20世紀の絵画、彫刻、写真、デザイン、建築における前衛的傾向の一つ。構成主義の語は、1921年の初めからロシアで用いられたが、その意味するところは、工業的な実用物を構成していくプロセス、方法という、ほとんどデザインと同義のことばであった。17年の革命に続くユートピア的雰囲気のなかで、共産主義という新たな社会秩序を体現する、新しい芸術的環境を生みだそうとする一連の動き、いわゆるロシア構成主義が誕生したのである。
このように構成主義は、狭義にはロシア構成主義を意味するものであるが、他方、1922年から20年代の末にかけて、主としてドイツで進展したより広範な国際的な潮流をさすことばとして用いられ、さらに一般的には、線や面といった幾何学的な形態によって「構成される」デ・ステイルにみられるような抽象美術全般をさす場合もあり、その語義は一定ではない。
ロシアに限っていえば、1920年に革命政府によってモスクワに設立された「インフークИНХУК/INHUK(芸術文化研究所)」のメンバー、アレクセイ・ガン、アレクサンドル・ロドチェンコ、バルバーラ・ステパーノワ、ステンベルグ兄弟らが、21年3月に「構成主義の作業グループ」を結成し、構成主義の活動が開始される。21年4月のプログラムによれば、構成主義は、もはや芸術の自律的な機能というものを認めず(「絵画の死」)、あらたな社会主義社会の必要と価値にふさわしい視覚的環境の創造を訴えるのである。
その限りで、厳密な意味でのロシア構成主義は、同じロシアの前衛ではありながら、非実用的な純粋美術を目ざしたマレービチのシュプレマティズムを含むものではない。実際、構成主義者たちは、「物質的な構造の共産主義的な表現」を獲得するために、三つの原理に従おうとする。「テクトニカ」(政治的社会的に適切な工業的素材の機能的な使用)、「コンストルチア」(工業的素材を組織するプロセス)、「ファクトゥーラ」(素材の選択と適切な処理)である。
ここで強調される工業が含意するものは、革命後のロシアにあって、工業的発展こそが政治的、社会的な進歩を約束するものであるという信念であり、こうした工業的発展を支える機械は、したがって新しい文化のメタファー(象徴)にして経済の再建の実際的手段にほかならなかった。構成主義の試みが、直接的にはタトリンの「第三インターナショナル記念塔」のモデル(1920年11月ペトログラード(サンクト・ペテルブルグ)、12月モスクワで展示)から啓示を受けている理由はここにある。タトリンの記念塔は、巨大な鉄の梁(はり)とガラスで作られた「新世界の創造に役立つ発見を生み出すモデル」(タトリン)として、機械美の力を誇示しつつ、革命の最終目標を象徴していたからである。
構成主義の目ざした新たな社会主義社会に即応する視覚的環境は、たとえば、演劇という場にその発現をみていた。リューボーフィ・ポポーワやステパーノワが手がけたメイエルホリドの舞台のためのデザインはその典型である。伝統的な衣装に代わって、人間工学に基づく「つなぎ」の衣服が登場していた。また、ロドチェンコが1925年パリの国際装飾美術展のソビエト館内に設置した「労働者クラブ」のディスプレーは、新しい社会に直結したビジョンを提示しようとする構成主義の考え方を端的に示している。ロドチェンコは、故国の厳しい生活条件を念頭に、ロシアでは豊富で廉価な木材を使用して家具を設計し、合理化と規格化を実践していたからである。
こうして、いわば産業デザインを目ざした構成主義ではあったが、その前衛的なデザインは、革命、内戦で疲弊した社会では容易に実用化されるものではなかった。このため、構成主義の仕事の中心は、グラフィック・デザインや写真などの分野に集中していった。ロドチェンコは、『キノ・フォト』(1922)、『レフ』(1923―25)、『ノービ・レフ』(1927―28)といったアバンギャルドの雑誌のレイアウトやカバー、さらには、映画のポスターを手がけていた。それらは、大胆なタイポグラフィと抽象的なデザイン、そして写真を組み合わせたフォトモンタージュであった。実のところ、機械的プロセスを経て生み出される写真は、テクノロジーを信奉する構成主義にこそふさわしいメディアであり、かつ、大衆が理解しやすいリアルで明瞭なイメージを尊重する共産党の方針にも合致するものであったといえよう。ちなみに、ロドチェンコは、1950年代まで、一貫して写真を主要な表現メディアとし、幾多の優れた作品を発表している。
レーニンの死後、権力を手中に収めたスターリンは、1928年第一次五か年計画を実施して、反対派を追放し、やがてその攻撃の矛先をアバンギャルドに向け始める。1928~32年までの文化革命において、フォトモンタージュがプロパガンダの有効な武器として命脈を保ったことをほとんど唯一の例外として、革命とともに歩んだ構成主義の活動は、実際の政治体制によって圧殺されてゆくことになるのである。しかし、構成主義の残した清新な実験の数々は、今日、依然として刺激に満ちた霊感源たることをやめていない。
[村田 宏]
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もともとは1921年ころ革命後のロシアに現れた前衛美術運動の一派であるが,その後東欧から中欧にかけて,ジャンルのうえではデザインや建築にまで広がった大規模な国際的芸術運動である。画架(イーゼル)にのせて描く絵画を否定し,現代社会で普通にみられる工業材料(金属,ガラスなど)を使って物理学的な均衡感覚に基づく抽象的な美や,運動という力動的な美を表現する構成主義的な作品としては,1920年のロドチェンコの《吊り構成》やタトリンの《第三インターナショナル記念塔》(案)などがある。しかし,構成主義という言葉が初めて使われたのは21年ステンベルグ兄弟とメドゥネツキーの展覧会(モスクワ)においてであった。同年ロドチェンコらは,社会主義国家建設に際して芸術の果たすべき役割は直接生産活動に参加することだとして生産主義芸術proizvodstvennoe iskusstvoを唱えた。これに同意できなかったA.ペブスナーとN.ガボの兄弟はフランスとドイツに亡命し,生涯構成主義の彫刻を作り続けた。生産主義的構成主義者は芸術技術者としていすやランプなどの実用品,ポスター,舞台装置のデザイン,写真などを手がけ,なかにはリシツキーのようにロシアのほかドイツやスイスで活躍した人もいる。一般的には国内の生産技術の遅れもあって彼らの活動は成果をあげえなかった。ロシア国内の生産主義的構成主義は,30年ころその形式主義偏重の傾向を批判され,社会主義リアリズムがそれに取って代わる。一方20年代後半に建設活動が活発となった建築の領域では,ベスニンVesnin3兄弟,ギンズブルグMoisei Ya.Ginzburg(1892-1946)らの〈現代建築家協会(OSA(オサ))〉(1925結成)が構成主義を名のり,西欧の近代建築運動と歩調をあわせて機能主義建築を主張したが,これも30年代初めには復古的な古典主義に取って代わられた。
1922年ベルリンのロシア美術展において初めて西欧に伝えられた構成主義は,ただちに進歩的な前衛芸術家に受け入れられ,その結果ドイツのモホリ・ナギ,オランダのモンドリアン,ファン・ドゥースブルフ(新造形主義),フランスのル・コルビュジエ,オザンファン(ピュリスム),レジェ(機械主義)らを含める広義の構成主義が成立した。彼らの活動はロシア同様に絵画や彫刻からデザイン,舞台装置,写真,映画の分野にまで及び,それぞれにおいて大きな影響を与えたが,なかでもドイツのバウハウス(デッサウ)はその中心となった。さらに近年はポーランドの〈ブロク〉グループ,チェコスロバキアの〈ディスク〉グループなど東欧の構成主義運動が明らかになりつつある。西欧の構成主義は,その後パリの〈抽象,創造〉グループを経て,第2次大戦後のコンクリート・アート,キネティック・アート,オップ・アートにつながっている。日本には村山知義が23年にドイツから帰国して構成主義を伝え,31年開設の〈建築工芸研究所〉(東京銀座)では川喜田煉七郎(1902-75)らが構成主義の造形教育を始めたとされる。しかし,前者はダダの傾向が強く,後者ではカンディンスキーの造形教育が中心となっており,ロシアの構成主義とはやや異なるものであった。
執筆者:宮島 久雄
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(山盛英司 朝日新聞記者 / 2007年)
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…リシツキーはこれをうけて,19年より〈プロウンPROUN(新しきものの確立のための計画)〉を計画し,スエティンNikolai Mikhailovich Suetin(1897‐1954)やチャシュニクIlia Grigorievich Chashnik(1902‐29)などもそれぞれシュプレマティズムの作品を制作した。シュプレマティズムと20年代の構成主義を含めて,革命前後の前衛的な芸術の動向を指すのに〈ロシア・アバンギャルド〉の語が使われることもある。抽象芸術【宮島 久雄】。…
…革命初期のソ連における芸術家の実践はこのことを立証している。たとえばV.E.タトリンやE.リシツキーによって代表される構成主義がそれであり,彼らは日常的な素材から出発して革命社会にふさわしいオブジェを創造しようとした。なかには,大胆ではあっても実用的機能を欠く公共建築の設計もあったが,印刷やポスター,デザインの分野では永続的な影響を残した。…
…すなわち,まず,当時ミュンヘンにいたカンディンスキーの1910年ころからの試み,キュビスムにおける描写対象の分解・分析・総合,キュビスムから枝分かれしたR.ドローネー,ピカビア,クプカF.KupkaらによるオルフィスムOrphismeの音楽的詩的抽象,マレービチの純粋幾何学的抽象の試みであるシュプレマティズムといった動きが抽象芸術を形づくる。次いで,オランダで新造形主義をかかげたモンドリアン,彼を支持したファン・ドゥースブルフらの絵画,彫刻,デザイン,建築等の各分野にわたる運動であるデ・ステイル(1917年より同名の雑誌を刊行),革命後,やはり各分野にわたる広がりをみせたロシアの構成主義(タトリン,リシツキー,ガボ,ペブスナー,ロドチェンコら)などによって抽象芸術は急速に広まり,両大戦間にはシュルレアリスムと並ぶ一大動向を形成し,1930年代には早くもマンネリ化,アカデミズム化の現象すらみせている。そして第2次大戦後,アメリカのポロック,ヨーロッパのフォートリエ,ボルスらを先駆とする抽象表現主義的動向が,1950年代にはほぼ世界中を席巻する。…
…モンドリアンら当時の前衛画家たちとの交流に刺激され,さまざまな絵画様式を研究,この時期に1500点以上の作品を残す。32年にウルグアイへ帰り,構成主義美術協会や工房を設立し,数多くの講演会や個展を催し,5冊の著作と壁画作品多数を残すなど,芸術の後進地帯だったラ・プラタ地域の啓蒙に尽力した。絵画制作を理性の作業とし,対象を限定された抽象形に還元し,画面を誰にでも一目で認識できる象徴で構成しようとした,構成主義を自己流に展開したウニベルサリスモuniversalismoを提唱。…
※「構成主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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