中国,北宋の詩人。字は聖兪。安徽省宣城(宛陵)の出身。最終の官は尚書都官員外郎。宋詩の開拓者としての名声は生前から高かったが,一生の大半を一介の地方官として過ごしたため,当時における文化界の最高指導者欧陽修から〈詩が人を窮地に追いやるのではなく,窮地に追いやられるからこそすぐれた詩が生まれるのだ〉と評された。花鳥風月をテーマに華麗な典故や対句に力を注ぐ西崑体(せいこんたい)の詩風に反対し,詩は本来みずからの性情をすなおに表現するものだと主張,身辺の平凡な事象から人間の真実を描くことを旨とした。下級役人の日常生活や庶民の暮しをありのままにスケッチした作品にすぐれたものが多い。しかし,虱(しらみ)や蛆虫(うじむし)など詩になりにくい題材をわざと選び,そこから議論を展開させる傾向は,宋詩の特徴となる,散文化・哲学化への道をも開くことになった。《宛陵先生集》60巻がある。
執筆者:筧 文生
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…ただ王禹偁(おううしよう)(954‐1001)が,平静淡泊な中に,社会批判をこめた独自の詩を作り,宋詩の第一声とされる。仁宗時代に入り,散文の分野で古文を提唱して文体を改革した欧陽修を先頭に,梅尭臣,蘇舜欽(そしゆんきん)らが新しい詩を作りだし,たちまち詩風は一変した。とりわけ欧陽修によって〈梅翁は清切を事とし,石もて歯を寒瀬(かんらい)に漱(すす)ぐ,……たとえば妖韶(ようしよう)の女のごとく,老いておのずから余態あり。…
…つまり詩はいっそう知性的になったのである。北宋初期(11世紀の初め)の宮廷詩人の一群の詩は,のち〈西崑(せいこん)体〉とよばれる,李商隠の恋愛詩の模倣に力を費やすだけであったが,梅尭臣(ばいぎようしん)と王安石が出て,詩風は一変する。〈西崑体〉の詩人たちは律詩のみを作ったが,梅尭臣は古体(とくに五言古詩)を多く作り,それらは〈生硬〉のそしりを免れなかったけれども,確かに新しいスタイルであった。…
※「梅尭臣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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