梅根 悟(読み)ウメネ サトル

20世紀日本人名事典 「梅根 悟」の解説

梅根 悟
ウメネ サトル

昭和期の教育学者 和光大学学長;東京教育大学名誉教授。



生年
明治36(1903)年9月12日

没年
昭和55(1980)年3月13日

出生地
福岡県

別名
筆名=桑山 登(クワヤマ ノボル)

学歴〔年〕
東京文理科大学(のち東京教育大学)教育学科〔昭和8年〕卒

学位〔年〕
文学博士〔昭和29年〕

経歴
埼玉師範附属主事、川口市立中学校長、川口市助役、東京文理大助教授、東京教育大教授などを経て、昭和41年に退職、和光大学を創設し学長となった。この間、戦後は23年コア・カリキュラム連盟(のち日本生活教育連盟)を結成、カリキュラム改造運動を推進。また日教組の顧問格として教育研究集会の講師を務めたり、日教組教育制度検討委員会の委員長に就任、国の中央教育審議会の答申に対抗する教育改革案をまとめたりしたが、52年には第11期中教審委員にも就任。教育の民主化に貢献した。著書に「労作教育新論」「コメニウス」「現代訓育論」「世界教育史」「近代国家と民衆教育」「西洋教育思想史」(全3巻)「私の中教審答申批判」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅根 悟」の意味・わかりやすい解説

梅根悟
うめねさとる
(1903―1980)

教育学者。明治36年福岡県に生まれる。1933年(昭和8)東京文理科大学(現、筑波(つくば)大学)教育学科を卒業。埼玉師範教諭、埼玉県立本庄(ほんじょう)中学校長などを経て、第二次世界大戦後1946年川口市助役。1948年東京文理科大学助教授。同年のコア・カリキュラム連盟結成では中心的役割を果たした。のち東京教育大学教育学部教授、1966年の和光大学創設以来1980年まで学長。日本学術会議会員、日教組講師団のメンバーとして活躍、日本教育学会会長も務めた。主著に『新教育への道』(1947)、『コア・カリキュラム』(1949)などがある。

[尾崎ムゲン]

『『梅根悟教育著作選集』全8巻(1977・明治図書)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「梅根 悟」の意味・わかりやすい解説

梅根悟
うめねさとる

[生]1903.9.12. 福岡
[没]1980.3.13. 東京
教育学者。西洋教育史研究の一方で,第2次世界大戦後の日本の新教育運動を理論的に指導した。東京高等師範学校,東京文理科大学を卒業。中学校校長などを経て,川口市助役となり,社会科地域プログラム (川口プラン) を実施した。 1948年,母校に迎えられ,西洋教育史を担当。石川脩平らとコア・カリキュラム連盟を結成し,日本教職員組合の全国教育研究集会にも積極的に参加した。その後,和光大学長,日本教育学会会長などを歴任。 40巻に及ぶ『世界教育史大系』の監修ライフワークともいえる。西洋教育史のほかに,コメニウスやデューイの教育思想に触発された生活教育論に関する著作も残している。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「梅根 悟」の解説

梅根悟 うめね-さとる

1903-1980 昭和時代の教育学者。
明治36年9月12日生まれ。埼玉県の中学校長,川口市助役をへて,昭和23年母校東京文理大の助教授となり,コア・カリキュラム連盟(のちの日本生活教育連盟)を結成。24年東京教育大教授。西洋教育史の研究でも知られた。41年和光大を創設,学長。日教組講師団のひとり。日本教育学会会長。昭和55年3月13日死去。76歳。福岡県出身。著作に「世界教育史」など。

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367日誕生日大事典 「梅根 悟」の解説

梅根 悟 (うめね さとる)

生年月日:1903年9月12日
昭和時代の教育学者。東京教育大教授;和光大学学長
1980年没

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