士大夫という新興階級に移り,その頂点に強力な権力をもった皇帝が君臨したところにあった。士大夫とは,貴族のような固定的な階級ではなく,文化的には知識人,政治的には皇帝独裁制を支える官僚,経済的には地主であるような存在であるが,彼らに課せられた任務は,この時代に整備された科挙(官吏登用試験)を通過して政治にかかわり,その体得した学問を現実化してゆくことであった。これを士大夫の側からいえば,科挙は原則として万人に開かれていたから,家柄や門閥といった生まれつきよりも,個人の後天的な能力によって社会的地位が決まる時代が到来したわけである。このような士大夫によって生み出された,新しい文化の総体をひと口に〈宋学〉と呼ぶ。そのなかで,人間と社会のありうべき姿をきまじめに追求しようとした人々が道学派にほかならない。周敦頤(しゆうとんい)(濂渓(れんけい)),張載(横渠(おうきよ)),程顥(ていこう)(明道),程頤(ていい)(伊川)などはその代表である。
彼ら道学者はそれぞれに個性的であるが,彼らが引き受けようとした課題は,つまるところ自己をいかに高めてゆくか,皇帝と人民に対して責任をもつ士大夫として,いかに社会的実践にかかわってゆくか,という問題であった。実はこれは,すでに《大学》に〈修身治国〉(修己治人に同じ)というように,儒教のもっとも根本的なテーマなのであるが,今あらためて宋代の真摯(しんし)な士大夫たちの前に立ち現れたのである。しかしながら,北宋時代の道学者はこの問いに対する明確で周到な答えをまだ提出できず,この課題は南宋の朱熹に引き継がれたのであった。
時代は南宋に入ると様相を一変する。宋は異民族の金によって淮河(わいが)以北を奪取されたうえ,金に対して臣下の礼をとるという,屈辱的な講和条約を甘受せねばならなくなった。心ある士大夫は切歯扼腕(せつしやくわん)し,金との徹底抗戦を主張したが,ほかならぬ朱熹の父朱松も,そのような熱烈な民族主義者の一人であったし,朱熹自身も金との和平路線には反対し続けた。朱子学の形成に,こうした危機的な時代状況が大きく作用したのは否めぬ事実である。また,思想界に目を転じても,〈異端〉思想である禅の簡明直截な教義に心ひかれる士大夫が数多く存在していた。北宋時代からすでにそうであったが,とりわけ北宋の末から南宋の初めにかけて,臨済の再来といわれた大慧宗杲(だいえそうこう)が新しい禅風を起こし,多くの士大夫を吸引して,その心の不安に答えていた。宗杲が没したのは,朱熹が34歳のときのことである。朱熹自身も十代のころに参禅の経験をもったほどであって,当時禅は士大夫社会において一種のブームのごとき観を呈していたのである。しかし,朱熹にとっていっそう憂うべきことは,このように国家と中国文化が危機に瀕しているにもかかわらず,多数の士大夫が自分ひとりの栄達にのみかかずらい,科挙のための受験勉強に血まなこになっている姿であった。
朱子学はむろん,朱熹という一個の卓越した頭脳によって作り上げられたものであるが,その形成の背後には,おおよそ上述のような状況が引金として存在していた。要するに朱子学は,漢民族の政治的,文化的アイデンティティの希求の所産なのであった。それは,朱熹が中原から遠く隔てられた,福建の片田舎に生まれ育った事実とも無関係ではあるまい。そこが辺境であっただけに,いっそう〈中央〉,すなわち真に伝統的なもの,中国的なものへの,自己同一化の欲求が激しかったのである。
朱熹の教義はどのようなものであったのか。朱熹は中国の思想家の多くがそうであったように,自己の思想をまとまった哲学論文として提出したことはなく,主として経書の注釈,ときには書簡や座談の発言を通して表明したが,われわれはそれらの言葉の奥に壮大な体系の存在を感得しうる。それはひと口にいって〈理〉と〈気〉による世界の把握である。〈気〉は宇宙に充満するガス状の連続的物質,物を形づくる基体,〈理〉はそこに内在する秩序ないし法則性であるが,朱熹は森羅万象の錯綜する世界をこの二つの原理に収れんすることによって,宇宙から人間に至る,天地間のいっさいの現象を統一的にとらえることに成功したのである。
朱熹が理気によって説明を与えた領域は,仮に今日のわれわれの学問分野によって区切ってみると,ほぼ以下のように整理することができる。(1)存在論(宇宙論),(2)自然学,(3)倫理学,(4)人間観,(5)心理学,(6)認識論,(7)宗教哲学,(8)歴史哲学,(9)文学論。次に,この分類に沿って簡単に解説してみよう。
(1)存在論(宇宙論) 宇宙は最初,混沌とした気によって充たされているが,やがて気の大回転により中央部に気が凝結して大地ができ,そのまわりを軽い気がめぐって天となる。ついで陰(地)の気と陽(天)の気の交合によって万物が生み出される。その場合,気があればかならず理がそこに内在して気に秩序を与える。理と気とはこのように密接に結合しているが,両者はあくまで別個の存在である。
(2)自然学 雨や風などの自然現象も陰陽の気の運動によって生じる。そこに内在するメカニズムが〈陰陽の理〉である。朱熹は当時において第一流の自然学者であり,天文学や暦法についてもすぐれた観察と知見を残している。それは彼の旺盛な理の追求の所産であったが,限界もまた認めねばならない。その原因として次のようないくつかの理由を挙げることができる。(a)時代的制約。(b)経書のドグマから解放されていなかった。(c)自然現象を自己の哲学から演繹しようとする姿勢が強かった。
(3)倫理学 ここでは,理と気の関係は理と〈事〉との関係に転移される。〈事〉とは具体的には君臣,親子といった人間関係であり,そこに存在する理は,仁・義・礼・智・信の五つに分節される。そしてこれらは,本来的に人間のなかに備わっているのであるが,現実の人間関係の場でそれが完全に発現しないのは,ある後天的な障害によるとされ,その克服が各人に課せられた任務となる。
(4)人間観 人間もまた気によって形づくられているが,同時に理も賦与されている。この内在する理を〈性〉と呼び,上述のように仁・義・礼・智・信に細分されるから,人間の本性は善である。ところがこれらは,気によってその発現が阻害され,十二分に自己を現実化できない。それは宝玉が濁った水の底に沈むさまに似ている。この宝玉を〈本然の性〉(本来的な善性),宝玉と濁水の総体を〈気質の性〉(現実態としての性)と呼ぶ。また,宝玉を〈天理〉〈道心〉,濁水を〈人欲〉〈人心〉といい,さらに前者を〈天理の公〉,後者を〈人欲の私〉と,公私によってとらえることもある。悪やエゴイズムは後者から生まれるから,人間は善性をもちながらも,悪に赴く危険性にさらされていることになる。ここに,人欲の私に打ち勝って天理の公に復帰するための〈工夫(くふう)〉(修業)が要請される。
(5)心理学 人間の肉体だけでなく,心もまた気によって作られている。しかし,心のすべてが気なのではなく,上に述べたようにその最奥のところに理,すなわち性がある。心が外物に触れて動くと,すなわち未発(みはつ)から已発(いはつ)になると,性は心の深層から気に乗って表層へ浮かび出る。これが〈情〉である。性の動きがすべて情であるが,ふつうこれを〈四端(したん)〉と〈七情〉にパターン化する。四端とは,惻隠(そくいん)(仁のあらわれ),羞悪(しゆうお)(義のあらわれ),辞譲(礼のあらわれ),是非(智のあらわれ)の四つ,七情とは,喜・怒・哀・楽・愛・悪(お)(にくしみ)・欲の七つをいう。性は善であるから,それが動いて情となっても,善はそのまま実現されるはずであるが,已発の過程で気によってゆがめられるので完全な善として発出しない。そこで考え出されたのが〈未発の涵養(かんよう)〉と〈已発の省察〉である。前者は,情を正しく発見させるために,静座することによって心の本源を養う工夫であり,後者は,已発の瞬間に情の正・不正を省察して,不正ならばそれを除去し,正しければそれを拡充してゆく工夫である。この二つを止揚したものが〈居敬〉(心の集中)である。
(6)認識論 事物に宿る理を追求すること。〈窮理〉または〈格物致知〉という。しかし,ヨーロッパ的な認識論とは異なり,一事一物の窮理を積み重ねてゆくと,突如〈豁然貫通(かつぜんかんつう)〉(一種のさとり)が訪れるという。また,外物の理は心のなかにも備わっているとされるから,外物の理の追求は同時に心の凝視によっても果たされることになる。このように,主観と客観が分化されていないところに,朱熹の認識論の特異さがある。
(7)宗教哲学 中国の言葉では鬼神論という。人間は気によって作られているが,その気のなかに霊妙な働きをするものがあり,それを〈魂(こん)〉と〈魄(はく)〉と呼ぶ。魂は精神的なものにかかわり,魄は肉体的なものにかかわるが,人が死ぬと魂は天にのぼって〈神〉(祖霊)となり,魄は地にくだって〈鬼(き)〉となる。子孫が祖先をまつる廟(びよう)でお祭りをすると,天上の神は子孫の真心に感応して祭場に降りてくる。しかし,長い時間が経つと,気である神はやがてあとかたもなく消滅してしまう。
(8)歴史哲学 天地の間に充満する気は,時間の経過とともにしだいに悪化してゆく。それはあらがいがたい運命(気数,気運)として,人間社会にも影響を及ぼし,歴史はしだいに下降線をたどらざるをえない。周以来,聖人が生まれなくなったのもこの気数による。しかしその一方で,下降してゆく歴史を復元する力として理が存在する。人々が理に対する信頼を失わず,ひとりびとりがその力なる理=性の実現に力を傾注したなら,悪化する歴史を救済しうるであろう。
(9)文学論 文章(文学)は道=理を戴(の)せるものでなければならないが,しかしまた人間のやむにやまれぬ情=気の所産でもある。のみならず,人を動かすのは文章に内在する気の力であって,衰世の文章に力強さがなく,人が老いると書く文章に迫力がなくなるのは,時代や人間の気が衰弱しているからである。このような文学における気の重視は,早くから父親ゆずりの詩才をあらわし,晩年には《楚辞》に注を書くなど,豊かな文学的感性に恵まれていた朱熹その人の資質ともかかわりがあろう。
以上が理気の観点からみた朱子学のアウトラインであるが,このうち朱熹がもっとも力点を置いたのは人間と社会の問題である。彼は北宋の道学者たちが唱えた〈聖人,学んで至るべし〉(学問修養を積むことによって人は聖人になりうる)というスローガンをいっそう高々と掲げ,士大夫たちを鼓舞し続けた。そのための修養法が上に述べた〈居敬窮理〉にほかならない。これをセットにしたのは,居敬だけでは現実世界の筋道がみえてこず,窮理だけでは外物によって動揺しない,主体性のある心を保持しがたいと考えたからであった。わかりやすくいえば,秀才であると同時に人格のすぐれた人間像を彼は当時の士大夫に求めたのである。
しかしながら,このようにして完成された人格は他者や人民をおのずから教化するとしても,それだけでは〈修己治人〉の両項を完全に満たすことはできない。かくて朱熹は〈修己〉の上に立ってさらに〈践履(せんり)〉(社会的実践)を要求する。人に求めただけでなく,朱熹自身,しばしば官僚として地方に赴き,民生の安定に全力を傾注した。そこに彼の〈仁〉(同胞愛)の思想の実践をみることができる。数多くの門人たちに対する熱心な教育も,彼の社会的実践のあらわれであろう。われわれは朱子学というと,その教義だけに限定しがちであるが,朱子学がまだ人間の生き方の指針と仰がれていた時代には,教義のみならず,朱熹という一個の人間の生の軌跡の総体が朱子学の名で呼ばれていたのである。
朱子学は,朱熹の生存中は有力な一地方学にとどまり,その晩年の〈偽学の禁〉によって絶学の淵に立たされたが,各地に散在した門人の活躍によってしだいに社会的地歩を固めてゆき,ついに元の延祐元年(1314),朱熹の定めた経典解釈が科挙の標準的テキストとして採用される。これより元・明・清にわたる600余年のあいだ,朱子学は国家教学の座を専有するのである。
しかし,ひとたび権威化すると,自己の不完全さをたえず自覚しそれを克服してゆくという,そのもっとも根本的な教義が忘れ去られてレディメードの思想に堕してゆき,朱熹の言葉はむなしい口頭禅となった。のみならず,科挙に採用されたことで,朱熹があれほど嫌った立身栄達の手段になったのは,思想史の皮肉というほかはない。むろんその一方で,朱子学を自己の問題として受けとめ,それを主体的に補塡(ほてん)し発展させた真摯な朱子学者たちがいたのは事実であるが,多くの人々に思想的魅力を感じさせたのは,むしろ朱子学を活性化させた陽明学の方であったのも否めぬ事実である。
朱子学はやがて中国から東アジア世界に波及し,周辺諸国に大きな影響を与えたが,本国以上にこれを信奉したのは朝鮮であった。13世紀末の高麗時代に元から伝えられた朱子学は,次の李朝時代に入ると,国家教学に採用され,16世紀には李退渓(李滉(りこう)),李栗谷(りりつこく)(李珥(りじ))の二大儒が現れて朝鮮人の儒教として根を下ろした。この国の朱子学受容の特徴は,ひとつには李朝500年間にわたり朱子学一尊を貫徹したことで,仏教はいうにおよばず,陽明学も異端思想として厳しく拒絶された。また,朱子学の理気論をいっそう掘りさげる一方,朱熹の《文公家礼》(冠婚葬祭手引書)を制度として移植し,朝鮮古来の礼俗や仏教儀礼を儒式に改変した。李退渓に始まり,17世紀の宋時烈を経て,19世紀の李恒老によって集大成された,朱熹の文集全巻にわたる精密な注釈の仕事も,他の国では例をみない事業であった。
日本でも朱子学は江戸幕府の体制教学となったが,朝鮮に比べるとゆるやかな受容といわざるをえない。朱子学があたかものちの西欧文明のように,当時におけるもっとも先進的な思想体系として仰ぎみられたのは,日本も朝鮮も同様である。しかし日本の場合,すぐれた思想家の多くは,はじめは朱子学を学んで自己の思想を形成しても,のちにはその批判者に転じている。伊藤仁斎や荻生徂徠がよい例である。むろん,山崎闇斎のように,元・明の朱子学ではなく朱熹ほんらいの教義に帰ろうとした篤実な朱子学者も現れ,その学統(崎門(きもん)学派)は日本思想史の一大潮流とはなったが,上述したように反朱子学者や陽明学者に弾圧が加えられたわけではなく,思想の選択肢が比較的多様であった。また,儒教-朱子学の根の部分である礼についても,《文公家礼》を遵奉した熱心な朱子学者はいたけれども,大多数の日本人の礼俗は仏式か神式であって,儒式の冠婚葬祭はついに制度として日本に定着しなかった。朝鮮と比較した場合,朝鮮人がいわば朱子学の服装にすっかり着換えたのに対し,日本人は帽子だけであった,ということができよう。
朱子学の功罪はさまざまにいわれるが,東アジア世界が数百年にわたって同じ思想と言葉を共有し,信奉者であれ批判者であれ,西方からまったく別種の文明の体系が押し寄せるまで,この教義から世界のとらえ方と人間のあり方を学んだ事実は,厳然たる事実として認めなければならない。
執筆者:三浦 国雄
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中国、南宋(なんそう)の朱熹(しゅき)(朱子)によって築き上げられた新しい儒学。六朝(りくちょう)時代から隋唐(ずいとう)時代の思想界を席巻(せっけん)した仏教・道教に対抗してこれを乗り越えるべく、ややもすると煩瑣(はんさ)にして空虚なる字句注釈に陥った旧来の章句の学からの脱却を図り、改めて経書の真精神、孔孟(こうもう)の真に意図するところを明らかにしようという宋代儒学の完成したものである。その学説は、北宋(ほくそう)の周敦頤(しゅうとんい)、張載(ちょうさい)、程顥(ていこう)、程頤(ていい)およびその学統に連なる道学者の学説を集大成し、とくに二程(とりわけ程頤)の学統を引き、その説を継承発展させたものである(したがって程朱学ともよぶ)。朱熹によれば、周張二程らは、堯(ぎょう)・舜(しゅん)以来聖人に伝授されて孔子に至り、さらに孔子(孔丘(こうきゅう))の教えを正しく祖述した孟子(もうし)(孟軻(もうか))以後断絶してしまった真の「道」をふたたび復興したもので(道統の説)、朱熹自身その継承者たらんとするものであった。かかる道統の説と密接な関連をもって、すなわち孔子、曽子(そうし)、子思、孟子という儒学の伝授を認めて四書(ししょ)を重んじ、これに学問の目的とその次第を考え、五経の入門・階梯(かいてい)の書とした。そして四書に注釈を加えるとともに(『四書集註(しっちゅう)』)、広く経典を研究しその再解釈を試みた(これを新注という)。
[大島 晃]
その思想理論上、特筆すべきは、仏教・道教の影響を受けながら理気心性の学を樹立したことである(性理学ともいう)。理と気とを2本の柱として生成論・存在論から心性論・修養論にわたった整然たる理論体系を完成したことは空前絶後のことで、朱熹以後、清(しん)代中期に至るまで朱子学派に属する人々はもちろんのこと、これに反対する人々もみな朱熹の理論を土台とし出発点としている。とくに理の思想は程頤、気の思想は張載の影響を受けている。形而下(けいじか)なる気は物質を形成する根源、一気の流行に伴い陰陽・五行の交感、結合によって万物が生成される。形而上なる理は所以然(しょいぜん)の故(こ)(事物の存在の根拠)、所当然(しょとうぜん)の則(そく)(事物の当為としての面とくに道徳の規範)さらに条理とも説明される。あらゆる事物は気によって形成され理が賦与されており、本性は理を受けて備わる(「性即理」という)。人間は肉体を形成する気質の阻害を除去してこの本性の十全なる発現を目ざすべきで、それに向けてのくふうが居敬(きょけい)と窮理(きゅうり)(格物致知(かくぶつちち))であった。なお理気は原則的に相互依存・同時存在の関係にあるが、理が存在の原理としての性格をもつことから理気の先後が問題にされ、理のほうが優越して考えられている。つまり理はア・プリオリ(先天的)に事物の存在を規定する根本原理であり、しかも道徳的法則でもあるから、名教的規範として機能した。朱熹以後、かかる理の性格や理気の関係をめぐり、さまざまな考え方が出されることになった。
[大島 晃]
朱子学は朱熹の晩年には偽学として圧迫されたが、死後名誉回復がなされ、官学への道を歩み始めた。明(みん)の永楽(えいらく)年間(1403~24)に『四書・五経大全』『性理大全』が編集されて科挙の試験に用いられ、朱子学の正統的地位は清末まで続いた。朝鮮では李退渓(りたいけい)、李栗谷(りりつこく)が出て16世紀後半に朱子学全盛期を迎え、学理上の論争も行われた。わが国には鎌倉時代に伝来し、禅僧によって研究され、やがて江戸初期、藤原惺窩(せいか)、林羅山(らざん)、山崎闇斎(あんさい)らが現れて隆盛に向かった。
[大島 晃]
『『朱子学大系 第1巻 朱子学入門』(1974・明徳出版社)』▽『島田虔次著『朱子学と陽明学』(岩波新書)』▽『三浦国雄著『人類の知的遺産19 朱子』(1979・講談社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
宋学・宋儒学・新儒学とも。11世紀頃南宋の朱子によって体系化され,中国をはじめ東アジアに大きな影響を与えた儒学の一大哲学体系。朱子は,北宋の周濂渓(れんけい)・張横渠(おうきょ)・程明道・程伊川(いせん)らの儒学説を集大成し,孔子以来の儒教を再解釈して,宇宙・社会・人性を首尾一貫した論理で捉えようとした。その思想は,万物の存在を理と気によって説明し,人間は本来的に絶対善なる本然の性を具有しており,居敬・窮理という為学修養により気質の性の混濁を除去すれば,誰もが聖人になれるとした。これは,貴族制社会を解体し新しい中央集権的統一国家を形成しようとした宋王朝と当時の知識階級にうけいれられ,儒学の理想主義を政治のうえで実現する可能性を切り開いた。朱子学は元・明代以降,清代末にいたるまで儒教の正統的解釈として君臨した。日本には鎌倉時代に禅僧によってもたらされたが,戦国末期の思想的革新と近世の学問興隆を背景に修正をうけつつも,近世を通じて知識人の世界観の基礎をなした。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…弘治12年(1499)の進士。明朝教学体系の中枢を占めた朱子学の権威に疑問の投げかけられはじめた思想・社会状況のなかで,王守仁は思想形成をなし,独自に良知心学を樹立して,強烈な朱子学批判を行った。ために思想界は朱子学の呪縛から解放されて,彼の出現以後の思想界は百花斉放の観を呈した。…
…寛政改革の一つとして行われた江戸幕府の教学振興策。1790年(寛政2)5月,聖堂預り林大学頭信敬に塾内での教育は朱子学専一にすべき旨を達した。当時,徂徠学派,仁斎学派,折衷学派の流行に対して幕府の林家塾は不振の状態であり,朱子学擁護論が安永(1772‐81)ごろから出始め,松平定信の老中就任によって実現した。…
…したがって郡県制帝国の王朝体制が克服される近代化の過程で,儒教は思想・文化上の打倒目標となり批判された。なお,儒教は過去の朝鮮,ベトナム,日本の文化形成に深刻な影響を与え,とくに朱子学はこれらの地域の諸政権とむすんで長期に正統教学の位置を占めた。通常,儒教の学術面を〈儒学〉と称し,教学的性格をその開祖の名をとって孔子教Confucianismともよばれる。…
…宋以後,士大夫階級の勃興とともに,教育研究に対する要求が強まり,官学に対する私立の学校として,個人の手で書院がつくられた。とくに南宋におこった朱子学は書院の盛行を促し,朱熹(子)の復興した白鹿洞書院をはじめ各地の書院で,朱子学の講義と研究が行われるようになった。さらに明代の陽明学では,人間は良知をもつものとして平等だと考えられたため,ときに庶民も参加して,書院における講義と自由活発な討論が行われた。…
…そのため禅心学は無の哲学をその中核に保有する。これに対抗して宋の程朱学(朱子学)は理学(性理学,道学)を主唱した。彼らは禅心学を,定準なき心に安易に依存し容易に私意妄行に陥り,これでは主体性を確立し人格的に自立することも不可能であり,経世済民の責任を担うこともできない,と激しく非難した。…
…ここでは仁斎個人の思想として述べる。 総体的にいえば,仁斎学は朱子学の克服を目ざして形成された。まず朱子をはじめとする先行の注解を排除して直接《論語》《孟子》を熟読することが求められる。…
…その内容は徂徠の主著《学則》《弁道》《弁名》《徂徠先生答問書》などに述べられる。徂徠以前にもっとも勢力のあった儒学思想は朱子学であって,徂徠もはじめは朱子学を学んだが,40代の中ごろ,1710年(宝永7)ころから朱子学に二つの点で疑問を抱くようになった。朱子学では,道徳の修養を積んで人格を完成させるのが人間のつとめであると教える。…
…この宋学は南宋の朱熹(子)によって大成された。 朱子学を構成する個々の要素は,すでに北宋の宋学で準備されたものが多く,朱子の独創と見るべきものは少ないが,これらを論理的に整合し,一つの完結した哲学体系としたのは朱子の力である。それは哲学,政治,歴史,科学を包括する壮大な学問体系であった。…
…朱子は宋学の大成者であり,その学問は哲学であるとともに政治学,歴史学,倫理学,科学であるという性格をもち,総合的で包括性をもつ体系であった。このため朱子学の隆盛以後,仏教は衰退の一途をたどることになった。ただ朱子学は,その理性主義のゆえに,これにあきたらぬ反対学派を生み出す可能性がつねにあった。…
…寡婦の貧窮にして寄るべなき者は〈再嫁すべきや否や〉と問われて,〈寒餓の死を怕(おそ)れる〉からにせよ,〈餓死は事きわめて小なり,失節は事きわめて大なり〉とこたえた。この貞節観が南宋の朱熹(子)に継承され,朱子学の盛行するにつれて,再婚を失節とするモラルがしだいに広まり,寡婦の言動を外から規制するようになる。明代になると,貞操の固い寡婦を表彰するだけでなく,その家の租税を減免したりする。…
※「朱子学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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