日本大百科全書(ニッポニカ) 「東西貿易」の意味・わかりやすい解説
東西貿易
とうざいぼうえき
East-West trade
経済体制を異にする社会主義諸国(東側諸国)と資本主義諸国(西側諸国)との間の貿易取引のこと。かつて東西貿易は、より広範な政治・経済関係をさすいわゆる「東西対立」(これは経済的先進国と開発途上国の間の諸関係を意味する「南北問題」と対置される概念である)のなかにあって、両陣営を直接結び付ける紐帯(ちゅうたい)としての役割を演じてきた。
周知のごとく、第二次世界大戦直後は東西冷戦が激化し、これを背景に西側諸国では1948年以降アメリカの大規模な援助(マーシャル・プラン)のもとでヨーロッパの経済復興計画が推進され、1948年にはヨーロッパ経済協力機構(OEEC)が発足、これと対抗的に旧ソ連、アルバニア、ブルガリア、旧チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニアの諸国は1949年に経済相互援助会議(COMECON(コメコン))を設立するなど、それぞれの陣営内部での結束強化が図られた。そのうえ、同じ1949年にはアメリカのイニシアティブによって対共産圏輸出統制政策委員会(COCOM(ココム))が結成され、さらに朝鮮戦争を契機として、1952年に対中国輸出統制委員会(CHINCOM(チンコム))が特設されて対中国禁輸政策が強化されるなど、東西貿易は遅々として進まなかった。
しかしながら、スターリンの死後デタント(東西緊張の緩和)が進展するなかで、東西貿易のシェアは1953、1954年ごろを底に拡大に転じ、紆余(うよ)曲折を経ながらも漸増する傾向を示していた(その分各圏内貿易のシェアは低下したわけである)。東西貿易での商品構成は1950年代から1980年代に至るまで基本的には変化していない。すなわち、東側諸国は西側諸国に主として原料や燃料、それに加工度の低い軽工業品を輸出し、逆に西側諸国から高級な機械類や重化学工業製品を輸入するという(その意味では補完的な)パターンが継続していたのである。また、当時、東側諸国の対西側貿易収支は、ソ連など一部に例外はあるものの、1950年代を除き1960年代以降は終始赤字であり、それは西側諸国からの借款の増大(輸入へのクレジット供与を含む)と相まって、一部東側諸国(たとえばポーランド)を深刻な累積債務危機に陥れていたほどである。
本来、東西貿易は、中央集権的計画経済体制をとる諸国と自由な市場経済体制下にある諸国というように、根本的に経済体制を異にする国家間の貿易であったから、一方における貿易の国家による独占と他方における企業間の激しい競争がもたらすバーゲニング・パワー(交渉能力)上の相違や、政治的恣意(しい)性の介入、東側経済の非効率性と西側経済の不安定性がそれぞれ相手側に与えるいらだちの集積といった各種要因に左右されることが多く、リスキーなものであり、不安定なものであった。事実、1979年のソ連によるアフガニスタン侵入への制裁措置としてアメリカは対ソ小麦輸出を禁止したし、同じくアメリカは1980年代に入って目覚ましい発展を示したエレクトロニクス、コンピュータ、新素材などの技術がソ連に流れ、そこでの軍事力強化につながることを懸念して、COCOMの規制を強めようとした。また、前述したように、東側諸国が構造的に外貨不足に陥っていたことも東西貿易を制約する要因となっていた。
しかし、1989年の「ベルリンの壁」崩壊や1991年のソビエト連邦の解体を契機として冷戦体制が終焉(しゅうえん)し、東側諸国がなだれをうって市場経済化を指向するとともに、EU(ヨーロッパ連合)が東方へその加盟国を拡大するに至った。そのため、今日では「東西貿易」は完全に死語になったといえる。目下の問題は、かつての東側諸国を包含する市場経済圏が拡大し、そのなかで貿易をめぐっても各国間の競争が激化しているということであろう。
[村上 敦]
『小川和男著『東西貿易の知識』(1971・日本経済新聞社)』▽『小川和男著『共産圏市場へのアプローチ』(1975・日本経済新聞社)』▽『辻忠夫著『世界市場と長期波動』(1995・御茶の水書房)』▽『小山洋司編『東欧経済』(1999・世界思想社)』▽『中江剛毅著『東西貿易――崩壊する対共産圏輸出規制』(教育社新書)』