1054年のローマ・カトリック教会との分裂によって成立したキリスト教東方諸教会の総称。西欧が基盤のカトリック教会に対し、ロシアや東欧、ギリシャで影響力が強い。各国教会は独立し、原則対等の地位にあるが、伝統的にトルコのコンスタンチノープル総主教に名誉上の首位を示す称号「世界総主教」が付与されている。ロシア正教会によると、世界の正教信者は推定1億2500万~1億8千万人。うち国別で最大勢力のロシアには5千万~8千万人がいるという。(モスクワ共同)
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カトリック教会、プロテスタント諸教会と並ぶキリスト教三大教派の一つ。日本ではギリシア正教または単に正教ともいう。広義の東方教会は、のちに中国へ入り景教とよばれるようになるネストリウス教会や、キリスト単性論とみなされるアルメニア教会、エジプトのコプト教会、エチオピア教会など、キリスト教の異端グループを含む。しかし、東方正教会という場合は狭義の東方教会、すなわち、中東、東欧、ロシアを中心とする18の自立教会の連合体をいう。日本では東方正教会は、他の二大教派のカトリック教会、プロテスタント諸教会と比べて一般になじみが薄い。だが、東方正教会は元来、古代教会の伝統を受け継いでおり、原始キリスト教の精神をよく伝えてきた。古代教会はローマ帝国に発生し、全教区をエルサレム、アレクサンドリア、アンティオキア、コンスタンティノープル(現、イスタンブール)、ローマの五大総主教区に分けた。そのうちローマ教会だけが11世紀に他から分離し、以来ローマ・カトリック教会として発足した。他の東ローマ(ビザンティン)帝国内の諸教会は東方正教会とよばれるようになった。のち、15世紀なかばにビザンティン帝国がオスマン帝国に滅ぼされた。かわってロシアが東方正教の大国となった。
[田口貞夫]
イエスの唱えたキリスト教は、民族宗教のユダヤ教を超えた世界宗教であり、そのために、ローマ帝国の国家主義的体制に適合せず、結局イエスは十字架にかかって処刑された。だが3日後に復活し、40日たってふたたび昇天したという。やがて、復活したイエスと出会ったペテロ、パウロなどの使徒たちは、キリスト復活の福音をローマ帝国領各地に広めた。ローマ帝国では当初キリスト教徒は迫害され、殉教者が続出したが、313年、コンスタンティヌス大帝(1世)によってようやく公認された。彼らは弾圧されればされるほど団結が固くなった。キリスト教が普及した地域はおおむねギリシア文化の影響を受けていたが、ローマ教区だけは文化的に遅れた地域にあり、北方の蛮族と接触が多かったため、ローマの総主教は他の総主教たちのように宗教的権威だけに頼るわけにはゆかず、政治的権威を必要として教皇(法皇)と号した。
古代教会の信仰の要点を決める全地公会議がニカイア、コンスタンティノープル、カルケドンなどで7回にわたって開かれた(325~787)。決められた内容は、キリストは人間を救うためにこの世に生まれた完全な神であり、完全な人間であり、その二つの性、神性と人性は区別することなく離れることがないという主旨であった。いくつかの説が異端とされた。父なる神と子なるキリストの同質性を否定したアリウスの説はニカイア公会議(325)で、キリストの人性を重視したネストリウスの説はエフェソス公会議(431)で、逆にアレクサンドリアの神学者たちの、神性を重視するキリスト単性論はカルケドン公会議(451)で異端とされた。また、コンスタンティノープル総主教を中心とする教会内部では、8~9世紀に聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こり、結局、聖画像の破壊を異端とすることに決まった。東西両教会の間では政治的にも溝が生じた。教皇レオ3世によるフランク国王カール大帝の戴冠(たいかん)(800)は、ローマ皇帝権に対する反逆ともいうべき事件であった。また、コンスタンティノープルではフォチウスが一外交官から一挙に総主教に選ばれたため、ローマ教皇ニコラス1世が反発した。
教理上の争いもあった。聖霊(神)の発出をめぐって「ニカイア信条」の「父より」に、ローマ側が「および子より」(フィリオクェfilioque)を付加したことに対して東側が非難した。また、聖職者の結婚禁止やイースト菌を入れない除酵パンを聖体として使用することなど、ローマ側の慣行に対して東側が反対した。これらが重なって、1054年ごろから古代教会は東西に分裂し始めて、1204年に、第4回十字軍の西欧兵士がコンスタンティノープルを攻撃したときから、西は西方カトリック教会、東は東方正教会となった。西側のキリスト教がビザンティン帝国に敵対するようになり、両教会の対立はいっそう深まった。1453年にコンスタンティノープルはオスマン帝国に滅ぼされ、コンスタンティノープル総主教下の東方正教会は、19世紀なかばにギリシアがトルコから独立するまでの約350年間、トルコの支配下に置かれた。こうしてビザンティン帝国がトルコの支配下にあった間、ロシアがかわって正教の大保護国であった。
現在の東方正教会は、コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリア、エルサレム、ブルガリア、ロシア、ジョージア(グルジア)、セルビア、ルーマニア、ギリシア、キプロス、ウクライナ、ポーランド、チェコ、スロバキア、フィンランド、アメリカ、日本の18の自立教会からなっている。西ヨーロッパなどにも、移住者や亡命者により教会が設けられている。日本には1861年(文久1)ニコライにより正教が伝えられた。正教の信者総数は約2億人と推定される。
[田口貞夫]
東方正教会は元来、古代教会の継続であり、原始キリスト教の精神に忠実である。東方正教は西のキリスト教に比べて、義よりも愛、十字架よりも復活、罪よりも救いを重んずるといわれる。神人一体であり、神人懸隔ではない。西のキリスト教が聖と俗を区別し、精神を物質の優位に置き、政教分離の傾向があるのに対して、東方正教は聖俗一致、霊肉一致、政教一致が特徴である。また、カトリックが煉獄(れんごく)を認め、マリアの無原罪説をいうのに対して、正教では煉獄を認めず、マリアの無原罪説をいわない。
カトリック神学が思弁的、体系的で、神について知的に学ぶのに対し、正教では信仰体験即神学である。キリスト教文化のなかに生きて神を体験的に身をもって学ぶのが東方正教神学である。そして正教では、神学は論文としてよりも、聖歌、イコン、教会規則、主教たちの書簡や説教の形で提出される。静寂主義(ヘシカスムHesychasm)は、アトス山出身の聖パラマス(1296―1359)が唱えた。静寂のなかで「イエスの祈り」を唱え、神を瞑想(めいそう)する修道法で、ビザンティン神学を代表する。
[田口貞夫]
教会の組織についても、東方正教会はカトリック教会よりも権威主義的でない。カトリック教会では教皇無謬(むびゅう)説をいい、教皇を頂点とするピラミッド型であり、一般信徒を平信徒とよぶ。一方、正教では教皇の無謬説をいわず、教会無謬説をいい、主教や司祭は個人的権威をもたず、一般信徒を平信徒とはいわない。東方正教の聖職者には、主教、司祭、輔祭(ほさい)職がある。司祭、輔祭には修道と在俗の別があり、修道司祭、修道輔祭は妻帯しない。主教以上は修道司祭でなければなれない。主教職の上には大主教、府主教、総主教がある。
[田口貞夫]
東方正教会において、教会生活の基準を示すものを聖伝承という。聖伝承には、聖書、全地公会議の決定、聖師父の著書、典礼、聖歌、イコンなどがある。なかでも、典礼(リトルギア、奉神礼、公祈祷(きとう)ともいう)がもっとも重要である。それは神に仕える人の務めであり、信徒が生涯キリストの生き方を自らの生き方とするためのものであり、信徒に生活の知恵と心得を提供する。典礼には、入会の礼儀(洗礼)、聖体礼儀(エウカリスティア。ぶどう酒とパンを食し、キリストの血と肉を分け合う)、生活礼儀、時の礼儀などがある。典礼に参加する者は、聖書が経典であると同時に聖歌の書であることを意識する。東方正教会では、聖歌を誦(しょう)するときは楽器をまったく使わない。聖歌は心からの祈りであり、楽器を必要としない。また、イコンはキリスト、マリア、聖人などの聖画像で、信者はイコンに描いてある内容を崇拝する。正教では罪よりも救い、十字架よりも復活を重視し、祭りでは西側のキリスト教のように降誕祭(クリスマス)ではなく、復活祭(イースター)がもっとも重要である。パスハ、過越祭(すぎこしのまつり)ともいう。信者はこの祭りに参加することで、この世の終わりから来世の命へと過ぎ越してゆく人間の過程が、キリストの復活によって可能となったことを記憶する。なお、一般に東方正教会の儀式は、西側のキリスト教に比べて東洋的色彩が濃く、日本人の肌にもあうといわれている。
[田口貞夫]
正式には日本ハリストス正教会という。「ハリストス」は、キリストのギリシア語式発音である。日本に正教を伝えたのは、1861年(文久1)に箱館(はこだて)(函館)駐在のロシア領事館付司祭として来朝したニコライであった。彼はペテルブルグ神学大学在学中に、ゴロウニンの『日本幽囚記』を読み、日本にあこがれた。来朝後、日本語や日本史、儒仏、神道(しんとう)などを学んだ。1872年(明治5)に上京し、熱心に布教とロシア文化の紹介に努めた。東京・神田のニコライ堂(東京復活大聖堂)は1891年彼が建てたもので、親交のあったドストエフスキーからも寄付金を得たという。ニコライの在任中、1891年大津事件、1904年(明治37)日露戦争など日本・ロシア間の不幸なできごとがあったが、両国の友好のために尽くしたニコライの陰の努力は大きかったという。永眠(1912)に際して、明治天皇をはじめ、日本朝野の人士がその死を悼んだ。ニコライのあとはセルギイ・チホミロフ主教が布教を続けたが、1917年(大正6)にロシア革命が起こり、援助がとだえた。一方、昭和になって日本は軍国主義時代に入り、邦人主教が選出され、チホミロフは退任し(1940)、終戦の年(1945)に不遇のうちに死んだ。第二次世界大戦後は、国際情勢の影響で、日本正教会はアメリカの独立教会より派遣された主教の管轄下に属していたが、1970年(昭和45)モスクワ総主教より聖自治独立教会(アウトノミア)の祝福を受けた。
[田口貞夫]
ビザンティン帝国のキリスト教会を起源とする一連の教会の総称。〈カルケドン信条〉(451)を教義の基盤とするので,東方のカルケドン派教会と呼ぶこともできる。日本ではギリシア正教の名称がよく用いられるが,これは現在のギリシアの正教会(ギリシア正教会)と混同されるおそれがある。なお,〈カルケドン信条〉を受けいれなかったネストリウス派教会,単性論派教会は東方教会ではあるが,正教会には含めない。東方正教会は,おもにロシア(ロシア正教会),東欧,バルカン半島,西アジアに分布し,それぞれが総主教または大主教(ギリシアの場合)のもとに完全な自治を有する独立教会を成している。カトリック教会におけるローマ教皇のような全体の首長はなく,伝統により,コンスタンティノープル総主教(トルコのイスタンブールに総主教座を置く)に〈世界総主教〉なる名誉上の首位を示す称号を与えている。
歴史的に見ると,古代教会と五総主教制(ローマ,コンスタンティノープル,アレクサンドリア,アンティオキア,エルサレム)が6世紀に崩れて,ローマ教会が西方,コンスタンティノープル教会が東方の教会を代表することになると,両教会の関係がしだいに悪化し,1054年に東西両教会の決定的分離を迎える。この年をもって東方正教会の歴史が始まると考えてもよい。コンスタンティノープルは9世紀後半からスラブ人への本格的宣教を開始し,10世紀末までにブルガリア,セルビア,ロシアの教化をなしとげた。15世紀中葉までにビザンティン帝国とバルカン諸国がオスマン帝国の支配下に入ると,ロシアの教会が最大の勢力をもつにいたった。19世紀にバルカン半島の国々が独立すると,旧オスマン帝国領の教会もそれぞれ民族教会として独立し,コンスタンティノープル総主教はその管轄をほとんど奪われた。20世紀のロシア革命および第2次大戦後の東欧の社会主義化は,東方正教会にとって大きな試練で,教勢はかなり衰えた。その反面,移住者や亡命者によって,東方正教会は西欧と新大陸にも知られることになった。1980年代末以降のソ連・東欧の体制変革にともない,東方正教会は活力を取り戻しつつある。
東方正教会の教義は7回の公会議の決議に基づくが,教理の詳細が定められたのは17世紀のことで,これは宗教改革の間接的な影響である。典礼は比較的古い形式を保っており,現在の典礼は10世紀ころに整えられた。聖餐はパンとブドウ酒の両形色で,典礼音楽に楽器は用いない。典礼文にはI.クリュソストモスの典礼文がおもに用いられ,典礼用語は,元来ギリシア語であったが,他民族への拡大とともに各民族語を採用するようになった。ただし典礼用語を時代にあわせて改めることはないので,多くの国で古語が使われている。信仰においてはイコン(聖像画)に特別の敬意がはらわれ,教会堂にはイコノスタシスと呼ぶ特徴的な仕切りがある。修道生活は古くからさかんに行われ,修道院共和国とも称すべきギリシアのアトスは特に有名である。カトリックのような修道会の組織は存在しない。主教以上の高位聖職者は修道司祭から登用され,在俗司祭は妻帯するのが通例である。なお,東方正教会の神秘主義的傾向は近年世界的な注目を集めている。
→キリスト教
執筆者:森安 達也
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…広義のキリスト教とは,これらキリスト信者が受けいれている教え,およびこの教えの実践を通じて,またその影響の下に生みだされた道徳,文化,制度などの総体を指す言葉である。こんにち,キリスト教はカトリック教会,プロテスタント諸教派,東方正教会の3グループに大別され,総数約10億のキリスト信者が全世界に拡散,居住している。
【キリスト教のシンボル】
キリスト教がはじめて日本に伝えられてから4世紀半,明治初年,布教の自由が再び認められてから1世紀以上経過したが,キリスト教はいまだに,全般的にいって,外来の異質な宗教という印象を脱していない。…
…しかし,64,65年の第3,第4会期には,保守派の意向も一部取り入れ,変革の勢いを幾分抑えた。史上最大規模のこの公会議は,65年12月8日閉会の前日,1054年以来の東方正教会との破門状態を相互に解除した。また聖書や教会についても,救済史の流れの中での総合的理解に成功しており,中央集権的排他的であった第1バチカン公会議の不足面を補って,各国司教団や信徒の役割,他教派,他宗教,教会の宣教活動等の積極的評価においても,現代世界への順応と奉仕のための指針においても,画期的であった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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