東インド会社(読み)ひがしインドがいしゃ(英語表記)East India Company

精選版 日本国語大辞典 「東インド会社」の意味・読み・例文・類語

ひがしインド‐がいしゃ ‥グヮイシャ【東インド会社】

〘名〙 一七世紀初頭に、インド東南アジアとの貿易および植民地経営を行なうためにヨーロッパ各国が設立した独占特許会社オランダ一六〇二‐一七九九)はジャワ島中心に活躍イギリス一六〇〇‐一八五八)はインドを植民地化し、フランス一六〇四‐一七九六)は一時インド支配に積極的だったがイギリスと争って敗れた。

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デジタル大辞泉 「東インド会社」の意味・読み・例文・類語

ひがしインド‐がいしゃ〔‐グワイシヤ〕【東インド会社】

17世紀初頭に、イギリス・オランダ・フランス・デンマークスウェーデンがそれぞれ東洋貿易のために設立した独占的特許会社。香料などの輸入が主目的であったが、植民地経営にも深く関与した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「東インド会社」の解説

東インド会社(ひがしインドがいしゃ)
East India Company

17世紀から19世紀にかけて,東インドとヨーロッパとの間の貿易や,南アジア,東南アジアにおける植民地の経営に従事した,ヨーロッパ諸国の会社の総称。本来の目的は,香辛料綿布などを産する東インドとヨーロッパとの間の貿易を独占し,高い利潤をあげることにあったが,次第に現地の支配者から支配権を奪い,土地と人を支配するようになっていった。その過程で,重商主義的な独占貿易を行う企業から,領土支配を行う準政府的な機関へと変質していった。イギリスとオランダは,それぞれ1600年と02年に,相次いで東インド会社を設立した。初めに優勢だったのはオランダ東インド会社で,東南アジアの香料と胡椒(こしょう)の貿易を支配し,次いで,生産そのものを掌握するために,ジャワ島を中心に,内陸部の土地と人を支配するようになった。こうして成立したのがオランダ領東インドである。オランダ東インド会社は1799年末に解散した。立ち後れたイギリス東インド会社は,インド貿易(綿布,藍(あい)胡椒など)と中国貿易(など)に集中した。1757年,プラッシーの戦いに勝利してベンガル覇権を獲得したのを皮切りに,征服戦争を進め,1810年代末までにはインドの主要部分を英領インドとして領有するに至った。しかし他方では,自由貿易主義者から激しい批判を浴びせられ,14年にはインド貿易の独占を,34年には中国貿易の独占を放棄させられ,58年,シパーヒーの反乱責任をとらされる形で活動を停止した。なお,フランス,デンマークなども東インド会社を設立したが,重要な役割を果たしたとはいえない。

東インド会社(とうインドがいしゃ)

東(ひがし)インド会社

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旺文社世界史事典 三訂版 「東インド会社」の解説

東インド会社
ひがしインドがいしゃ
East India Company

17〜19世紀にヨーロッパ諸国がインド・東南アジアの物産の直接輸入と植民活動に従事させた特許会社の総称。国家的な独占企業体で,イギリス・オランダ・フランスの3会社が有力であった
【イギリス】1600年エリザベス1世の特許状で会社を設立。チャールズ2世時代には近代的な株式会社の形態をとる。当初はモルッカ諸島で香辛料貿易に従事していたが,1623年のアンボイナ事件(アンボイナの虐殺)でオランダに敗れて以来,綿布をあつかうインド貿易に専念した。カルカッタ・マドラス・ボンベイの3拠点からムガル帝国内部に進出し,私兵を有して独自の現地外交を展開しながら,1757年プラッシーの戦いでフランス勢力を駆逐した。1765年ベンガル地方の徴税権の譲渡を受けてからは,貿易の利益よりも植民地統治の政治的権力を行使する機関にしだいに変貌した。その後自由貿易要求が高まる中,1813年には茶以外のインド貿易の独占権が剝奪され,33年には貿易活動自体が停止されて純然たる統治機関となった。インド大反乱後の1858年にインドの統治権はイギリスの直接支配下に移されて,東インド会社は機能を停止した。
【オランダ】1602年各市府の商業会議所を合同して会社を設立。世界最初の近代的株式会社の性格をもつ。1619年オランダ東インド総督が会社の根拠地としてバタヴィア(現ジャカルタ)に商館を建設し,独占権を与えられて駐在した。香辛料貿易や植民地経営に従事し,17世紀前半には最盛期を迎えた。18世紀になると,イギリス・フランスの圧迫と植民地経営の失敗から,会社は領土をオランダ政府に移譲して1799年に解散した。
【フランス】1604年に設立されたが不振で,64年コルベールが再建して18世紀には隆盛となった。イギリスと争って敗れ,1796年に解散。
 以上のほか,デンマーク・スウェーデンなども,会社を設立した。

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世界大百科事典 第2版 「東インド会社」の意味・わかりやすい解説

ひがしインドかいしゃ【東インド会社 British East India Company】

1600年から1858年のあいだに,イギリス・アジア間の貿易やインド支配を行ったイギリスの特権的な会社。〈地理上の発見〉以降ヨーロッパ各国がアジアとの直接貿易に進出するなかで,イギリス東インド会社は,喜望峰以東のアジア地域の貿易を独占的に行う特権会社として,1600年12月31日に設立され,57年のクロムウェルによる改組を経て,近代的株式会社として確立していった。イギリス東インド会社は,オランダの力の強かったモルッカ(香料)諸島からは退却し,ポルトガルやオランダの勢力を抑えてインドに拠点を拡大し,のちには,プラッシーの戦などを通じてフランスのインドへの進出を挫折させた。

ひがしインドかいしゃ【東インド会社 Vereenighde Oost Indische Compagnie】

オランダの東インドにおける植民地経営,貿易を独占的に行った会社。オランダの東洋進出は,スペイン,ポルトガルより約1世紀遅く,1595‐97年のハウトマンの航海に始まるが,その帰国に刺激されて多くの航海会社が乱立し,過当競争により利益が上がらなくなったので,オランダ連邦議会は1602年3月に連合東インド会社設立を決定した。これによりオランダのアムステルダム,エンクハイゼン,ホールン,ロッテルダム,デルフト,ミッデルブルフの6ヵ所に散在していた個々の会社が統合され,それぞれは東インド会社のカーメル(支部)と改称された。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東インド会社」の意味・わかりやすい解説

東インド会社
ひがしインドがいしゃ

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旺文社日本史事典 三訂版 「東インド会社」の解説

東インド会社
ひがしインドがいしゃ

17〜18世紀にかけて西欧諸国が東洋経営のために設立した特許会社
イギリスは1600〜1858年,オランダは1602〜1799年,フランスは1604〜67年の間存続。貿易権のみならず軍事権ももっていた。江戸時代の日蘭貿易もオランダの東インド会社が行い,その総督政庁はバタビア(ジャカルタ)にあった。

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百科事典マイペディア 「東インド会社」の意味・わかりやすい解説

東インド会社【ひがしインドかいしゃ】

イギリス東インド会社オランダ東インド会社

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東インド会社」の解説

東インド会社
ひがしインドがいしゃ

イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ)オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ)

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世界大百科事典内の東インド会社の言及

【アダムズ】より

…相模国三浦郡逸見村(現,横須賀市)に領地250石,また江戸日本橋に邸宅を与えられ,三浦按針と呼ばれた。このころイギリス東インド会社はジャワのバンタムに商館を設けていたが,11年アダムズがジャワにいるイギリス人あてに日本の事情を知らせる手紙を書いたことが,イギリスの日本貿易開始の契機となった。13年ジョン・セーリスが国王ジェームズ1世の国書を持ち,平戸に来航し,アダムズは彼とともに駿府で家康に謁見し,貿易許可の朱印状を得た。…

【アヘン(阿片)】より

…なお鴉片の鴉は,黒褐色(ボール状になったアヘンの色は黒砂糖に似ている)の色からとられたものであろう。
[東インド会社とアヘン貿易]
 薬用に限定されていたアヘンが,大規模に商品として生産・販売されるようになり,麻薬と化すようになったのは,18世紀後半,イギリス東インド会社が植民地インドでケシ栽培,アヘン生産の専売制を開始し,これを中国向けに輸出しはじめてからのことである。こうしてアヘンは,中国からイギリスへの茶,イギリスからインドへの機械製綿製品という輸出商品とともに,19世紀アジア三角貿易の不可欠の商品となった。…

【アヘン戦争】より

…イギリスはこれらの関係を形成することにより,(1)自国工業製品の販路開拓,(2)銀を対価としない中国茶輸入の確保,(3)植民地インド政府の財源確立,という課題を果たさんとした。そのため,東インド会社にアヘン貿易独占権を与え,その東インド会社は,アヘン輸入を禁ずる中国に対し,ジャーディン・マセソン商会などの私貿易商人を通じて密輸出するという,中国市場と表裏二層の貿易関係をとり結んだ。したがって,この関係は次の矛盾を内包していた。…

【イギリス】より

…97年成立のブレアTony Blair(1953‐ )政権はEUに対し,国益は守りつつも,より柔軟な対応を採るものと期待されている。
[日英関係]
 イギリスと日本との交渉は,1600年(慶長5)九州豊後海岸にウィリアム・アダムズ(三浦按針)が漂着したことに始まり,徳川家康の許可を得てイギリス東インド会社は13年より平戸に商館を開いて通商を行った。しかしオランダとの競争に敗れて貿易はふるわず,23年(元和9)平戸商館は閉鎖され,両国の関係は絶たれた。…

【イギリス商館】より

…イギリス東インド会社が平戸に設けた商館。1613年(慶長18)イギリス国王の国書を携えたJ.セーリスが来航し,徳川家康から通商の許可を得て,平戸に商館を設置した。…

【インド】より

…このとき,軍事支出の増大とジャーギールの不足から帝国の財政は悪化し,そのうえアウラングゼーブのヒンドゥーに対する強圧的な政治的・宗教的政策が加わって,ザミーンダール層(ザミーンダーリー制度)の反抗が強まり,それが帝国滅亡の原因となった。
[イギリス植民地時代の制度]
 イギリス東インド会社のインド統治は,国王の特許状によって権限が賦与され,政府と議会の監督のもとにおかれた。ムガル帝国からは領有の権原や地税徴収の原則などを引き継いだが,従来の統治と異なり,イギリスの独裁的統治であった。…

【株式会社】より

…そして,株式を株券という有価証券に表章しその譲渡を自由としていることは,この資本維持の原則のため,出資の払戻しができない点の不都合を解消し,株主の投下資本の回収を株式譲渡という方法で可能にするためである。
[沿革と最近の動向]
 株式会社の起源についてはいろいろの説があるが,後述のようにオランダ東インド会社(1602設立)等の植民公社を起源とみるものが多い。当初は,国王の特許状によって設立され,経営も官吏・大株主が専制的に行ったが(特許主義),しだいに私的な民主的性格のものが現れ,1807年のフランス商法典は,株式会社に関する一般的な規定をおくに至った。…

【カンパニー制度】より

…他方,初期のモスコー会社(Muscovy Company,別名ロシア会社,1555設立)やレバント会社(1581年の創設時から92年まで)は合本制をとった。とくに1600年に成立する東インド会社は合本制会社の典型となった。制規会社の場合,近代の株式会社の諸特徴のうち,(1)個々の商人の寿命をこえて存続しうる永続性など,法人的性格は認められるが,(2)資本の合同が認められないのに対し,合本制会社では(2)の要素も加わる(このため,株式会社の訳語もしばしば与えられる)。…

【香料】より


[スパイス・ルートの終幕]
 ヨーロッパから見て香辛料の歴史が紀元前後のローマ人に始まるとすれば,終幕はいつごろであったろう。17世紀にジャワに進出したオランダ東インド会社とイギリス東インド会社の最大の目的は,胡椒を筆頭として丁子,肉荳蔲,肉桂のヨーロッパへの輸入であった。二つの東インド会社が本国へ輸入した香辛料を概観すると,17世紀の前半では胡椒,丁子,肉荳蔲で全輸入商品の70~75%を占めていた。…

【地主】より

…彼らの中でとくに有力な者はナーヤカと呼ばれ15世紀以降には数県にまたがる地域を一円支配する領主となる者もいたし,また,ナーッタム,パーライヤッカーラン(ポリガール)と呼ばれる地主・小領主層も南インドの南部に現れた。
[イギリス東インド会社]
 18世紀末からインドの直接支配を目ざしたイギリス東インド会社政府は,本国の近代的な地主制の観念を導入し,かつインド古代法典に基づき〈インドでは古来,国家が最高の土地所有権者である〉という論拠に立って新たな徴税制度を実施した。その結果,旧来,土豪地主・領主層であったザミーンダールは,その行政権,軍事権を奪われ,単なる地租徴収請負人の地位に落とされた。…

【商業】より

…他方,中世以来の地中海経由の香料貿易は,急に消滅したのではないが,ポルトガルに代わってオランダがアジア貿易を握る17世紀にはほとんど意味がなくなり,イタリア諸都市も決定的に没落する。 1602年に,これまであった多数の会社を併合して連合東インド会社を設立,圧倒的な資本力によってモルッカ諸島(香料諸島)を含むインドネシアを支配したオランダは,1621年西インド会社をも設立して西半球にも進出した。この結果,17世紀前半には,アントワープに代わってアムステルダムが世界経済の中心となった。…

【スラト】より

…1512年にポルトガル人が来攻し,73年にアクバル大帝が攻略してから,ムガル帝国第一の貿易港,またメッカ巡礼の門戸として栄えた。1612年にはイギリス東インド会社の最初の商館が設置され,87年にボンベイに移るまで同会社のインドにおける拠点となった。当時はキャラコなどの綿布,綿糸を輸出した。…

【茶税法】より

…1700万ポンド(重量)の茶の滞貨で経済的に困窮する東インド会社の救済のため,イギリス議会が1773年5月10日に制定した法律。同法は,北アメリカ植民地向けの茶には本国輸入時の関税を全額東インド会社に払い戻し,かつ,アメリカでは競売ではなく,同社の代理人を通じて直接販売する独占権を与え,オランダの密貿易茶の輸入阻止をも目的とした。…

【プラッシーの戦】より

…1757年に行われたインドのベンガル太守(ナワーブ)とイギリス東インド会社軍との戦闘。東インド会社の得た会社取扱商品の自由通関権と会社職員などによるその乱用は,ベンガル太守の財政収入に打撃を与え,太守シラージュ・ウッダウラと会社との対立が強まっていった。…

【マイソール戦争】より

…アングロ・マイソール戦争とも呼ばれる。南インドの植民地化をねらうイギリス東インド会社軍と,それに抗したマイソール王国のムスリム支配者ハイダル・アーリー,ティプ・スルターン父子との間で続けられた戦争。1767‐69年,80‐84年,90‐92年,99年の4次にわたる戦争の結果,ティプの敗北によってイギリスの南インド支配が決定的となった。…

【マドラス】より

…市の南部には16世紀中期以来ポルトガルのインドにおける根拠地の一つとなったサン・トメSan Thomé(イエスの十二弟子の一人トマスが福音伝道のためインドに来住し,殉教後ここに埋葬されたという伝承をもつ)があるが,現在の市の直接的な起源は1639年に始まる。同年イギリス東インド会社は,コロマンデル海岸における根拠地マスリパタムがゴールコンダ王国に脅かされるに至ったため,同地に代わる新たな根拠地として,マドラサパトナムを取得した。翌40年にはフランシス・デイによって,中央の商館を取り囲む二重の城壁をもつ要塞の建設が開始された。…

【マレーシア】より

…ムラカ王国はジョホールに移り,ジョホール王国となった。ジョホール王国は国際貿易で繁栄したが,この間にポルトガルの植民地であったムラカは1641年にオランダ東インド会社に占領された。18世紀に入るとスラウェシからのブギス族の移住もあって,半島にジョホール,パハン,クランタン,トレンガヌ,ペラ,ケダ,スランゴールの諸王国が分立した。…

【オランダ】より

…また,オランダ人はきちょうめんで,事をなすに当たっては慎重,計画的で決して功をあせらない。きちょうめんさは,たとえば東インド会社の帳簿,日誌,本店とアジア各地との往復文書などの綿密で膨大な記録とその驚くべき保存ぶりなどからもうかがえよう。第2次大戦中ドイツ空軍の爆撃で全壊したロッテルダム市中心街を先見的な都市計画によってみごとな都市空間につくりあげたことは,オランダ人の計画性の好例であり,戦後オランダの国土計画や社会計画などを指導した中央計画局の存在は国際的に有名になった。…

【オランダ共和国】より

…1585年北ヨーロッパ最大の国際的貿易港アントワープがスペイン軍に占領されると,この港の大商人たちはアムステルダムに移住し,巨額の資本と国際的な取引関係をもたらし,アムステルダムの貿易活動はバルト海に加えて,スペイン,イタリア,レバントへと一挙に拡大した。1602年成立した連合東インド会社はアジア貿易に進出し,ジャワ島のバタビア(現,ジャカルタ)を拠点に,ポルトガル人が1世紀にわたって築き上げたコショウ貿易の独占的地位を奪った。当時の対日貿易においては,ポルトガル,イギリスを抑えたオランダが,ヨーロッパ諸国中,唯一の相手国であった。…

【オランダ商館】より

…江戸時代平戸および長崎にあったオランダ東インド会社の日本支店。1600年(慶長5)オランダ船リーフデ号が豊後に漂着したが,09年オランダとの国交が開かれたとき商館が平戸に置かれた。…

【オランダ領東インド】より

…オランダがその植民地としていた現在のインドネシア共和国全域(旧ポルトガル領チモールを除く)に与えていた名称(オランダ語ではNederlandsch‐Indiëと書き,多くの場合〈東〉という語は入れない)。すでに18世紀ごろから,オランダ東インド会社の公式文書にこの名称が用いられているが,名実ともにインドネシア全体を含むに至ったのは1915年以後とされる。 東インドに初めて到達したオランダ船は,1596年6月,ジャワ島西部のバンテン港に停泊したコルネリス・ド・ハウトマンの船隊である。…

【株式会社】より

…そして,株式を株券という有価証券に表章しその譲渡を自由としていることは,この資本維持の原則のため,出資の払戻しができない点の不都合を解消し,株主の投下資本の回収を株式譲渡という方法で可能にするためである。
[沿革と最近の動向]
 株式会社の起源についてはいろいろの説があるが,後述のようにオランダ東インド会社(1602設立)等の植民公社を起源とみるものが多い。当初は,国王の特許状によって設立され,経営も官吏・大株主が専制的に行ったが(特許主義),しだいに私的な民主的性格のものが現れ,1807年のフランス商法典は,株式会社に関する一般的な規定をおくに至った。…

【商業】より

…他方,中世以来の地中海経由の香料貿易は,急に消滅したのではないが,ポルトガルに代わってオランダがアジア貿易を握る17世紀にはほとんど意味がなくなり,イタリア諸都市も決定的に没落する。 1602年に,これまであった多数の会社を併合して連合東インド会社を設立,圧倒的な資本力によってモルッカ諸島(香料諸島)を含むインドネシアを支配したオランダは,1621年西インド会社をも設立して西半球にも進出した。この結果,17世紀前半には,アントワープに代わってアムステルダムが世界経済の中心となった。…

【マレーシア】より

…ムラカ王国はジョホールに移り,ジョホール王国となった。ジョホール王国は国際貿易で繁栄したが,この間にポルトガルの植民地であったムラカは1641年にオランダ東インド会社に占領された。18世紀に入るとスラウェシからのブギス族の移住もあって,半島にジョホール,パハン,クランタン,トレンガヌ,ペラ,ケダ,スランゴールの諸王国が分立した。…

※「東インド会社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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