江戸初期に明(みん)から渡来した儒学者。名は之瑜(しゆ)、字(あざな)は魯璵(ろよ)(楚璵(そよ)は誤り)、号の舜水は郷里の川の名からとった。中国浙江(せっこう)省餘姚(よよう)の士大夫の家に生まれ、明国に仕え、祖国滅亡の危機を救わんと、海外に渡って奔走、長崎にも数度きたり、七度目の1659年(万治2)長崎に流寓(るぐう)した。翌1660年柳川(やながわ)藩の儒者安東省庵(あんどうせいあん)(守約(もりなり))と会い、彼の知遇を受ける。水戸藩主徳川光圀(とくがわみつくに)が史臣小宅生順(おやけせいじゅん)(1638―1674)を長崎に遣わして、舜水を招こうとしたのはその数年後。初め応じなかったが、門人省庵の勧めもあり、招きに応じて水戸藩の江戸藩邸に至ったのは1665年(寛文5)7月、66歳のときである。以後水戸にも二度きているが、住居は江戸駒込(こまごめ)の水戸藩中屋敷(東京大学農学部敷地)に与えられ、天和(てんな)2年4月17日83歳で没するまで、光圀の賓師(ひんし)として待遇された。『大日本史』の編纂(へんさん)で有名な安積澹泊(あさかたんぱく)(名は覚)はその高弟。墓は光圀の特命によって水戸家の瑞竜山(ずいりゅうざん)墓地(常陸(ひたち)太田市)に儒式をもって建てられた。舜水が水戸藩の学問に重要な役割を果たしたことが知られる。舜水の学問は朱子学と陽明学の中間、実学とでもいうべきものである。その遺稿は光圀の命によって編纂された『朱舜水文集』(28巻)などに収められている。
[瀬谷義彦 2016年2月17日]
『朱舜水記念会編『朱舜水』(1912・朱舜水記念会事務所)』▽『稲葉君山編『朱舜水全集』(1912・文会堂書店)』▽『小田岳夫著『桃花扇・朱舜水』(1971・新潮社)』▽『木下英明著『文恭先生朱舜水』(1989・水戸史学会)』▽『石原道博著『朱舜水』新装版(1989・吉川弘文館)』
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江戸前期に明から日本へ帰化した儒者。名は之瑜(しゆ),字は魯璵(ろよ),号は舜水。浙江省余姚の人。明朝の再興に尽力したが成功せず,1659年(万治2)に帰化。初め安東省庵に生活を助けられ,その後徳川光圀に招かれて厚遇され,水戸藩の学事に協力した。舜水の儒学思想は朱子学や陽明学にとらわれず,実理・実学を重んじた。著書には《舜水先生文集》《朱徴君集》など,詩には《泊舟稿》がある。
執筆者:石毛 忠
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1600.10.12~82.4.17
江戸初期に日本に亡命した中国明末の遺臣・儒学者。名は之瑜(しゆ),字は魯璵(ろよ)・楚璵,舜水は号。余姚(よよう)(浙江省)生れ。経世済民の志を抱き,一族の期待をうけながらも明末の混濁した官界に違和を感じて度重なる明朝からの仕官要請に応じず,明末の遺臣鄭成功(ていせいこう)の南京攻略に従軍して敗北し,明室復興をあきらめて1659年(万治2)長崎に亡命した。このとき柳河藩の安東省庵(せいあん)の援助をうけた。65年(寛文5)水戸藩の小宅処斎(おやけしょさい)の推挙で同藩の賓客となり,藩主徳川光圀(みつくに)の厚遇をうけ,前期水戸学の形成に影響を与えた。「大日本史」編纂に大きな功績を残した安積澹泊(あさかたんぱく)はその弟子で,朱舜水の学問を実理・実学と評言している。
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1600~82
明の遺臣。浙江(せっこう)省余姚(よよう)の人。名は之瑜(しゆ),舜水は号。明の復興運動に従い,1659年日本に渡来。儒者として徳川光圀(みつくに)の賓客となり,水戸学に影響を与えた。
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…青年時に京都に出て,松永尺五に朱子学を学び,のち柳川藩に儒官として仕えた。1655年(明暦1)明の朱舜水が長崎に渡来したとき,だれもかえりみなかったが,省庵のみはその学徳を知って師事し,自己の俸禄200石の半分を割いて舜水の生活を援助したことで知られる。儒者としての活動にとくに見るべきものはないが,漢詩文に関心が深く,その面で伊藤仁斎・東涯と交わり,作品が《搏桑名賢文集》(1698),《搏桑名賢詩集》(1704)に収録される。…
…
[小石川後楽園]
水戸藩初代の徳川頼房が徳川家光から江戸中屋敷として与えられた地に1629年(寛永6)築造を始めた。2代光圀(みつくに)もこれを継承し,中国明の遺臣朱舜水の意見を用いて中国趣味を付け加え,市民にも観覧を許可した。中央に池があり,四方に築山を配して各地の名所にちなむ堂社や亭(ちん)を建てたが,その後1702年(元禄15)将軍綱吉の生母桂昌院の来園で歩行障害となる奇岩大石を取り除いたため,景趣は著しく減じ,翌年の江戸大地震でも損傷をこうむった。…
…すなわち,福岡藩儒医で,当時,日本最高の博物学者であった貝原益軒(1630‐1714)は,わざわざ長崎へ行き,中国から来た貿易商人に会って質問し,中国にサクラがないという情報を得,これをもとに叙上の記載をなしたのである。サクラが中国にないという新情報は,延宝年間(1673‐81)の日本知識人に強烈な衝撃を与えたらしく,もうひとり,同時代の百科全書的大学者である新井白石(1657‐1725)も,近世言語学の古典と仰がれる《東雅(とうが)》(生前未刊行,写本のみ流布)のなかに〈むかし朱舜水(しゆしゆんすい)に,ここの桜花の事を問ひしに,桜桃は此にいふサクラにあらず,唐山にしても,もし此にいふサクラにあらむには,梨花(りか)海棠(かいどう)の如き,数ふるにたらじと,我師也(わがしなりし)人は語りき〉と記述している。わが師なりし人とは木下順庵(1621‐98)をさし,朱舜水(1600‐82)とは長崎に亡命してきた明の儒者で,のちに帰化して水戸藩で古学的儀礼や農業実学などを講じた学者である。…
※「朱舜水」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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