デジタル大辞泉 「村」の意味・読み・例文・類語
そん【村】[漢字項目]
[学習漢字]1年
〈ソン〉
1 むらざと。いなか。「村落/寒村・漁村・郷村・山村・農村・
2 地方行政区画の一。「村長・村民税/町村」
〈むら〉「村人・村八分」
[名のり]すえ・つね
語源については、「ありか(在処)」の変化したものとする説があるが、未詳。「つのさはふ石村(いはれ)も過ぎず」〔万葉‐二八二〕の「石村」は地名「いはれ(磐余)」の借訓であるが、「村」に「あれ(または、ふれ)」の訓のあった証拠である。
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。ましてやその人口の多寡,村境域の構造,集落の形態,耕地のあり方,さらにはその法的な性格などということになると,〈むら〉とはこういうものだということを一律に規定することは,はなはだ困難である。また日本の例をみても明らかなように,自然発生的な集落としての〈むら〉と,国家行政の末端単位として上から設定された〈むら〉とでは,規模はもちろん,そこに住む住民の意識にも,大きな違いがある。これに類したことは,ヨーロッパ諸国においても,〈むら〉と〈教区〉あるいは〈裁判区〉などとの関係として認められる。また同じように畑作農業と牧畜を兼ねるヨーロッパの農村にあっても,スラブ民族の地域には,しばしば多数の人口をもつ大規模な〈むら〉があり,〈村抱え〉の各種職人層の分化がみられるものの,その経済的なあり方が,外部の市場への窓口を閉ざした自給自足的な社会集団をなしているケースが多い。ところがこれとは逆に,西ヨーロッパの諸地域では,〈むら〉は総じて小規模な自然発生的なまとまりとして存続し,歴史的にみても,絶えず近傍の都市や市場との関連を保ちつつ,発達してきたというのが一般である。
しかしそのため西ヨーロッパの特定の地方では,まず18~19世紀を通じての産業革命の影響で,農村はその経済構造に大きな質的変化を示したが,それにつづく20世紀後半の急激な都市化・工業化と地域開発に伴う過疎・過密の波は,多くの地域での〈むら〉のあり方を,その根底からゆるがしつつあるというのが現状である。にもかかわらず,一般的にみて西ヨーロッパの〈むら〉には,日本における以上に,いまなお中世以来の基本的性格が保存されているように思われる。本項では人類文化における〈むら〉の多様なあり方を,ヨーロッパ,中東,インド,中国,朝鮮,日本の順に詳説する。〈むら〉に対応する〈都市〉の項目も参照されたい。
ヨーロッパ,とりわけ西ヨーロッパに限ってみた場合,だいたいアルプス山脈およびロアール川を境とした南ヨーロッパと北ヨーロッパとでは,〈むら〉の成立事情や住民の団体意識に,かなり大きな相違が認められる。すなわち南ヨーロッパでは,ローマ時代からの伝統が強く,中世農民の多くは,都市に住む地主的市民ないし封建領主の土地を耕す小作人の性格が強かったため,民俗学的意味での古いしきたりを残す村落があるにしても,村民の側からする自主的な自治の精神は,北ヨーロッパに比べて弱く,経済的にみても都市への依存・従属の度が大きかった。これに反しアルプス以北の農村は,開墾などによる一部自由民村落のほかは,中世を通じておおむね聖俗両界の荘園領主の所領であったが,荘園そのものが,実は既存の〈むら〉を前提にしたいわば二次的な土地支配の体制(領主制)であったため,領主支配に対応するだけの団体意識と村落運営のしくみが,すでに準備されていたという特色をもっている。三圃制にみられるような強力な団体的規制をとる〈むら〉が,もっぱらアルプス以北に成立し,いわゆるゲルマン的土地所有の概念により,それがあたかもヨーロッパの〈むら〉の類型のように説かれてきたのは,この事情と関連している。
ところで,中世における各種の文書史料ならびに17,18世紀に作製された残存の耕地図などにより,ヨーロッパの集落形態を考えてみると,それには大きく分けて次の三つのタイプが,中世以来存在していたことがわかる。すなわちその一つは,ほぼ30戸前後の農民家屋敷がおのおの自家の菜園地を伴いながら,〈むら〉の中心部に核をなして密集し,その周囲を垣根や柵で取り囲み,その外側にいくつかの共同耕区がひろがり,さらにその外側に森林,牧草地,荒蕪地などの入会地をもつという,三圃農法に最も適合的な〈集村Haufendorf〉であり,第2は10戸前後のルーズなまとまりで,共同の入会地や耕区もあるが,各戸別の耕地も不規則に散在する〈小村〉,すなわちゲルマン地域で〈ワイラーWeiler〉,イギリスで〈ハムレットhamlet〉などと呼ばれる形態であり,第3のタイプは,家屋敷の周囲に各戸の菜園地やブロック状の大小さまざまな耕地,あるいは牧草地などをもち,一戸一戸が分散して,団体規制のきわめてゆるい〈散村Einzeldorf〉である。このほか,干拓や開墾により計画的に道路に沿って規則正しく各戸の家屋敷,菜園地,耕地,牧草地などをもつ〈街村Strassendorf〉,あるいはスラブ系諸族の地域にみられる〈円村Rundling,Runddorf〉などのタイプがあるが,西ヨーロッパの主要な集落形態は,上述の三つと考えてよい。
この3形態の起源または成立事情につき,従来の学説は,これを民族性と関係づけ,集村をゲルマン人に固有のもの,散村または小村をケルト系民族の遺制ないしは中世中期以降における開墾によるものとみなしてきた。ところが20世紀の20年代以降,考古学,地名学,地質学など歴史補助学の成果を取り入れた実証的な総合研究が進んだ結果,集落形態と民族性を簡単に結びつけることの誤りが指摘され,通説は根底からゆるがされるに至った。そして現在ほぼ定説と認められている結論の概略は次のようである。
まずゲルマン人について立証可能な初期中世における一般的な集落は,4~5戸からせいぜい10戸程度のルーズなまとまりであり,各家屋敷に付属した不規則な形の菜園および耕地のほかに,極端な長形地条から成る主穀生産のための広い共同耕区(エッシュEsch)と入会地を伴うものであった。学界ではこれを〈原初村落Urdorf〉と呼んでいるが,その主体はおそらく民族移動期の氏族または従士団であったと思われる。そしてそこでは,個別的な農地利用と粗笨な共同地利用という二つの原理が共存していたことがわかる。このような原初村落の多くは,人口増加の激しい特定地域において,やがて有核化Ballung現象をおこし,20~30戸前後の密集村落,つまり〈集村〉となり,夏畑・冬畑・休閑地の輪作という,当時の農業技術をもってしては最も合理的な三圃制を採用するに至るのであるが,その転換が立証されるのは,ようやく8世紀以降のことであり,しかもそれが先駆的にみられるのは,ライン,セーヌ両川の流域から西南ドイツ一帯にかけての特定地域に限られていた。しかしこの生産力が一段と高い三圃制をとる集村は,封建領主側からの要請に対応しつつ,ほぼ13世紀末までの間に,中部ヨーロッパからイングランド南東部および北ヨーロッパ全般に普及することとなった。そのため集村こそゲルマン的な中世村落を代表する形態であるかのように受け取られたのである。しかし現実には,その地理的・地質的な諸事情から,古い原初村落が逆に個別経営に重点を置く〈散村〉に変化した地域,あるいは〈小村〉形態を保持せざるをえなかった地域も多く,その分布は複雑な様相を示している。その場合,一般的に言えることは,総じて集村が穀物生産に適合的であったのに反し,小村,とくに散村地帯が,12~13世紀にみる貨幣経済の進展とともに,市場目当ての特産物生産の場となる傾向を示したということである。
その成立事情により,このような相違があるため,集落の景観に大きな差があることはいうまでもないが,それにもかかわらず,〈むら〉の自治的な団体意識の現れ方には,共通したものがみられるので,ここでは集村に重点を置きつつ,現在でも認められる村落の姿を概観することとしよう。
まず村外へ通ずる主要道路が交わるような〈むら〉の中央には,多くは石畳を敷いた広場があり,その近傍に洗礼教会や村の会所,広場に面して居酒屋めいたレストラン兼宿屋や雑貨屋などがあって,そこが村びと全体の社交の場となっている。また近世初頭までは,村の鍛冶屋や靴屋があり,村はずれには粉挽きのための水車や風車を伴うのが普通であった。村道の四つ辻や小高い丘にある祠堂に季節の花を供える素朴な農民の姿,〈五月の樹〉を中心に豊作を祈って若い男女が輪になって踊る楽しいダンスなどは,中世そのままに,今もなお各地で見ることができる。
近代化の波が村落の景観を変えたところが多いが,集村はもともと前述のように,家屋敷と菜園地,各戸の持分が整然たる地条をなして混在するいくつかの開放耕区(開放耕地制度),森林,牧草地,荒蕪地などの入会地から成る農民生活の共同の場であり単位であった。そうした村境域全体の面積は,地形によって違うにせよ,平野部の古い〈むら〉では,その考古学的考証から推定して,ほぼ20km2前後のひろがりであったように思われる。
〈むら〉の構成員は,近世になるとどこにでもみられるように地主,自作農,小作人,農業労働者といった階層分化を示すが,中世においては,荘園領主との関係で,農民身分の呼称は地域によってまちまちであり,きわめて複雑であった。しかしそうした多様な呼称は,近代的意味での階級の差別ではなく,村落の中心部に家屋敷をもち,一定の農地持分を保有するものは,自由農民,農奴の別なく,総じて〈むら〉の構成員として認められ,開放耕区での共同耕作はもちろん,放牧や共同地利用の諸権利をもっていた。また〈むら〉の公共施設,道路,橋梁などを管理・補修し,村内の治安を維持するための,もろもろの義務を負っていたことはいうまでもない。このほか,村はずれにはこうした権利・義務をもたないいわゆる〈小屋住農〉や新参の移住者が住みついた事例も多いが,彼らは原則として〈むら〉の構成員ではなかった。これを要するに,古いしきたりとして歴史的に形成された共同体的な諸規制が,〈むら〉本来の構成員の団体意識を高める役割を果たしたのであり,領主による恣意的な収奪,とりわけ伝統的に共有地であるはずの入会地への領主の侵害などに抵抗する自治の法理,つまり〈良き旧き法〉を死守すべきだとする意識が,すでにそこに根強く育成され潜在していたのである。16世紀に勃発するドイツ農民戦争の背景も,あるいはスイスに今も残る村落自治の伝統も,この事情を無視しては考えられない。
このように,歴史的に積み重ねられた〈むら〉のしきたりや掟,あるいは荘園領主との関係で取り決められた農民の権利や義務は,12~13世紀以降,16世紀にかけて,〈ワイストゥーム(村方判告録または村法)〉と呼ばれる記録史料の形で各地に現れ,その多くが雑多な要素を含みながら今に残存しているため,この史料を通じてかなり具体的に〈むら〉の運営や法意識をうかがうことが可能である。しかしそこには,開放耕区における耕作や放牧についての諸規制のほかに,領主側の意図が色濃く含まれているものが多いため,この史料をもって,直ちにゲルマン古来の自由農民の自治的・共同体的性格を立証する法源とみなすのは,明らかに誤りである。例えばそこからは,〈むら〉の裁判集会につき,多くの場合,大きな菩提樹などのある広場へ席を設け,成年男子の農民全員を集めて,毎年一定の日時に,村内で発生した具体的な係争事件につき判決を発見し,判告を全員に読み上げる光景が読み取れるが,この集会の上席には必ず領主側の役人がおり,村方のそれと立ち会う形をとりながら,集会の運営に大きく関与していたことがわかる。しかしそれにもかかわらず,構成員の全員参加による判決の発見,団体意思の確認という手続きと形式は,スケールこそちがえ,今日スイスの各州(カントン)自治体で行われている直接民主主義的なランツゲマインデLandsgemeindeの原型を思わせるものがある。
村方判告録ないし村法は,このような性格をもつものであるため,その地域差が大きく,中世都市の勃興期に達成されたあのすぐれて自主的・誓約団的な,また相互に共通点の多い〈都市法〉と比較するならば,その自治の法理や諸制度の面で質的な相違があるといわなければならない。したがって〈むら〉には,中世都市が国制史上にもっていたような地位はなく,それはせいぜい荘園領主の恣意的支配に抗する団体であるとともに,12~13世紀から新しく台頭する領域支配圏,つまり城主制ないし裁判領主制との関係での〈村落共同体Dorfgemeinde〉という法的な末端単位にすぎなかったのである。しかしそれが農業経営の単なる集落としてでなく,〈共同体Gemeinde〉としてその法的性格を自覚するのが,あたかも都市の市民が〈都市共同体Stadtgemeinde〉としての地位を確立する時期,すなわち12世紀からであるということは,同時代における支配に対する法意識の変革として注目されなければならない。
このような〈むら〉の自治的諸権利は,近世に入り,国家権力や領邦権力の増強とともに,漸次公権力による司法・行政の末端組織に編入され,次いで貨幣経済の浸透により,農地経営,ひいては農民の団体意識に大きな変化がもたらされた。しかし,それにもかかわらず経済的に後進的な諸地域の〈むら〉には,いまでも古いしきたりが守られ,村びとの日常生活と結びついた手工業をはじめ,水車の管理人,牧童,村決めの触れ役,冠婚葬祭に際しての隣保的な諸役等々の制度が残っている事例が多い。とくにゲルマン的要素の強い諸地域の農村では,今もなお〈隣組(Nachbarschaft,Rotte,Viertel)〉と呼ばれる相互扶助の組仲間が,親戚関係とはまったく無関係な形で広範囲に普及し,日常生活に計り知れぬ役割を演じているが,これも中世以来の庶民生活のなごりである。こうした諸制度は,民俗学的な研究対象としては,地球上のすべての〈むら〉で,類似現象として認められるところであろうが,西ヨーロッパの〈むら〉にあっては,その根底にいわば下から積み上げた自治の法理と,構成員による農地や入会地の共同運営という歴史的な実績を踏まえ,それを上からの一方的な支配に抗する団結のよりどころとしたという,農民の団体意識の強さに,その特色を求めるべきであろう。
執筆者:増田 四郎
中東社会のむらは,灌漑水や飲料水を得る必要から,都市の場合と同じく,大河の流域や平原のオアシスに存在する。同じ乾燥地帯に属するむらでも,灌漑農業地帯と天水農業地帯とでその性格は異なっていたが,いずれの場合にも,都市形成の母体として,また都市への食糧供給地として古代以来重要な役割を演じ続けてきた。前7000年ころになると,北メソポタミア,シリア,トルコなどの地域で自然の降雨を利用した天水農業が始まり,やがて小麦や大麦などの穀物栽培と牧畜を生活の基礎とする集落が形成されるようになった。これらの集落は数十戸の農家からなる小さな農村共同体であったが,前5千年紀に入ってメソポタミア南部の開拓が進み,高度な灌漑農業が行われるようになると,生産力の増大と人口の増加によって,むらから都市への発展が各地でみられた。シュメール時代の都市国家では,神殿が経営する耕地の灌漑作業が司祭たちの指導によって行われていたことが特徴である。しかし都市国家の領域には,神殿が管理するむらのほかに,王領地や有力者に属する私領地も存在し,やがてこれらを基礎にして世俗の都市王権が形成されていく。
メソポタミアから伝播した農耕・牧畜技術を習得してエジプトが生産経済の段階に入るのは,前4500年ころのことであった。ナイル川の氾濫水を人工堤防によってせき止める溜池(ベースン)灌漑の方法が考案され,河川の流域には小麦栽培を中心とする農業集落がつくられた。これらの集落は,自給自足をたてまえとしていたものの,生活の必要物資を交易によって求め,また灌漑用の築堤や水路の開削にはむらの範囲を越えた協業が必要であったから,共同体的な排他性はしだいに薄れていった。前3千年紀になると,農業生産の発展に伴って都市へと成長していくむらが現れ,さらに灌漑組織を統一的に把握する強力な王権も誕生したのである。プトレマイオス朝時代には,王領地の農民を用いて灌漑工事や荒廃地の強制耕作が行われ,またティグリス,ユーフラテス川の流域でもササン朝ペルシアによる運河の開削・整備によって数多くのむらや都市が建設された。
7世紀に成立したイスラム政権は,このような古代オリエント時代の農耕法とむら組織とをほぼそのままの形で継承した。アラブの征服軍は支配下の農村社会には手をつけず,租税(ハラージュ,ジズヤなど)の徴収だけを唯一の目的にしていたからである。初期イスラム時代には,コプトの村長であるエジプトのマーズートmāzūtやイラク・イランの在地土豪であるディフカーンdihqānが,在地の有力者として租税の割当てやその徴収に責任を負っていた。しかし8世紀ころからアラブが地主となってむらに定着し,また官僚的な徴税機構が整うようになると,これらの村長はしだいに地方名士としての地位を喪失し,代わってシャイフと呼ばれるアラブの村長がむら社会をとりしきるようになった。かつてイラン社会で大きな権限を振るったディフカーンが,11世紀ころまでには,農民一般を指す言葉として用いられるようになったことが,この間の変化をよく物語っている。
イスラム時代の中東では,アラブのむらを一般にカルヤqaryaといい,イランのディーフdīh,トルコのキョイköyがこれに相当する。しかしアラブ社会の場合には,政府が租税徴収の単位として把握するむらはバラドと呼ばれるのが普通であり,これは一つのカルヤからなることもあれば,二つの小村からなっていることもあった。自然村であるカルヤの規模は大小さまざまであって一定していない。大きなむらの場合には,その周辺にカフルkafrあるいはマンシャーmanshā'と呼ばれる小さな集落のできていることがよくあった。これは,水路の開削に伴う耕地の拡大や人口の増加,あるいは遊牧民の定着などを契機として親むらのまわりに形成された枝むらであって,租税の納付額は親むらと合わせて計算されていた。イランやトルコの場合にも,小農場としての枝むら(マズラエmazra`e)は親むらに付属しているのが通常の形態であった。家屋はむらの中に散在していたのではなく,1ヵ所への集住形式をとるのが一般であったが,大家族はそれぞれ別個の居住区(ハーラḥāra)を構成して住んでいた。
住居の周辺には,むらの住民が利用するためのモスクや教会,客人歓待用の家(マドヤファmaḍyafa),畜力あるいは水力を利用する粉ひき臼,脱穀場,聖者の墓,共同墓地などの公共施設があり,これらがむらに固有な景観をつくり出していた。ナツメヤシ,ブドウ,オレンジなどの果樹園や小麦・大麦栽培のための耕地はその外側に広がっていたが,家屋と公共施設が,略奪や野獣の侵入を防ぐために,土壁で囲まれていることも少なくなかった。また大きなむらでは,都市と同じように隊商宿(キャラバン・サライ)や市(いち)(スーク)があり,織物商や生薬商はそこに常設の店舗を構えていた。したがって,むらにもモスクが建てられるようになる11世紀以後については,都市とむらの間に社会施設の点で大きな相違は認められない。しかし生活の基礎が農業生産にあるという点で,むらはやはり都市とはおのずから異なる性格を備えていたといえる。
都市とむらの相違は,住民構成の面でとくに際だっていた。むらのまとめ役である村長は,農民による水利の慣行を維持し,政府による農村調査や検地のときには,むらを代表して村民の状態を報告する義務があった。またエジプトの農村に固有なハウリーkhawlīは,耕地の種類やその耕作状況によく通じている者であって,むらの耕作地を管理し,灌漑用の堤(ジスルjisr)を切るときには村長とともに立ち会うことが定められていた。都市民の中心が商工業者であったのに対して,むら社会を構成する主要な階層は,ファッラーフーンfallāḥūnあるいはムザーリウーンmuzāri`ūnと呼ばれる自小作の農民であった。平均的なファッラーフーンは,犂と2頭の牛を所有し,初期イスラム時代には,たとえ小作人であっても自ら国家に租税を納めるだけの自立性を備えていた。しかし,10~12世紀にかけて中東の社会にイクター制が成立すると,彼らはイクター保有者(ムクターmuqṭa`)に隷属する農奴的な存在へと転落していった。これらの農民以外にも,むらには耕地や道路の見回り役,揚水車や犂をつくる大工,ハティーブ(説教師),イマーム,物語師(カーッス)あるいは修道者などさまざまな職種の人間たちがみられた。もちろん,これらの非農耕民がすべてのむらに存在したわけではないが,彼らはそれぞれの役職に応じてむらの耕地の一部を与えられ,そこからの収入を生活の資として用いていたのである。
農民たちの生活は農業を基礎とするものであったから,イランのペルシア暦やエジプトのコプト暦のような太陽暦が,ムスリムとしての生活を律するヒジュラ暦と併せ使用されていた。小麦や大麦,豆類,亜麻などの冬作物を基本として,夏の渇水期にも,揚水車やはねつるべを利用して綿花,稲,サトウキビ,ゴマ,野菜などの夏作物が栽培された。とくに稲やサトウキビは,アッバース朝(750-1258)中期以降,新しい商品作物としてイランからイラク,エジプトへと急速に広まっていった。労働は秋の播種期と春から夏へかけての収穫期に集中し,冬の農閑期には運河や水路を開削・補修するために力役(スフラsukhra)の徴発が行われたが,厳しい寒さの中での作業は農民にとって大きな負担であった。力役を逃れるために,身体を傷つけて自ら不具になる者もあったといわれる。
むらは自給自足的で,しかも閉鎖的な生活を営んでいたわけではなく,早くから村落間には分業が発達し,各種の商品作物が遠近の都市へと出荷された。また香辛料や都市の手工業製品が移動商人(ラッカードrakhād)によってもたらされると同時に,近在の農民がロバに乗って都市まで買物に出かけていくこともまれではなかった。しかもクッターブでの初等教育を終えたむらの子弟には,都市のマドラサ(学院)で勉学を続ける道が開けていたし,カーッスも都市とむらの情報交換に重要な役割を演じていたから,経済的にも,また社会的にも都市とむらは常に密接な関係を保っていたといえる。むらと遊牧民との関係についてみても,農産物と乳製品や羊毛との交換以外に,遊牧民がむらの見回り役を請け負い,ときには農民とともに抗租反乱を起こすことによって,両者の間には相互に依存する関係が生まれていた。このように都市民と遊牧民との緊密な関係の下に,むらを中心とする地方社会(リーフrīf)が形成されていたのである。
このリーフの性格が根本的に変化するのは,近代的な土地改革が実施され,むら社会が世界市場と直結する19世紀以降のことであった。エジプトでは,従来のシャイフに優越する新しい村長職(ウムダ`umda)が設けられ,彼らはトルコ人やチェルケス人らの支配層(ザワートdhawāt層)とともに特権を享受し,その地位に応じて新興の地主層を形成した。とりわけアメリカの南北戦争の勃発を契機に綿花需要が拡大すると,政府の指導によって綿作モノカルチャー体制が導入され,これらの地主層は綿作農場主として多額の富を手中にした。また19世紀後半には個々の農民に土地所有権が認められたものの,地主層の土地集積によってこれを手離す農民が続出し,彼らは地主の農場(イズバ`izba)で小作農,農業労働者として働かざるをえなかった(地主)。
イランでもカージャール朝(1779-1925)時代になると,マーレキ・ライヤト制と呼ばれる地主・小作関係が成立した。マーレキは土地所有者として耕作の方法や収穫物の分益法に干渉し,村長(キャドホダーkadkhodā)を通じてむら支配を続けたが,この体制は1960年代のモハンマド・レザー・パフラビーによる農地改革期まで温存された。オスマン帝国のヤヤyaya歩兵軍団やスーフィーの長を中心にむらづくりが行われたトルコでは,ティマール制の下で小農民的土地保有を核とするむらが各地に成立した。しかし18世紀になると,チフトリキを基礎とする大土地所有制が一般化し,小農民による土地保有は漸次消滅した。地方有力者(アーヤーン)は管理人(ケトヒュダーkethüdā)を用いてチフトリキを経営したが,その内容は綿花,タバコ,トウモロコシなどの商品作物を中心とするものであった。
現代中東のむらは,18~19世紀に成立した地主制の桎梏を,第2次大戦後に進められた農地改革を通じてはねのけることにより誕生した。むらの景観自体に大きな変化はないが,農業協同組合の結成,機械化農業の導入,教育制度の改革,電気・ラジオの普及などが,農民の生活と意識を着実に変えつつあることは疑いない。
執筆者:佐藤 次高
インドは〈むらの国〉であり,独立の父マハートマー・ガンディーが農業と手工業の緊密な結合関係に立つ自給自足の経済と政治的自治をもつ村落共同体の復活を新生インドの基礎にすえようとしたことは,あまりにも著名な事実である。今日なおインドの人々の8割余がその数55万強のむらに居住し,そのうち7割弱のむらは人口500人以下である。
前1500年ころパンジャーブ地方へ移住してきたインド・アーリヤ人の集団は,500年ほどかけてガンガー(ガンジス)中流域に進出し,そこに農業を中心とする部族社会を形成した。この部族社会はマガダ王国を生み,その発展がマウリヤ帝国としてインドにほぼ統一的支配を及ぼし,これに伴って中央の先進的な文化がインド各地に伝播し,各地域の社会的・経済的発展を促進し,しだいに各地域がそうした文化を受容しつつ独自の社会と文化を発展させた。インドの社会と文化の原型は,こうした〈古代〉において形成されたものであり,むらの原型もこの時代に求められる。
伝説によると前6~前5世紀の北インドには16の大国(国=ジャナパダjanapada)が存在し,国家は県(ジャナjana)の,県はむら(グラーマgrāma)の集まりからできていた。〈ジャナパダ〉は〈部族(ジャナ)の足場〉を意味し,〈グラーマ〉は元来〈家畜とシュードラを率いて移動する血縁集団〉の意味であったように,インド・アーリヤ人のむらは,家父長に率いられた大家族の集団である部族の定住のなかから形成されたものである。マガダ王国からマウリヤ帝国の時代にかけてのガンガー中流域のむらは,防壁でもって囲まれた居住地を中心に,その周囲にはむらの構成員である耕作者の田畑が広がり,その外側には彼らが共同で利用する放牧地や森林地があり,ときには森林地や荒蕪地は王の所有であった。耕作者は奴隷を使用しており,彼らの間には土地所有の大小に伴う貧富の差が発生していた。むらで祭式を行うバラモンの地位は確定しており,むらの不可欠の構成員であった。むらには耕作者にサービスを提供する各種の職人がおり,不足した場合は近隣の職人部落からサービスを仰ぎ,またそこで生産された物が商人によってむらにもたらされた。むらの近くの被征服民(アウト・カースト)や未開の種族民(ときには外敵となる)からは,耕作その他の肉体労働を得ていた。むらには,むらのさまざまな問題を処理するむら人の集会があり,むら人の上には氏族や血縁集団の首長の系譜を引くむら長や長老たちがいた。彼らは一方ではむらの運営や秩序の維持に,他方では中央からの役人と協力して徴税や夫役の徴発,警察機能などを担当した。
グプタ朝以降盛んになるバラモンや寺院へのむらの施与は,同時期から始まる経済の自給自足化,文化の地方化などの傾向とともに〈インドの封建化〉の一指標とされている。こうした〈施与〉は,バラモンを国家の社会的政治的および経済的な支柱としようとしたものであるが,同時にこれは,むら人や農民の地位,むらの構造に大きな影響を与えることになったものと考えられる。グプタ朝以降〈古代〉の終末までの時代は,インドをして〈むら〉を中心とする社会であることを基本的に刻印づけた時代であった。この社会的特徴は,グプタ時代の都市の繁栄および商業の発達,あるいは〈中世〉における13世紀ムスリムによる北インド征服とそれに伴う都城の建設と商業の復活,さらにはムガル朝下での大都市の成長などの〈発展〉をもってしても,基本的に変わらなかった。
インドにおいて〈むら〉そのものが自覚的,意識的に問題とされるようになったのは,イギリス植民地行政官によってであった。彼らは真の土地所有者ないし現実の地租負担者はだれかを認定する調査の過程で,村落制度や土地制度を問題とし,彼らの知的関心とヨーロッパにおける共同体論争は,インドをしてヨーロッパの過去を保存する生きた博物館とすることになった。
彼らによれば,インドの村落共同体は農工の緊密な結合とその内部で生産から消費までなされる自給自足の経済的完結体であり,同時にむら内部の運営や秩序維持,紛争処理などに上級権力は介入せず,それらはむら長や長老たちの集会によって行われるという政治的自治を有していた。むらは土地所有に大小はあるが,一定の農地を世襲的に耕作する〈合同家族〉を基本的単位として構成されており,彼らにサービスを提供する大工,鍛冶工,陶工など職人のカースト(ジャーティjati)に属する者は,〈むら〉によって雇用され,〈むら〉から報酬を得ていた。職人が不足すれば,近隣のむらから当該の職人のサービスを仰いでいた。むらには上級権力に対してむらを代表するむら長,耕作者たちを代表する長老たちの会議,むらの耕地を測量する者,作物の見張人,警察業務を担当するむら番,むらの境界や用水路を見張る番人などがいた。
イギリス植民地行政官は,この村落共同体が政治権力の交替による影響や政治権力による干渉も受けずにその経済的完結性と政治的自立性を維持してきたとし,太古以来不変のインド村落共同体観とインド社会の停滞性を導き出し,この共同体を土台とする専制国家論が展開されることになる。こうした学説の代表としてK.マルクスがあげられる。なお,イギリス植民地行政官は,土地制度の観点から大別して二つのタイプのむら--一つは〈個別農民保有村落raīyatwārī village〉,もう一つは〈共同所有村落joint village〉--の存在を主張した。こうしたむらをめぐって行われた植民地行政官B.H.ベーデン・ポーエルとイギリス法制史家H.J.S.メーンの共同体論争は有名である。
インド独立後,インド政府はむらの再建と開発ならびに地域開発計画の政策的指針を得るために,インド内外の学者,研究者を動員してインド各地でむらの実態調査を行わせた。これらの調査によれば,一般にインドのむらは集村の形態をとっており,むら人の家屋が1ヵ所に集中している居住地部分を中心に,その周囲に菜園地,その外側に田畑,さらに放牧地が広がり,所によっては森林地が存在している。後2者はかつては支配的カーストの,ないしはむらの共有地であったものが多く,今日その大部分は国家に所属している。
居住地部分は,泥や石または日乾煉瓦などでつくられた防壁で囲まれている場合が多いが,人口が増加し戦乱の終息した今日では,防壁は破壊され,その外側にまで居住地が広げられている。むら人はそれぞれ自己の所属するカーストごとに,その住居区に住んでおり,一般に居住地部分の中央にはむらの地主とその一族ないし同族や支配的カーストに属する家族の住居区がある。彼らの家は,他のむら人や他カーストの者の家とは明確に区別される立派な造りである。ついでその外側には,ほぼカースト・ランクにしたがってそれぞれのカーストの住居区があり,いちばん外側の外れにアウト・カースト(不可触民)および部族民の住居区がある。もっとも,彼らは居住地部分から少し離れた地域に彼らだけの集落をつくっていることも多く,またその粗末な家は概して彼らの貧しさを象徴している。なお,タミル・ナードゥ,オリッサ,ケーララなどでは,家屋がいく筋かの直線的な路上に沿って並んでいるむらもあるが,これらも総じて以上と同様なカースト的居住形態をとっている。
むらのカースト構成は,通常20前後の,大きいむらでは30以上のカーストから成っている。むら人のカースト・ランキングは,そのむらの内部にとどまらず,周辺十数ヵ村のむらにおけるそれぞれのカーストの経済的・社会的・政治的地位によって決められる相対的ランクであり,トップと最下層のランクは明瞭であるが,中間カースト相互の序列は必ずしも明らかではない。カーストのむら内婚が認められている南インドは別として,むら外婚をとる北インドのむら人は,それぞれがその周辺の多数のむらに住む同じカーストの者と社会的な関係をもち,当該カーストの長老たちによるカースト会議の規制に服している。カースト会議はカースト内部の問題や紛争を処理し,またそれが管轄するむらを彼らの職業領域として同職の外来者の参入を防ぎ,仕事の配分などギルド的役割を行っている。それぞれのカースト会議が管轄する範囲のむらは,かつては支配的カーストないし豪族の支配する領域と往々に重なっていた。むらの番人などになる部族民は,一般にそのむらの近辺に住み,かつ近隣のむらの番人なども同じ部族民によって占められており,彼らが全体として国家ないし地域の支配者などに従属し,治安の維持にあたっていたことは,こうした点を物語るものである。
地主ないし支配的カーストに属する農業者とむらの他カースト,一般に職人カーストの者は,ジャジマーニーjajmānī関係でもって結ばれている。この関係でサービスを提供する者をカミンkaminと呼び,サービスの提供を受け,その払いをする者をジャジマーンjajmānという。この関係は農業者と職人カーストとの関係のみならず,職人カーストと職人カーストの者(例えば大工と床屋)との間にもあるが,その中心は前者の関係にある。カミンは慣行的に決まっている一定の量と質(種類)のサービスをジャジマーンに提供し,ジャジマーンは通常年2回の収穫期に,これも慣行的に決まっている一定量の穀物を与え,ときには量を少し多くしたり,現金や衣類を与えて気前のよさを示す。またジャジマーンの家の冠婚葬祭のおりには,カミンとその家族はその手伝いを行い,これに対しても穀物,現金,衣類,食物などの給付を得る。
ジャジマーニー関係はジャジマーンとカミン双方の家の間で世襲的に維持されており,ジャジマーンはカミンを一方的に解雇できず,またカミンはこの仕事をする権利を勝手に放棄することはできない。ジャジマーンがカミンを一方的に解雇すれば,ジャジマーンはカミンが属するカーストの会議によって代りのカミンを得るのを妨害され,他方カミンがこの関係を断つときには,あらかじめ代りの者を用意しておかねばならない。気前のよいジャジマーンはむらで威信と評判を高くし,そのカミンの威信も上がるが,サービスする権利を売却してジャジマーニー関係を断つカミンはその信用を失う。なお,むらに特定の職人がいない場合とか,その職人がいても他のジャジマーンのカミンとなっているためにサービスを得られないジャジマーンは,隣の村から通いの職人とジャジマーニー関係を結んだり,巡歴の職人からサービスなどを受ける。
このジャジマーニー関係については,北インドの連合州のセンサス調査を担当したブラントEdward Arthur Henry Bluntが1908年の同州センサスで,またその著《北インドのカースト制度》(1931)で言及し,またこのセンサス報告書を利用したマックス・ウェーバーがその著《ヒンドゥー教と仏教》で若干論じているが,これを〈ジャジマーニー・システム〉としてとらえ,詳しく展開したのがアメリカの宣教師ワイザーWilliam Henricks Wiserであった。彼は1930年代に連合州のあるむらで伝道活動を行っている際にこれを発見し,《ヒンドゥー・ジャジマーニー・システム》(1936)と題する小冊子を出版した。第2次大戦後インドにおいては社会学者や文化人類学者によるむらの調査が行われ,地域によって名称に相違はあるが,インドのほぼ全域にジャジマーニー・システムの存在が確認され,ワイザーの著作は一躍注目されることになった。
社会学者や文化人類学者は,このジャジマーニー関係を19世紀の村落共同体あるいはむらによって雇用されていた職人と関係づけ,イギリス植民地行政官がみた〈村落共同体の職人〉ないし〈むらの職人〉は事実誤認で,実際はジャジマーニー関係という,いわば〈家族の職人〉であると主張した。しかし,むらに関する彼らの調査報告書を丹念に読み,またムガル時代末期から英領時代初期の原地語史料に基づいてみると,〈むらの職人〉とは〈むら〉を代表するような,あるいはそれが〈むら〉だといわれるような有力な家族ないし大きな家に従属していた職人たちであったことがわかる。それがジャジマーニー関係という家族と家族の世襲的関係になってきたのは,かつてむらがもっていた一体性ないし共同体的な枠組みと有力な家ないし豪族のむら支配が崩れ,そこにフラットな機能的関係が出現してきたことを意味している。
ワイザーはジャジマーニー関係を,すべての者がマスターであり,かつサーバントであるという牧歌的な見方をしているが,それとはまったく正反対の事実をも記している。カーストのランクが低いために,サービスを提供してもバラモンなどのサービスを受けられないカーストやアウト・カーストの者とか,特定のジャジマーンに対してはきわめて従属度の強いカミンもあった。むらにおけるカースト別の住居区は,カースト間の差別を際だたせるものであり,一般に浄・不浄の観念に基づくカースト制は,アウト・カーストを含め下層カーストを飲食,井戸の利用その他において儀礼的に遮断し,それが政治的・経済的差別を強化してきた。
今日のインドのむらには,変革の嵐が吹き始めている。かつてはむらの長老たちによって運営されていたむらの会議は,そのメンバーはむら人の選挙によって選ばれ,かつアウト・カーストや部族民のための留保議席も設けられ,むら人によって運営されることになっている。国家や州による地域開発やむらの開発に伴う資金や資財のむらへの流入は,むら人を大きく政治と選挙に結びつけ,支配的カーストや他カーストの間に,アウト・カーストや部族民をも加えて党派をつくり出し,むらの動きをダイナミックにしている。むらは商品経済の波に巻き込まれ,むらから近郊都市への生産物の売却やむら人の出稼ぎ,教育の普及などはジャジマーニー関係を大きくつき崩している。
→カースト
執筆者:佐藤 正哲
中国は巨大な農民社会である。農民は過去においてはもちろんのこと,現在でさえも中国民族の絶対多数を占めている。単に多数を占めるだけでなく,農民は中国の歴史を推進する原動力であった。幾多の王朝の興亡は農民反乱とともにあり,人民中国の成立もまたその例外ではなかった。むらはこの農民たちの生活する集落である。農民はむらに生をうけ,生涯を過ごし,死ぬのであり,むらこそは農民の母胎である。
中国のむらも普通,農民の家屋と宅地,耕地などのほか,墓地,道路や橋などの公共施設,共同利用の入会地である森,沢などで構成されている点は,世界の他の地域のむらと変わらない。また,地域や時代,民族によって,その戸口数や規模,形態など,むらを構成するもろもろの要素が多種多様であることも,世界各地のむらと変わらない。かりに漢民族のむらに限ってみても,気候や風土などの自然的条件をはじめ,農業形態や社会的要因によって,それらはさまざまに異なっている。広大な中国の中にはしたがって多様なむらが存在するのであるが,とりわけすべてが対照的な南と北では,むらのすがたに極端な差がみられる。
中国で最も早くむらができたのは,新石器時代の定着農耕の成立の頃であり,そのむらの一つは農耕成立地域の一つである黄河流域にあったであろう。西安近くの半坡で発掘されたほぼ完全なむら(半坡遺跡)は,面積約5万m2の楕円形で,周囲を数mの幅と深さの溝で囲み,その中には整然と並んだ数十戸の家屋,貯蔵穴,家畜囲いなどがあり,溝の外には共同墓地が広がっていた。このむらは,発掘時には黄河の支流から800mほど離れていたが,おそらくこの頃のむらは飲料水や灌漑水の確保,交通の便などのため,河川からあまり遠くない場所に立地していたものとみられる。華北では,やがてむらは大平原に広まっていくが,河川の発達した南部では今も昔も河川沿いにむらがある。最近長沙から出土した前2世紀の地図をみると,曲がりくねった川に沿って,点々と里と称するむらが存在する。
現代では華北地方のむらは,飲料水や灌漑水を井戸水に頼り,耕地以外に不毛地や原野が入り混じっているために,微高地(自然堤防上など)に密集した数十~200戸程度の集村が,華北大平原のあちこちに散在しているのが普通である。華北大平原はたび重なる戦乱を経ているので防衛上の土で固めた障壁をもつ場合も多い。この障壁には門があり,鍵がかけられて門番が置かれていた。この障壁を取り巻くようにして畑地が広がるのである。このようなむらの形態は古来文献にもしばしば現れる。農民は朝に障壁を出て働き,夕に壁内に帰る。障壁は夜になると閉鎖されるのである(邑(ゆう))。
華中,とくに長江(揚子江)下流域の水郷地帯のむらはこれと対照的である。長江流域もまた黄河流域に劣らず,古い農耕の歴史をもつが,漢民族の領域として本格的に開拓されはじめたのは2世紀後半からである。この地帯は豊富な水に恵まれ,水田としての条件がほぼ均一であるから,耕地の選択も自由であるため,むらは水路沿いや水路の交差点のいたるところに存在する。それらは10戸前後の家屋が小字(こあざ)的に群居するむらである。華北のむらのような障壁はないが,代りに夜間の水路通行を禁止したり,遮断して治安を維持することがある。耕地である水田は,やや小高い住宅地の周辺に広がるが,それらはおおむね水路と,水路の水から水田を守る堤防によって周囲を取り巻かれており(囲田,圩田と呼ぶ),その堤防がむらの境界となっている。
これらのほかにも,中世以後に漢民族の南下によって開発された華南の,まわりに堅固な障壁をめぐらせた要塞のような密集村落や,古くから水路灌漑の発達した四川地方の,土石塀や竹木に囲まれ,孤立的な家屋が散在するむら,黄土地帯にみられる洞穴式住宅のあるむらなど,各地に特色ある景観をもつむらが存在する。
むらの住民の大半は農民である。しかし,彼らの性格は時代によって異なる。きわめて古い時代,彼らは共同の耕地をもち,共同の農耕に従う共同体の農民であったが,やがて,それぞれが小規模の土地を小家族で自作する農民へと変化し,9~10世紀以後,大土地所有(荘園)が発展すると,むらには地主の土地を耕作する小作農(佃戸)が増加する。地主は初めむらに住み,直接農業経営を行っていたが,しだいにむらを離れていった。これら農民以外の住民もむらにはいた。小規模な商業に従事するもの,手工業者をはじめ,雑多な職業をもつものたちがむらに住むことがあった。しかし,それらはほとんど外来新参のものであって,むらに住んでも農地をもつことが難しく,したがって正式にむらの一員と認められることはなかった。
むらに住む農民たちの生活は,いつの時代も仲間意識に支えられた強い共同,相互扶助の関係の下に行われた。まだ血縁的関係が中心であった古い時代にはそれは当然のことであったが,地縁的な結びつきが人間関係の中心となってからも,その伝統はよく保持されていた。農作業がむら総出の共同労働であったのはもちろんのこと,農業に不可欠な灌漑水の管理もむら全体の仕事であったし,むらの生活を支える道路や堤防,水路,橋,囲壁などの公共施設の維持管理もむらびとの全員の義務であった。婚礼,葬儀は相互扶助の下で行われ,土地神や農業神の祭礼もむらびと全員の参加によって成り立っていた。むらの中での争いは指導者,長老たちによって調停されるのが常であった。近代の茶館での裁判などもその伝統を受け継いだものといえる。
それだけでなく,むらはその存在を脅かす外敵が現れれば,強い団結心によって連帯し,侵害者に対抗する強力な防衛集団でもあった。この点で,むらは一個の独立した世界であったということができる。このようなむらの社会は中国社会の最も根源的な性格を表している。そこには,政治と経済によって人為的につくり上げられた都市の社会と異なり,本来の人間関係と人間社会があるのである。都市に居住する文人官僚でもある詩人が,むらの生活の悲惨さをうたいながら,一方でむらに牧歌的な生活をみいだし,郷愁を感じているらしくみえるのはそのためではなかろうか。
共同の生活を維持するために,祭祀は重要な役割を果たした。むらの信仰のすがたとしてよく知られているのは古代の社である。社はもともと原始的なむらにおいて集合の目印となるものであり,石,木柱,盛り土,樹木などが用いられたが,古くはその前で祭祀,誓約,占いなどが行われた。その伝統は後まで続き,農民はむらの年中行事の一つとしての社の祭りに,歌い踊ったものであった。それは農業労働の労苦をしばし忘れさせ,またむらびとの連帯感を高めるものであったろう。なお,後世になると,むらには寺や廟などの宗教施設が置かれ,単に宗教行事だけでなく,縁日に伴う祭りや演劇など諸種の娯楽を提供した。
なお,むらの共同体的性格と不可分の現象として,同姓村落の存在も重要である。同姓村落とは,限られた同姓(ときには一姓のみ)が圧倒的な多数の村民を占める村落である。この同姓の比重は多様であるが,一般に華中,華南に同姓村落が多いといわれる。彼ら同姓村民は,共同の祭祀のための祠堂,共有の族田,同族関係を記した族譜などによって結集し,強い同族的結合をたもっている。その同族的結合の強さを象徴するのが,華南にとくにみられた同族村落間の大規模な武力衝突,すなわち械闘である。
むらでは,共同生活を維持するため,指導者の役割は重要であった。彼らは農事の指導,村内の平和維持から,ときにはむら防衛の指揮官の役割までを担った。この指導者は地主などの勢力家から選ばれることもあったが,必ずしも経済的な力をもつものばかりから選ばれるのではなく,人望のある人格者がこの地位に就くことが多かった。古代には,父老と呼ばれるものがそのような地位にいたことが知られているが,それは長老によるむらの指導が行われていたことを示しており,むらの秩序の独特のありかたをうかがわせる。
ところで,むらは農業を経済の基盤とし,かなりに自給自足的に独立した世界を形成していたが,完全に孤立した存在ではありえず,古くから交換経済の体系の中に組み込まれていた。鉄製品や塩など,一般のむらでは生産できない商品の購入や,むらとむらの間の交換もあったし,また王朝の租税が銭納である場合には,銭獲得のための交換が不可欠であった。しかし,古代では,このような交換経済を仲立ちする商人への規制や,交換そのものの未発達もあって,むらにおいては貨幣経済の影響はそれほど大きくなかった。それが顕著になるのは,商業が飛躍的に発展する10世紀前後以後のことである。商業的都市(鎮など)が成立し,それとむらを結ぶ接点には定期市(草市などと呼ぶ)が立てられ,むらはその都市を中心とする市場圏のなかに強引に組み込まれ,貨幣経済の下に置かれるようになる。それによってむらの農業は商品生産を中心とするものとなり,ある地域では副業としての織物工業が盛況を呈して,むらの産業構造に大きな変化が起きる。むらは商業資本の支配下に置かれ,むらの生活そのものも貨幣に縛られて,素朴で自給自足的なすがたをしだいに失いはじめるだけでなく,むらの性格にも変化の兆しがみえるようになる。
また,農業の基盤である土地所有をみてみると,初め小規模経営農民が中心になっていた土地所有も,やがて大土地所有が進むにつれて少数の地主に土地が集中するようになる。とくに10世紀を境に,大規模荘園が一般化すると,むらに残された耕地はほとんど小作地となり,農民は小作農化する。初めむらに住んでいた地主は,土地の管理者をむらに残して都市に移住しはじめ,不在地主が一般化する。
→小作制度 →地主
こうして,むらは都市に住む地主と商人の支配下に置かれるようになる。中世以後の中国は,むらとむらの犠牲の上に繁栄を誇る都市との対立の歴史でもあったのである。
むらと農民は中国歴代の王朝にとっては存立の直接の基盤であった。むらの安定なしに王朝の安定はありえなかったから,むらの安定は王朝の重要な課題であった。むらの安定のためには,農業の安定,治安の維持なども必要であったが,それらとともに,民心の安定,日常生活への埋没が有効な手段であった。そのために,民は依らしむべし,知らしむべからずといった愚民政策がとられたり,一種の思想的教化がなされることがいつの時代にもあった。古代には三老と呼ばれる有徳の老人が教化を行ったといわれ,明代に置かれた里老人は,むらの内を巡回して孝順などの儒教的徳目をとなえ,争いを調停し,むらの平和を維持しようとしたのである。
むらに対する王朝の支配はこのような自然的村落を単位とするのではなく,人為的な空間と特定の秩序によってそれらを再構成した行政村を通して行われるのが普通であった。この行政村落編成の原理は早くも紀元前の儒家の経典である《周礼》のなかに,六郷六遂(りくきようりくすい)の制となって現れる。それは五家を基本単位とし,五倍数ごとの組織を作り,それぞれに長を置いて自治をゆだねるものであった。この方法のうち,五家を一組として行政の最末端組織とする方法(伍,その2倍を什といい,什伍と慣用する。ほかに保などとも呼ぶ)は,連座責任制として,後世しばしば利用されている(隣保制)。
六郷六遂の制が史実かどうかはともかくとして,古い時期にすでにこうした村落統治の考え方が現れているのは注目すべき事実である。このような行政村は,漢代に郷亭里制として制度化される。それは百家を一里として,長に里魁を置き,十里を一亭として亭長をおき,十亭を一郷として,教化を担当する三老,賦税と訴訟を担当する嗇夫(しよくふ),治安を担当する遊徼(ゆうきよう)の三職を置くという制度である(郷里制)。この郷を集めて県が,県を集めて郡が置かれ,郡・県には王朝から官吏が派遣されて,郡県制と呼ばれる中央集権的な支配が行われたが,実際の村落行政は三老,嗇夫などによって遂行されたのである。こうした行政村は,唐においては国家の基本法典である律令に規定されていて,それによれば百戸を里(都市では坊といい,むらでは村(そん)と呼ぶ)とし,五里を一郷とする。里・村には里正・村正が置かれ,戸口調査,悪事の検察,農事奨励,租税徴収などを担当させるというものであった。明・清時代に採用された里甲制は110戸を一里とし,そのうち十戸を里長戸,残りを十戸ずつ十甲に分けたもので,本来はその里長・甲首を輪番で租税徴収に当たらせようとするものであった。
このような行政村を通した支配の特徴は,行政の実際の担当者がその土地から選出された人物であり,大幅な自治が認められているという点にある。それは,中国のむらの伝統である共同体的性格と,そこに培われた自治に基づくものであることはいうまでもあるまい。
中国のむらは,20世紀中葉に歴史的な変革を迎えた。人民公社化がそれである。公社という中国語が共同体を意味することからもうかがわれるように,それはむらの共同体的性格を前面に押し出したむらの再生であった。しかし,土地共有,共同作業の人民公社が行き詰まり,新たな局面を迎えていることが最近知られるようになった。農村問題は中国にとって永遠の課題である。
執筆者:中村 圭爾
朝鮮のむらはマウルと呼ばれる。行政的な意味でいえば,李朝時代に行政村として面が作られ,現在でも地方行政の末端機構として機能している。しかし人々がマウルと呼び,共同体的な意識をもって生きている〈むら〉は自然村である。
本来のむらは生活と生産の場であるだけでなく,とくに近代以前にあっては血縁・地縁共同体の性格を色濃くもっていた。具体的にさかのぼりうる最古のむらとして,正倉院に偶然文書(新羅帳籍)が残った8~9世紀ころの忠清道の4ヵ村の例では,各むらは100人程度の人々が住み,周囲8000歩程度の独自のテリトリーをもっており,水田や畑だけでなく,麻,桑,クルミ,松などの樹木が栽培されていた。周辺にはどこのむらにも属さない土地が広がっており,それがむらの中に取り込まれるのは高麗時代以後のことである。かつては各むらに指導者としての村主がいたのだが,すでにこの時代には彼らも国家機構の末端に位置づけられていた。新羅末期の戦乱を経て高麗の支配層になっていった,むらを本拠地とする地方豪族たちの多くは,かつての村主たちの後身である。都で官僚,貴族になった人々も,開拓のために北方へ移住した人々も,本拠地であるむらあるいはむらの連合体の擬制的な血縁集団とみなして強いつながりを意識し,現在にまでつながる本貫の意識を育てていった。また運輸,物品製作など国家に対する特定の義務もむら単位で賦課されることが多く,むらは実質的に最小の政治単位でもあった。
李朝時代にはむら=里のうえに行政村として面が作られた。しかしむらは尊位・頭民などと呼ばれる長老が治める独自の世界であった。現存の史料からみると,むらには人口数十人規模のものが多く(100人を超えるものは少ない),一般に両班(ヤンバン),常民,奴婢など各身分が混住していた。しかし駅集落には駅吏身分の者が多いなど,同一身分の人々が多く居住するむらもあり,とくに両班は同族で集住する傾向が強く,いわゆる同姓部落が数多く存在して,大規模なものになると広大な地域を垣で囲って集落を作り,一族の子弟教育のための学校まで建てるなど,周辺の民衆を威圧していた。人口移動の割合はかなり高かったとみられるにもかかわらず,むらは地縁を中心に強い共同性を保ち,共同の農作業などを行っていた。通常むらは農民の世界で商人や手工業者がおらず,郡内に数ヵ所開かれる定期市(場市)が必要物資の重要な交換・購入・販売の場であった。ソウルなど一部の都市を除き,大部分の住民にむらを離れた生活は考えられなかった。それゆえ被差別民に対する差別は多くの場合むら社会からの排除というかたちをとった。被差別民だけで居住条件の悪いところに集落を作った一部の人々のほかは,集落のはずれに押し込められてむらへの参加を拒否されたり,ナムサダン(男寺党)のように住みつくことすら許されず,漂泊する人々もいた。
執筆者:吉田 光男
むらは今日も農漁村において社会生活の最も重要な地域単位となっている(以下では,現状については韓国について述べる)。住民は一時的な仮住いの者などを除けば,〈村人〉として一体感をもっている。人々は村外に出ると村の名によって〈〇〇サラム(〇〇村の人)〉として扱われ,都市に移住した後も同郷人の間では村名が個人の社会背景としてしばしば言及される。むらの形態や規模はその立地条件や生業基盤の違いや歴史を反映し多様性に富んでいる。農村には平地や山麓の緩傾斜面に位置するものが圧倒的に多く,これに対して林業や漁業は生業としての基盤が弱いため漁村や山村は日本に比べて少ない。そのなかで,火田(焼畑)の伝統を有したむらは深い山間部にあり極端な散村形態を示す点でユニークな存在である(火田民)。むらの立地面でもかつては風水(風水説)が村人の生活の隅々を左右するものとして重視され,背山臨流や蓮花浮水型などの佳地を選んだといわれ,またむらに災害や伝染病が続いたりした際に風水上の支障があると判定されたためむらを移したという伝承も多い。あるいは風水上の欠点をカバーするためむらの境に立石や石積みの塔を築いたり樹木を植えたりすることもあり,ときにはこれが,隣むらとの紛争の種となることもあった。むらには入口に当たる場所が比較的明瞭で,峠のような山路にはソナンダン(城隍堂)の木と石積みが設けられたり,村に通じる辻や路傍にチャンスン(長栍)や立石,また村人の徳を記念する神道碑が立てられたり,むらの守護神の神木が茂っていたりする。また今日では村名の標示板や案内板,スローガン等が掲げられることも多い。むらにはたいてい公会堂,倉庫,広場,共同井戸,洗濯場等の公共の建物や施設があって,公会堂は集会場や洞事務所を兼ねることが多く,村人への通報用の拡声器が据えられている。どのむらにもたいてい認可を受けた精米工場があり,また少し大きなむらの中心近くには雑貨店,酒幕(居酒屋),理髪店,豆腐工場などがある。
住民構成の上からみると,かつて両班の身分に属す人々がむらを実質的に支配してきたいわゆる〈班村〉と,常民の気風を伝統とする〈民村〉とに大きく分けられるが,必ずしもこうした区分が明瞭でない地方も多い。またかつて賤民視された特定の職能者によって特徴づけられたむらもあったといわれるが,今日ではその痕跡も認めがたい。住民の氏族構成の点では,一つの氏族門中が圧倒的な地位を占めるいわゆる〈同族部落〉や二,三の門中が勢力均衡しているむら,特定の門中への集中がみられないいわゆる〈雑姓村〉などさまざまであり,こうした氏族構成の違いが村社会の性格を大きく左右している。行政上の〈里〉にはこうした伝統的単位としてのむらがいくつか含まれることが多いが,その場合でも行政上の里長のポストは伝統的なむらごとに置かれるのが一般的のようである。里長のほかに〈オルン〉とか〈有志〉と呼ばれる長老格の経験豊かな人々の意見が有事に際して重要な役割を果たすことも多いが,同族村では門中内の長老である門長や宗家の影響力も大きい。
むらの自治的組織である洞契(契)は,共有林や公共施設,備品などを管理・運営し,またむらの祭り(洞祭)の主体ともなる。洞契の成員は村人とみなされる成人世帯主で構成され,必要に応じて契員から徴収した基金や共有資産から上がる収入などを資金として,洞祭をはじめとするむらの事業が運営される。洞祭に際しては年長者たちの意見をもとにして司祭者にふさわしい清浄な者が祭官に選定される。祭官に選ばれた家庭では戸口にしめなわを張って主人は斎戒沐浴して家族ぐるみで供物の準備にとりかかり,祭りの終了後には祭官の家で村人たちの飲福(祭物を共食すること)が行われる。またかつてはむらの若者たちによって編成された農楽隊(農楽)がむらの境界,共同井戸,広場,神木のほか各戸を巡りながら,庭で厄祓いのための〈地神踏み〉を行って,各戸から布施を集めたり,あるいは他村にまで出かけて行ってその収入をむらの事業資金にあてることも行われた。このほかむらにおける組織として婦人会,青年会,4Hクラブなどの年齢,世代的な組織や,むらの振興,生活改善などの公共的な性格をもつさまざまな組織がみられ,近年ではその中でもセマウル運動の推進委員会が重要な役割を演じている。
執筆者:伊藤 亜人
縄文時代の採集狩猟経済から新たな生産経済への移行発展により,農業とくに水稲耕作を中心とする村が北九州に始まり,全国的に拡大し,主流をなした。その具体的諸相は複雑多様であり,いまだ不明な点が多いが,その進展の大筋を景観・形態を中心にみると,次のごとくである。
(1)弥生時代前期には,自然的な低湿地を水田とし,数軒の竪穴住居よりなり,点在する集落(疎村)が,それぞれ単位集団とみなされる。中・後期になると,農具(石製,木製→鉄製)や農耕・灌漑技術の発達,階級分化の進行に伴い,耕地は湿田から半湿か半乾田へと開発が進み,集落は著しく増大,集落内には小住居グループの形成(世帯共同体)がみられる。
(2)古墳時代とくに中期以降になると,大陸よりの乾田農法の受容,鉄製農具(U型鋤,鍬)先の使用普及により,耕地は乾田開発へと発展拡大し,集落はさらに増大し,規模・立地ともに一段と多様化する。住居は,竪穴住居において,炉からかまどへの設備の移行がみられるが,それは平安時代まで,庶民階級の一般的住居形態として継続展開する。一方,首長・有力農民層の住居には,掘立柱をもつ平地住居が出現し,7世紀以降,畿内先進地域を中心に一般にも漸次普及する。また集落内の小住居グループの自立化(家父長的世帯共同体)が一段と進行する。そこでは各住居は生活消費単位,小住居グループは経営単位であり,集落は首長の統轄支配のもとに,共同の倉庫をもち,水利の共同,空閑地の共同占有・利用,共同の祭祀を行った。
(3)8世紀初めに確立した律令国家体制下では,それら集落は公的な行政単位とは認められず,新たに50戸1里の画一的行政村落制と5戸1保(五保)の隣保制が実施され,勧農,徴税,検察の責務をもつ里長が任命された。715年(霊亀1)には里を郷と改名し,郷の下部組織として,郷戸内に同時に分立編成された房戸(郷戸・房戸)を構成単位とする2~3の〈里〉を置く郷里制に改制されたが,740年(天平12)には,その〈里〉が廃され,郷制となった。8世紀初めの遺存戸籍によると,1里(郷)は約1000人前後,1郷戸は20人前後で,竪穴住居の住人を5人とすると,1里(郷)は約200軒前後,1郷戸は約4軒前後となる。集落の規模は多様であるが,里(郷)には少なくとも3以上,おそらく一般的には4~6の集落が含まれ,集落内の小住居グループはほぼ郷戸に編制されたと思われる。その場合,里(郷)の諸集落が一つのまとまった水利集団あるいは農耕共同体を構成しているものであったかどうか明らかでない。郷里制下の〈里〉は1郷3里として約330人前後で,1~2の集落規模,房戸は1~2軒の竪穴住居規模である。なお集落の耕地は班田制の口分田として支配・規制された。新たな展開として,国家の条里開発に伴う新集落,すなわち743年(天平15)の墾田永年私財法以降,寺社権門勢家,地方豪族などの墾田開発所領=荘園における庄家を中心とする新集落の形成がみられる。平安期に入ると,律令制の変質・解体に伴い,行政村落の郷は戸数編制から地域区画へと変質する。一方,階層分化の進行に伴い,家地,墾田,蓄稲の私財確保とその運営・拡大(個別経営の発展)によって台頭してきた田堵(たと),富豪層を中心に村落は再編制されていく。
執筆者:宮本 救
広域の地域区分ないし所領単位である郷や荘の内部に形成された,比較的小さな地域単位ないしそれに対応する共同体を指す語として村が現れる。その時期は地域差があり,中世初頭から始まって,中世後期には一般化する。固有名詞としては村と郷はしばしば混用されたが,村を郷と呼ぶことはあっても,広域の郷を村と呼ぶことはない。例えば,鎌倉時代の備後国大田荘は桑原郷と大田郷とからなり,各郷はさらに5~6個の二次的な小さな郷に分かれており,各小郷ごとに公文(くもん)がいて地頭や領家の支配の実務を担当していた。この小郷は郷とも村とも呼ばれて一定しなかったが,総称する場合は〈村々公文〉〈村々神主〉のように村という言葉が用いられた。このような郷=村は支配の単位であるとともに,百姓相互の地縁的な共同体,いわゆる村落であった。これが発展して自治的な政治組織をもつようになったのが惣村である。草分け的な百姓である住人が集団で開発したことが契機となって村が形成された場合は惣村に発展しやすい。領主側の開発が大きな比重を占めた場合,あるいは領主が村落領主の公文層を支配権力の中に組織した場合など,領主支配が強いと自治的な惣村に発展しにくいが,その場合も,中世後期に百姓による共同体の形成が進む。その組織が領主側の支配組織に吸収されている点で違いがあっても,百姓の生活の場が村を基礎単位にしている点では惣村と共通している。だから領主型の村も惣村型の村も近世の村の原型となり,村名も近世以降へ継承されることが多い。
執筆者:村田 修三
(1)成立と特質 人の集住する小地域を村と呼ぶことは古代からあったが,〈村〉という行政単位が出現するのは太閤検地以降の検地によってである。また近世の村はこの時代における最も重要な社会的構成単位でもあった。近世の村の特質は石高制と村請(むらうけ)制である。村内の田畑屋敷に対し,米の生産高をもって表示される石高を付するのが石高制である。例えばA村に石盛(こくもり)10(反当り米1石の生産)の耕地が10町歩,石盛8(反当り8斗)の耕地が20町歩あるとすると前者は100石,後者は160石,計260石の石高となる。これを村高とし,A村は260石の村となる。このようにして全国の村(松前,対馬,伊豆諸島を除く)に石高をつけ,これによって山間,平野,海浜等々の地域差にもかかわらず,全国の村は石高をもって統一された。この石高は年貢,諸役のみならず武士の知行の基準にもなった。すなわち近世は石高制社会であったが,その基礎には,検地による村高の決定という事実があった。もう一つの特質は村請制である。これは村が領主支配のための行政単位に定められたということであって,このことは,村を単位とする年貢諸役負担に最もよく表れている。近世は村社会でもあった。
(2)石高と村数 全国総石高については,1598年(慶長3)1800余万石(推定),1697年(元禄10)2500余万石,1830年(天保1)3000余万石,1869年(明治2)3200余万石という数字がある。村数については1697年に6万3276村,以後石高は増えても村数に大差はない。1村平均400石前後になるが,事実300~500石前後の村が多かった。ただし村ごとにみると村高の規模はさまざまで,50石未満から2000~3000石の村に至るまでの差があった。
(3)村の範域 近世の村は現代の市町村に比べると,一般的にはきわめて小さい。平均的な400石台の村についてみると,相模国大住郡の平野部にある新土(しんど)村(約420石。現,神奈川県平塚市)は東西,南北ともに11町余(1町=約109m)である。これに対し山間農村ともいうべき同国津久井県千木良(ちぎら)村(約480石。現同県相模原市,旧相模湖町)は東西1里6町・南北30町ほどであって,石高に大差ないにもかかわらず,同国内両村の範域には非常な差がある。一般に平野部の村は耕地の生産力が高く,かつ集中的に展開しているために,石高に比して範域が小さく,山間部ではその逆になる。
(4)村の構成 村の内部は小地域ごとに細分されているのが通例である。小地域の呼称は,組,小名(こな),坪,庭,垣内(かいと)などさまざまであるが,各小地域ごとに親方・本家筋の家があって,それを中心にまとまり,村の鎮守(ちんじゆ)や寺院とは別に小祠をまつっているような場合が多い。またこうした小地域は当然共同労働の単位にもなった。近世の村における個別経営単位は家であるが,村内の家は階層的には〈本百姓(ほんびやくしよう)〉と〈水呑(みずのみ)〉あるいは〈無高〉に大別されていたのが普通である(地域によりさまざまな称がある)。しかし本百姓といってもさまざまで,彼らはおおむね3階層に区分される。上層は家内労働力だけでは耕作しきれないほど多くの耕地を所持し,下人,奉公人を駆使したり小作人による経営を行っていた。中層は主として家内労働力により所持地経営を行っていた(標準的には耕地面積5~6反歩から1町歩前後,持高では5~6石から10石前後)。下層は自家所持地が少なく,ために他よりの借耕や出奉公などにより経営を補完せざるをえないような存在である。以上3階層のほかに自家所持地のない〈無高〉あるいは〈水呑〉といわれる人々が多少の差こそあれどの村にも存在していた。村内の社会組織は複雑であるが,ほぼ同種の階層によるヨコの組織(講的組織)と異種の階層(親方と子方,本家と分家など)によるタテの組織の複合が基本であった。また地縁的・血縁的なまとまりも強力であった。
(5)村の支配 近世は兵農分離がほぼ貫徹した(一部に郷士制度の存在した地域もある)時代であるから,支配階級である武士は城下町に住み,村には1人もいないのが原則であった。武士階級による支配を村において代行していたのは名主,庄屋を長とする村役人(村方三役)であった。村役人は身分的には本百姓であって,それ自身としてはなんらの武力機構をもたなかった。幕府領の場合,村を直接に統治していたのは代官(身分は旗本)であった(老中-勘定奉行-代官-村となる)。しかし,代官が実際に廻村することはめったになく,代官は村役人と文書を通して村支配を行っていた。
(6)村の社会的機能 近世の村は単なる地域呼称ではなく,領主にとっては村請機能をもつ行政単位であった。このことは村に独特の社会的機能をもたせることにつながった。近世の村は一種の法人格的存在であって,村として林野に入り会い(村中入会),村として用水を管理し,村として訴訟するような法人的存在であった。村には領主の法とは別に,村法(村掟(むらおきて),村極(むらぎめ))や成文化されないさまざまな慣習的規律があり,それに著しく背反する者は村人の総意において社会的制裁(村八分(はちぶ))に処せられた。近世の村は行政的・法人的機能とともにこのような共同体的機能をもつ存在であった。
執筆者:木村 礎
農山漁村における基礎的な地域社会としてのむらはその構成員である各家の維持存続に不可欠な共同組織であり,通常むら内の居住者は相互に面識関係がある。自分たちのむらのことをザイショ(在所)とかジゲ(地下)と呼ぶ地方もあり,また近代の行政用語でク(区)といったり,ブラク(部落)と称することも多い。むらは,《古事記》に〈伊幣牟良〉(いへむら)と出てくるように,もともと家々の集合の意味であった。このように,むらは家々の近接居住を基礎にして形成された社会組織であるが,しかし家屋の集まっている状態の集落と同じではない。一つの集落が一つのむらという場合が一般的ではあるが,複数の集落で一つのむらとなっている場合も少なくないし,逆に景観的には一つの集落であってもむらとしては二つということもある。むらは寄合を開いてむらとしての意志を決め,各家の生活・生産に必要な用水の配分,道路の管理,共有林野の利用規制などを行い,さまざまな生活・生産上の問題について申合せをし,各家を規制する。またむらに望ましい状態を確保するために道切り,虫送り,雨乞いなどの共同祈願を執行する。そしてむらの統一の象徴として氏神・鎮守をまつり,祭礼を行う。むらは記紀や風土記に出てくるように古くからの存在であるが,現在のむらに直接つながるのは悠久な昔のむらではない。むらは中世から近世にかけて小農の家を構成単位とし,その生活・生産の共同と連帯の組織として登場し今日まで存在してきたものである。江戸時代の支配単位としての村が明治以降も解体することなく存続したのがむらであり,むらは江戸時代の村を地籍表示として継承した大字に一致するという理解が一般的であるが,しかし支配単位としての村から生活・生産の組織としてのむらを理解することは正しくない。江戸時代の村,したがって大字と生活・生産の組織としてのむらが一致するのは近畿地方や北陸地方ではごく普通であるが,近畿地方から東西に離れるにつれてしだいに一致しなくなり,江戸時代の村=大字の範囲にいくつものむらがある姿が通例となる。近畿・北陸では中世における惣の伝統がむらとして存在し,江戸時代の支配単位の村もその惣を把握したことにより,江戸時代の村=生活・生産の組織としてのむらとなるが,他の地方ではより大きな地域(中世的な郷)を太閤検地や徳川初期検地で村としたために,支配単位の村の内部にいくつものむらが含まれることになった。明治の市制・町村制は,行政上の〈処務便宜ノ為メ〉区を設け,区長,区長代理を置くことを規定したが,その区はむらを単位に設定されることが多かった(大区・小区)。また1940年以降,上意下達機構として部落会が設けられたが,これはよりいっそうむらを単位として編制された。このように生活・生産の組織としてのむらは絶えず支配や行政のために利用されてきた。それは現在でも顕著にみられることである。
執筆者:福田 アジオ
中国において,三国時代(3世紀)ころから使用されはじめた集落を意味する語。それ以前の集落名称として一般的であったのは里であり,それが亭や郷に編成されて村落組織を形成していたが(郷里制),後漢時代中期以後の社会の変動や戦乱などによる人口移動が原因となって,里や,里を中心とする村落組織がくずれはじめ,新たに小集落が随所にあらわれるようになる。それらをよぶ名称として用いられたのが村である。南北朝時代には村は普遍的な存在となり,地方行政組織の最末端に位置づけられ,唐代になるとさらに正式の制度となって,唐律令に規定されるようになる。その唐戸令によれば,100戸で形成される里のうち,都城内にあるものを坊というのに対し,田野にあるものが村とよばれたのであり,村正1人をおいて,行政を補佐するようになっていた。ただし,村は集落一般を意味することもあり,以後は集落の名称の一つとして一般に用いられている。
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
当村鋳物師は江戸時代には各地に出店し活躍していたが、享保四年
那覇の西部に位置。
辻村は村そのものが遊廓という特異な村であった。発祥について「琉球国旧記」には昔は荒野であったが、康熙一一年(一六七二)王命を請い初めて宅を開き村を立てた。
古賀村の南、遠賀川下流右岸の平野部に位置し、東は
西は利根川が限り、東は赤城山麓崖に挟まれた狭小の段丘上の村で、北は
天正六年(一五七八)と推定される三月一四日の富永能登守(猪俣邦憲)宛北条氏政感状(猪俣文書)に、「向
北流する
正保国絵図に繋村、一七五石余とある。寛文一一年(一六七一)の繋村肝入館市家留書(瀬川文書)では高六二三石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付には蔵入高六四三石余とあり、七ヵ年平均の免は二ツ三分九厘三毛。元禄十郡郷帳による〆高は田四五八石余・畑一四四石余、旱損所とある。
雄物川左岸、東は
寛永二年(一六二五)の高は三九三石余、免五ツ五分(油利之内修理大夫様御知行御検地帳免定之目録写)。
北条港の東に広がる集落。西は
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
安永三年(一七七四)の十一ケ村村鑑(矢野家文書)には村高二二八・二九石。毛付高一九一・二〇六石。反別一五町二反一畝二七歩。土免五ツ三分。渋柿七斗。野山一ヵ所は
慶長六年(一六〇一)八月、福島正則が行った「御検地 備後国三谷郡吉舎之内辻村 下々村 御帳」という検地帳(後藤家文書)が残る。検地奉行加藤甚右衛門の行ったこの検地帳によると、高五八石余(畝六町五反余)を所有する土豪的農民が一方にみられ、他方にその農民の名前を冠したいわゆる分付百姓もいる。元文五年(一七四〇)の三谿郡辻村地概名寄帳(同文書)によると、高持百姓は一二〇人で、一〇石以上は二五石余を最高に七人、一〇石未満五石以上が二一人、五石未満一石以上が四九人、一石未満が四三人であるが、五三年後の寛政五年(一七九三)の三谿辻村御明知方御給知方百姓人別毛附高帖(同文書)では、一〇石以上は二四石余を最高に五人、一〇石未満五石以上が一八人と減り、五石未満一石以上が七四人、一石未満が四一人、計一三八人と増えている。
岩槻城下惣構
北は
根岸村の南に位置し、南は蕨宿と
現波多津町西部の屈曲に富む海岸で、その入江に
近世の
親村である
中世は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
ムレ(群)と同義で、家群(いえむら)・草むらの用例もあり、「人のむらがりすむ所也(なり)」(日本釈名)、「村、ムラ・サト、聚落(しゅうらく)也」(類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう))、「村、人の聚居する所、之(これ)を村落と謂(い)う、邑(むら)に同じ」(節用集)などと古くから説明され、また「村、農民の住居する処(ところ)をムラと云(いう)」(安斎随筆)と、「町・市」に対し一般農村をさすともされてきた。学術語の「村落」にあたり、直接「土地」に依存する生産(農林漁牧)によって生活する人々の形成する集落社会で、「都市」に対置される所である。現在日本には、制度上の地方自治行政団体としての「村」と、その内部に実在する伝統的な住民の自治協同集団とがあり、後者は「ムラ」と書き分ける例である(いわゆる集落、区、耕地など)。関西地方には前者を「ソン」、後者を「ムラ」とよび分ける所もある。「紀伊国熊野之有馬村」(古事記)、「村(ふれ)に長(ひとごのかみ)無く、邑(むら)に首勿(おびとな)し」(『日本書紀』「景行紀」)など、ムラの名称は古くから用いられたが、律令(りつりょう)制下の国郡制度の末端統治単位は「郷・里」で、「村」はその陰にあって実態は不明であり、荘園(しょうえん)制に移行しても「庄園(しょうえん)」(庄のほか、郷、保、院、郡などとも称する)の下部構成単位も「名(みょう)」や「在家」で、鎌倉期以後その分割の際などに「村」がときとして現れるにすぎない。「名」や「在家」ではたぶん在地の「名主」的支配者に統(す)べられる形で百姓の家々が「村」をその内部に形づくっていたのであろうが、実態は明らかでない。ただ、戦国期に入り専門武士として村を離れる「名主(みょうしゅ)」や没落する「名主」が多くなると、百姓だけの「村」が直接貢租を請け負う「地下請(じげうけ)」の形が広く生じ、「惣(そう)、惣村」としてその自治活動が目だってくる。ときには連合して領主に反抗して立ち上がることもあった。
戦国動乱は豊臣(とよとみ)秀吉の全国統一で収まり、近世の村落統治制がそこに始まる。秀吉はまず山城(やましろ)・近江(おうみ)の新領国に「検地」を行い、やがてその方式を全国に及ぼして、いわば近世農村統治の土台を据えた。それが江戸幕府に受け継がれて、近世日本の郷村支配制にまとまる。「秀吉検地」は「武士、農民」の身分的確定と、その「居住分離」を前提に行われ、「名請」と称し百姓経営の田畑を個別に確認して貢租を割り付けるとともに、「村切り」にこれをくくり、連帯責任でその完済を義務づけた。いわゆる「村請」で、同時に行った「人改(ひとあらため)」も「村」単位にくくられた。そしてキリシタン禁制下の「宗門改」では、「村」単位の人民把握はさらに厳しくなる。「名主、庄屋」以下の「村役人」は大名権力の代行者であり、同時に百姓代表の形でもあった。もちろん秀吉時代は草創期で多分に不備の点を残していたが、江戸期の「幕藩体制」下の農民統治はこの線に沿って精緻(せいち)な形に発展し、「村」は基本的な農民統治単位として定着し、「町」と対置されるに至った。
明治初期の地方行政制度変革で、近世の「村」は大きい動揺を示すが、ともかく1888年(明治21)の「町村制」で「村」は新しい地方自治行政団体の一つとして「制度的存在」となった。しかしその前提条件として広く旧町村の併合が強行されたので、近世の「村」がそのまま新しい「行政村」に移行した例はきわめてまれである。1868年の「6万5771村」は、88年には「1万1374村」にまとめられている。しかし町村合併措置で制度外存在と化した「旧村」はなお住民生活に必須(ひっす)の存在であり、用水・山林・漁場などの共有生業基盤をもち、村氏神の祭祀(さいし)はじめ多彩な互助協力慣行もあって、生活防衛のためにも住民生活に不可欠の依拠集団であった。それゆえ旧村の実態は残って、「地区(村の部分的集落)」などとよばれ、また「行政区」の制で行政的補助機構として、新しい「町村」内部の構成単位として定着することになった。ただし実態は地方ごとに多彩な変相を示し、また近年の社会変動で「旧村」の伝統を受け継ぐ「ムラ」は著しく解体の様相を示しつつある。
[竹内利美]
アメリカの作家フォークナーの長編小説。1940年に発表、後の『町』(1957)、『館(やかた)』(1959)とともに、いわゆるスノープス三部作をなす。『村』では20世紀初期、ミシシッピ州ヨクナパトーファ郡ジェファソン町の外れのフレンチマンズ・ベンドという貧しい村に、アブ・スノープスという、プア・ホワイト(貧乏白人)の一族が現れ、長男のフレムが村の有力者バーナーの店の店員になり、やがて野性的な若者の私生児をはらんだ店主の娘ユーラと結婚して、しだいに権力を得てゆく経過が語られる。同じスノープス一族で牝牛(めうし)を愛する白痴アイクや、貧ゆえの憎しみから隣人を殺すミンク、さらには荒馬の競売や埋め金探しなどの挿話が、一種のブラック・ユーモアを交えて語られ、最後にはフレムがさらに成功を求めてジェファソンの町へ向かう後ろ姿が描かれる。『町』では、フレムが町の銀行の副頭取になり、かつ妻ユーラの情人である頭取のド・スペインを追い落として、ついに頭取にのし上がって、その館に移り住む。『館』では、最高の地位を極めたフレムを、『村』に登場したミンクが、自分を助けにきてくれなかった恨みのゆえに、40年近くの刑務所生活ののちに、ついに射殺して復讐(ふくしゅう)を遂げる。あとの二作品には、ユーラおよび彼女の娘リンダと、スノープスの跳梁(ちょうりょう)から人々を守ろうとする地方検事ギャビン・スティーブンズとのプラトニックな愛が描かれて、ミンクの復讐とともに、フレムの代表する出世主義の批判をなし、また全編に、冷徹な眼(め)をもったミシン販売人ラトリフが登場して、陰に陽にその批判を裏づける役目を果たしている。フォークナー後期の集大成的な作品群である。
[大橋健三郎]
『田中久男訳『村』(1983・冨山房)』▽『速川浩訳『町』(1969・冨山房)』▽『高橋正雄訳『館』(1967・冨山房)』
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…サフォーク州オールドバラ生れ。1775年医師の資格を得て帰村するが,村の生活に耐えきれず,80年ロンドンに出てエドモンド・バークの庇護を受け,82年以降は聖職にあって詩作を続けた。《村》(1783)は農村の生活の悲惨さを赤裸々に歌い,農耕詩や牧歌という伝統の中で美化された田園生活の虚妄をあばいて大きな衝撃を与えた。…
…郷は自治的集落であった点で,国家権力の末端機構たる県と性格を異にしていた。しかし後漢末以後に,北方民族が中国内地に移住し,また屯田制が普及するにつれて,城郭の外に出て散居する住民がふえるに至り,新しく村(そん)という自然集落が出現した。村の大きさは100戸以内が普通であって,村司に統率された。…
…日常生活に必要な道具も,生産に必要な道具も,可能なかぎり自分の手で作り出す。そのさい多くの農村で自給できないものは,生産・生活に用いる道具のうち鉄製の部分であり,食生活に必要な塩も,製塩しうる海岸村以外では外部に求めなければならない。このような鉄製の道具や塩は藩主の手に集めたうえで,初期専売と呼ばれる形で農民の手に渡され,その代価は農産物で払われる。…
…江戸時代,大名・旗本らの領主がみずからの領内の村名・村高を列記した帳簿。一般に領主の年貢収納の必要と,支配領域の確認のための原簿として作成されたが,また将軍の代替りの際に幕府から新規の領知朱印状の交付を受けるため,その基礎資料として作成されて幕府に提出された。…
…市町村は2階層制地方自治制度を構成する基礎的普通地方公共団体であり,都道府県に包括される。日本国憲法改正原案には地方団体の種別が規定されていたが,GHQと日本政府の折衝を経て成立した日本国憲法は,地方団体の種別を明示しておらず,それは地方自治法をはじめとする国会制定法にゆだねられている。…
…その後,1925年A.ドマンジョンが初めて集落に対してhabitat humaineを用いて以降一般化し,英語でもhabitatが用いられる傾向がでてきた。 日本ではもと〈聚落〉と書き,その字義は〈人の集まりいるところ〉で,古代には寺院聖域などに対し在家の村落をさした。日本で最初に〈集落〉の語を用いたのは新渡戸稲造の《農業本論》(1898)で,農業経営の立場から農村の集落形として疎居・密居のあることを述べている。…
…村落に機能した法規制のことで,学問上の用語。
[中世]
水稲耕作を基本とする日本の村落では,水利慣行や山川藪沢の利用などから慣習的な法規制が古代より成立していた。…
…天皇の政治的実権がまったく失われる契機となった南北朝内乱は,この観点から時代を区分する画期として注目された。他方,西田直二郎の提唱した文化史学の潮流のなかで,中村直勝は文化・思想・経済の大きな転換期としてこの動乱をとらえ,やや異なった観点に立って先の立場を押し出した。この中村の見方は〈転向〉後の清水三男によって受けつがれ,清水は領主の私的な支配下におかれない百姓とその村落に目を注ぎ,中世社会の公的な側面を明らかにしようと試みたのである。…
…中世における侍身分の呼称の一つ。平安・鎌倉時代に公家や武家男子の敬称(《入来文書》)や対称(〈北条重時家訓〉)として用いられるが,ひろく中世社会では,村落共同体の基本的な構成員たる住人,村人の最上層を占めて殿原,百姓の順に記され,村落を代表する階層として現れる。名字をもち,殿とか方などの敬称をつけて呼ばれ,〈殿原に仕〉える者をもち(《相良氏法度》),〈地下ノ侍〉(《本福寺由来記》)つまり侍身分の地侍として凡下(ぼんげ)身分と区別され,夫役(ぶやく)などの負担を免除されることもあった。…
…近世における村の長。名主のほかに庄屋,肝煎(きもいり)等の称があり,一般的には東国では名主,西国では庄屋が多い。…
…◎―交通,通信については,〈道〉〈道路〉〈輸送〉〈水運〉〈海運業〉〈鉄道〉〈航空〉〈郵便〉〈通信〉などを参照。◎―日本社会の特質については,〈日本社会論〉〈家〉〈家族制度〉〈村〉および〈被差別部落〉などを参照。教育については,〈学校〉の項目中の〈日本の学校〉の章,〈読み書きそろばん〉の項目など。…
…荘園本来の名田である〈本名(ほんみよう)〉の名主百姓のほかに,平百姓,脇百姓,小百姓,間人(もうと)などと呼ばれる中下層百姓がおり,本名以外の領主直属地である間田,一色田などを耕作した。荘園村落の内部においては,本名の名主百姓は〈おとな〉などとして村座を構成する指導的・特権的上層をなし,小百姓らはこの村落秩序から疎外され,副次的な地位を与えられるにとどまった。しかし荘園支配が続く中で,小百姓,脇百姓らは村座の本座に対して新座を形成するなど,荘園村落内における地位を向上させ,旧来の本名を改編した新名の名主百姓に成長していく。…
…このような身分階層制は,社会のさまざまなレベルで形成される。 日本の村落社会においては,身分階層制の様相は複雑をきわめ,地域差もみられた(〈村〉の項の[日本]を参照)。まず,同族的系譜関係や親分子分関係(擬制的親子関係)に基づいた身分階層制の形成がある。…
…他所から移住してきた家や村内で新たに分家した家がムラ(村)の成員となるために行う儀礼や手続。またムラにすでに存在する家へ婿養子に来たり,嫁入りしてきた者がムラの成員となる披露の儀礼もいう。…
…日本の近世において,領主が農民に課する年貢,諸役を,村ごとにまとめて提出すること。近世の領主は年貢徴収にあたり,その書類(年貢免定(めんじよう),年貢割付(わりつけ))を領内の個人あるいは個々の家にではなく,村ごとに出した。…
…日本の近世において,村の範域内にその村の耕地を集中すること。近世前期の検地により達成された。…
…ムラ(村)を内外に区分する境。ムラは,理念型としては,家々が集合する集落を中心とし,その周囲に田畑という耕地が展開し,その外側に山野が広がっている。…
…〈むらいりよう〉とも読み,小入用(こにゆうよう),夫銭(ぶせん),入箇(いりか)などともいう。近世の農民が村を通じて賦課された,年貢以外の農民負担である。村入用の内容は村入用帳などと呼ばれる帳簿に記されており,村によってさまざまであるが,大きく三つに分けられる。…
… 弥生時代における北海道には続縄文文化が存在する。続縄文文化の領域は,東北地方北端部をも包括するという考えもあり,とくに青森県南津軽郡田舎館村垂柳(たれやなぎ)遺跡の土器は,1930年代以来,続縄文土器とみなされていた。北海道の続縄文土器と酷似する,というよりむしろ等しい土器だからである。…
…また,冠の色,文様による位階の区別も伝統を引き継いで行われた。いうまでもなく国王が頂点にあり,ついで王子など国王の近親者,地頭と呼ばれる間切,村の領有者が上位を占めた。地頭には二つのタイプがあり,間切を領有する者を総地頭,村を領有する者を脇地頭と呼び,社会的エリート層を構成した。…
※「村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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