土葬の遺体を納める容器で、火葬した骨を納める骨壺(こつつぼ)と区別される。遺体を二重の容器に納める場合は、内棺(柩(ひつぎ))、外棺(槨(かく))として区別するが、元来は直接遺体を納める容器をさすものである。
遺体の埋葬は旧石器時代から行われているが、棺の使用は、新石器時代に入り農耕社会が成立して以降、死者に対する畏敬(いけい)と祖先崇拝が結び付いた結果、行われたと考えられている。もっとも、土葬の場合かならずしも棺に納められたわけではなく、日本における中世の集石墓、土壙(どこう)墓にみられるように、遺体をそのまま土中に埋葬することも多い。
[寺島孝一]
棺は古くから世界各地で用いられているが、地域や時期によって、形態・構造にさまざまな変化がある。材質による分類としては、木棺、石棺、陶棺、粘土棺、金属棺、乾漆(かんしつ)棺などがあり、形態によっては、箱式棺、舟形棺、家形棺などに分けられる。また遺体の納め方による分け方として、座棺、寝棺に大別することもできる。
棺の発生は一般に三つの系統があると考えられている。一つは幼児などを、日常用いていた甕(かめ)などに納めて埋葬したもので、弥生(やよい)時代の合口(あわせぐち)甕棺などに代表される。一つは、素掘りの土壙に直葬するのを忌み、石や板製の櫃(ひつ)に入れて葬ったもので、日本の古墳にみられる割竹形木棺(わりだけがたもっかん)などがこれにあたる。もう一つは、土壙の壁、天井を板石や板で囲むもので、組合せ式石棺などがこれにあたる。
[寺島孝一]
オリエントでは新石器時代に幼児の甕棺葬がみられる。メソポタミアでは日干しれんがでつくった墓壙中に伸展葬した遺体が発見されている。初期王朝時代のバビロニアの首都ウルでは、粘土棺、木棺、またアシやヤナギの枝でつくった棺がある。エジプトでは第2王朝以来、組合せ式木棺がつくられたが、第3王朝以後のピラミッド時代には巨石を用いた石棺がつくられた。一方で絵画や文様で美しく飾られた木棺も用いられ、中王国時代以後には木製のミイラ棺がつくられるようになった。こうした木棺の内側に書かれた柩文(きゅうもん)は、エジプト人の宗教を示す好資料である。エジプトにおける石棺の伝統は地中海沿岸の民族に影響を及ぼし、各地で特色ある陶棺、石棺がつくられた。シドン(サイダ)出土の「伝アレクサンドロス大王石棺」(イスタンブール考古博物館蔵)はヘレニズム時代のものとしてもっとも美術的な価値が高いといわれている。この石棺は神殿の形をとり、ギリシア人とペルシア人の戦闘の場面はとくに著名である。
ローマでは、当初簡素な石棺が用いられたが、帝政時代になると、高浮彫りなどで装飾した豪華なものがつくられた。ローマや北イタリアでつくられた石棺は、西方の属州に数多く輸出された。初期のものとしてはスキピオ・バルバトゥスの石棺が、後の煩瑣(はんさ)なものとしては、コンスタンティヌス大帝の娘コンスタンティアの玢岩(ひんがん)製の石棺が著名である。キリスト教では火葬を禁じたため、初期キリスト教徒は簡素ではあるが、キリストや使徒の肖像などを刻んだ美しい石棺を用いた。中世は薄葬の風(ふう)にのり簡素な木棺が使用された。ルネサンス期には文化全体の高揚に伴って、豪華な石棺や青銅製の棺がつくられた。このうちイタリアのドナテッロ作のジョバンニ・メディチの棺は著名である。
[寺島孝一]
中国では、新石器時代の中原(ちゅうげん)一帯では、幼児の甕棺葬は行われていたものの、成人の遺体は土壙に直葬したと考えられる。しかし、東北部では箱式石棺が用いられていた。殷(いん)代に入ると木棺が使用され始め、春秋戦国時代にかけても組合せ式の木棺が各地で発見されている。内外面に漆塗りを施したものや絹の帯をかけたものもすでに現れる。
漢代にも、前代に引き続き長方形の組合せ式木棺が使用された。長さが2メートル、幅・高さとも60センチメートル内外のものが多い。このうちもっとも著名なものは、1972年に発掘調査が行われた長沙(ちょうさ/チャンシャー)馬王堆(まおうたい)1号墓であろう。この墓では、二重になった槨室に納められた四重の入れ子になった木棺が発見された。この木棺は、もっとも外側のもの(長さ2.9メートル)が黒漆塗り、2番目が黒地彩絵、3番目が朱地彩絵、もっとも内側の棺は、蓋(ふた)をしたのちに2か所に絹の帯を巻き、その上から蓋および四周の外壁面に錦(にしき)を貼(は)り付けた華美なものであった。この四重の木棺の形態はまったく同じ長方形で、いずれも棺の内面には朱漆が塗られていた。内棺の長さは2メートルで、槨室最大長は6.7メートルにも及ぶものであった。
後漢(ごかん)になると、頭のほうが高く広く、脚部が狭い棺が一般的となる。このような形態の棺は唐代を経て、今日にまで及んでいる。中国では、馬王堆1号墓にもみられるように遺体の保存を重視し、棺は重要な位置を占めていたといわれる。したがって、生前から棺をつくり、仕上げもていねいなものが多い。
朝鮮では金石併用時代に支石墓内に箱式石棺が多くつくられた。また南部では甕棺も用いられている。以後、石棺や甕棺が用いられることもあるが、木棺の使用される例が多い。
[寺島孝一]
日本では、縄文時代には大きな甕に石などで蓋をした甕棺や、二つの甕の口縁を合わせて用いた合口甕棺などが用いられる。弥生時代には、とくに北九州地方で甕棺が大量に用いられた。甕棺以外では、縄文時代末~弥生時代に板石を組み合わせた箱式石棺がつくられた。とくに弥生時代では、数体分の遺体を入れる大形のものも発見されている。古墳時代には、割竹形石棺、舟形石棺、家形石棺、長持形石棺など、多種の石棺の形態をみることができる。木棺は弥生時代以降現代に至るまで続くものである。孝徳(こうとく)天皇(在位645~654)の代に、臣下の棺は木でつくることが定められており、石棺はしだいに廃れてゆく。現存する木棺でもっとも有名なものの一つに、平泉中尊寺の藤原三代の棺があるが、いずれも黒漆の上に金箔(きんぱく)を貼り付けた美しいものであった。ただし、このような寝棺は貴族など上流階級が用いたものであって、中世以降も一般には座棺が用いられ、庶民が寝棺を用いるようになるのは、都市を中心として霊柩車(れいきゅうしゃ)の使用および火葬の普及する明治以降のことである。
[寺島孝一]
人類学者ファン・ヘネップによれば、葬式の過程は分離儀礼、過渡期の儀礼、統合儀礼の3段階に分けられるという。このなかで棺が重要な要素として登場してくるのは、分離と統合の儀礼においてである。分離儀礼、すなわち死者を現世から区分する実際的手続において、死体を棺に入れる、あるいは棺の蓋(ふた)を閉じることは、しばしば儀礼全体の厳粛な幕切れとなる。たとえば、フィリピンのハヌヌー・マンギャン人の社会では、納棺直前まで、不浄ではない南北方向に死体を安置し、食事も与え、生きているかのような手続をとるが、納棺の際に、死体を死者の方向とされる東西方向に移し、さらに出棺も家の壁を一部壊して行うという。これは死と生のあいまいな状態から、納棺を通して儀礼的に死んだ状態にさせることを意味するのと同時に、壁の穴は、この世とあの世とを分離させる象徴的空間とも受け取れる。
統合儀礼の場合を考えてみよう。これは一般に、喪などの過渡期の儀礼ののち、死者を死者の世界に、死者の縁者を生者の世界に完全に統合する意味からきている。カリマンタン(ボルネオ)島南部のガジュ・ダヤク人の社会では、死者はまず仮の棺に入れられ、はるか川上の丘の上に埋葬され(一次葬)、遺族の資力がある程度高まったところで、壮大なティワー祭儀(二次葬)が行われる。このとき死者は、みごとに彫刻された棺に入れられる。こうしてこの祭儀ののち、死者と生者の世界の完全分離が達成される。
既述のティワー祭儀では舟を描いた板が重要な役割を果たしているが、東南アジアからオセアニア一帯には舟と葬儀、棺との関連が数多く表出している。舟葬(しゅうそう)もその一つであるが、舟自体を棺とみることには問題があるかもしれない。しかし、この舟葬が形式化し、本物の舟のかわりに舟形の棺を利用している例には注目したい。メラネシアのマライタ島、ニュー・カレドニア島、ニュー・アイルランド島、アンブリム島、マヌス島では、舟形の棺に死者を入れ、場所によっては樹木に掛けるという。舟形棺の例は、ポリネシアのサモア島、ミクロネシアのクサイエ(コスラエ)島などでも報告されており、いずれも海上他界の観念と結び付いている葬法である。東南アジアでは、スマトラ島のバタック、パクパク、カロの人々、スラウェシ(セレベス)島、チモール島、ニアス島、ニコバル諸島民において舟葬あるいは舟形棺の例がある。さらに大陸部でも、中国南部のミャオ、ミャンマー(ビルマ)のカチン、アッサム地方のアオ、ロタ・ナガの人々は舟形棺を利用している。とくに北部ロタ・ナガの富裕者は、両端が犀鳥(さいちょう)の頭や尾の形で装飾されたボート状の棺に入れられる。
インドネシアのサダン・トラジャ人は木製の寝棺を用いる。これは、自然の丸太を縦割りにしておのおのをくりぬき合わせた円筒形のいわゆる舟形棺である。東南アジア一帯に広がるこれら舟形棺の起源は、紀元前に栄えたドンソン文化にまでさかのぼるといわれ、同文化の代表ともいえる銅鼓の装飾モチーフにもしばしば現れる。しかし同じ東南アジアでも、スラウェシ島北部のミナハサ人は、南太平洋のパラオ島とともに石棺を用いるという。北米の先住民(ネイティブ・アメリカン)は木棺、舟形棺を用い、中米のマヤ文化でも、エジプトほどの華麗さはないにせよ貴人が石棺に納められた例がみつかっている。南米の中央アンデス地帯では近年木棺に納められた王やエリート階層の人々の墓が、大量の副葬品とともに発見されている。また南アンデス地帯やアマゾン地帯では、甕棺が利用されていた。
[関 雄二]
現在もしくは近年まで一般に使用されたのは木製の座棺で、桶(おけ)棺と箱棺の別がある。箱形の寝棺は上流階級から広まってきた。座棺の場合、死後硬直のため入棺しにくくなるので、死の直後から柱にもたれさせておくとか、極楽縄(ごくらくなわ)などといって帯で縛るようにして形を整える必要があった。それがあまりに残酷にみえるのも、寝棺の普及した一つの理由であったろう。九州北部や千葉県の一部などでは近年まで甕棺を使っていた。台所用の水甕や茶甕を利用するもので、縄文時代以来継続して使用されたかどうかは明らかでない。
生前から自分の棺を調えておく人を、心がけのよい人であると評する伝承もあるが、多くは死後ただちにつくるものであった。江戸時代の江戸で棺のことを早桶(はやおけ)とよんだのも、棺桶は死後に急いでつくるものであったからである。村落共同体では葬儀一般を、葬式組とよばれる近隣組織が取り仕切っていたから、棺もムラのなかの器用な人がつくった。葬具一般といっしょに、出棺の日の午前中につくるものであった。それが大工に頼むようになり、しだいに商品化してくる。大工に頼む場合は1日分の日当を支払った。
遺体を棺に入れる納棺のときは、経帷子(きょうかたびら)を着せ、首から頭陀(ずだ)袋を掛けさせる。頭陀袋の中には五穀、一文銭(いちもんせん)6枚、嗜好(しこう)品などを入れる。五穀は、あの世で犬に追われたときに投げ与えて逃げるため、一文銭は三途(さんず)の川の渡し賃などという。嗜好品は、男にはたばこや酒、女には菓子や裁縫道具を入れたりする。棺の中で体が動かないように、茶袋を詰めたりすることもある。いまは頭陀袋を省略することが多いが、生前愛用の品や嗜好品を入れることは変わらず、菊などの花を一面に飾り入れることが流行している。棺を火葬場や埋葬地に運ぶには、いまは霊柩車が普及しているが、以前は葬列を組んで2人か4人で担いだ。葬式組の墓穴掘りの人が、掘り終えてから手足を洗って棺を担ぐのが一般で、草鞋(わらじ)履きで行くのが古風である。
[井之口章次]
遺骸を納める容器。柩(ひつぎ)のこと。原則的には直接遺骸を入れるものを指し,火葬や洗骨後の骨を納める蔵骨器と区別する。材質により,木棺,夾紵(きようちよ)棺,石棺,陶棺などに,また形状によって,割竹形,舟形,家形,長持形などに分けられる。石棺と木棺が普遍的であり,これらはさらに組合せ式と刳抜(くりぬき)式に区別できる。
扁平な自然石を組み合わせた長さ1.5~2.0mほどの粗末な石棺は箱式棺(シストcist)と呼ばれ,もっとも原初的な棺とみられている。箱式棺は新石器時代から世界各地で広く行われたが,東アジアではやや遅れ,青銅器時代になって愛好された。中国の北辺地域や朝鮮半島に分布するほか,弥生時代の日本でも箱式棺は甕棺とならんで多く,その伝統は古墳時代にも引き継がれた。数個の軟質の石材を組み合わせたものは組合せ式石棺といい,箱式棺とは区別される。これは古墳時代の中ごろに長持形石棺として始まり,家形石棺に受け継がれた。一石を刳り抜いて棺身を作った刳抜式石棺はエジプト新王朝時代にあり,ツタンカーメン王(前14世紀)のものが著名。ギリシア・ローマやエトルリアでは大理石製の刳抜式石棺(サルコファグスsarcophagus)が盛行した。〈アレクサンドロスの石棺〉は優れた浮彫をもつことで名高い。日本では古墳時代になって始まり,割竹形,舟形および家形のものがある。
木棺も新石器時代に出現した。ふつうは丸太を刳り抜いた割竹形を呈するが,やがて組合せ式に替わる。エジプトではミイラ形のものが盛んに作られた。中国では殷中期に組合せ式木棺が現れ,春秋戦国時代には漆塗の立派なものがある。四川省を中心とする巴蜀文化においては,独特な舟形木棺が好まれた。日本では,組合せ式木棺が弥生時代になって一般的となり,現在まで用いられている。古墳時代の初めには長大な割竹形木棺が,また飛鳥・白鳳時代には夾紵棺が使われたが,普遍化しなかった。
執筆者:山本 忠尚
奈良・平安時代には寝棺が一般的で,鎌倉時代の《吉事次第》にも背丈の違いはあるものの,棺の長さは6尺3寸,幅1尺8寸,高さ1尺6寸としている。末法思想が浸透してきた10世紀以降になると北枕西向きに納棺することが行われたが,やはり寝棺であった。一方では入定(にゆうじよう)の形をとるものも出現し,これが近世以来の座棺としての桶棺,角棺を生んだ。このほか,壺や甕も棺に使用された。《日本書紀》には,素戔嗚(すさのお)尊の尻尾が化した柀(まき)を棺材とするとある。現在では棺材にはスギが多く用いられ,兵庫県にはホウを利用するところもある。沖縄では近代の棺は磁製のものがみられ,古いものには鎧櫃(よろいびつ)形の木棺があり,また輿(こし)形の石棺もある。
入棺の際には棺の底に木灰,藁,ぼろきれを順に敷く所があり,におい消しとしてヤブニッケイ(奄美大島)やミョウガ(滋賀県塩津浜)を入れる場合もある。平安時代の白河法皇の棺には〈酸〉を入れた(《長秋記》)という。副葬品には死者の好物を入れるが,金けのものは入れない。棺の蓋の釘打ちは出棺の際に行う。高知県長岡郡では雨垂れ石で打つが,鎌倉時代初期の《明月記》にも石で打ったとある。兵庫県宍粟市の旧千種町では竹釘を使うという。大阪府の旧中河内郡では釘打ちをしてはならぬといい,藁縄で三方がけにくくるだけである。桶の〈たが〉も竹にしている。さらに早く自然に帰るようにといって棺の中へ土を入れて埋葬する例が滋賀県にある。なお,縁側から出棺し,仮門をくぐり,送火に送られて葬送されるのが全国的な風習である。
執筆者:田中 久夫
異称には棺櫝(かんとく),棺櫬(かんしん),棺柩(かんきゆう),漆宅,花板,喪器,六林,槨柩(かくきゆう)などがあるが,18世紀以来,棺をつくるのに適する材木を本義とする語〈棺材〉が広く棺の俗称として通用している。〈死在柳州(死ぬならば柳州で)〉という俗諺があるが,それは柳州府(広西チワン(壮)族自治区柳州市)では良材の棺が安くもとめられるからであり,中国人(漢族)が棺を重んじ,古来その用材にすこぶる心をくだいていたことがわかる。
用材は,かつて天子の棺は梓宮(しきゆう)といい,梓(トウキササゲ。以下和名は《国訳本草綱目》による)で作る。同様に楸・檟(キササゲ)も木質の堅い木目の美しい木なので古くから好まれ,黄柏(キハダ)や楠・樟(クスノキ),柏(コノテガシワ)なども珍重した。マツ(多くは果松という五葉の松),杉(コウヨウザン),柳(シダレヤナギ),楊(カワヤナギか),檜・栝(ビャクシンか)なども一般に使用され,河南省地方では多く桐(シナギリ)材を,台湾では杉またはタイワンヒノキを用いている。古くから土葬をもっぱらとした関係上,すべて仰臥伸展の姿勢のまま納まる寝棺で,耐久力に富む堅い木材で厚くつくる。それは密閉式にできた大形のもので,重量だけで数十kgに達する。古くは各部分が一枚板を使ったが,後世はだいたい4~8寸(1寸は3.2cm)もある厚い刳板(くりいた)による組合せ式となり,すでに漢代にその実例をみるが,棺の内部は内高に削ってあり,頭部がふくれてやや高く,脚部がしだいに小さくやや低くなる。たいていは船形に形づくられている。大きさは普通長さ7尺,幅1尺5寸,高さ2尺5寸で,富家のものだと長さ9尺,幅が頭部4尺に脚部3尺,高さ4尺,さらに大きいのもみられた。
表面装飾として,棺の周囲に彫刻や漆塗金蒔絵(きんまきえ)をほどこした豪華なものがある。漆塗とするのは内部よりガスのもれることを防ぐためである。なお実幇(じつぽう)実底と称する二重胴・二重底の堅固な棺もある。中国漢族くらい棺材に金を費やす民族はあるまい。この棺材の負担こそは旧体制中国の宗法社会の崩壊を防いだ一つのくさびでもあり,また中国大衆をして永久に貧困ならしめた一つの原因でもあったといってよい。
古い棺材は薬用やのろい用として使われる。また長く棺の中に収められていた物は,お守りにされることがある。棺の釘を他の金属にまぜて鎖などをつくり,子供の魔よけにする。棺の上物になると外部の塗りや装飾などに相当手間取るので,ゆとりのある家では一般に60歳を越えると,生前に棺を特別注文しておく。そのように用意しておくことが子としての孝心のあらわれとみるのである。かかる準備をした棺は寿材(寿枋ともいう)と称し,自宅または付近の寺廟(じびよう)に,もしくは棺おけ屋(棺材舗)にそのままあずけておく。知己親戚に急死人が出て,棺の準備が間に合わぬ場合に贈物とすることもある。普通一般の家庭では,臨終の当日に既製品をもとめる。台湾では娘の嫁入りに当たり,死んでも婚家の世話にならぬようにと棺まで持って行く。しかし実際の棺を持参するのは喜事に対して不吉となるので,金製の小棺をつくった。葬期は古くから殯殮(かりもがり)の風がおこなわれ,金持では数月ないし数年に及ぶものがあり,貧家ではわずか2,3日ないし1,2週間にとどまるが,殯殮の期間中には1週間,または日に1回くらいその棺をつくった職人を呼んで,内気の漏れを検査させる。棺に蓋をするときは,蘇枋木(スオウ)製の釘をもってするのが古風である。他郷にある商人その他異郷で官職にある者などが死んだ場合には,死体を棺に納めて郷家に運搬する風があった。
→葬制
東北の満州族は,おおく中国人の影響で棺に納めて埋葬する。新疆地方のウイグル(維吾爾)族(漢回,甘回ともいい,漢語使用のイスラム教民)は棺を用いない土葬である。タクラマカン砂漠の北東部を除いた周囲に分布する纏回は一応棺を用いるが,その木箱形の棺は共同のもので,出棺して墓地へ行くと,丈余の深さのある四角の坑(あな)を掘り,その底から側に一つの穴を通じておき,そして棺から死体を出して坑内へ投げ入れ,土をかぶせて墓をつくる。海南島のリー(黎)族の棺は,たいてい木の幹をくりぬいてつくり,蓋は別につくってこれをおおう。しかし南労リーは棺を用いず,蓆(むしろ)で巻いて埋葬する。同じくリー族の一つたる岐(き)族でも金持は木棺を用いるが,一般に蓆におさめて葬る。西康地区のミヤオ(苗)族も広東の北江流域のヤオ(傜)族も相似た葬俗で,屍体を棺に入れて土葬し,そして3年のうちに掘り出し,原有の棺を棄てて遺骨を撿(ひろ)い,陶甕に納めて再び葬る。漢族をかこむ周辺に存在する少数民族の間には,種々の古代的な葬法,たとえばモンゴルの野葬,チベットの鳥葬,東北の樹葬,その他水葬,風葬,火葬などが残されている。ラマ教圏にぞくするチベットとモンゴルでは,ラマ教の吉凶禍福を占う本《珠露海の書》に見える五行の葬法,すなわち金葬(死体を山に置く野葬),木(樹)葬,火葬,水葬,土葬が地方によって行われ,共々に多くは棺を用いず,地方によっては死体を氈(ブランケット)に包んで野中に埋葬し,馬を放ってその上を践(ふ)ませる。
近代の朝鮮も中国とおなじく,木棺を用いて埋葬する。その木棺は漆棺と称し,中国の棺に比べて質素なもので,棺の板の厚さも2cm強で薄く,単なる長方形の箱にすぎないのが普通である。側面の両端部の漆塗の黒地には,それぞれ赤塗の模様がみられる。用材は中国に準ずる。
ボルネオ島のプナン族の棺は立木の幹に穴をあけ,この中に遺体をいれるが,そのあとで穴を封じて去る。同島のダヤク族の棺は幹を縦二つに切り割って内部をほりくぼめたものだが,カヌー(丸木舟)形とし,外面にはヘビ,トカゲ,あるいはフィリピンのルソン島のと同様に牛頭を彫刻する。スラウェシ島北部のミナハサ族は石棺を用いる。それは浮彫の装飾をほどこした家屋形のもので,うずくまった姿勢の遺体を納めるのだが,ミクロネシアのパラオ諸島にもこの種の石棺が発見される。同じくスラウェシ島のトラジャ族の棺は,ボルネオと同様,木の幹を半分に縦割りにしてつくったカヌー形棺で,死体を白布で包み納めるが,この棺に合う蓋を別につくり樹脂でかたくこれを封ずる。広義のトラジャ族の一部族であるトランバツ族は大竹を半分に割ってその節をぬいた竹棺を用い,やはり樹脂を塗って気密にしてふたをする。首長や貴人だと,下に4本の足のついた透しのある箱形の木棺が使用される。スマトラ島のパク・パク族およびカロ族の木棺は全部カヌー形だが,その舟棺の装飾として絵画がみられる。頭端にはトーテム獣の彫刻があり,尾部にはらせんを描き,両舷にも装飾文様が描かれる。木製の棺蓋をとりつけるが,それには元来,祖先像たる男女のうずくまった姿勢の木彫像がある。同じくバタク族の一部族では,インド東端のアッサムのアオ族やコニアク・ナガ族と同様,犀角(さいかく)をもって鳥の形に棺をつくる。
ポリネシアのサモア諸島の棺は舟であり,人が死ぬと芳香性の油で遺体をすっかりふき,階級によって異なるが樹皮布(タパ)あるいは筵(ござ)で包み,棺とされる舟にいれて,その全体を樹皮布あるいは筵でさらに上から包んで,ひもで締めて土葬する。ニュージーランドのマオリ族の首長用木棺は彫刻した鳥の形につくられ,羽翼があり,水かき足をそなえ,かつ人面もみられる。
北アメリカの平原インディアンは死体をただバイソン皮造りの衣装にきつくつつみこむだけであり,他の諸族は最高に着飾らせた死体を置く〈死者の家〉というのを建造するにとどまるが,カヌーを棺として葬る習俗はカナダ東部の沿海地方の辺地に住む人々のあいだに見られる。メキシコのサポテコ・インディアンは大形の甕棺を用い,地下坑室に安置する。マヤ族は王族とか僧の死者を葬るときは火葬が行われ,その灰は遺物として骨壺に納めるが,一般人は土葬で,伸葬と屈葬との2様式があり,屈葬を行う場合は大きな土製の甕棺を用いる。南アメリカでは,狩猟を生業とする諸族間では甕棺による葬法が行われず,今日,中央アンデス地域においてすら見いだせない。しかしブラジルのアマゾニア,ベネズエラ,コロンビア,アルゼンチン北西部,ボリビア東部,およびチリ北部にわたって広く甕棺の使用分布がみられる。なおアマゾン・インディアンのエルリア族は同地の他種族と同様,古いカヌーを二つに切り,一つを蓋のように上にかぶせたものが棺とされる。そして,こわれた陶器や樹皮で棺のすきまや穴をふさぎ,共同小屋(マローカ)の片すみに深い坑を掘って埋める。死体を長く寝かせたまま棺に納め,あおむけでなく下向きにふせておく俯臥伸展葬である。
執筆者:中野 輝雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…漆絵と密陀絵の技法はすでに漢時代からあり,この絵の意味するところは大きい。飛鳥から奈良時代にかけての新技法の一つに漆棺があり,(1)塗漆棺,(2)棺(そくかん),(3)籃胎棺,(4)塗漆石棺,(5)塗漆陶棺の5技法が知られる。(1)は木に漆を直接塗ったものと麻布を貼って塗漆したものとがあり,高松塚(奈良)出土木棺は後者にあたる。…
…石で作った室を意味するが,おもに埋葬施設をさすときに用いる。その場合,原則的には,遺体を直接入れる容器を〈棺〉,棺を収めるもので,単次葬用に作られ,大きさも棺によって規定されるものを〈槨(かく)〉,そして,棺とは直接関係しない広い空間と通路をもち,複数の棺(遺体)を順次追葬(複次葬)することのできるものを〈室〉と呼びわけるべきであるが,3者を厳密に区別することは困難な場合が少なくない。したがって,これらの用語は混用されることが多く,石室は火葬墓の蔵骨器や経塚の経筒を収納する石組みなどを呼ぶのにも用いられる。…
…庭には,遺牌を作る前に神を依らせるものである〈重(ちよう)〉が立ててあるが,その上に銘を載せる。亡くなった翌日,死体を整え衣衾を加える〈小斂(しようれん)〉という礼を行い,小斂の翌日には,部屋の場所をかえて同じようなことをする〈大斂〉を行い,その後,納棺し殯宮に安置する〈殯(ひん)〉が行われる。小斂から殯までの期間は,死者との関係によって定められた厳しい服装規定に従い,またたびたび悲しみを表す舞踏が行われる。…
…また,埋葬に際して遺体周辺に赤色顔料を散布することが旧石器時代以来,世界各地の墓でみられ,浄めの意味などが説かれている。
[埋葬地と施設]
埋葬に際して,遺体は樹皮,布,わらなどで包んだり,さらに木棺,土器棺(とくに甕棺(かめかん)),陶棺,石棺に納めることが多い。火葬骨は土器か金属製の容器に収納することが多い。…
※「棺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
7/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新