松平定信(読み)マツダイラサダノブ

デジタル大辞泉 「松平定信」の意味・読み・例文・類語

まつだいら‐さだのぶ〔まつだひら‐〕【松平定信】

[1759~1829]江戸後期の大名。田安宗武の七男。陸奥むつ白河藩松平定邦の養子。号、楽翁。天明7年(1787)老中首座となり、寛政の改革を断行。著「花月双紙」「宇下人言うげのひとこと」など。

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共同通信ニュース用語解説 「松平定信」の解説

松平定信

江戸幕府8代将軍徳川吉宗とくがわ・よしむねの孫で、白河藩主。藩政運営の実績により、11代将軍家斉いえなりを補佐し幕政を統括する老中に登用された。飢饉ききんで揺らぐ幕府財政の立て直しや質素倹約の励行、農村の復興などを目指す「寛政の改革」を断行。飢饉に備えて米穀を蓄える「囲い米」や農民の出稼ぎ制限、幕府直属の旗本・御家人の困窮救済に向けた借金帳消しといった政策が知られる。引退後は築地の屋敷に住み、自叙伝や随筆など多くの著作を残した。

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精選版 日本国語大辞典 「松平定信」の意味・読み・例文・類語

まつだいら‐さだのぶ【松平定信】

  1. 江戸中期の白河藩主。田安宗武の子。吉宗の孫。白河藩主定邦の養子となる。号は、白河楽翁田沼意次の弊政のあと老中となって、財政の整理、風俗の匡正、文武の奨励、士気の鼓舞、倹約を実施して寛政の改革を実行した。寛政五年(一七九三)老中を免ぜられ以後藩政に力をそそぐ。著書一三〇余。「花月草紙」「宇下人言」は著名。宝暦八~文政一二年(一七五八‐一八二九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信
まつだいらさだのぶ
(1758―1829)

江戸後期の大名。寛政(かんせい)の改革を断行した老中。宝暦(ほうれき)8年12月27日江戸で生まれる。田安宗武(たやすむねたけ)の七男で、8代将軍吉宗(よしむね)の孫にあたる。幼名は賢丸(まさまる)、隠居後は楽翁と号した。1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦(さだくに)の養子となり、翌年従(じゅ)五位下上総介(かずさのすけ)に叙任。1783年(天明3)養父定邦の後を継いで白河11万石の藩主となり、従四位下越中守(えっちゅうのかみ)に昇進した。おりしも天明(てんめい)の大飢饉(ききん)に際会、白河領内の士庶の困窮もその極に達したが、定信自ら率先して倹約を重んじ、食糧の緊急輸送、備荒貯蓄や人口の増加、あるいは殖産興業を促すなど、藩財政の立て直しや領民生活の安定化を図り、みごとにこの難局を切り抜けた。やがて彼の藩政は、諸大名の間にその名声を高め、老中田沼意次(おきつぐ)失脚ののちの1787年6月、御三家(ごさんけ)および一橋治済(ひとつばしはるさだ)の推挙により老中首座(筆頭)となり、侍従に任じ、いわゆる寛政の改革に着手。翌年3月には将軍補佐の大役をも与えられた。松平信明(のぶあきら)、本多忠籌(ただかず)、戸田氏教(うじのり)、松平乗完(のりさだ)、太田資愛(すけよし)ら同志の譜代(ふだい)大名を幕閣の中枢に登用し、彼らと合議しつつ幕政の振起に努めた。財政の緊縮政策をはじめ、札差棄捐令(きえんれい)、旧里帰農奨励令、七分積金令、人足寄場(にんそくよせば)設置令、出版統制令、風俗匡正(きょうせい)令、物価引下令、異学の禁、江戸湾防備計画等々は、いずれも定信が断行した寛政の改革の有数の政策である。幕府財政再建のために農本主義を基調としているが、都市政策や思想統制にもみるべきものが多い。1793年(寛政5)7月老中ならびに将軍補佐役を辞職したが、左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に昇任、家格も溜間詰(たまりのまづめ)に昇格、ふたたび白河藩政に意を用いることとなった。彼の辞職の理由は、光格(こうかく)天皇が実父典仁(すけひと)親王に太上(だいじょう)天皇の称号を贈ろうとして定信に反対された尊号一件、および将軍家斉(いえなり)が実父一橋治済を大御所に迎えようとして定信に反対された大御所一件などが絡んでいるといわれる。しかし、その背景として、「それみたか、余り倹約なすゆえに、おもいがけなき、不時の退役」「白河の、清きに魚もすみかねて、元のにごりの、田沼こいしき」などの当時の落首にもみられるように、彼の極度の緊縮政策に対する士庶の批判も考えねばならない。こののち白河藩主として、藩校立教館の拡充や、1810年(文化7)には会津藩とともに江戸湾防備の幕命を受け、房総沿岸に台場を築造したりしたが、1812年嫡子定永(さだなが)に封地を譲り、晩年は江戸築地(つきじ)の下屋敷浴恩園に住んで風雅な生活を送った。文政(ぶんせい)12年5月13日没。72歳。江戸深川の霊岸寺に葬り、のち伊勢(いせ)(三重県)桑名の照源寺に分骨した。

 定信は、歌人・国学者として著名な父田安宗武の影響もあって、幼少より大塚孝綽(たかすえ)に師事して学問に励み、12歳のとき自分の信条を記した『自教鑑(じきょうかがみ)』を著したのをはじめ、一生のうちに200部近くもの著作を残した。著述の内容は、老中退職以前は『国本論』『物価論』など政治関係のものが多く、退職後は『花月草紙』『楽亭筆記』など文芸に関するものが多い。とくに歌集『三草集』は有名である。このほか古書画、古器物を収集して編纂(へんさん)した『集古十種』『古画図考』や、自叙伝の『宇下人言(うげのひとこと)』『修行録』も有名である。また武芸にも励み、とくに起倒流柔術の師鈴木邦教(くにたか)から伝授された「神武(しんぶ)の道」は、彼の世界観に大きな影響を与えた。

[竹内 誠]

『松平定光校訂『宇下人言・修行録』(岩波文庫)』『渋沢栄一著『楽翁公伝』(1937/復刻版・1983・岩波書店)』『竹内誠著『寛政改革』(『第三期岩波講座 日本歴史12』所収・1976・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信【まつだいらさだのぶ】

江戸後期の陸奥(むつ)白河藩主,幕府老中。田安宗武の子,徳川吉宗の孫。号は楽翁。1774年白河藩主松平定邦の養子となり,1783年家督を継ぐ。天明の飢饉で領民が困窮していた同藩で,上方から食糧を緊急輸送してこれを救った。倹約令を発して藩の財政支出を抑え,家臣の学問・武芸を奨励,農民には間引きを禁じて農村人口の増加を図って殖産政策を推進した。こうした実績と清潔な人柄が評価され,1787年老中首座として田沼意次失脚後の幕政を担い,寛政改革を行った。朱子学ほかの学問に通じ,著書《花月草紙》《宇下人言(うげのひとこと)》《集古十種》など。
→関連項目石山寺縁起絵巻印譜大田南畝海防掛清水浜臣白河藩尊号一件谷文晁田安宗武徳川家斉日本外史長谷川平蔵人返し古川古松軒

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改訂新版 世界大百科事典 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信 (まつだいらさだのぶ)
生没年:1758-1829(宝暦8-文政12)

江戸後期の幕府老中。寛政改革を推進した中心人物。8代将軍徳川吉宗の孫,父は三卿の田安宗武。幼名を賢丸,号は楽翁,花月翁,風月翁など。儒者大塚孝綽に師事して幼時より学問に励み,わずか12歳で《自教鑑》という修身書を著すなど,俊才の誉れが高かった。1774年(安永3)奥州白河藩主松平定邦の養子となり,83年(天明3)家督を継いで従四位下,越中守に叙任,白河11万石の藩主となった。おりしも天明の大飢饉に際会し,白河藩でも士民の困窮はその極に達した。定信は上方より食糧を緊急輸送して領内の窮民を救済するとともに,藩の財政支出を抑えるため,あるいは風俗を匡正するために,徹底した倹約令を発した。さらに家臣には武芸と学問を奨励し,農民には間引きを禁止するなど農村人口の増加策や,植林などの殖産政策を推進し,白河藩政の建直しに努めた。87年,こうした藩政の実績や清潔な人柄を評価した三家と将軍家斉の実父一橋治済の推挙により,定信は老中首座となり,田沼意次失脚後の幕政を担当,以後6年間にわたり,いわゆる寛政改革を主導した。

 前代の賄賂政治を厳しく批判し,財政の緊縮整理,綱紀の粛正,出版・思想の統制,さらに荒廃農村の再建と都市秩序の維持のために,次々と改革政策を断行した。ロシア船の来航を機に海防にも力を尽くした。寛政改革は,財政の建直しや民生の安定に一定度の成果を収めた。しかし定信が将軍家斉や一橋治済らと対立したり,その厳しすぎる緊縮政治に人心が離れたりしたため,93年(寛政5)定信は老中および将軍補佐役を免じられた。彼は再び白河藩政に専念することになった。とくに文武を熱心に奨励し,白河城下に設立した藩校の立教館をいっそう充実したり,庶民のための学校敷教舎を建てるなどした。1812年(文化9)家督を子の定永に譲った。隠居後は,花鳥風月の自然に親しむ悠々自適の生活を送った。著作は百数十部にも及ぶが,誕生から老中辞職までの自叙伝《宇下人言(うげのひとこと)》,政治の基本を説いた《国本論》,流麗な雅文随筆《花月草紙》,自選和歌集の《三草集》,古書画,古器物を摸写編集した《集古十種》などが著名である。29年5月13日没,辞世は〈今更に何かうらみむうきことも楽しきことも見はてつる身は〉。
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朝日日本歴史人物事典 「松平定信」の解説

松平定信

没年:文政12.5.13(1829.6.14)
生年:宝暦8.12.27(1759.1.15)
江戸後期,寛政の改革を断行した老中。父は御三卿田安宗武,母は山村とや。徳川吉宗の孫。幼名は賢丸。安永3(1774)年陸奥国白河藩主松平定邦の養子となる。兄が亡くなり,絶家の危機を迎えた田安家への復帰が謀られたが実現しなかった。養子に出したのも復帰を妨げたのも,定信を恐れた田沼意次の策略といわれる。天明3(1783)年白河藩主となり,天明飢饉に餓死者を出さず名君と讃えられた。同6年将軍徳川家治が亡くなると,一橋家の15歳の家斉が将軍となった。定信が田安家にいれば将軍になった可能性は十分にあり,将軍になり損ねたといえる。その怨念もあってか田沼への憎しみは激しく,敵として2度も刺し殺そうとしたほどで,気性の激しさをみせる。一橋治済や御三家は,定信を老中にして幕政を改革させようとしたが,田沼派の妨害で実現しなかった。 天明7年江戸の大規模な打ちこわしが引き金となって田沼派が失脚すると,ついに老中に就任し寛政の改革を宣言,翌年将軍補佐役にもついて幕府の全権を掌握し強権的改革を推進した。大飢饉,百姓一揆・打ちこわしの激化,農村荒廃,幕府の財政危機,ロシアの接近など内外の深刻な危機打開のため,自分と妻子の命を賭けるとの決意を込め難局に当たった。政策は,農業を重視し,荒廃農村の再建,飢饉対策の米備蓄,七分金積立による江戸町会所設立,人足寄場設置などの封建的社会政策を採用した。棄捐令により,困窮した旗本,御家人を救済,また,朱子学を正学とする寛政異学の禁を出し,湯島の聖堂を幕府の学問所として整備拡充し幕臣教育に当たらせ,医学館,和学講談所の整備など文教を重視。大政委任論を表明し,曖昧だった朝廷との関係を明確にして幕府権威の強化をはかる一方,京都御所再建では朝廷側の復古的造営要求に押し切られたが,尊号事件では天皇の要求にも拒否を貫き,公家を処罰した。ロシア使節ラクスマンの通商要求に,内心は通商許可を覚悟しつつ鎖国は祖法であると表明し,江戸湾防備計画を自ら視察して立案,また北方防備のため北国郡代の新設など国防体制を模索。朝鮮蔑視観から通信使の延期・対馬聘礼も決定した。その政策には当初強い支持が集まったが次第に反発も強まり,しかも将軍家斉が成人し補佐役定信としっくり行かなくなり,寛政5(1793)年辞職。 その後文化9(1812)年まで藩政をみるとともに,著作活動を活発に行い,特に『集古十種』は著名。隠居し楽翁と号したが,危機意識はさらに強まり,国,幕府,藩の将来を案じ続けた。和漢の学問から獲得した学識をもって現実政治に当たり,問題を歴史的,本質的にとらえて解決しようとする学者的姿勢が強く,幕政全般にわたる改革により体制のタガを締め直し,幕府の相対的安定期を生み出した。また国家護持意識が強く,自らの神格化もはかり,守国院と諡られた。<参考文献>渋沢栄一『楽翁公伝』,藤田覚『松平定信』

(藤田覚)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平定信」の意味・わかりやすい解説

松平定信
まつだいらさだのぶ

[生]宝暦8(1758).12.27. 江戸
[没]文政12(1829).5.13. 江戸
江戸時代後期の大名。幼名は賢丸。号は楽翁,風月翁,花月翁。田安宗武の第3子で,8代将軍徳川吉宗の孫。安永3 (1774) 年白河藩主松平定邦の養子となり,天明3 (1783) 年家督を継ぎ,飢饉により崩壊に瀕した藩財政を建て直し名君と称された。同7年老中首座となり,田沼意次のあとをうけて,幕政の建て直しをはかり,寛政の改革を断行したが,多くの反対にあい,寛政5 (1793) 年老中を辞し,以後は藩政に専念し,著作に従事した。朱子学を好み,老中時代には,柴野栗山らを登用して,「寛政異学の禁」を発した。主著に『花月草紙』や『宇下人言』ならびに『修行録』 (1822) ,『国本論』 (1781) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松平定信」の解説

松平定信
まつだいらさだのぶ

1758.12.27~1829.5.13

江戸後期の老中首座。陸奥国白河藩主。父は御三卿の田安宗武。8代将軍徳川吉宗の孫。幼名賢丸(さだまる)。号は楽翁。10代将軍家治の世子に望まれたが,田沼意次らにより白河松平家(久松氏)に養子にだされた。1783年(天明3)家督相続。87年老中首座,翌年将軍補佐役に就任。吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行う。しかし尊号事件や大奥に対する引締め策が原因で,93年(寛政5)辞職。白河に戻ってからは,藩校立教館の充実や「白河風土記」の編纂,一般庶民の教育機関敷教舎(ふぎょうしゃ)の設置などの文教政策を進め,南湖の魚介養殖奨励など殖産興業も行った。1812年(文化9)隠居。自叙伝「宇下人言(うげのひとごと)」など138部以上の著作を残した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松平定信」の解説

松平定信 まつだいら-さだのぶ

1759*-1829 江戸時代中期-後期の大名。
宝暦8年12月27日生まれ。徳川吉宗の孫。田安宗武(むねたけ)の7男。松平定邦(さだくに)の婿養子となり,天明3年陸奥(むつ)白河藩(福島県)藩主松平(久松)家3代。藩の農政,財政に実績をあげ,7年老中首座,翌年将軍補佐に就任。田沼政治を刷新するため旧里帰農奨励令,札差棄捐(きえん)令,風俗匡正(きょうせい)令,物価引下令,人足寄場(よせば)設置令,異学の禁などの「寛政の改革」を断行した。文政12年5月13日死去。72歳。号は花月主人,楽翁など。越中守。著作に「国本論」「集古十種」,随筆「花月草紙」,歌集「三草(みくさ)集」,自伝「宇下人言(うげのひとこと)」など。
【格言など】憂国の心あるべし,憂国の語あるべからず(「花月草紙」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「松平定信」の解説

松平定信
まつだいらさだのぶ

1758〜1829
江戸後期の幕府老中で,寛政の改革の実施者
号は白河楽翁。田安宗武の子。1783年白河藩主となり,天明の飢饉を切り抜け名声を高めた。'87年老中首座となり,11代将軍徳川家斉 (いえなり) を補佐して寛政の改革を断行したが,尊号一件や大奥の改革が原因で'93年辞職。晩年は著述に専念し,『宇下人言 (うげのひとこと) 』『花月草紙』『国本論』などを著した。

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367日誕生日大事典 「松平定信」の解説

松平定信 (まつだいらさだのぶ)

生年月日:1758年12月27日
江戸時代中期;後期の大名;老中
1829年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の松平定信の言及

【宇下人言】より

…寛政改革の中心人物松平定信の自叙伝。1巻。…

【海防】より

…ロシアの千島進出による蝦夷地問題を契機に,林子平,本多利明,工藤平助らが,蝦夷地開発とともに海防の必要性を説いた。とくに,1792年(寛政4),ロシア使節ラクスマンが根室に渡来して通商を求め,江戸回航を主張するに及んで老中松平定信は,長崎以外に海防体制のない欠陥を痛感し,北国郡代設置による北方防備を構想するとともに,みずから伊豆,相模を巡検して江戸湾防備体制の構築を練った。1806年(文化3)以降の蝦夷地におけるロシアとの紛争,08年のフェートン号事件を契機に,10年,会津藩に相模,白河藩に上総,安房の沿岸の防備を命じて砲台を築き,江戸湾防備にあたらせた。…

【花月草紙】より

松平定信の随筆。6巻。…

【寛政異学の禁】より

…1790年(寛政2)5月,聖堂預り林大学頭信敬に塾内での教育は朱子学専一にすべき旨を達した。当時,徂徠学派,仁斎学派,折衷学派の流行に対して幕府の林家塾は不振の状態であり,朱子学擁護論が安永(1772‐81)ごろから出始め,松平定信の老中就任によって実現した。頼春水,尾藤二洲,柴野栗山,古賀精里,西山拙斎らの主張,とくに西山拙斎の定信への建白が強かったという。…

【寛政改革】より

…享保,寛政,天保の三大改革の一つ。1787年(天明7)より93年(寛政5)までの6年間,老中松平定信が中心となって断行した幕政全般にわたる改革をいう。
[背景]
 寛政改革直前の社会状況は,老中田沼意次による重商主義的な政策の破綻により,農村,都市ともに深刻な危機に見舞われた。…

【金石学】より

…しかし日本では宋代の金石学は広まらず,江戸時代に入り《大日本史》が編さんされるころにようやく,歴史が考証的に研究されはじめ,那須国造碑など金石文への注意が払われるようになった。その後,元禄時代以降,鐘銘,碑文などの収集が行われ,松平定信は《集古十種》(1800)を編み,寛政当時の金石・考古資料の集成を試みている。こうした背景のもとに江戸時代後期にいたって,日本の金石学は国学や清朝の考証学の影響下で本格的となった。…

【兼六園】より

…もと前田利長の時代からの加賀藩主の庭園で,1676年(延宝4)5代藩主綱紀が整備し,雅宴を催したことが知られるが,1759年(宝暦9)の大火後荒廃した。11代治脩(はるなか)と12代斉広が池の改修,御殿の築造をおこない,1822年(文政5)松平定信(白河楽翁)に園の命名を依頼した。〈兼六園〉とは中国宋の李格非の《洛陽名園記》からとったもので,〈宏大,幽邃(ゆうすい),人力,蒼古,水泉,眺望〉の六勝を兼ねた名園を意味している。…

【七分積金】より

…寛政改革の中で,江戸町方を対象として始められた都市政策。1791年(寛政3)12月,松平定信らを中心とする幕閣は,町奉行所を通じて江戸の名主,地主,家守(やもり)にあてた長文の町触で,江戸町方支配の大改革を行う旨を告げた。これが,町法改正,七分積金令と呼ばれるもので,以後幕末・維新期まで江戸の都市政策の根幹をなした。…

【集古十種】より

…松平定信の編纂した古宝物の模写図録集。85巻。…

【白河藩】より

…1651年本多忠義の総検地によって藩体制が確立,1716年(享保1)から36年(元文1)には農民一揆,家中騒動が発生した。天明飢饉の渦中に藩主となった松平定信は,領民救済・農村復興・殖産興業策を実施して藩の再建をはかり,また87年(天明7)老中首座に登用され寛政改革を断行した。戊辰戦争では,奥羽越列藩同盟軍の拠点として激戦が展開された。…

【生祠】より

…生前神になった事例は,山崎闇斎の垂加霊社や会津藩主保科正之の土津(はにつ)霊神がある。また松平定信は〈我は神なり〉と主張し,自己の木像を家臣にまつらせ,守国霊神と称された。明治天皇を生祠とした例は,第2次大戦前まで全国的に分布していた。…

【徳川家斉】より

…将軍家治は俊才の名が高かった三卿田安家の定信に嘱望したが,田沼意次は自己の権勢を維持するため定信を田安家から白河藩松平氏の養子へ追い出し,豊千代を家治の養子にすえた。豊千代が11代将軍家斉となると松平定信はその後見を命ぜられ,その深い学殖や白河藩主としての体験を生かして補導した。家斉の治世は文化・文政期(1804‐30)から天保初年にかけた約50年に及び,歴代将軍中もっとも長かったが,定信の補導下にあったその初期と,家斉の親政が行われた後期とでは,幕政の緩みは時代の下るほど顕著となった。…

【人足寄場】より

…のち実質上,近代的自由刑の原初的形態たる性格をもつに至った。 老中松平定信が,1780年(安永9)ごろ数年間のみ存在した南町奉行所の無宿養育所の先例などをヒントに,無宿収容施設の開設を発案し,これに対して火付盗賊改長谷川平蔵宣以(のぶため)がみずから実施を申し出,両者の間で具体案が練られたのち,平蔵が創設の業務にあたった。当初寄場に収容されたのは,まったく犯罪を犯したことのない無罪の無宿,および入墨などの刑を受けた前科のある無宿である。…

【抜荷】より

…また唐・蘭船の輸入品は正徳新例(海舶互市新例)公布後はすべて,蘭貨は出島で唐貨は長崎会所で会所役人が値組と呼ばれる評価方法で買い取り,有資格の商人に入札させて落札者に輸入貨を引き渡すことになっていたから,この手続を犯して唐・蘭船と直接取引するのは抜荷であった。 幕府は1721年(享保6)日本人が外国に行ってする密貿易と,長崎その他国内でする密貿易とを区別し,後者は死刑を廃止して耳,鼻をそぐ身体刑とし,縁坐,連坐の制をも廃止したが,88年には老中筆頭松平定信の主導で寛刑方針を捨て,金・銀・銅銭を用いた密買者は額の多少にかかわらず死刑,10両以上の荷物を密買した者も死刑,また密買の再犯者をも死刑とした。しかし幕府は唐・蘭人には抜荷の刑罰を適用せず,また大名のような大物は抜荷犯として捕らえなかった。…

【長谷川平蔵】より

…諱(いみな)は宣以(のぶため)。老中松平定信の下で人足寄場を創設した。平蔵宣雄(後の京都町奉行)の嫡子として生まれ,西丸書院番を経て1786年(天明6)先手弓頭,翌年火付盗賊改加役を命ぜられる。…

【藩政改革】より

…このように治憲就封前夜の藩内状況はきびしいものであった。 この緊迫度は,松平定信が党派をつくり田沼意次の暗殺を決意した同時代の事情にも通ずるものであろう。1768年12月,米沢藩医藁科(わらしな)貞祐が同志の郷村出役小川源左衛門尚篤に差し出した書簡の一節は,まことに鋭い政治的感性をもって,時代の大きく変化してゆく予兆を述べている。…

【世直し】より

…なお19世紀半ばまでは,騒動とは関係なく,世直し大明神が使われる場合も少なくなかった。寛政改革を行った松平定信が〈文武両道源世直〉と江戸市民から呼ばれたり,39年甲斐国で代官江川太郎左衛門が〈江川世直大明神〉という紙幟を立てられた,ということなどがその例である。
[世直し騒動]
 1863年(文久3)ごろから幕藩制国家の解体が決定的になり,大規模な騒動が各地で展開した。…

※「松平定信」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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