ようえい【栄叡】
?‐749(天平勝宝1)
奈良時代の興福寺の僧。美濃国の人。俗姓不詳。遣唐留学僧。《唐大和上東征伝》では〈栄睿〉と記す。唯識法相を専攻し,日本の戒律の具足しない現状を憂えた舎人親王の要請をうけて,733年(天平5)4月に普照(ふしよう)とともに第9次遣唐使多治比広成(たじひのひろなり)に従って入唐した。734年に洛陽大福先寺の律僧道璿(どうせん)に乞い,道璿の日本への渡航は成功したが,さらに伝戒師招請の任務を果たすために在唐し742年10月に揚州大明寺の鑑真に日本渡航を懇願した。
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栄叡 えいえい
?-749 奈良時代の僧。
大和(奈良県)興福寺で法相(ほっそう)をまなぶ。天平(てんぴょう)5年(733)戒律の師を日本にまねくため,普照とともに第9次遣唐使にしたがい唐(とう)(中国)にわたる。道璿(どうせん)を日本におくることに成功。さらに鑑真を渡海させようとして5度失敗。天平勝宝元年唐の端州竜興寺で客死した。美濃(みの)(岐阜県)出身。「ようえい」ともよむ。
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世界大百科事典内の栄叡の言及
【留学】より
…仲麻呂はついに帰国できなかったが,真備らは大量の書籍や楽器などを持ち帰り,唐の文化の本格的な摂取の段階に入った。学問僧のなかには,733年(天平5)に入唐した栄叡(ようえい),普照(ふしよう)らのように鑑真の来日に尽力したものもあった。 平安時代になると,804年(延暦23)の遣唐使に最澄と空海が随行し,彼らの学んできた天台や密教は,日本的な仏教が生まれてくる母体となった。…
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