精選版 日本国語大辞典 「林銑十郎」の意味・読み・例文・類語
はやし‐せんじゅうろう【林銑十郎】
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陸軍軍人、政治家。明治9年2月23日、石川県金沢に生まれる。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、日露戦争に従軍。1913年(大正2)ドイツに留学、以後イギリス駐在を経て、国際連盟陸軍代表、歩兵第二旅団長、東京湾要塞(ようさい)司令官、陸軍大学校長、近衛(このえ)師団長を歴任。1930年(昭和5)朝鮮軍司令官となり、満州事変勃発(ぼっぱつ)に際し、関東軍に呼応して独断で満州に出兵、「越境将軍」の異名をとった。1932年大将に進み教育総監兼軍事参議官に就任、1934年には斎藤実(さいとうまこと)・岡田啓介(おかだけいすけ)両内閣の陸相となり、軍内派閥の統制派に擁立される。1935年皇道派の真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監罷免問題を起こし、相沢事件で辞職。翌1936年の二・二六事件後、予備役となる。広田弘毅(ひろたこうき)内閣ののち、1937年2月内閣を組織するが、予算成立直後に突然解散した、いわゆる「食い逃げ解散」の総選挙で与党が惨敗して、4か月で総辞職。1940年内閣参議となり、大日本興亜同盟総裁などを務めた。昭和18年2月4日死去。
[粟屋憲太郎]
『林銑十郎著『林銑十郎満州事件日誌』(1996・みすず書房)』▽『佐伯平造著『宰相林銑十郎』(1937・静軒会)』▽『樺山友義著『林銑十郎』(1937・北斗書房)』▽『塚田昌夫著『林内閣』(1938・近衛内閣編纂所)』
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1876.2.23~1943.2.4
大正・昭和前期の陸軍軍人・首相。石川県出身。陸軍士官学校・陸軍大学校卒。満州事変に際し,朝鮮軍司令官として参謀本部の制止を無視して満州に進攻し追認された。荒木貞夫・真崎甚三郎が一夕会(いっせきかい)を基礎に皇道派を形成すると当初同調するが,荒木・真崎の派閥人事に反発し,1934年(昭和9)陸相に就任すると永田鉄山を軍務局長に起用,真崎教育総監を更迭して皇道派に打撃を与え,初期統制派の形成を庇護した。相沢事件で引責辞任,36年予備役編入。37年宇垣一成の組閣失敗後をうけて内閣を組織,祭政一致を掲げ政党と絶縁。「食い逃げ解散」を敢行したが選挙で政党側が大勝,4カ月余で総辞職した。40年から内閣参議。
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…しかし,彼らが二・二六事件の指導者として決起すると,今度は逆に事件の責任の追及と内部統制再建のための措置が粛軍の具体的内容とされた。陸軍中央部は事件鎮圧とともに特設軍法会議を設け,反乱軍指導者をはじめ民間の北一輝らをも死刑を主とする厳罰に処したが,この間,36年3,4月には,事件当時の軍事参議官林銑十郎,真崎甚三郎,荒木貞夫,阿部信行の4大将をはじめ,現役の大将10名中7名を予備役に編入するなど,8月の定期異動をも含めて3000名をこえる空前の将校人事異動を行い,事件の責任を明らかにするとともに,皇道派勢力の一掃をはかった。また寺内寿一陸相は,4月8日の師団長会議で,軍人個々の政治行動は軍人の本分にもとるとし,軍の政治行動は陸軍大臣を通じてのみ行うべきものと訓示して軍内統制の方向を示し,政府も5月の第69議会で不穏文書取締法を成立させて,いわゆる怪文書取締りを強化して軍内秩序を側面から支援する姿勢を示した。…
※「林銑十郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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[1864~1915]ドイツの精神医学者。クレペリンのもとで研究に従事。1906年、記憶障害に始まって認知機能が急速に低下し、発症から約10年で死亡に至った50代女性患者の症例を報告。クレペリンによっ...
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