松本幸四郎(読み)マツモトコウシロウ

デジタル大辞泉 「松本幸四郎」の意味・読み・例文・類語

まつもと‐こうしろう〔‐カウシラウ〕【松本幸四郎】

歌舞伎俳優。屋号、高麗屋こうらいや
(初世)[1674~1730]下総しもうさの人。実事荒事に長じた。
(5世)[1764~1838]江戸の人。実悪に長じ、古今無双・三都随一といわれた名優。俗に、鼻高幸四郎ともよばれた。
(7世)[1870~1949]三重の生まれ。11世市川団十郎・8世松本幸四郎・2世尾上松緑の父。時代物・舞踊・新作にすぐれ、当たり役の「勧進帳」の弁慶は有名。
(8世)[1910~1982]7世の次男。東京の生まれ。時代物を得意とし、晩年は初世松本白鸚はくおうを名のった。文化勲章受章。

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精選版 日本国語大辞典 「松本幸四郎」の意味・読み・例文・類語

まつもと‐こうしろう【松本幸四郎】

  1. 歌舞伎俳優。屋号高麗屋。
  2. [ 一 ] 初世。下総の人。元祿(一六八八‐一七〇四)のはじめ江戸に出て歌舞伎役者となり享保元年(一七一六)より松本幸四郎を名乗る。二世市川団十郎と並ぶ江戸の名優とされた。延宝二~享保一五年(一六七四‐一七三〇
  3. [ 二 ] 五世。四世の子。享和元年(一八〇一)五世幸四郎を襲名。鼻が高く、鼻高幸四郎といわれ、実悪を得意とした。四世鶴屋南北とともに江戸の生世話物を確立。明和元~天保九年(一七六四‐一八三八
  4. [ 三 ] 七世。幼くして二世藤間勘右衛門の養子となり舞踊にはげんだ。九世市川団十郎に入門し、明治四四年(一九一一)七世幸四郎を襲名。風貌・音調にすぐれ、時代・世話・舞踊ともによくし、新作物や翻訳物にもとりくんだ。当たり役は「勧進帳」の弁慶。明治三~昭和二四年(一八七〇‐一九四九
  5. [ 四 ] 八世。七世の次男。時代物を得意とし、当たり役は弁慶・由良之助など。晩年は初世松本白鸚を名乗った。文化勲章受章。明治四三~昭和五七年(一九一〇‐八二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松本幸四郎」の意味・わかりやすい解説

松本幸四郎
まつもとこうしろう

歌舞伎(かぶき)俳優。屋号は代々高麗屋(こうらいや)。

服部幸雄 2018年8月21日]

初世

(1674―1730)幼名小四郎。下総(しもうさ)国(千葉県)小見川(おみがわ)の生まれと伝える。1716年(享保1)幸四郎と改名。実事(じつごと)、荒事(あらごと)、武道事(ぶどうごと)が得意で、2世市川団十郎と並ぶ名優とたたえられた。

[服部幸雄 2018年8月21日]

2世

4世市川団十郎の前名。

[服部幸雄 2018年8月21日]

3世

5世市川団十郎の前名。

[服部幸雄 2018年8月21日]

4世

(1737―1802)京都生まれ。色子から若衆方(わかしゅがた)、さらに立役(たちやく)に転じた。江戸に下って4世市川団十郎の門弟となり、1772年(安永1)4世幸四郎を襲名。芸熱心な名優で、1794年には極上上吉の最高位に位置づけられた。色立役で和事(わごと)、実事に本領があったが、晩年は実悪(じつあく)も演じた。曽我(そが)十郎、藤屋伊左衛門帯屋長右衛門、工藤祐経(すけつね)などが当り役だった。

[服部幸雄 2018年8月21日]

5世

(1764―1838)4世の子。立役から実悪に進み、1801年(享和1)前名3世市川高麗蔵(こまぞう)から5世を襲名した。容貌魁偉(ようぼうかいい)で実悪役者にふさわしく、俗に「鼻高幸四郎」とよばれて人気の高かった名優である。写実的な芸風で、4世鶴屋南北(つるやなんぼく)の生世話(きぜわ)の演技に新生面を開き、文化・文政(ぶんかぶんせい)期(1804~1830)の江戸劇界の重鎮となって活躍した。仁木弾正(にっきだんじょう)、武智光秀(たけちみつひで)、高師直(こうのもろなお)、松王丸、直助権兵衛(なおすけごんべえ)、立場(たてば)の太平次(たへいじ)などが当り役。

[服部幸雄 2018年8月21日]

6世

(1812―1849)5世の長男。1844年(弘化1)6世を継ぐが、大成をみなかった。

[服部幸雄 2018年8月21日]

7世

(1870―1949)幼年のころ2世藤間勘右衞門(ふじまかんえもん)の養子になり、9世市川団十郎の門に入る。市川金太郎・染五郎・8世高麗蔵を経て、1911年(明治44)7世を襲名。容姿・音調に優れ、時代、世話、所作事のいずれもよくした。師団十郎の芸脈を受け写実芸にも優れた。大正・昭和の劇壇の重鎮で、由良之助(ゆらのすけ)、松王丸、幡随長兵衛(ばんずいちょうべえ)、武智光秀など、古典の座頭(ざがしら)役の立役が勤める役に優れたものが多い。なかでも『勧進帳(かんじんちょう)』の弁慶はもっとも有名で、生涯に1600回余り演じた。11世市川団十郎、初世松本白鸚(はくおう)(8世幸四郎)、2世尾上松緑(おのえしょうろく)は、その子。芸談に『松のみどり』という名著がある。

[服部幸雄 2018年8月21日]

8世

(1910―1982)7世の次男。本名藤間順次郎。初世中村吉右衛門(きちえもん)に師事し、のちにその女婿(じょせい)となる。1949年(昭和24)5世市川染五郎から8世を襲名。吉右衛門譲りの時代物の型物によく、堅実な芸風を確立した。1981年名跡を長男に譲り、初世白鸚を名のる。1975年重要無形文化財、1976年芸術院会員。1981年文化勲章受章。

[服部幸雄 2018年8月21日]

9世

(1942― )8世の長男。本名藤間昭曉。1981年(昭和56)、6世市川染五郎から9世を襲名。染五郎時代から『王様と私』『ラ・マンチャの男』ほかのミュージカルで有名になり、『オイディプス王』『アマデウス』ほかの翻訳劇に出演するなど、幅の広い芸で縦横の活躍をみせる。近年は歌舞伎に意欲をみせている。2005年(平成17)紫綬褒章(しじゅほうしょう)受章。

[服部幸雄 2018年8月21日]

 2018年に2世白鸚を襲名。同時に長男7世市川染五郎(1973― )が10世松本幸四郎を、その長男金太郎(2005― )が8世市川染五郎を襲名した。

[編集部 2018年8月21日]

『市川染五郎著『見果てぬ夢』(1981・コンパニオン出版)』『松本幸四郎著『ギャルソンになった王様』(1996・広済堂出版)』『松本幸四郎・水落潔著『幸四郎の見果てぬ夢』(1996・毎日新聞社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「松本幸四郎」の意味・わかりやすい解説

松本幸四郎 (まつもとこうしろう)

歌舞伎俳優。9世ある。(1)初世(1674-1730・延宝2-享保15) 幼名松本小四郎,下総小見川の生れ。元禄(1688-1704)のはじめ江戸に出て,若衆方,女方,のち立役となる。1716年(享保1)に〈小〉を〈幸〉と改め,2世市川団十郎と並び称された。(2)2世 4世市川団十郎の前名。(3)3世 5世市川団十郎の前名。(4)4世(1737-1802・元文2-享和2) 屋号高麗屋。1744年(延享1)江戸市村座に入り瀬川金吾,54年(宝暦4)瀬川錦次と改名,57年4世団十郎の門下となり市川武十郎,63年市川染五郎,同年さらに市川高麗蔵と改名,72年(安永1)36歳で師の前名をついで幸四郎となる。色立役,所作事で売り出し,曾我十郎,藤屋伊左衛門,幡随院長兵衛,絹川谷蔵など和事,実事に秀で,晩年は実悪もよくした。(5)5世(1764-1838・明和1-天保9) 4世の子。1770年(明和7)7歳で初舞台。72年(安永1)純蔵から高麗蔵と改名。1801年(享和1)11月市村座で幸四郎を襲名した。俗に〈鼻高幸四郎〉と呼ばれ,古今無類,三都随一と賞賛された。初めのうちは父と同じく和事を本領としたが,仁木弾正など実悪にも優れ,1799年(寛政11)には実悪の首位に置かれた。頽廃的風潮の中で,4世鶴屋南北の作品,たとえば《時桔梗出世請状(ときもききようしゆつせのうけじよう)》の武智光秀をはじめ,《霊験曾我籬(れいげんそがのかみがき)》の藤川水右衛門,《絵本合法衢(えほんがつぽうがつじ)》の立場の太平次,《東海道四谷怪談》の直助権兵衛など,実悪としての残忍さを絶妙に演じた。また,生世話(きぜわ)も得意とし,写実的演技で,新風を吹き入れた。(6)6世(1812-49・文化9-嘉永2) 5世の子。父の当り役をついだが,大成せずに早世。(7)7世(1870-1949・明治3-昭和24) 2世藤間勘右衛門の養子となる。のち9世団十郎の門に入り,市川金太郎,染五郎,高麗蔵を経て,1911年幸四郎を襲名した。17年3世藤間勘右衛門を襲名。堂々たる体軀と風貌,朗々とした声音の持主で,団十郎譲りの《勧進帳》の弁慶はまさに専売特許の感があり,生涯に1600回も勤めた。反面きわめて進歩的で,1905年には日本最初の創作オペラ《露営の夢》に主演し,また11年帝劇開場と同時に,6世尾上梅幸,4世沢村宗十郎らとはせ参じて,女優を加えた数々の芝居を演じた。3男あり,長男を市川家の養子にやり,次男を初世中村吉右衛門,三男を6世尾上菊五郎に預けた。それが,後年の11世市川団十郎,8世松本幸四郎,2世尾上松緑である。(8)8世(1910-82・明治43-昭和57) 本名藤間順次郎。1926年純蔵の名で初舞台。28年から吉右衛門に師事,のち吉右衛門の女婿となる。30年染五郎,49年幸四郎を襲名した。吉右衛門系の時代物を得意とするが,また父親譲りの進取の精神に富み,57年には文学座に客演して《明智光秀》,59年には綱大夫,弥七とともに《日向嶋(ひゆうがじま)》,60年には《オセロ》と意欲的な仕事を重ねた。61年から菊田一夫に招かれ,2人の息子ともども東宝の専属となり,以後11年間東宝劇場,帝劇を根城に山田五十鈴,山本富士子らの女優を加えた一座で活躍,菊田一夫没後歌舞伎の世界に戻った。75年人間国宝,76年芸術院会員,81年名跡を長男に譲り,自分は初世白鸚となった。この年に文化勲章を受章。(9)9世(1942(昭和17)- )8世の長男。1946年初舞台。49年6世市川染五郎を経て,81年10月幸四郎を襲名した。
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百科事典マイペディア 「松本幸四郎」の意味・わかりやすい解説

松本幸四郎【まつもとこうしろう】

歌舞伎俳優。松本小四郎から幸四郎と改めた初世〔1674-1730〕に始まり,現在9世。2世,3世はそれぞれ4世,5世市川團十郎を襲名。屋号高麗(こうらい)屋。4世〔1737-1802〕は実事(じつごと),和事(わごと)を得意とし,宝暦〜寛政期の江戸で活躍。5世〔1764-1838〕は4世の子。写実的な演技で生世話(きぜわ)の演出を洗練させた。化政期の江戸を代表する名優。敵役を得意とし,鼻が高く,すごみのきいた容貌で,俗に鼻高幸四郎と呼ばれた。7世〔1870-1949〕は9世市川團十郎の門下で,長く劇界に活躍。時代物荒事(あらごと)にすぐれ,《勧進帳》の弁慶が当り役。舞踊についても,2世藤間勘右衛門の養子で早くから藤間流の家元になり,3世勘右衛門を相続。8世〔1910-1982〕は7世の次男。1949年襲名。初世中村吉右衛門の女婿。実父と義父の両方の芸を受け継いだ。1975年人間国宝。1981年松本白鸚(はくおう)を名乗る。同年文化勲章受章。9世〔1942-〕は本名藤間昭暁で8世の長男。1946年松本金太郎として初舞台。大衆演劇やミュージカルにも活躍。1949年6世市川染五郎,1981年10月幸四郎を襲名。2012年文化功労者(9世)。
→関連項目尾上松緑高麗屋鶴屋南北

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新撰 芸能人物事典 明治~平成 「松本幸四郎」の解説

松本 幸四郎(7代目)
マツモト コウシロウ


職業
歌舞伎俳優

本名
藤間 金太郎

別名
幼名=豊吉,前名=市川 金太郎,市川 染五郎(4代目),市川 高麗蔵(8代目)(イチカワ コマゾウ),舞踊名=藤間 勘右衛門(3代目)(フジマ カンエモン)

屋号
高麗屋

生年月日
明治3年 5月12日

出生地
東京府浅草花川戸(東京都 台東区)

経歴
5歳のとき2代目藤間勘右衛門の養子となって藤間金太郎と称し、舞踊を修業。明治13年9代目市川団十郎に入門、市川金太郎の名で翌年春木座で初舞台。その後、4代目市川染五郎、8代目市川高麗蔵を経て、44年7代目松本幸四郎を襲名。同年より6代目尾上梅幸らと帝劇の専属となり、昭和4年松竹に復帰するまで帝劇で活躍した。大柄で風貌、音調ともにすぐれ、9代目団十郎の芸脈を継承、荒事、時代物、舞踊を得意とし、また38年に日本初の創作オペラ「露営の夢」を上演、その後翻訳劇の上演を試みるなど進歩的なところもあった。大正・昭和の劇界の重鎮として戦後の昭和23年末まで舞台を務めたが、当たり役は由良之助はじめ伴随院長兵衛、助六、松王丸などで、特に「勧進帳」は弁慶役者として1600回も上演している。また養父の名跡を継ぎ、3代目藤間勘右衛門として藤間流を継承した。著書に「琴松芸談」がある。

受賞
芸術祭賞〔昭和23年〕

没年月日
昭和24年 1月27日 (1949年)

家族
養父=藤間 勘右衛門(2代目),長男=市川団十郎(11代目),二男=松本 白鸚(=8代目松本幸四郎),三男=尾上松緑(2代目)

伝記
松緑芸話 尾上 松緑 著(発行元 講談社 ’89発行)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

20世紀日本人名事典 「松本幸四郎」の解説

松本 幸四郎(8代目)
マツモト コウシロウ

昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治43(1910)年7月7日

没年
昭和57(1982)年1月11日

出生地
東京市日本橋区浜町(現・東京都中央区)

本名
藤間 順次郎(フジマ ジュンジロウ)

別名
後名=松本 白鸚(1代目)(マツモト ハクオウ),前名=松本 純蔵,市川 染五郎(5代目)

屋号
高麗屋

学歴〔年〕
暁星学園卒

主な受賞名〔年〕
芸術祭賞〔昭和24年・31年〕,毎日演劇賞〔昭和31年〕,毎日芸術賞〔昭和34年〕,テアトロン賞(第5回)〔昭和34年〕,紫綬褒章〔昭和47年〕,日本芸術院賞〔昭和48年〕,文化功労者〔昭和53年〕,NHK放送文化賞(第13回)〔昭和55年〕,文化勲章〔昭和56年〕

経歴
7代目幸四郎の次男。大正14年松本純蔵の名で初舞台。昭和3年初代中村吉右衛門に入門、6年5代目染五郎を経て、24年に8代目幸四郎を襲名した。この間、15年に師匠の娘・正子と結婚、29年の吉右衛門の死去まで吉右衛門劇団に在籍して時代物を修業した。その後、歌舞伎の“脱松竹”を目ざして苦闘し、32年福田恆存作「明智光秀」で文学座に客演、35年には「オセロー」に主演して注目をあつめた。36年に東宝と専属契約後は映画やテレビにも出演。47年フリーとなって松竹にも復帰したが、54年秋ベーチェット病を患って約1年間休演したあとは病気がちで、初代白鸚を襲名した56年10〜11月の「高麗屋三代襲名披露」興行での「井伊大老」が最後の舞台となった。「熊谷陣屋」「逆櫓」「忠臣蔵」「勧進帳」などを得意とし、テレビ「鬼平犯科帳」でも人気を得た。50年人間国宝に指定され、56年には文化勲章を受章。


松本 幸四郎(7代目)
マツモト コウシロウ

明治〜昭和期の歌舞伎俳優



生年
明治3年5月12日(1870年)

没年
昭和24(1949)年1月27日

出生地
東京府浅草花川戸(現・東京都台東区)

本名
藤間 金太郎

別名
幼名=豊吉,前名=市川 金太郎,市川 染五郎(4代目),市川 高麗蔵(8代目)(イチカワ コマゾウ),舞踊名=藤間 勘右衛門(3代目)(フジマ カンエモン)

屋号
高麗屋

主な受賞名〔年〕
芸術祭賞〔昭和23年〕

経歴
5歳のとき2代目藤間勘右衛門の養子となって藤間金太郎と称し、舞踊を修業。明治13年9代目市川団十郎に入門、市川金太郎の名で翌年春木座で初舞台。その後、4代目市川染五郎、8代目市川高麗蔵を経て、44年7代目松本幸四郎を襲名。同年より6代目尾上梅幸らと帝劇の専属となり、昭和4年松竹に復帰するまで帝劇で活躍した。大柄で風貌、音調ともにすぐれ、9代目団十郎の芸脈を継承、荒事、時代物、舞踊を得意とし、また38年に日本初の創作オペラ「露営の夢」を上演、その後翻訳劇の上演を試みるなど進歩的なところもあった。大正・昭和の劇界の重鎮として戦後の昭和23年末まで舞台を務めたが、当たり役は由良之助はじめ伴随院長兵衛、助六、松王丸などで、特に「勧進帳」は弁慶役者として1600回も上演している。また養父の名跡を継ぎ、3代目藤間勘右衛門として藤間流を継承した。著書に「琴松芸談」がある。

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朝日日本歴史人物事典 「松本幸四郎」の解説

松本幸四郎(5代)

没年:天保9.5.10(1838.7.1)
生年:明和1(1764)
文化文政期の歌舞伎役者。俳名錦江,錦升など。屋号高麗屋。4代目松本幸四郎の実子として江戸に生まれる。市川純蔵,3代目市川高麗蔵を名乗って,子役,若衆形から立役に進む。早くから将来を嘱望され,寛政9(1797)年には評判記上上吉となった。享和1(1801)年5代目幸四郎を襲名,ますます名声を上げていった。鼻が高く目に凄みがあり,世に「鼻高幸四郎」といわれて古今独歩の実悪(大物の敵役)役者の名をほしいままにした。その個性的な相貌は当時の役者絵に窺える。時代物,世話物ともによく,写実的な演出や演技を完成させた。鶴屋南北の作品に多く出演し,当たり芸は「時桔梗出世請状」の武智光秀,「絵本合法衢」の早枝大学之助と立場の太平次,「謎帯一寸徳兵衛」の大島団七,「お染久松色読販」の鬼門の喜兵衛,「隅田川花御所染」の猿島惣太,「東海道四谷怪談」の直助権兵衛など枚挙にいとまがない。南北の台詞は難しいといわれるが,それは彼と相手役を勤めた5代目岩井半四郎のリアルな台詞によるところも大きく,このふたりが南北とともに歌舞伎の革新に果たした役割は無視できない。その他の当たり役には松王丸,いがみの権太,仁木弾正,幡随長兵衛などがある。容貌に似合わず性温順,控えめで配役の良否にこだわらなかったというが,傍役で出ても主役を食う力量を見せた。天保5年(1834)に古今無類の名を取ったが,まさに空前絶後の実悪役者といえよう。実子が6代目を継いだが夭折。7代目は9代目市川団十郎の高弟で,明治から昭和にかけての弁慶役者として著名。その子3人が昭和の名優11代目市川団十郎,8代目幸四郎,2代目尾上松緑 となり,8代目は晩年白鸚と称した。9代目はその長男で歌舞伎以外にも出演して活躍している。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』

(井草利夫)


松本幸四郎(4代)

没年:享和2.6.27(1802.7.26)
生年:元文2(1737)
江戸中期の歌舞伎役者。俳名は錦江など。屋号は2代目以降高麗屋。京都生まれ。8歳のとき江戸に下り,初代瀬川菊之丞に入門して瀬川金吾を名乗り,初め色子として出発した。若衆形を経て立役となり,宝暦6(1756)年,4代目市川団十郎に入門して市川武十郎と改名,和事を得意とした。のち市川染五郎,高麗蔵を経て,安永1(1772)年,36歳のとき師の前名を継いで4代目松本幸四郎となった。安永5年の評判記で上上吉,寛政5(1793)年には極上上吉にまでなって名優の名をほしいままにしたが,若いときからの苦労のゆえか性格には問題があったらしく,5代目市川団十郎や初代尾上菊五郎と紛争を起こした際なども,非は彼に多いとされた。 容姿に優れ,和事,実事を本領とし,舞踊ができ,晩年には実悪もよくした。台詞,特に警句に長じ,舞台における江戸っ子のべらんめえ調は彼に始まるといわれる。団十郎との争いののち,人気を落とした彼を作者の初代桜田治助が助け,緊密な提携をしたことは有名である。晩年には芸名を実子の3代目高麗蔵に譲り,男女川京十郎と名乗った。<参考文献>伊原敏郎『近世日本演劇史』,守随憲治『歌舞伎序説』

(井草利夫)


松本幸四郎(初代)

没年:享保15.3.25(1730.5.11)
生年:延宝2(1674)
江戸中期の歌舞伎役者。俳名小見川など。屋号は初代のみ大和屋。下総国の生まれ。元禄の初め江戸に出て久松多四郎の門人となり,久松小四郎の名で若女形を勤める。のち本姓の松本に戻り,若衆形から立役となり,正徳3(1713)年の評判記で上上吉の位付けを得た。享保1(1716)年幸四郎と改名する。初代市川団十郎の芸脈を受け継ぎ,2代目団十郎と並ぶ名優のひとりと評されるに至った。荒事,実事,武道事を得意としたが,小柄で拍子事(舞踊)は不得意だった。2代目は養子が継ぎ,のち名優4目代市川団十郎となった。3代目はその実子で,これも名優5代目団十郎の前名である。

(井草利夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本幸四郎」の解説

松本幸四郎(9代) まつもと-こうしろう

1942- 昭和後期-平成時代の歌舞伎役者。
昭和17年8月19日生まれ。8代松本幸四郎の長男。2代中村吉右衛門の兄。昭和21年初舞台。24年6代市川染五郎を襲名。45年ブロードウェーで「ラ・マンチャの男」を主演。55年芸術院賞。56年9代松本幸四郎を襲名。平成21年芸術院会員。ミュージカル,新作劇など多彩に活躍。24年文化功労者。東京出身。早大中退。本名は藤間昭暁。初名は松本金太郎。屋号は高麗屋。

松本幸四郎(8代) まつもと-こうしろう

1910-1982 昭和時代の歌舞伎役者。
明治43年7月7日生まれ。7代松本幸四郎の次男。初代中村吉右衛門(きちえもん)に師事,のち娘婿となる。昭和24年8代幸四郎を襲名。36年菊田一夫にまねかれ東宝専属となり,東宝劇場,帝劇などで活躍。47年歌舞伎に復帰。時代物の型物を得意とした。シェークスピア「オセロ」などにも出演。50年人間国宝,56年文化勲章。昭和57年1月11日死去。71歳。東京出身。本名は藤間順次郎。前名は5代市川染五郎。後名は松本白鸚(はくおう)。俳名は錦升。屋号は高麗屋。

松本幸四郎(7代) まつもと-こうしろう

1870-1949 明治-昭和時代の歌舞伎役者。
明治3年5月12日生まれ。2代藤間勘右衛門(ふじま-かんえもん)の養子。9代市川団十郎の門にまなび,8代市川高麗蔵(こまぞう)をへて,明治44年7代幸四郎を襲名。「勧進帳」の弁慶が当たり役。荒事,所作事を得意とし,オペラや翻訳劇にも出演した。舞踊藤間流3代家元。長男が11代団十郎,次男が8代幸四郎,3男が2代尾上(おのえ)松緑。昭和24年1月27日死去。80歳。東京出身。本名は藤間金太郎。俳名は錦升。屋号は高麗屋。

松本幸四郎(4代) まつもと-こうしろう

1737-1802 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
元文2年生まれ。はじめ初代瀬川菊之丞(きくのじょう)門下,瀬川金吾,錦次を名のる。のち4代市川団十郎の門にはいり,染五郎,2代高麗蔵(こまぞう)をへて,安永元年4代幸四郎を襲名。和事,実事にすぐれた。当たり役は曾我十郎,畠山重忠(はたけやま-しげただ)など。晩年実子の3代高麗蔵に芸名をゆずり,男女川(おめがわ)京十郎を名のる。享和2年6月27日死去。66歳。京都出身。俳名は錦江。屋号は高麗屋。

松本幸四郎(5代) まつもと-こうしろう

1764-1838 江戸時代中期-後期の歌舞伎役者。
明和元年生まれ。4代松本幸四郎の子。市川純蔵,3代高麗蔵(こまぞう)をへて,享和元年5代幸四郎を襲名。実悪(じつあく)にすぐれ,写実的演技で4代鶴屋(つるや)南北の生世話(きぜわ)に新風をふきこんだ。当たり役は仁木弾正,武智光秀など。その容貌から,鼻高幸四郎とよばれた。天保(てんぽう)9年5月10日死去。75歳。江戸出身。俳名は錦升など。屋号は高麗屋。

松本幸四郎(初代) まつもと-こうしろう

1674-1730 江戸時代前期-中期の歌舞伎役者。
延宝2年生まれ。松本小四郎を名のり立役(たちやく)を演じ,享保(きょうほう)元年幸四郎と名をあらためた。2代市川団十郎とならぶ名優といわれた。実事,荒事を得意とした。享保15年3月25日死去。57歳。下総(しもうさ)小見川(千葉県)出身。俳名は小見川など。屋号は大和屋。

松本幸四郎(6代) まつもと-こうしろう

1811-1849 江戸時代後期の歌舞伎役者。
文化8年生まれ。5代松本幸四郎の子。5代市川高麗蔵(こまぞう)をへて,天保(てんぽう)15年6代幸四郎を襲名。立役(たちやく)として活躍した。嘉永(かえい)2年11月3日死去。39歳。江戸出身。

松本幸四郎(2代) まつもと-こうしろう

市川団十郎(いちかわ-だんじゅうろう)(4代)

松本幸四郎(3代) まつもと-こうしろう

市川団十郎(いちかわ-だんじゅうろう)(5代)

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367日誕生日大事典 「松本幸四郎」の解説

松本 幸四郎(7代目) (まつもと こうしろう)

生年月日:1870年5月12日
明治時代-昭和時代の歌舞伎役者
1949年没

松本 幸四郎(8代目) (まつもと こうしろう)

生年月日:1910年7月7日
昭和時代の歌舞伎役者
1982年没

松本 幸四郎(9代目) (まつもと こうしろう)

生年月日:1942年8月19日
昭和時代;平成時代の歌舞伎俳優

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世界大百科事典(旧版)内の松本幸四郎の言及

【歌舞伎】より

…それは演技・演出の写実的傾向である。中村仲蔵,4世市川団蔵,5世松本幸四郎らによって,動作・風俗に〈正写し(しよううつし)〉すなわち写生的な物真似の芸を尊ぶ風が流行し始め,次の文化・文政期に〈生世話(きぜわ)〉の演技様式として展開を示す基になった。江戸の文化全般が,〈天明調〉からしだいに移り変わろうとしていた。…

【藤間流】より

…(2)勘右衛門家 7世市川団十郎の門弟市川金太郎が,のち2世藤間勘十郎(一説に3世勘兵衛とも)の門に入って振付師となり,初世藤間勘右衛門を名のったのが始めである。初世の実子2世勘右衛門は引退した初世花柳寿輔に代わって,明治劇壇の立振付師となり活躍,養子の7世松本幸四郎に3世勘右衛門をつがせ,自身は勘翁と改めたが,勘右衛門家の基盤はこの勘翁によって築かれた。7世幸四郎は俳優と舞踊家を兼ね,三男の2世尾上松緑が1937年4世勘右衛門(現,勘斎)を襲名,75年松緑の長男尾上辰之助が5世勘右衛門を襲名した。…

【松のみどり】より

…歌舞伎役者の芸談集。7世松本幸四郎著。1937年刊。…

【蔦紅葉宇都谷峠】より

…早替りと殺し場が際立つため小芝居向きとして軽視されがちだったが,じつは義理と因果にあえぐ人物を活写した重厚な作。1969年当代最高とされた17世中村勘三郎の二役と8世松本幸四郎(のちの白鸚)の十兵衛による国立劇場の,初演以来の通し上演は,その点でも画期的であった。【河竹 登志夫】。…

【東宝[株]】より

…同年新たに重役に迎えた菊田一夫を中心に,57年芸術座を設け,65年帝国劇場を改築し再開場,東宝歌舞伎,東宝ミュージカル,東宝現代劇の三つの分野を柱に数々の話題作を上演,多数のスター・プレーヤーを生み出した。61年からは,8世松本幸四郎(のちの白鸚)ほかを専属に加え,第2次の東宝劇団を結成,新帝劇を根城に以後11年間に及ぶ演劇活動を行った。その間に,9世幸四郎,2世吉右衛門の看板役者を育て,とくに幸四郎は歌舞伎とは別に《ラ・マンチャの男》ほかのミュージカル・スターとしても脚光を浴びた。…

【嬢景清八島日記】より

…現在の人形浄瑠璃でも,この段の景清用として,真っ赤な眼をむく仕掛けの特殊な首(かしら)が残っている。近年では,1959年に8世松本幸四郎(白鸚)が,竹本綱大夫,竹沢弥七と共演したときの赤眼の工夫と迫真の演技が,とくに有名である。能《景清》とは異なる親子の情愛の吐露の場は,《平家女護島》の俊寛などと共通し,景清物の代表作となっている。…

※「松本幸四郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」