短歌を左右1首ずつ組み合わせ,優劣を争う文学的行事。まれには3首を合わせたこともあり,歌人単位に複数の短歌を並記して比較することもあった。
起源
歌う心と競う心と判(ことわ)る心とが結びつけば歌合はいつでも成立しえたはずであるが,万葉時代にもなく,和歌が書き読む文学となって文献に記録されるようになった平安朝初期にもなかった。北家藤原氏の摂関政治を抑えるために和歌をはじめ朝儀,国風を作興した光孝天皇の仁和年間(885-889)に初めて現存最古の《民部卿行平家歌合》(《在民部卿家歌合》)が出現したことと,歌合の行事形式が相撲節会(すまいのせちえ)に酷似していることとからして,いわば歌相撲といった興味から始められたものとさえ考えられる。
分類と構成
主催者の地位によって,内裏,仙洞,后宮,女院,女御,御息所,親王,内親王,斎宮,斎院,大臣,納言,参議,雲客,地下,女宅,僧房,神社などに分ける階級的規準があり,さらに歌合の興味の所在によって,歌を伴う物合,物合を伴う歌合,物を伴う歌合,純粋歌合と縦に大別し,これを題材によって横に細分して,根合,前栽合,女郎花合,撫子合,菊合,紅葉合,貝合,虫合,鳥合,獣合,職人合,石合,百和香合,扇合,絵合,草子合,小箱合,謎合,物語合,艶書合,問答合,詩歌合,連歌合などに分ける素材的規準がある。また当座歌合,兼日歌合,撰歌合,時代不同歌合,自歌合,擬人歌合など,歌人関与のあり方を規準として区分することもあって,歌合の分類は多岐複雑である。
またその構成は,人的構成にのみ限っていうと,王朝晴儀の典型的な歌合にあっては,方人(かたうど)(左右の競技者),念人(おもいびと)(左右の応援者),方人の頭(とう)(左右の指導者),読師(とくし)(左右に属し,各番の歌を順次講師に渡す者),講師(こうじ)(左右に属し,各番の歌を朗読する者),員刺(かずさし)(左右に属し,勝点を数える少年),歌人(うたよみ)(和歌の作者),判者(はんじや)(左右の歌の優劣を判定する者。当代歌壇の権威者または地位の高い者が任じる)などのほか,主催者や和歌の清書人,歌題の撰者などが含まれる。
沿革
(1)第1期(885-1107) 光孝天皇の遺志を継いだ宇多天皇が,摂関政治を抑圧して朝廷の権威を高める手段として,和歌再興の文化政策をいっそう効率的に推進したが,もっぱら菅原道真が中心となって勅撰和歌集の編纂が企画され,その予備行為としてまず《新撰万葉集》を撰ぶに際して,《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》や《是貞親王家歌合》など100番・50番の大規模な歌合がその撰歌の場として催された。宮廷におけるこれらの歌合の開催は,漢詩文隆盛の平安朝初期に,沈滞していた詠歌への意欲を刺激して,次の醍醐天皇の代に《古今和歌集》(905)を成立させるにいたるのであるが,歌合も頻繁に催され,晴儀としての歌合の形式は急速に整い,913年(延喜13)の《亭子院歌合》を経て,960年(天徳4)の《天徳内裏歌合(てんとくのだいりのうたあわせ)》にいたって最初の完成に達した。このころには,宇多・醍醐・村上3帝を中心とした内裏,後宮の晴儀の歌合,陽成院やその皇子たち,専門歌人たちによる文芸本位の私的な歌合,朝廷主導の晴儀歌合に背を向けた摂関大臣家の隠逸的な前栽歌合が,特徴的な3派を形成していた。そのころの代表的な歌合には,上記のほかに,《内裏菊合》(913,953),《京極御息所歌合》(921),《右大臣師輔家歌合》(956)などがある。冷泉天皇以後,摂関藤原氏が権力をもっぱらにするにつれて,政権をめぐる激しい対立抗争は,公家社会における協調融和の気運を冷却し,歌合は極度に衰微して,一条朝の藤原道長時代には《枕草子》《源氏物語》など個人の才能による個性的な作品が文壇を領導し,歌合も藤原公任撰の《前十五番歌合》や《三十六人撰》,花山院撰の《後十五番歌合》,具平親王の《三十人撰》のような,もっぱら評論意識による机上の選択にまかされることとなった。伝統的な歌合としては,《斎宮規子内親王家前栽合》(972),《左大臣頼忠家前栽合》(977),《左大臣道長家歌合》など,隠逸的な前栽合や歌会に近い形式のものに偏していた。ところが外戚政策の失敗から摂関政治に危機が訪れると,摂関藤原氏各家は一転して協力態勢を取り始め,後朱雀・後冷泉朝の藤原頼通(よりみち)時代には,内裏・後宮・内親王家の遊宴的な歌合が空前の盛行を招くにいたった。この機運が仮名書道の完成と相まって史上初の歌合文献集成としての10巻本の《歌合》(藤原頼通主宰,源経信監修)を完成させた。このころの代表的なものには,《上東門院菊合》(1032),《左大臣頼通家歌合》(1035),《祐子内親王家歌合》(1050),《斎院禖子内親王家物語合》(1055),《皇后寛子宮歌合》(1056)などがある。ついで後三条・白河両帝は再び摂関政治抑圧の政策をとり,白河院政が始まるに及んで,摂関藤原氏と六条源氏とが結んで堀河朝廷を擁護し晴儀遊宴の歌合を維持しようと努めたが,院司勢力による文芸本位の歌合の中世化はすでにきざし始めていた。《和歌合抄》(堀河主宰,源雅実監修?)の編纂は,むしろ懐古的なものでしかなかった。《内裏歌合》(1078),《郁芳門院根合》(1093),《前関白師実家歌合》(1094)などは王朝的な歌合の残照である。第1期の晴儀遊宴の歌合においては,通例,和歌の作者たる歌人の地位は低くて方人の陰にかくれており判者や判詞もきわめて形式的で,さほど重視されてはいなかったが,白河院政が始まって以後は,純粋に文芸評論を闘わす傾向が強まってきた。
(2)第2期(1107-92) 院政が進行し院側近の中流貴族が実権を握るにつれて,歌合の本質はまったく変わってきた。前期末に未完成であった《和歌合抄》を増補して20巻本の《類聚歌合》を完成させたのは堀河朝廷の後見者であった源雅実の甥に当たる摂関藤原氏の当主内大臣藤原忠通(ただみち)である。忠通はきわめて温和な人物で,中世的な文芸本位の歌合の時流にも逆らわずみずからも盛んに歌合を催して,源俊頼,藤原顕季,藤原基俊ら革新・中立・保守3派の判者を巧みに操縦して歌合歌論を盛り上げることに成功した。このころの歌合はすでに方人が同時に歌人であることが常になり,主催者すらが歌人として方人の列に加わって,晴儀歌合としての行事形式を棄却して,判者を中心に歌論を闘わす文芸精進の場と化したのである。歌合史の中世はここに始まり,判者の地位の向上,歌合主催者として中流貴族や僧侶の進出が著しかった。このころの代表的な歌合には,《雲居寺結縁経後宴歌合》(1116),《内大臣忠通家歌合》(1118,1119,1121),《永縁奈良房歌合》(1124?),《中宮亮顕輔家歌合》(1134),《右衛門督家成家歌合》(1149)などがある。保元の乱(1156)を境として,こうした中世的傾向はいっそう顕著となるが,治安,経済の不安は歌合から行事としての空間的時間的要素をすら奪うこととなった。構成人員の集合もしばしば不可能となって,すべてをひそかに計画し,左右に番(つが)った和歌を書き記した巻物を判者にゆだねて判詞を記入させ,後日その結果を関係歌人に報告するといった窮屈な情況でさえあったから,文学行事としての歌合はまったく変質してしまったといわねばならない。このころの代表的なものには,《中宮亮重家家歌合》(1166),《太皇太后宮亮経盛家歌合》(1167),《広田社歌合》(1172),《賀茂別雷社歌合》(1178),《右大臣兼実家歌合》(1179),《西行自歌合》(1187,1189)などがある。判者としての藤原俊成,藤原清輔,藤原顕昭らの歌論,歌合の安全な場としての神社の利用などが注目される。藤原清輔の《袋草紙遺編》(1159以前成立)は歌合の構成を体系的に論じた最初の研究である。
(3)第3期(1192-1242) 鎌倉時代にはいって,歌合は空前の盛況を見せた。源頼朝の幕府が全国を統一して平和が回復したことと,政権を朝廷に奪回しようとの後鳥羽上皇の意欲とが,公家社会に対する精神作興策としての歌合をしきりに催すこととなる。1201年から翌年にかけて催された《千五百番歌合》を撰歌の場として《新古今和歌集》の編纂に到達したことは,歌合史最初期における宇多天皇の朝威宣揚の文化政策と揆を一にしている。勅撰和歌集が《古今集》に始まって《新古今集》に完成したのと同じく,歌合の歴史もここで一回転したのである。このころの代表的なものには,《千五百番歌合》のほかに,《六百番歌合》(《左大将良経家六百番歌合》1193),《慈鎮和尚自歌合》(1198ごろ),《老若五十首歌合》《人麿影供歌合》《和歌所八月十五夜撰歌合》(以上1201),《源氏物語歌合》(1202ごろ)などがある。判者としての藤原俊成,定家の歌論と,衆議判の盛んになったこととが注目される。また自歌合や撰歌合,時代不同歌合,物語歌合,影供歌合,老若歌合,百首歌合,職人歌合などの各様式が続出して後世の範となった。晴儀歌合としての遊宴性とは無関係であるが,芸道の場としての行事形式が確立して,連歌や連句にも大きな影響を与えた。順徳院の《八雲御抄(やくもみしよう)》は,歌合の作法を整理した点で注目される。
(4)第4期(鎌倉中・後期~吉野期) 要するに第3期の惰性で,歌合や歌仙歌合,年中行事歌合,職人歌合などの新傾向が目だった。
(5)第5期(室町時代) 歌合のみならず短歌自体が,前代から興隆しつつあった連歌に文壇の首座を譲ってしまった。職能や鳥獣魚虫,調度などに題材をとった戯歌合が流行したのは,〈お伽草子〉に追随して新奇をねらう窮余の策にすぎない。
(6)第6期(江戸時代以降) 国学者が擬古的な興味からしきりに歌合を催したにすぎず,かくして歌合の歴史は終末を告げた。
執筆者:萩谷 朴