松平氏(読み)まつだいらうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「松平氏」の意味・わかりやすい解説

松平氏
まつだいらうじ

松平氏は三河国(みかわのくに)加茂郡(かもぐん)、常陸国(ひたちのくに)久慈郡(くじぐん)、陸奥国(むつのくに)田村郡などから出た各氏があるが、ここでは三河(愛知県)の松平氏に限る。三河松平氏は江戸時代の将軍家徳川氏の先祖にあたり、松平郷豊田(とよた)市)に住した親氏(ちかうじ)を初代とする。室町中期の3代信光(のぶみつ)は山間部より岡崎平野の安祥(あんじょう)(安城市)に進出し、また子供を要衝の地に配置し、7代清康(きよやす)は1524年(大永4)岡崎城に移り、ほぼ三河一国を掌中に収めたが1535年(天文4)暗殺された。その後、織田氏・今川氏の圧力や一族抗争などにより勢力を失ったが、9代家康(いえやす)のとき旧領を回復し、やがて徳川に改姓して江戸幕府を開く。江戸時代に松平氏を称した家には3種類ある。一つは三河時代の松平氏の分流、一つは家康の子孫でおもに親藩大名たる家、そして松平姓を将軍より与えられた大名である。

(1)三河松平氏の分流は、十八松平とも十四松平ともいい、最初に三河で与えられた所領の地名をつけ、大給(おぎゅう)、形原(かたのはら)、深溝(ふこうず)、能見(のうみ)、滝脇(たきわき)、桜井、藤井などの松平氏とよばれ、譜代大名(ふだいだいみょう)や旗本となったり、諸大名の家臣となったりした。

(2)家康の子孫では、将軍や御三家(ごさんけ)・御三卿(ごさんきょう)の子弟も幼少のとき松平姓を使用したりするが、庶子の多くは大名に取り立てられ松平姓を名のった。御三家分家(御連枝(ごれんし))では、高須(たかす)、西条、高松、守山(もりやま)、石岡、宍戸(ししど)の各松平氏があり、家康次男秀康(ひでやす)の子孫の福井、津山、松江、前橋、明石(あかし)などの各松平氏や、会津、忍(おし)の松平氏などがある。

(3)松平姓を与えられた大名はおもに有力外様大名(とざまだいみょう)(島津、毛利(もうり)、前田、伊達(だて)など)で、将軍と親戚(しんせき)になることを意味するが、幕末段階では外様大名16家、譜代大名8家、親藩大名1家、計25家が存在した。

[上野秀治]

『中村孝也著『徳川家康公伝』(1965・東照宮社務所)』『中村孝也著『家康の族葉』(1965・講談社)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松平氏」の意味・わかりやすい解説

松平氏
まつだいらうじ

徳川氏の本姓。清和源氏新田氏の出とも,在原,賀茂,藤原諸氏の出ともいう。室町時代,三河国賀茂郡松平郷に住し,松平氏を称した。戦国時代には土豪として強大化し,清康のとき岡崎城を築いて四隣に名をあげ,織田,今川諸氏らに対抗するにいたった。家康のとき初め今川氏に従ったが,桶狭間の戦い後,織田氏と和して三河を統一し,さらに遠江を征服して武田氏に対抗した。永禄9 (1566) 年徳川姓に改め,本能寺の変後,豊臣秀吉に従い,天正 18 (90) 年江戸に入部し,関八州を経営するにいたった。慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いに勝ち,同8年征夷大将軍,江戸に幕府を開いて以来明治にいたった。この間,将軍家および御三家御三卿の嫡流は徳川氏を,その他の庶流および支族は松平氏を称した。丹波亀山,肥前島原,豊後杵筑,三河西尾,駿河小島,摂津尼ヶ崎,出羽上ノ山,伊予松山・伊勢桑名・伊予今治・下総多古 (久松氏) ,陸奥会津 (保科氏) ,武蔵忍・上野小幡 (奥平氏) ,美作鶴田,美作津山,越前福井,出雲松江,出雲広瀬,出雲母里,上野厩橋,播磨明石,越後糸魚川,美濃高須,伊予西条,讃岐高松,陸奥守山,常陸府中,常陸宍戸,武蔵川越,上野吉野などの松平氏があった。また,外様大名で松平姓が与えられたものに金沢前田,鹿児島島津,仙台伊達,山口毛利,鳥取池田,岡山池田,徳島蜂須賀,福岡黒田,広島浅野,高知山内らがあったが,いずれも,明治にいたり本姓に復した。

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百科事典マイペディア 「松平氏」の意味・わかりやすい解説

松平氏【まつだいらうじ】

三河国賀茂郡松平郷出身の土豪で,徳川氏の旧姓。新田義重流というが不詳。一時今川氏旗下に入ったが,家康の時三河を統一して徳川と改称。将軍家樹立以後は,三家・三卿を除く庶支流分家を松平姓とした。越前松平氏・会津松平氏などが有名。外様(とざま)大名にも松平姓を許されたものがあった。
→関連項目岡崎城棚倉藩山中郷

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世界大百科事典 第2版 「松平氏」の意味・わかりやすい解説

まつだいらうじ【松平氏】

中世後期の三河国の有力武士で,惣領家は1566年(永禄9)徳川と改姓して江戸時代の将軍家となり,一族は大名,旗本となった(図)。
[松平氏の発祥]
 江戸幕府公認の松平氏発祥譚では,清和源氏新田氏の庶家徳川氏の末裔は,足利氏の迫害のため,本貫の地上野国新田郡徳川郷を退去して時宗の僧となって諸国を流浪し,親氏(ちかうじ)の代に三河国加茂郡松平郷の土豪松平氏の娘婿となったのが,源姓松平氏のはじまりで,9代の後裔家康の代に〈復姓〉したという。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「松平氏」の解説

松平氏
まつだいらし

三河国の武士で,江戸時代の旗本・大名家。宗家は家康のとき徳川と改姓して江戸幕府将軍家となった。出自・系譜は明らかでない。氏は本貫の松平郷からとったものだが,実在が確認できるのは3代信光以降で,15世紀後半に国内に所領を拡大し,一族を各地に分封。それらの諸氏は家康以前の段階で,いわゆる十八松平とよばれる18家を数え,松平氏台頭の基となり,江戸時代に大名・旗本として繁栄した。家康の次男秀康の子孫である越前家,御三家の支流,家康の異父弟の系統の久松氏も松平を称する。ほかに譜代・外様大名で松平姓が与えられた者もいるが,維新後は各自もとの姓に復した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「松平氏」の解説

松平氏
まつだいらし

徳川家康までの徳川氏の本姓
三河(愛知県)松平郷の土豪に入婿した親氏から9代目の家康が,1566年新田氏の一族得川氏の子孫と称し「徳川」を名のった。以後,将軍家・御三家・御三卿以外の親藩大名が旧姓の松平を称した。

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世界大百科事典内の松平氏の言及

【奥平氏】より

…初代貞俊は上野国奥平郷に住していたが三河国設楽郡作手に移り,1433年(永享5)に没したという。2代貞久は松平氏,3代貞昌は今川氏,4代貞勝,5代貞能は松平氏(一時は武田氏)に属す。6代信昌は1575年(天正3)長篠の戦に大功を立て徳川家康の娘亀姫をめとり,1601年(慶長6)美濃加納10万石。…

【忍藩】より

…その後1823年(文政6)阿部正権(まさのり)は陸奥国白河へ転じ,伊勢国桑名から松平忠尭が10万石で入封した。忍藩には藩政のほか重要な任務として川俣関所の警備があり,さらに松平氏時代には42年(天保13)以降房総沿岸の警備が命ぜられ富津と竹ヶ岡に陣屋を築き江戸湾防備にあたった。また53年(嘉永6)ペリー来航により,房総より転じて品川の第3台場の防衛を分担した。…

【家門】より

…江戸時代における大名家格の一つ。徳川氏の直系一門(親藩)のうち,御三家・御三卿以外の大名とその分家および御三家の分家(御連枝)をいう。越前系の福井・松江・津山,尾張系の高須,紀伊系の西条,水戸系の高松,久松系の松山・今治,保科系の会津,越智系の浜田の各藩がこれにあたる。いずれも松平姓を称した。家門は御三家とともに幕府権力の強化および維持に重要な役割を果たした。【藤野 保】…

【大名】より

…宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。 これに准ずる大名,領地高の多い大名は,伊達氏(陸奥仙台62万石余),細川氏(肥後熊本54万石),鍋島氏(肥前佐賀35万石余),藤堂氏(伊勢安濃津32万石余),松平氏(越前福井32万石),有馬氏(筑後久留米21万石),佐竹氏(出羽秋田20万石余),松平氏(出雲松江18万石余),柳沢氏(大和郡山15万石余),上杉氏(出羽米沢15万石)の10家で,合計20家の国主大名が存在した。 ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。…

【高崎藩】より

…95年(元禄8)安藤氏が備中松山に去ったあと,下野壬生から松平(大河内)輝貞が入封,輝貞は将軍綱吉の側用人となり,所領も2万石加増されて7万2000石を領したが,綱吉の死後越後村上に転じ,代わって間部詮房(まなべあきふさ)が5万石で入封した。しかし1717年(享保2),松平輝貞が詮房と交代して再入封,以後松平(大河内)氏が10代,170年間在城した。 この間,輝貞の前後45年に及ぶ治政につづき,3代輝高が1760年(宝暦10)藩校遊芸館を開くなど藩政が充実した。…

【姫路藩】より

…播磨国(兵庫県)飾東(しきとう)郡姫路を城地とした譜代中藩(初期は外様大藩)。1580年(天正8)羽柴(豊臣)秀吉が黒田孝高(よしたか)から姫路城を譲られたが,本能寺の変(1582)ののち大坂城に移り,そのあと83年に弟秀長が在城し,ついで85年以降木下家定1万1300石(のち2万5000石)が在城した。関ヶ原の戦後1ヵ月,1600年(慶長5)10月徳川家康の女婿池田輝政が播磨一国52万石の大名として入城した。…

【松江藩】より

…出雲国18万6000石で,隠岐国1万8000石は幕府の預地である。以来松平氏は廃藩置県まで10代230年間つづく。公称表高は18万石余であったが,実際の内高は25万石,32万石の記録もある。…

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