東山道(読み)とうさんどう

精選版 日本国語大辞典 「東山道」の意味・読み・例文・類語

とうさん‐どう ‥ダウ【東山道】

[一] 令制の広域行政区画。畿内(五畿)の外を七道に分けたものの一つ。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の八か国。はじめ定制がなく大宝元年(七〇一)に至って近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野とされ、のち陸奥・出羽を加え、宝亀二年(七七一)武蔵を東海道に移して八か国が固定した。とうせんどう。
※続日本紀‐宝亀二年(771)一〇月己卯「武蔵野国〈略〉改東山道、属東海道
[二] 古代以来、畿内より東国へ達する幹線道路。東海道が海の道であるのに対し山の道と称される。近江草津で東海道と分かれ、木曾谷をさかのぼって塩尻に至り、浅間山麓を越えて碓氷(うすい)峠を下って武蔵国に至る。中世以来、中仙道とよばれ、近世五街道の一つとなる。

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デジタル大辞泉 「東山道」の意味・読み・例文・類語

とうさん‐どう〔‐ダウ〕【東山道】

五畿七道の一。東海道北陸道に挟まれた地帯で、現在の、中部関東東北の山地を中心とする地域。近江おうみ美濃飛騨信濃上野こうずけ下野しもつけ出羽陸奥むつの8か国。明治元年(1868)陸奥・出羽が7か国に分かれ、13か国になった。また、これらの国々を結ぶ街道のことをもいう。とうせんどう。

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日本歴史地名大系 「東山道」の解説

東山道
とうさんどう

下野国から白河しらかわ(現福島県白河市)を越えて陸奥国に入り、現在の福島県・宮城県南部を縦断して多賀国府に至り、さらに北上して岩手県に入る古代の官道。「延喜式」兵部省陸奥国駅馬条に「あつかし・柴田・小野各十疋、名取・玉さい栖屋すねや・黒川・色麻しかま・玉造・栗原(中略)各五疋」とあり、別に伝馬条によると刈田・柴田・宮城の各郡に五疋ずつが置かれていた。一〇駅の擬定地は次のとおりである。

あつかし駅は、福島県伊達だて桑折こおり町に擬定される伊達駅の次の駅で、桑折から同郡国見くにみ藤田ふじたを経て、厚樫あつかし山の東を回り同町貝田かいだを経て白石しろいし越河こすごうに出る。近世の奥州街道とだいたい同じ道を通ったとみられる。「日本地理志料」では、文治五年(一一八九)の奥州合戦で源頼朝が伊達郡阿津賀志あつかし(厚樫山)辺りの国見駅に到着していることから(「吾妻鏡」同年八月七日条)、この駅を国見町に擬定している。しかし「和名抄」に刈田かつた借郷があることから、「大日本地名辞書」によって白石市越河付近に擬定するのが妥当と思われる。なお大槻如電の「駅路通」では、越河より白石の町に近い同市中目なかのめを擬定地としているが、越河とともに付近に顕著な古代遺跡はみられないこともあり、今後の検討が必要である。次の柴田駅については「大日本地名辞書」では柴田郡大河原おおがわら町に、「駅路通」では柴田町船迫ふなばさまに擬定している。借駅を出た官道は、北上して白石川流域に出て、その左岸を進んで大河原に出る。さらに同川左岸を東に進むと船迫に至る。「吾妻鏡」によると、阿津賀志山の戦で勝利した頼朝は舟迫宿に逗留したとあることから(同書文治五年八月一一日条)、船迫擬定説が生れる。両説いずれが正しいとは定めがたいが、船迫付近には円墳・横穴古墳が多くあり、天安二年(八五八)創建と伝える大光だいこう院や文永三年(一二六六)銘の鉄仏坐像を有する阿弥陀堂などもあって、古い歴史のある地であるから船迫説のほうが妥当とみられる。ただ次の小野おの駅への道が松尾まつお川をさかのぼって、碁石ごいし川の上流のまえ川・きた川の流域に向かったとすると、大河原ともみられる。しかし現大河原町域の山寄りの地に式内社大高山おおたかやま神社があり、前述の阿津賀志山で敗れた藤原国衡が出羽国に逃亡しようとして果さず、この神社辺りで殺害されたことをみると、同町かな付近を考えるべきだと思われる。

東山道
とうさんどう

上野国南部を横断した古代の官道。信濃から上野に至り、下野を経て陸奥に至る最も長い官道であった。古代律令国家は官道を維持・管理するためにほぼ四里(約一六・六キロ)ごとに駅を設け、駅馬を置いておもに公用に供した。「延喜式」兵部省に「上野国駅馬 坂本十五疋、野後・群馬・佐位・新田各十疋、伝馬 碓氷・群馬・佐位・新田各五疋」と記され、坂本さかもと野後のじり群馬くるま佐位さい新田にうたの五駅が設置され、坂本は一五疋、その他は一〇疋ずつの駅馬が置かれていた。このような上野国を横断・通過する駅制とは別に、碓氷うすい・群馬・佐位・新田の各郡には五疋宛の伝馬が置かれ、「伝制」といわれる国内交通体制が整備されていた。

上野国内の五つの駅の所在推定地は次のとおりである。坂本は現碓氷うすい松井田まついだ町坂本で、碓氷峠を下りた所である。野後は野尻郷のことで現在の安中市の中心部をいい、のちに安中城が築かれその内部に含みこまれてしまったと思われ、野後駅の地点を確定することは難しい。群馬駅は国府(現前橋市元総社町)の周辺と考えられるが、東山道の道筋と絡んで石倉いしくら小相木こあいぎに説が分れる。石倉は利根川を挟んで厩橋(前橋)があり、この「厩」がうまやから転じたものと考えられ、一方、小相木は群馬郡が国府郡であることから国府駅こうえきの転訛したというのが主張の根拠である。佐位駅はかす川の東岸、現伊勢崎市上植木かみうえき地先と考えられ、上植木・下植木の「植木」は中世では「うえき(念仏往生伝)とも記され、駅の転訛とみられる。新田駅は現太田市の寺井てらい成塚なりづか上強戸かみごうど付近と考える説と、新田郡新田町の市野井いちのい付近にあてる説とがある。初めは新田駅から邑楽おうら郡に至り南に下って武蔵国に入ったが、宝亀二年(七七一)一〇月、同国が東山道から東海道に移属したため、以後は新田駅から東向して渡良瀬川を渡って下野国足利あしかが駅に至った。

道筋は碓氷峠、国府付近、新田郡の三地域では説が分れる。碓氷峠については、現在の碓氷峠が明治一三年(一八八〇)に開通される以前は、南の入山いりやま峠越と北の中山道の二つの通路があり、古代の祭祀遺跡の発見から入山峠越が注目されている。

東山道
とうさんどう

陸奥国府の置かれた多賀たが城と出羽秋田城を結ぶ古代の官道で、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条では出羽国内に最上・村山・野後のじり避翼さるはね佐芸さき飽海あくみ遊佐ゆざ蚶方きさかた由理ゆり白谷しらや秋田あいたの一一駅があり、うち最上以下遊佐までの七駅が山形県内に所在比定される。

〔奥羽連絡路の開設〕

養老五年(七二一)出羽国は陸奥按察使の管轄下となった。以後出羽国は陸奥国とよりいっそう連係を深めながら、北方の開拓にあたることになる。天平五年(七三三)には出羽柵は庄内地方から秋田村高清水岡たかしみずおか(現秋田市)に移転され、併せて雄勝おがち(現秋田県の横手盆地南端の雄勝川上流域)が建郡されている。陸奥国府の置かれた多賀柵(のちの多賀城)と移転後の出羽柵を結ぶ道も開かれていたと思われるが、この道の経路は奥羽山脈を越えて出羽国に入り、いったん庄内を経由して、秋田出羽柵を目指したものと思われる。「続日本紀」天平九年一月二二日条によれば、多賀・出羽両柵を結ぶ従来の道は迂遠なので雄勝村を征して両柵を結ぶ直路を開設したいとの陸奥出羽按察使大野東人の意見を受入れ、大使藤原麻呂以下を派遣して処理に当たらせている。これを受けて軍勢約六千を率いて多賀柵を出立した東人は現宮城県加美かみ色麻しかま町一帯に比定される色麻柵を経て出羽国に入り、大室おおむろ駅に着いている。同駅で出羽国守田辺難波と合流した東人は雄勝村から五〇里ほどの「比羅保許山」まで進出したが、田辺難波の進言を入れ引返した。大室駅は鍋越なべこし越か銀山ぎんざん(軽井沢越)尾花沢おばなざわ盆地へ下ったところ、東人の進軍を記した「続日本紀」天平九年四月一四日条には「従賀美郡出羽国最上郡玉野八十里」などとみえることから、山道駅路玉野たまの駅と同所とみられ、現尾花沢市原田はらだ付近に比定されている。

東山道
とうさんどう

古代の令制による官道の一で、「日本書紀」景行天皇五五年二月五日条に「以彦狭島王東山道十五国都督」とあり、その読みについては「釈日本紀」に「ヤマノミチ」、「西宮記」には「ひうかしのやまのみち」、「北山抄」には「山の道」などとしているが、種々の考察に基づき、「あづまやまのみち」と読むべきであろう。

「延喜式」によれば近江国勢多せた駅を起点として美濃国・信濃国・上野国・下野国を経て陸奥国に通じていた。信濃国では阿知あち育良いから賢錐かたぎり宮田みやた深沢ふかさわ(以上伊那郡)覚志かがし錦織にしごり(以上筑摩つかま郡)浦野うらの曰理わたり(以上小県ちいさがた郡)清水しみず長倉ながくら(以上佐久郡)、その支路で越後国に通じていた道に、麻続おみ(「延喜式」記載当時は更級さらしな郡)、曰理・多古たこ沼辺ぬのへ水内みのち郡)の一五の駅があり、このうち阿知駅には駅馬三〇匹、錦織・浦野・長倉の駅には各一五匹、その他の駅はすべて一〇匹で、ただし麻続以下の四駅は五匹の駅馬を置いていたことが記されている。信濃国における東山道の経路は、美濃国坂本さかもと駅から信濃坂(現下伊那郡阿智あち村の神坂みさか峠)を越えて信濃国阿知駅に下り、伊那郡を南流する天竜川の右岸を遡上し、育良・賢錐・宮田・深沢の各駅を経て善知鳥うとう峠を越えて筑摩郡に入り、覚志駅を経、錦織駅で本道は東に方向を転じ、現在の保福寺ほうふくじ峠を越えて小県郡浦野うらの駅に出、曰理駅で千曲川を渡り、佐久郡清水駅・長倉駅を経て、碓氷坂を過ぎ、上野国坂本駅に至っている。なお筑摩郡錦織駅から分れて北に向かい、更級郡麻続駅を経てさい川を曰理駅で渡り、多古・沼辺駅を経て越後国に至る支路があった。

東山道
とうさんどう

古代の地方行政領域の一つ東山道諸国を貫いて古代秋田あきた(現秋田市)まで達した第一級の駅路。大宝令の規定では中路。近江国内の道筋は古代を通じて湖東平野を北上し、美濃不破ふわ(現岐阜県不破郡関ヶ原町)に向かうが、湖南の近江国府以西では都の移動に伴い変化があったとみられる。奈良時代までは現京都府城陽市南部から宇治田原うじたわらを経由し、禅定寺ぜんじようじ峠を越えて近江に入り、現大津市大石中おおいしなかから瀬田せた川東岸を北上、近江国府に南から接近する道が東山道であった可能性が大きい。この道筋は田原道として「続日本紀」天平宝字八年(七六四)九月一八日条にみえ、恵美押勝が宇治より逃れて近江に走った際、追手はただちに田原道をとって先に近江に至り勢多せた橋を焼いている。このように奈良から瀬田へ行くためには宇治経由の道(北陸道)よりも田原道が短捷路であった。また天平一二年(七四〇)聖武天皇が恭仁くに京を経営するに先立ち伊勢から美濃を巡行し、不破頓宮(現岐阜県不破郡垂井町)から坂田郡横川よかわ頓宮・犬上いぬかみ頓宮・蒲生がもう郡宿・野洲やす頓宮・志賀郡禾津あわづ頓宮・山城国相楽そうらく玉井たまのい頓宮(現京都府綴喜郡井手町か)の順で宿泊移動するが(同書同年一二月六日条など)、この禾津頓宮から玉井頓宮に至る道筋を逢坂おうさかから宇治経由とすると一日の行程としては長すぎ、田原道経由とみると他の宿泊地点間の距離と近似する。さらに宇治川もその上流の瀬田川も渡河する必要なしに平城京と近江国府を結ぶなど、田原道は奈良時代およびそれ以前の東山道であった可能性が高い。ただし近江大津京の時代にはそこが駅路の起点であったから、京南にあたる浜大津はまおおつから勢多橋を経由して近江国府付近に達する道が東山道で、東海道をも兼ねたことは間違いない。

東山道
とうさんどう

律令体制下の大行政区分である七道の一つ、東山道諸国を貫いて設けられた官道。京から近江国・美濃国・信濃国などを経て陸奥国に至る。途中その沿線からはずれた国には支路を設けている。「令義解」厩牧令の諸道置駅馬条によれば、東海道とともに中路とされ、東山道が律令政府によって重要な位置づけがされていたことがわかる。そのおもな理由は、東国へのルートであることによる。これは東山道の初源的な姿を、大和朝廷の東国進出ルートに求める見解にも一致する。

東山道の開発・整備がいつ頃行われたかについては確証はないが、美濃国についていえば、「続日本紀」大宝二年(七〇二)一二月一〇日条の「始開美濃国岐蘇山道」との記述や、同書和銅六年(七一三)七月七日条に「美濃信濃二国之堺、径道険隘、往還艱難、仍通吉蘇路」とみえる記事がある。ここにみえる岐蘇きそ山道や吉蘇きそ路がいわゆる木曾谷をさすものか、神坂みさか峠越のルートをさすものかは判然としない。岐蘇山道と吉蘇路が同一のものか否かということも、そのルート想定の前提になる問題ではあるが、未解決のままである。両者を別のものとして、岐蘇山道を神坂峠越ルート、吉蘇路を木曾谷ルートとする説や、大宝二年に岐蘇山道の工事が始まり、和銅六年に吉蘇路として完成したと考え、両者を同一とする説もある。後者の場合それを木曾谷にあてて、神坂峠と区別するものが多いようである(大日本地名辞書・濃飛両国通史)。「三代実録」元慶三年(八七九)九月四日条には、美濃・信濃両国の国境に関する紛争について記載し、両国の境が当時は必ずしも明確ではなかったことを示すとともに、これ以後、美濃国恵奈郡と信濃国筑摩ちくま郡の間にある県坂上岑をもって国境となすと述べている。なお同条には、和銅年間の笠朝臣麻呂による吉蘇路開通の事情についても触れられている。

東山道
とうさんどう

律令制下において京を中心に諸国を編成した五畿七道の一。「ヤマノミチ」「ヒムカシノミチ」などとも読まれる。「日本書紀」景行天皇五五年条に彦狭島王を東山道一五国の都督としたとあるが、東山道が制度として整備されるようになるのは天智期以降である。近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野・陸奥・出羽の諸国が所属する。これらの諸国へは京より直線形態を旨とする官道が開削され、この官道をも東山道と称した。

武蔵国府へ至る官道は、「続日本紀」宝亀二年(七七一)一〇月二七日条に「武蔵国雖山道兼承海道、公使繁多、祗供難堪、其東山駅路、従上野国新田駅下野国足利駅、此便道也、而枉従上野国邑楽郡五ケ駅、到武蔵国、事畢去日、又取同道下野国」とあることから、上野国南部を通過する東山道本道から新田につた足利あしかが両駅の間で分支していたことが知られる。この支路を通常東山道武蔵路と称している。新田駅家の有力な比定地にかかわる遺跡として群馬県太田おおた天良てんら所在の寺井てらい廃寺跡や新田町の入谷いりや遺跡があげられており、両遺跡の近接地点より南下し上野国邑楽おうら郡を通り、埼玉県中央部を抜けていたらしい。前掲「続日本紀」の記事にみえる「五ケ駅」については、「五ケ」を地名とみるか五つの駅家とみるかで見解が分れていたが、太田市の辺りと国府所在地である府中市とがほぼ南北に位置していること、および両者の間が五駅を置くにほどよい距離であること、想定される南北道に沿う埼玉県所沢市久米くめ東の上あずまのうえ遺跡や府中市内外において後述する官道の跡が考古学的調査により確認されたことなどにより、五駅説に落着している。

東山道
とうさんどう

律令体制下の東海道・北陸道などとともに、畿内から東方あるいは北東方に延びる街道名であると同時に地域名でもある。地域としての東山道は近江・美濃・飛騨・信濃・武蔵・上野・下野・陸奥および出羽の九ヵ国を含む。のちに武蔵は東海道に編入されて八ヵ国となる。街道としての東山道は、京都から不破ふわ(現岐阜県垂井町)を越え、信濃・上野および下野の国府を経由して白河しらかわ関を越えて陸奥国に入り、多賀たが国府(現宮城県多賀城市)までは中路、栖屋すや(現宮城県利府町か)で分岐して黒川くろかわ(現宮城県)経由、磐基いわき(現岩手県)までは小路とされる街道である。「延喜式」兵部省の諸国駅伝馬の条では東山道陸奥国の駅馬として、雄野おの松田まつだ磐瀬いわせ葦屋あしや・安達・湯日ゆい岑越みねこし・伊達(現福島県)篤借あつかし柴田しばた小野おの各一〇疋。

東山道
とうさんどう

白河しらかわ(現福島県白河市)を越えて陸奥国に入り、出羽秋田城へ向かう道から多賀たが国府で分岐、現在の宮城県北部、岩手県南部を北上して志波しわ(現盛岡市)に至る古代の官道。陸奥国の岩手県域に比定される駅家は、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に「磐井、白鳥、胆沢いさは磐基いはき各五疋」とある。なお磐基駅をイワモトと訓ずる説もある。延暦二一年(八〇二)胆沢いさわ(現水沢市)造営、翌年の志波城造営に伴い東山道を延長、駅家が設置されたと考えられる。なお「日本後紀」同年五月一〇日条によると、両城の間が一六二里と長いため往来に支障が生じるとして、小路の例に準じて中間に駅家の設置が許可されている。県内所在の駅家の擬定地には諸説がある。磐井いわい駅は現一関市赤荻あこおぎと同市萩荘はぎしよう上黒沢かみくろさわ白鳥しろとり駅は胆沢郡前沢まえさわ町の白鳥、胆沢駅は水沢市佐倉河さくらがわ上幅うわはば、同市の胆沢城跡付近、胆沢郡金ヶ崎かねがさき町域、磐基駅は花巻市街地・同市上根子かみねこ・和賀郡和賀町岩崎いわさき・同郡江釣子えづりこ新平につぺいなどに比定する説があるが、現状は不明のままである。

東山道
とうさんどう

律令国家のもとで東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の幹線七道が設定された。これら七道はその重要度に応じて大路・中路・小路に区分され、三〇里(約一六キロ)ごとに駅が設置され、前述の三区分にしたがって、各々二〇疋(大路)から五疋(小路)の駅馬が配され、おもに公的な文書伝達・物資輸送の用に供された。下野国内を南西部から北東部へと縦貫する幹線が東山道で、「令義解」によれば中路とされる。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条によれば、東山道の駅は総計八六で、各駅に配された駅馬数は一般に中路相当の一〇疋前後であった。下野国内には足利・三鴨みかも田部たべ衣川きぬがわ新田にいた磐上いわかみ黒川くろかわの七駅があり、各一〇疋の駅馬が配置されていた。八世紀後半まで行政区画としての東山道には武蔵国が含まれており、そのため官道としての東山道も、上野国の終駅である新田にふた駅を出て、いったん武蔵国を往復したのちに下野国に入っていた。

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百科事典マイペディア 「東山道」の意味・わかりやすい解説

東山道【とうさんどう】

五畿七道の一つ。畿内から北東方へ山間の諸国を連絡した道。近世のほぼ中山道(なかせんどう)に相当。またこれらの諸国をいい,8世紀初めまでは近江(おうみ)・美濃(みの)・飛騨(ひだ)・信濃(しなの)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・下野(しもつけ)・陸奥(むつ)の8ヵ国。まもなく出羽(でわ)を加え,武蔵を東海道に移して《延喜式》では8ヵ国。なお718年に石城(いわき)・石背(いわせ),721年に諏訪(すわ)の3ヵ国が設置されたが,まもなく廃止。
→関連項目青墓宿足柄関板鼻駅・駅家近江国柏原宿株河駅黒田宿群馬[県]上野国信濃国下野国白河関墨俣川の戦世良田出羽国鳥居本番場宿飛騨国厩橋美濃国武蔵国陸奥国

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改訂新版 世界大百科事典 「東山道」の意味・わかりやすい解説

東山道 (とうさんどう)

古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。本州の中央から東北にわたる地域。《西宮記》では〈ヤマノミチ〉〈東ノミチ〉などと読んでいる。《日本書紀》崇峻紀にみえる東山道は後の追記。ただ672年(天武1)の壬申の乱の記事に東山軍の名がみえ,685年に東山使者として石川虫名派遣がみえるので,東山道の成立を天武朝末年とみることができよう。《延喜式》では近江,美濃,飛驒,信濃,上野,下野,陸奥,出羽の8国が所属するが,所属国はたびたび変遷を示した。出羽は712年(和銅5)に北陸道の越後から分立しこの道所属となった。721年(養老5)信濃から諏方が分立したが,731年(天平3)また併合された。また718年(養老2)陸奥と常陸の数郡を割いて石城(いわき),石背(いわしろ)の2国が設けられたが,721年ころ廃止された。さらに武蔵は771年(宝亀2)東海道に所属変更となった。北辺の防衛で重要な地域であった。なお駅制の官道としての東山道は〈なかつみち〉ともよばれ各駅に馬10匹をおく中路とされた。
中山道
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「東山道」の意味・わかりやすい解説

東山道
とうさんどう

律令時代五畿七道の一つ。大宝1 (701) 年近江,美濃,飛騨,信濃,上野,武蔵,下野の7ヵ国の国府を連ねる街道を定め,東山道と称し,街道筋の国域を含めた行政区分にも利用。のち陸奥,出羽の2国を加え,武蔵を東海道に移して8ヵ国とした。古くは山道とも称し畿内と東国を結ぶ中央道。宿駅の整備が進み,各駅には馬 10頭を常備して公用に利用。中世以降は東海道の裏街道的存在となった。近世の中山道にあたる。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「東山道」の解説

東山道
とうさんどう

(1)古代の七道の一つ。現在の近畿地方から中部・関東地方の山地沿いをへて東北地方に連なる地域で,近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵(771年東海道へ編入)・下野・陸奥・出羽の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も東山道と称し,「山の道」ともよばれ,畿内から各国府を順に結ぶ陸路が官道として整備された。駅路としては中路で各駅に10頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では総計86駅に841頭の駅馬をおく規定であった。地方官として732~734年(天平4~6)に東海東山二道節度使,746年に東山道鎮撫使を設置した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「東山道」の解説

東山道
とうさんどう

律令制下,五畿七道の一つ
現在の中部・関東・東北の山地一帯の地方で,近江・美濃 (みの) ・飛驒・信濃・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) ・陸奥 (むつ) (明治初期に磐城 (いわき) ・岩代・陸前・陸中・陸奥に分かれた)・出羽(明治初期に羽前・羽後に分かれた)の8カ国(明治以後13カ国)。武蔵は初め東山道に属したが,771年以降東海道に属した。のちこの地を通る街道をさすようになった。

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世界大百科事典(旧版)内の東山道の言及

【駅伝制】より

…中央から辺境にのびる道路にそい,適当な間隔で人・馬・車などを常備した施設すなわち駅を置き,駅を伝わって往来する交通・通信の制度。世界史上,前近代に広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると,外敵の侵入や国内の反乱に直ちに対処するばあいを含め,支配維持のために中央と地方とを常時連絡する手段が必要となり,さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般であった。このように駅伝制はもともと前近代における支配手段の一種であったから,国家の管理下に置かれて民間の自由な利用は許さないのが原則であり,また国家権力の解体とともに衰退していった。…

【奥州街道】より

…中世の陸奥の主要幹線道路。古代の陸奥国の幹線的官道は,下野国から白河関をこえて陸奥国に入り,陸奥国を縦に貫く道である(東山道)。そのコースは,中世にも〈奥大道〉などと呼ばれて,基本的に変わることなく受けつがれた。…

【信濃国】より

…現在の長野県。
【古代】
 東山道に属する上国(《延喜式》)。はじめ科野国と記されたが,713年(和銅6)の好字制により信濃国とされた。…

※「東山道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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