大和(やまと)国(奈良県)柳生藩の祖。江戸初期の代表的な剣術家として知られ、新陰(しんかげ)流江戸柳生家の初代。柳生石舟斎宗巌(せきしゅうさいむねよし)の五男で、初名新左衛門、通称又右衛門(またえもん)、のち但馬守(たじまのかみ)。幼少のころから父宗巌に剣の手ほどきを受けて、その英才を表し、1594年(文禄3)23歳のとき、徳川家康の招きを受けた父に伴われて、京都西郊鷹峯(たかがみね)の陣屋において新陰流を披露し、その技を嘉賞(かしょう)され旗本の士に採用された。関ヶ原の役には石田方の後方牽制(けんせい)の特命を帯して大和地方の豪族工作にあたり、戦後その功によって柳生の旧領2000石を回復し、さらに将軍世子秀忠(ひでただ)の兵法指南を命ぜられて1000石を加増され、やがて新陰柳生流が将軍家の御流儀(ごりゅうぎ)として長く用いられる地歩を築いた。1614年(慶長19)の大坂冬の陣には徳川方の嚮導(きょうどう)役を勤め、続く夏の陣後には千姫(せんひめ)救出に絡む坂崎出羽守成政(さかざきでわのかみなりまさ)の反抗事件を収拾することに成功し、また外様(とざま)大名の伊達政宗(だてまさむね)をはじめ、細川、鍋島(なべしま)、毛利(もうり)などの諸家と親交を結ぶなど、その政治的手腕も高く評価されるようになった。
1621年(元和7)宗矩50歳、将軍世子家光(いえみつ)の兵法師範を託され、その将軍就任後も引き続き厚い信任を受け、1629年(寛永6)には従(じゅ)五位下但馬守に任じ、さらに加増を受けて高6000石の大身に栄進し、将軍側近の御使番組頭(おつかいばんぐみがしら)のシンボルである「五の字(ごのじ)」の旗指物(はたさしもの)の使用を許された。1632年には総目付(そうめつけ)(後の大目付)に補せられて、諸大名の監察役となった。一方、これを機に鍋島元茂(もとしげ)、細川忠利(ただとし)ら大名門人の協力を得て、新陰柳生の伝授体系の確立を図り、紫衣(しえ)事件で羽州上ノ山(うしゅうかみのやま)に謫居(たっきょ)中の僧沢庵(たくあん)の赦免に尽力し、許されて江戸へ帰着した沢庵の助力を得て、『兵法家伝書(へいほうかでんしょ)』(3巻)を完成させた。その後も御伽衆(おとぎしゅう)として家光の側近にあり、1636年には加増されて総高1万石を領し、大名の列に加えられ、さらに1万2500石に上った。正保(しょうほう)3年3月死去、翌4月破格の従四位下を追贈された。
[渡邉一郎]
(前田英樹)
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江戸初期の兵法家。新陰流剣術の達人で徳川将軍兵法師範。正式には柳生但馬守宗矩,通称又右衛門。父は柳生石舟斎宗厳(むねよし)(1527-1606)。大和国(奈良県)柳生庄に生まれる。父石舟斎は上泉伊勢守から新陰流の印可を伝授され,柳生に引きこもり柳生新陰流兵法のくふうと完成に精進した(柳生流)。徳川家康の招きを老齢のゆえをもって辞した石舟斎は,五男宗矩を幕下に勧めた。宗矩は江戸で徳川家の兵法師範となり,2代将軍秀忠,3代家光に印可を与えた。とくに家光には剣技上ばかりでなく,政治上でも意見を具申し信頼を受ける立場となった。一方,禅僧沢庵とも親交があり,柳生新陰流兵法の理論体系の完成に大いに教えを受けた。家光,沢庵,宗矩3者の身分を超えた人間関係は,江戸幕藩体制の完成に大きな力となったといえよう。1636年(寛永13)宗矩は1万石(のち1万2500石)の大名に列せられた。兵法書として《兵法家伝書》3巻があり,近世剣術界に大きな影響を与えた。
執筆者:中林 信二
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1571~1646.3.26
大和国柳生藩主。兵法家。但馬守。同国柳生荘に兵法家柳生宗厳(むねよし)の第8子として生まれる。1594年(文禄3)徳川氏に仕え,1600年(慶長5)関ケ原の戦に従軍。戦後柳生荘2000石を与えられた。江戸幕府2代将軍徳川秀忠・3代家光に新陰流を伝授し,「兵法家伝書」の著作がある。32年(寛永9)大目付に任じられ,36年には1万石の大名となった。のち加増され1万2500石。
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…24~25歳のころ伊藤一刀斎の弟子となり一刀流の道統を継いだ。1593年(文禄2),見込まれて徳川家康の家人となり,柳生宗矩(むねのり)とともに秀忠の師範となって小野姓に改めた。直情径行,妥協や要領のよさをきらった忠明は,いわば処世術に欠け,対人関係で衝突を起こすことが少なくなかった。…
…現在,柳生町の山沿いの道のかたわらに正長の土一揆の際の柳生徳政碑(史)があり,神戸四ヵ郷の債務破棄を明記した文言が残る。新陰流の剣法で知られる柳生氏は当地の土豪で,将軍徳川秀忠,家光の兵法師範をつとめた柳生宗矩は1636年(寛永13)大名に列し,柳生の正木坂に陣屋を置いた。かつての柳生氏の居城跡に宗矩が創建したという臨済宗芳徳寺には,柳生氏一族の墓80余基が並ぶ。…
…大和国の近世大名。徳川将軍家剣術師範として知られる。平安時代,関白藤原頼通が春日神社に神供料所として寄進した神戸四ヵ郷の一つの小楊生郷(のち柳生村)に代官として菅原永珍(ながよし)が入部したのに始まるというが,戦国時代に春日神戸代官として美作守家厳(いえよし)があり,その子の新左衛門尉宗厳(石舟斎)が柳生新陰流を起こして自立した。松永久秀に属したため筒井順慶に追われて閉居したが,1594年(文禄3)徳川家康に召されて剣法を伝授したのに始まり,1600年(慶長5)関ヶ原の戦には嗣子の宗矩(むねのり)とともに功をたて,宗矩は秀忠,家光の剣術師範となり,さらに大目付に起用され1636年(寛永13)1万石(1万2500石)の大名に列し但馬守を称した。…
…新陰流の祖上泉伊勢守秀綱(上泉秀綱)から印可をうけた柳生石舟斎宗厳(むねよし)(1527‐1606)が流祖といえる。宗厳の五男但馬守宗矩(むねのり)(柳生宗矩)が徳川将軍の兵法師範として江戸柳生流の祖となり,宗厳の長男厳勝(よしかつ)の次男兵庫助利厳(としよし)(1579‐1650)が尾張の徳川家に仕えて尾張柳生流の祖となった。二つの流系は近代まで続き,江戸柳生の方は剣術流儀としては絶えたが,尾張柳生は現当主に至るまで,柳生新陰流の技法を伝承している。…
※「柳生宗矩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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