松前(読み)マツマエ

デジタル大辞泉 「松前」の意味・読み・例文・類語

まつまえ〔まつまへ〕【松前】

北海道南西端部の地名。江戸時代松前氏城下町で、蝦夷えぞ経営の中心となった。福山城松前城)がある。コンブ・イカ・ホッケなどを産する。

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精選版 日本国語大辞典 「松前」の意味・読み・例文・類語

まつまえまつまへ【松前】

  1. [ 1 ] 北海道南西部、渡島(おしま)半島南端の地名。もともとアイヌ民族が住みついていた土地であるが、鎌倉時代から和人が来住し、室町後期、武田信広(蠣崎信広)がコシャマインの戦いの後、道南を次第に占領。蠣崎氏五代慶広が秀吉・家康に所領安堵をうけて松前氏と改称し、江戸時代には松前氏の城下町。漁業が主。江戸初期から昭和一五年(一九四〇)まで福山と称した。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙 ( [ 一 ]が名産地であったところから ) 「こんぶ(昆布)」の俗称。
    1. [初出の実例]「枩前と五嶋は恋のはれ道ぐ」(出典:雑俳・川柳評万句合‐宝暦一一(1761)梅一)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松前」の意味・わかりやすい解説

松前(町)(北海道)
まつまえ

北海道南西端、渡島(おしま)総合振興局管内の町。渡島半島南西部の松前半島にあり、津軽海峡に面する。1900年(明治33)福山町となり、1940年(昭和15)松前町と改称。1954年(昭和29)大島、小島、大沢の3村を合併。国道228号が通じる。JR松前線は1988年廃止。町名はアイヌ語のマツオマナイ(半島の意)、またはマツオマイ(婦人のいるところの意)からの転訛(てんか)とされる。鎌倉時代から和人が居住し、江戸時代は松前藩の城下町で、蝦夷(えぞ)地の政治・経済の中心であった。大千軒(だいせんげん)岳、袴腰(はかまごし)岳などの山々があり、町域の大部分は山地、丘陵地。対馬(つしま)海流の影響から気候は温暖で、モウソウチクツバキが自生し、カキやイチジクも結実する。漁業を主産業とし、イカ、マス、ホッケ、コンブ、ウニなどの漁獲がある。肉用牛飼育も行われる。文化財が多く、国の史跡に福山城(松前城)跡、中世の城館大館跡、松前藩主松前家墓所があり、福山城の本丸御門は国指定重要文化財。大島(渡島大島)のオオミズナギドリ繁殖地と、海鳥繁殖地の松前小島は国指定天然記念物。城の西側一帯は松前公園サクラの名所として知られ、海岸一帯は松前矢越(やごし)道立自然公園に指定されている。面積293.25平方キロメートル、人口6260(2020)。

[瀬川秀良]

『『松前町史』(1993・松前町)』



松前(町)(愛媛県)
まさき

愛媛県西部、伊予郡の町。伊予灘(なだ)に注ぐ重信(しげのぶ)川の河口左岸に位置し、重信川を隔てて松山市に接する。1922年(大正11)町制施行。1955年(昭和30)岡田、北伊予の2村と合併。JR予讃(よさん)線、伊予鉄道郡中線、国道56号が通じる。中世の松前郷の地。1595年(文禄4)、文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に功のあった加藤嘉明(よしあき)が伊予6万石の居城とした地で、1603年(慶長8)松山城に移るまで在城した。近世は松山藩領で、領内海域での漁労は自由という特権が与えられた。鮮魚は「松前のおたた」とよばれる女性の行商人が頭上にのせて松山城下へ運んだ。農地は肥沃(ひよく)で近郊野菜栽培が盛んである。1936年(昭和11)東洋絹織工場(現在の東レ愛媛工場)が立地した。その工場の東側に松前城跡の碑が残る。松山市への通勤・通学者が多い。面積20.41平方キロメートル、人口2万9630(2020)。

[横山昭市]

『『松前町誌』(1979・松前町)』



松前
まつまえ

北海道の松前地方は昆布の名産地であったので、昆布を用いる料理に松前という文字を使う。松前煮は甘露(かんろ)煮の一種で、白焼きのハゼ、フナ、アユなどを甘露煮にして、これに昆布も煮て加えたもの。松前揚げは材料(エビ、サヨリなど)に小麦粉をまぶし、卵の白身をつけて細かく刻んだ昆布をまぶしてさっと揚げる。松前漬けは細く刻んだするめと昆布を加えてみりんじょうゆ漬けにしたものである。

[多田鉄之助]


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改訂新版 世界大百科事典 「松前」の意味・わかりやすい解説

松前[町] (まつまえ)

北海道南西部,渡島(おしま)支庁松前郡の町。1940年福山町から改称。人口8748(2010)。松前半島南西部に位置し,南と西は日本海に面する。西方海上の大島(渡島大島),小島(松前小島)を含む。地名はアイヌ語に由来する。〈まつまえ〉の名は,近世には現在の町の中心地である松前氏の城下福山の異称のほかに,〈松前地〉のように蝦夷地に対して和人の居住地としての和人地(シャモ地)の意,および〈松前島〉のように現在の北海道そのものの意にも用いられた。気候は対馬海流の影響を受けて比較的温暖である。町域の大半は山地で,海岸沿いのわずかな平地に集落が帯状に連なる。

 福山は国鉄松前線(現,函館バス)の終点で国道228号線が通る。和人の渡来は早くから行われ,1600年(慶長5)松前慶広がこの地に福山館を築いて以来,北海道の政治・文化・経済の中心として繁栄した。明治維新後は漁業の町に変貌した。現在も主産業は漁業で,イカの一本釣りを中心にヤス,ホッケなどの漁獲も多い。福山(松前)城跡(史)には本丸御門(重要文化財)が残り,また桜の名所として知られる。付近に法幢(ほうどう)寺,北海道最古の建築という山門のある法源寺,旧城門を山門とする阿吽(あうん)寺,背後の台地上に安東氏の館のあった大館(おおだて)跡がある。渡島大島は北限のオオミズナギドリ繁殖地(天),また松前小島はケイマフリ,ウミガラスなど海鳥の大繁殖地で,天然保護区域に指定されている。
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松前[町] (まさき)

愛媛県中央部,伊予郡の町。人口3万0359(2010)。伊予灘に注ぐ重信川の河口南岸に位置し,松山平野の中にあって肥沃な水田地帯である。中心集落の松前には,1595年(文禄4)文禄の役の功により伊予に6万石を与えられた加藤嘉明の松前城があり,1603年(慶長8)松山に城が移されるまで城下町として栄えた。江戸時代は松前浜を中心とする漁村で,陸揚げされた鮮魚は,婦人たちが頭上の桶に入れて松山城下や近郷に行商に出,彼女らは〈松前のおたた〉とよばれた。1732年(享保17)の大飢饉の際,筒井の百姓作兵衛は翌年播種する麦を残すため蓄えの麦種を枕に餓死し,義農とたたえられた。76年(安永5)松山藩主松平定静は義農作兵衛の墓碑を建て,1881年には義農神社としてまつられた。明治から昭和初年にかけては,陶磁器や海産加工品の行商が盛んで,販路は遠く中国大陸方面などにも及んだ。1938年東洋レーヨン愛媛工場が誘致され,繊維の町として発展。北の松山市,南の伊予市に挟まれて都市化が進む。米麦を中心に野菜,果実,花卉の栽培などの近郊農業が行われる。JR予讃線,伊予鉄道郡中線,国道56号線が通じる。
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百科事典マイペディア 「松前」の意味・わかりやすい解説

松前[町]【まつまえ】

北海道松前郡,北海道南端の町。15世紀中ごろ蠣崎(かきざき)氏の居館ができ,1606年(慶長11年)松前氏が福山館(現,松前城)を築いて以後は松前藩の城下町として,北海道と本土の連絡地,海産物集散地として栄えた。明治以後は中心的地位を失い,漁業の町へと変貌を遂げた。福山城跡(史跡),オオミズナギドリ繁殖地(天然記念物)がある。293.25km2。8748人(2010)。
→関連項目時規物語ラクスマン

松前[町]【まさき】

愛媛県中部,伊予郡の町。松山市と伊予市の間,重信(しげのぶ)川の河口左岸を占める。主集落は1595年から松山築城まで加藤嘉明の居城地。かつて行商を営んでいたが,1938年東洋レーヨン(現,東レ)愛媛工場が進出,工業の町となった。予讃線,伊予鉄道郡中線が通じる。20.41km2。3万359人(2010)。

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世界大百科事典(旧版)内の松前の言及

【福山】より

…北海道渡島(おしま)半島南西端にある松前町の旧名。室町・戦国期には安東氏の蝦夷島支配の拠点となり,15世紀中葉には下国安東氏が館(大館)を構えていたが,1513年(永正10)アイヌの攻撃にあい落城,翌14年蠣崎(かきざき)氏(のちの松前氏)が大館に移住し,安東氏より蝦夷島支配を公認されて以来,その拠点となった。…

※「松前」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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