精選版 日本国語大辞典 「東大寺」の意味・読み・例文・類語
とう‐だいじ【東大寺】
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奈良市東部、奈良公園の北東部に位置する。華厳宗大本山。本尊は銅造盧舎那仏坐像(国宝)で、俗に「奈良の大仏」といわれている。東大寺の称号は、平城外京すなわち平城宮東方に建立された官大寺という意味から称せられ、まま東寺ともよばれた(天平勝宝二年一二月二三日「造東寺司解案」正倉院文書)。奈良時代の官大寺の筆頭、南都七大寺および「延喜式」玄蕃寮にみえる十五大寺の一つであった。平安時代以降、数度の火災で七堂伽藍などは焼亡したが、再興や新建されたものがあり、現在東方より法華堂(羂索堂・三月堂とも、国宝)、二月堂・法華三昧堂(四月堂、たんに三味堂とも)・法華堂北門・
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
当寺の起源は天平一七年(七四五)五月に近江
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奈良市雑司(ぞうし)町にある華厳(けごん)宗の大本山。大華厳寺、金光明四天王護国寺(こんこうみょうしてんのうごこくじ)などとも称する。本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)で、奈良の大仏として有名。奈良時代の創建。『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の思想を根幹とした、741年(天平13)3月24日の詔(みことのり)に基づいて設置された全国国分寺の中心となって、総国分寺とも称された。大仏造顕(ぞうけん)の目的は、『華厳経』で説く理想の世界、すなわち蓮華蔵(れんげぞう)世界をこの世に実現しようとしたものであり、さらに日本の文化を世界に示そうとするものであった。東大寺の名称は、平城京の東にある大寺(おおてら)という意味に由来する。南都七大寺の一つ。
[平岡定海]
この寺は聖武(しょうむ)天皇の発願で、光明(こうみょう)皇后の勧めによって創建されたといわれている。743年10月15日に盧舎那仏造顕の詔が発せられ、詔に、「大山を削りて、以(もっ)て堂を構え、広く法界に及ぼして、朕(ちん)が知識となす」とあり、盧舎那仏造像の本願に基づいて東大寺が創建されたのであった。最初は近江(おうみ)国(滋賀県)の紫香楽宮(しがらきのみや)の近くで大仏を鋳造しようと計画したが、目的を果たせず、平城京の東の山麓(さんろく)に移して747年造像を始めた。大仏造営の詔が発せられた年、行基(ぎょうき)は大仏造営勧進(かんじん)の大役を命ぜられ、すでに76歳の高齢であったが、弟子らを率い勧進に奔走した。大仏は前後8回にわたって流し込みを行い、749年(天平勝宝1)についに完成した。大仏鋳造の方法は、おそらく当時盛んに行われていた蝋(ろう)型だといわれている。大仏鋳造に用いた資財は、銅13万3110貫、錫(すず)2271貫、練金117貫、水銀660貫、炭1万6656石といわれており、まったくの国家的大事業であった。
この巨大な大仏の開眼供養(かいげんくよう)は752年4月9日に聖武太上(だじょう)天皇、孝謙(こうけん)天皇、光明皇太后、橘諸兄(たちばなのもろえ)らが参加し、はるばるインドから訪れた菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼導師として盛大に行われた。現在の大仏は二度の兵火による炎上で青銅色となっているが、もとは仏身が金色に輝き、頭の螺髪(らほつ)は紺青(こんじょう)、唇は赤色などで、大理石の二重の蓮台(れんだい)の上に5丈3尺5寸(約16メートル)の坐高(ざこう)をもって安置されていた。現在もこの蓮台の蓮弁に『華厳経』の「蓮華蔵世界海図」を描いた毛彫りが残っている。
この本尊を中心に東大寺が創建され、当寺の建立に尽力した良弁僧正(ろうべんそうじょう)は752年初代別当職に補せられ、彼の師の審祥(しんじょう)によって『華厳経』がこの寺で初めて講ぜられたのである。東大寺では創建に力を尽くした4人、すなわち聖武天皇、行基、菩提僊那、良弁を四聖(ししょう)と称して尊んでいる。757年(天平宝字1)ころまでに南大門、東西両塔院、講堂、三面僧房などが完成して伽藍(がらん)が整ったが、良弁のあと東大寺伽藍の整備と維持にとくに力を尽くしたのは良弁の弟子実忠(じっちゅう)である。また、彼は753年に二月堂修二会(しゅにえ)を初めて修した。
奈良時代の仏教は六宗(華厳・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・三論・成実(じょうじつ)・律)兼学の学派仏教で、東大寺は華厳・三論・倶舎の中心道場であった。773年(宝亀4)良弁の示寂(じじゃく)後、華厳宗の盛大さは、都が平安京へ移されるとともに衰え、810年(弘仁1)空海が第14代東大寺別当に任ぜられてより真言(しんごん)宗の勢力が浸透した。彼は、822年2月、東大寺に灌頂(かんじょう)道場を建立し、鎮護国家のため息災増益(そくさいぞうやく)の法を修した。これが東大寺真言院の始まりである。しかし、この寺は八宗兼学の寺院であったから、平安時代には華厳宗を学ぶための尊勝(そんしょう)院、三論宗・真言宗を学ぶために聖宝(しょうぼう)(醍醐(だいご)寺開山)が開いた東南院、法相宗の道場の知足(ちそく)院、律宗のための戒壇(かいだん)院などがあり、東大寺は仏教教学研究のための南都での中心道場であった。
東大寺は奈良時代には越前(えちぜん)国(福井県)や伊賀国(三重県)などに多くの荘園(しょうえん)を保有し、中世では伊賀国黒田荘(しょう)、美濃(みの)国(岐阜県)茜部(あかなべ)荘・大井荘などが有名であった。
平安時代になると、855年(斉衡2)大地震で大仏の頭部が落ちるなど損傷がみられる。伽藍についても、917年(延喜17)に僧坊と講堂を炎上、934年(承平4)には西塔を雷火によって焼失、962年(応和2)には南大門が倒壊した。さらに1180年(治承4)平重衡(しげひら)の南都焼打ちによって東大寺も諸堂のほとんどを焼失した。翌1181年、東大寺再興の詔が発せられ、俊乗房重源(しゅんじょうぼうちょうげん)が造東大寺大勧進職に起用されて再興を図り、源頼朝(よりとも)に願って周防(すおう)国(山口県)を造営料国として用材調達を図った。また、用材運送の必要から備前(びぜん)国(岡山県)野田荘をはじめ、瀬戸内海地域に寺領を拡大していった。また、重源は、宋(そう)の陳和卿(ちんなけい)らの協力を得て、落下した大仏頭部を鋳造し、1185年(文治1)開眼供養が行われた。
鎌倉時代には、伽藍が再興されるに伴って、華厳教学もおこり、尊勝院を中心として、弁暁(べんぎょう)、宗性(そうしょう)、凝然(ぎょうねん)らが輩出して教学復興の機運が高まった。また、別に明恵上人高弁(みょうえしょうにんこうべん)は京都栂尾(とがのお)に高山寺を開いて華厳・真言の道場とした。しかし、南北朝の争乱のとき東大寺は公家(くげ)(東南院門跡(もんぜき)系)と武家(尊勝院系)の2派に分かれて争ったために、寺内も荒廃し、さらに1567年(永禄10)には松永久秀(ひさひで)と三好(みよし)三人衆との争いに巻き込まれて大仏殿が炎上し、江戸中期まで露座の大仏と化した。1688年(元禄1)に公慶上人(こうけいしょうにん)が大勧進職となり、江戸幕府の援助のもとに諸国に勧進を始め、5代将軍徳川綱吉(つなよし)、その生母桂昌院(けいしょういん)らの援助を得て大仏殿再建が進められ、1692年に現在の大仏殿が落成した。
明治維新の結果、いままでの3500石の知行(ちぎょう)も消滅し、大仏殿の修理が不可能となったが、1898年(明治31)には政府の援助で修理が完成した。また、神仏分離により手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)を分離し、華厳宗大本山として独立した。1980年(昭和55)には、1973年から始められた昭和の大仏殿大屋根の大修理が完成した。
[平岡定海]
現在の境内は、大仏殿を中心に、南大門、鐘楼(しょうろう)、俊乗堂、開山堂、法華堂(三月堂)、二月堂、灌頂堂(勧学院)、戒壇院、転害(てがい)門などの建造物が建ち並んでいる。また、大仏殿の北方(裏手)には正倉院、東方には手向山八幡宮がある。諸堂内には、盧舎那仏をはじめとして多数の国宝・国重要文化財の彫刻を蔵している。また、絹本着色倶舎曼荼羅(ぐしゃまんだら)図、紙本着色華厳五十五所絵巻、『賢愚経(けんぐきょう)』1巻、葡萄唐草文染革(ぶどうからくさもんそめかわ)(以上、国宝)、絹本着色香象大師像、同華厳海会善知識曼荼羅図(ともに重文)、『東大寺要録』など絵画、工芸品、書跡などの文化財も多い。1998年(平成10)、世界遺産の文化遺産として登録された(世界文化遺産。奈良の文化財は興福(こうふく)寺など8社寺等が一括登録されている)。
東大寺の年中行事のなかでもっとも知られているのは二月堂修二会(しゅにえ)の「御水取(おみずとり)」の行法である。3月1日から二七日(にしちにち)(14日間)、二月堂で修二会の法要を営み、その間「御水取」「達陀(だったん)秘法」などが行われる。そのほか大仏殿で行われる正月7日の修正会(しゅしょうえ)、7月28日の解除会(けじょえ)なども代表的な行事である。
[平岡定海]
東大寺領は、
〔1〕墾田を中心とする奈良時代の古代北陸系荘園の形成
〔2〕平安時代から室町時代に至る
〔ア〕封戸(ふこ)の荘園化
〔イ〕中世的畿内(きない)型荘園の崩壊と近世的港湾収益の追求
〔3〕近世における石高(こくだか)制への移行
の諸段階を経て、変遷していった。奈良時代には、越前国(福井県)道守(ちもり)荘、桑原(くわばら)荘などの寺領が成立し、平安時代では、東大寺造営の材木搬出のために設定された伊賀国(三重県)の板蠅杣(いたばえのそま)、玉滝(たまたき)杣などを中心に発生した同国黒田荘、玉滝荘がある。ことに大和(やまと)国(奈良県)では、散在的な荘田の集積によって荘園が成立した。大仏御仏聖白米(ごぶつしょうはくまい)免田として櫟(いちい)荘、小東(こひがし)荘などがあり、大仏仏聖香菜(こうな)免田として和邇(わに)荘、大宅(おおえ)荘などがあり、また大仏灯油料を差し出す御油免田としての高殿(たかどの)荘、西喜殿(にしきどの)荘などがあった。
平安末期、1180年(治承4)の東大寺炎上後、寺領の減少は甚だしく、荘園の総面積は約2500町で、平安初期の4300余町に対して約半分となってしまった。そこで重源は平家の没官(もっかん)領の獲得と周防国の知行国(ちぎょうこく)化に成功し、瀬戸内地域の確保に努めた。安土(あづち)桃山時代の太閤(たいこう)検地の結果、寺領支配は減少して石高制が実施され、寺領は江戸時代には知行高3500石に定められた。もともと国家的寺院であったのが、時代の変遷とともに地方寺院として縮小していったのである。
[平岡定海]
『筒井英俊校訂『東大寺要録』(1982・国書刊行会)』▽『仏書刊行会編『東大寺叢書』全2巻(1978・第一書房)』▽『石田茂作著『東大寺』全2巻(1976・講談社)』▽『奈良六大寺大観刊行会編『東大寺』(『奈良六大寺大観9~11』1979・岩波書店)』▽『東大寺教学部編『東大寺』(1973・学生社)』▽『平岡定海著『東大寺辞典』(1980・東京堂出版)』▽『田中義恭著『東大寺』(1980・小学館)』
金光明(こんこうみょう)四天王護国之寺・総国分寺・大華厳寺とも。奈良市雑司町にある華厳宗総本山。南都七大寺の一つ。前身は,聖武天皇の皇子基王(もといおう)のためにたてられたと伝える金鐘(こんしゅ)寺。744年(天平16)近江の紫香楽(しがらき)で着手された大仏造営が,翌年の平城還都にともない,金鐘寺の寺地で継続されることとなり,あわせて東大寺の造営が推進された。752年(天平勝宝4)大仏開眼供養が盛大に修され,当寺の創建に尽力した良弁(ろうべん)が別当に補任された。以後も造営は造東大寺司により継続された。754年には鑑真(がんじん)が当寺で聖武上皇や孝謙天皇らに授戒し,翌年には戒壇院(かいだんいん)が設置された。756年,聖武上皇が没すると,光明(こうみょう)皇太后が遺品を当寺に施入,その一部が正倉院に伝存する。東大寺は,皇室のあつい庇護をうけ,多数の田地などが施入され,また越前・越中などに多くの荘園をもった。寺内では華厳のみならず三論・法相(ほっそう)など南都六宗と称された教学が兼学されたが,平安時代になると真言宗が加わり,真言院や東南院などが寺内に設けられた。1180年(治承4)平重衡(しげひら)の焼打をうけたが,重源(ちょうげん)が復興にあたった。また1567年(永禄10)にも兵火で大仏殿などが焼失したが,江戸前期に再建され,現在に至る。境内は国史跡。
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…元来仏聖灯油貯備の蔵であるが,歴史上有名な東大寺の油倉は,貯備蔵としてではなく広範な経済活動に従事する寺内機関として注目される。鎌倉前期の東大寺で,欠乏する灯油を旧来の担当者たる御油目代にかわり大仏殿等に供給したのは勧進聖西迎房蓮実であり,その執務所として嘉禎年間(1235‐38)に油倉は成立した。…
…律令制以前より大和南部の磯城,泊瀬から名張を経て伊勢に出る交通路が開かれていたが,平城遷都後は奈良から山城国相楽郡を経て伊賀の新居,柘植(つげ)を通り伊勢に向かう通路が重視された。都に近接していたため奈良期より大寺院の杣や荘園が設けられ,平安中期には国内に膨大な所領を有する藤原実遠のような大規模な私営田領主(私領主)も出現したが,その没落後は平安末期にかけて,東大寺,興福寺,春日社,伊勢神宮,摂関家などの所領が数多く立てられた。【勝山 清次】
【中世】
伊賀国4ヵ郡のうち,とくに北伊賀の阿拝,山田両郡は11世紀末以降,平正盛,忠盛父子のころから伊勢平氏の基盤となり,平家の一族・郎等が勢力を築いていた。…
…日向大隅の乱の鎮定に協力し,また古くから対新羅政策などで朝廷の崇敬をうけたとみられ,奈良時代には鎮護国家の神として厚い崇敬をうけ,737年(天平9)新羅の無礼を奉告し,740年藤原広嗣の乱の鎮定を祈願した。東大寺大仏鋳造に際しては八幡神の神託により黄金を得たとされ,東大寺の守護神として神体は奈良に移され,749年(天平勝宝1)八幡大神は一品,比咩(ひめ)神は二品の神位をうけた。道鏡の事件(宇佐八幡宮神託事件)の際には,769年(神護景雲3)和気清麻呂が参宮して神託をうけた。…
…絵画における宅磨派はのちに仏師としてもこの地方を中心に活躍する。
[南都復興と鎌倉彫刻]
1180年(治承4)平氏による南都の焼打ちはどちらかといえば偶発的なものであるが,東大寺と興福寺の二つの強大な古代寺院の壊滅は文化史上の大事件であり,その復興造営は鎌倉美術の歩みを急激に早めた感がある。まず東大寺でみれば,入宋三度を自称する勧進聖人重源の努力によって85年(文治1)大仏が復興されたが,その鋳造には宋人の仏工陳和卿(ちんなけい)の技術的参与がある。…
…伊賀国名張郡にあった東大寺領荘園。10世紀中葉,東大寺は寺領板蠅杣(いたばえのそま)の四至を笠間川から名張川まで拡張し,四至外の宇陀・名張両川左岸の山麓地域を領有。…
…当時奈良では大規模な造営もなく,主として修理に携わっていたが,天平以来の古仏を親しく学びとることができたのは,のちに彼らが飛躍する糧となったと思われる。中央から除外された慶派の運命を変えたのは,治承の南都焼亡(1180)による興福寺,東大寺の復興造営と鎌倉武家政権の成立である。南都復興の最初に行われた興福寺の造営では,慶派は院派,円派に主要な堂塔の造仏をゆずらねばならず,慶派直系の康朝の子成朝は中央で閉ざされた道を鎌倉で開くべく下向している。…
…743年には大盧遮那仏(だいるしやなぶつ)をまつる大寺が発願され,745年平城京東郊で着工された。東大寺と呼ばれ,盧遮那仏が仏教世界の中心仏であるのになぞらえて,国分寺の中心とされた。大仏殿の桁行は86m,高さ44mの巨大なもので,前面東西に高さ98mの七重塔がある,規模も意義も空前絶後のものであった。…
…政府はこの動きにこたえつつ墾田に対する統制を強化すべく,723年(養老7)の三世一身法につづいて,743年(天平15)墾田永年私財法を発した。この法は位階に則した墾田制限額を定めているが,東大寺などの寺院には広大な墾田を認めており,寺院は造寺司,国司などの国家機関に依存しつつ各地に荘を設け,地方有力者の墾田を買得,さらに未墾地を占定して開墾を進めた。東大寺は越前国桑原荘,道守(ちもり)荘をはじめ,北陸を中心に多くの荘を設定,墾田を開いたが,その開墾は郡司などの地方有力者に依存しつつ周辺の農民を雇って進められ,開墾後は農民の賃租によって地子(じし)を徴収する方式で経営された。…
…東大寺の造営と付属物の製作,写経事業のために設けられた令外の律令官司,官営工房で,太政官に直轄された。金光明寺造物所が発展して748年(天平20)7月ごろ成立し,789年(延暦8)停廃された。…
…1176年(安元2)までに3度宋に渡航したと伝えるが,その事跡は定かでない。80年(治承4)平重衡の兵火により東大寺が炎上したが,翌81年(養和1)8月造東大寺大勧進の宣旨を受けると直ちに勧進を開始,宋の鋳物師陳和卿らの協力で84年(寿永3)6月には大仏の鋳造をほぼ終わり,85年(文治1)8月大仏開眼会を行った。86年周防国が東大寺造営料にあてられたため番匠を率いて下向,みずから良材を探して巨木を搬出した。…
…長渚とも書く。この地域は猪名川・神崎川の三角州=長洲で,北の東大寺領猪名荘に続き,古くから東大寺が住みついた漁民に屋敷地子を課していた。神崎川河口一帯の港津を管理する検非違使庁も,長洲住民に庁役を課していた。…
…そして741年,諸国に国分寺および国分尼寺建立の詔が出され,また大仏造立の詔が発せられた。造東大寺司の大機構のもとに大仏鋳造をはじめ,堂塔,仏像,荘厳具,仏器・仏具,壁画,大繡帳などが大規模に制作された。これらはその素材や技法が多岐にわたるばかりでなく,様式も唐や遠くシルクロードの国々の影響をうけ,同時代中国の美術と遜色ないほどの高度なものが制作された。…
…677年(天武6)の大官大寺に始まる大寺制は,四大寺,五大寺と発展し,756年(天平勝宝8)5月に七大寺の名が初見する。8世紀後半に西大寺が創建されるに及んで,東大寺,大安寺,興福寺,元興(がんごう)寺,薬師寺,法隆寺,西大寺を七大寺と称するにいたった。大寺の造営にはそれぞれ官営の造寺司を設けてことに当たり,経営維持のため莫大な封戸・荘地が施入され,別当や三綱が寺・寺僧の運営指導に当たった。…
…禅宗寺院では交(校)割(こうかつ)帳と呼ぶ文書が作成されるが,これは引渡し時に私用と公用とを厳密に分けるために作成された。また,東大寺では毎年2月の年預五師(ねんよごし)の交替に際し,年預の保管する文書の一覧が書き上げられており,これは勘渡(かんと)帳と呼んでいる。ともに,什器・文書を事故なく次の代に引き渡していくための一種の目録といえよう。…
…国分寺と国分尼寺についても不明なところが多い。総国分寺である東大寺が大和の国分寺を,総国分尼寺である法華寺が大和の国分尼寺を兼ねていたとする考え方が存在する一方,それぞれ両者は別個であるとする説がある。後者の説では,大和の国分寺は下ッ道と横大路が交差する西南隅(現在,橿原市八木町2丁目に国分寺が所在している)に,大和の国分尼寺は橿原市法花寺町に想定している。…
…奈良時代の華厳・法相(ほつそう)の僧。東大寺の開山。百済系渡来人の後裔。…
※「東大寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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少子化とは、出生率の低下に伴って、将来の人口が長期的に減少する現象をさす。日本の出生率は、第二次世界大戦後、継続的に低下し、すでに先進国のうちでも低い水準となっている。出生率の低下は、直接には人々の意...
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