森田村(読み)もりたむら

日本歴史地名大系 「森田村」の解説

森田村
もりたむら

[現在地名]福井市下森田しももりた町・下森田ほん町・下森田藤巻ふじまき町・下森田さくら町・下森田しん町・上森田かみもりた町・上森田一―五丁目

北陸街道に沿う農村で、北は定正さだまさ石森いしもり、南西は古市ふるいち、東は上野うえのの各村に接する。江戸時代を通じ下森田・上森田の二村に分れ、ともに福井藩領であった。「朝倉始末記」(心月寺本)に「森田之祐儀」とあり、慶長六年(一六〇一)九月九日付の結城秀康知行宛行状(山川家文書)には丸岡領として下森田村(高二五三・八〇四石)・上森田村(高三〇八・〇〇六石)がみえる。


森田村
もりたむら

[現在地名]森田村森田

岩木山周辺部に形成された山田野やまだの台地の北側が、津軽平野へ続く線上にあり、東は山田やまだ村、田圃を隔てて北は上福原かみふくはら(現木造町)、西は床前とこまえ村。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に盛田村とある。享保一二年(一七二七)には木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下と定められた(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて二七町五反一畝一二歩、村高は一二八・二二五石であった。うち田方は二〇町六反二畝一七歩で一一四・二四九石、中田がなく上・下・下々田と設定され、下々田が一六町五反九畝二九歩、八二・九九九石とあり、畑方は六町八反八畝二五歩で一三・九七六石、下畑と下々畑のみで、下々畑が五町九畝一九歩、五・〇九七石とある。


森田村
もりたむら

面積:二三・九八平方キロ

西津軽郡の中央部にあたり、村域は大きく二つの地域に分けられる。南西部は岩木山火山地の周辺部に形成された山田野やまだの台地の北側にあたり、北東部は津軽平野の水田地帯。狄ヶ館えぞがだて溜池など多くの溜池は、江戸時代の新田開発のため灌漑排水用に築かれた。

五能線が大正一三年(一九二四)弘前から鰺ヶ沢あじがさわ(現鰺ヶ沢町)まで開通し、村内に中田なかた陸奥森田むつもりた越水こしみず各駅が置かれた。米と林檎が主産業だが、明治三九年(一九〇六)以来の台地を利用した陸軍の演習場山田野は、太平洋戦争後に開畑され、近年畜産の振興をも図っている。


森田村
もりたむら

[現在地名]明石市大久保町森田おおくぼちようもりた

藤江ふじえ川の上流、谷八木たにやぎ川の中流左岸に位置した村。西は大久保町、東は鳥羽とば村。野々上組に所属。「采邑私記」によると、もとは大久保町の内の東野原とよばれる地で、七軒の家があり庄屋は与一右衛門、年寄は三右衛門で当初東野新ひがしのしん町といった。明暦四年(一六五八)に完成した林崎はやしざき掘割により水に恵まれ、原野の開拓が可能となった。万治三年(一六六〇)藩主松平信之により印南野いなみの台地の開拓に着手、寛文六年(一六六六)開拓事業が完成して新田村が成立した。信之は井戸を二本開削するとともに屋敷二四戸を贈り、森田村と命名したという。同書では東野新町と記載され高九〇石余。新田村のため加役なし。


森田村
もりたむら

[現在地名]富山市森田・千俵町せんびようまち

吉岡よしおか村の南に位置し、南北に飛騨街道(布市道)が通る。江戸初期は加賀藩領大溝呂木おおみぞろぎ村のうちで、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となり、のち森田村と吉岡村に分村したという。

享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)に村名がみえ、高五八〇石余。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高五七六石余・定免三ツ二歩、銀納林七千六〇六歩、小物成は月岡野役一八匁・同役二五匁。


森田村
もりたむら

[現在地名]上越市森田

ひるこ街道沿いの村で、油田あぶらでん村の南に位置する。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「秋山伊賀守分森田村 下」とみえ、本納五六石七斗五升四合五勺・縄高一四四石二斗四升二合五勺、家四軒・一五人。正保国絵図によると高一八〇石余。天和三年郷帳では高二一〇石一斗。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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