日本大百科全書(ニッポニカ) 「李克強」の意味・わかりやすい解説
李克強
りこくきょう / リークォーチャン
(1955―2023)
中国の政治家。安徽(あんき)省定遠(ていえん)県生まれ。胡錦濤(こきんとう)とは戸籍上は同郷人である。1974年3月から1976年まで、安徽省鳳陽(ほうよう)県大廟(たいびょう)人民公社東陵生産大隊で知識青年として活動に参加。1976年5月に中国共産党に入党。同年11月から1978年まで、同生産大隊党支部書記として活動した。文化大革命の終息に伴い1970年代末に全国普通高等学校招生入学考試(大学入学試験)が復活すると鳳陽県の最優秀成績者となり、1978年3月に北京(ペキン)大学法律系(法学部)に入学する。在学中は模範的学生として高い評価を受け全校学生会責任者を務めた。1982~1983年北京大学共産主義青年団(共青団)委員会書記、共青団中央常務委員となり、1983~1985年には共青団中央書記処候補書記に、1985~1993年には共青団中央書記処書記となり、同時に全国青年連合会主席を兼任した。1984年から1985年にかけて胡錦濤が共青団中央書記処第一書記の地位にあり、両者の関係が緊密になっていった。李克強は1993年から1998年には共青団中央書記処第一書記となり、中国青年政治学院院長を兼任した。この間、1988年から1994年に北京大学経済学院に在学し、経済学修士、博士の学位を取得している。
1998年から地方の行政指導者としての活動が始まった。2002年には河南(かなん)省党委書記となり、2004年に遼寧(りょうねい)省党委書記に転任し、2005年から2007年まで省人民代表大会常務委員会主任を兼任した。2007年の第17回党大会で党中央政治局常務委員に選抜され、2008年から2013年まで国務院常務副総理、党組副書記を担当した。2012年の第18回党大会では習近平(しゅうきんぺい)に次ぐナンバー2の政治局常務委員となり、2013年3月に国務院総理(首相)、党組書記となった。就任当初は経済財政分野の担当責任者になるとみられ、その経済戦略を「リコノミクス」と表現するメディアもあった。慣例では党中央財経領導小組の組長には国務院総理が就任していたが、2013年の早い時期に、そのポストには李克強ではなく習近平自身が就任しており、この分野でも李はイニシアティブを握れなかったことが判明した。第19回党大会(2017)にかけて、習近平と李の指導力の差はきわめて鮮明になり、もはや習の対抗馬とはいえなくなった。
[天児 慧 2018年4月18日]
2023年3月、2期にわたり務めた首相を任期満了により退任。同年10月、心臓発作により死去した。
[編集部]