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1428年(正長1)8月に近江(おうみ)(滋賀県)より始まり、京都、奈良さらに畿内(きない)近国へと広がった、徳政(とくせい)を求める土民(どみん)(百姓)の一揆。以後15世紀から16世紀にかけて各地で蜂起(ほうき)する大規模な徳政一揆の先駆けとなるもので、当時の支配層に大きな衝撃を与えた。のちに興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)は「日本開白(闢)(かいびゃく)以来、土民蜂起これ初めなり」と記している。このとき幕府の徳政令は発布されなかったが、28年から翌年にかけて各地でさまざまな徳政が実施された。京都の土一揆は東寺(とうじ)を拠点に市中の土倉(どそう)、酒屋に押し寄せ、借銭、質物を取り返す私(し)徳政を行い、奈良では興福寺に徳政令を出させることに成功している。また柳生(やぎゅう)の徳政碑文は、里別に徳政が行われたことを物語っている。この土一揆の規模は、伊賀、伊勢(いせ)、大和(やまと)、紀伊、和泉(いずみ)、河内(かわち)、丹波(たんば)、摂津、播磨(はりま)に及ぶもので、荘園(しょうえん)制支配のもとでの年貢収奪に加え、それに吸着して、深く浸透してくる高利貸資本の収奪に苦しんでいた広範な民衆を巻き込んで展開された。
[酒井紀美]
『鈴木良一著『純粋封建制成立における農民闘争』(『社会構成史体系 第2』所収・1949・日本評論社)』▽『村田修三著「惣と土一揆」(『岩波講座 日本歴史7』所収・1976・岩波書店)』
1428年(正長元)近江国,京都で徳政実施を求めた武士・民衆が武装蜂起し,畿内近国に内乱状況が波及した事件。この年は将軍が足利義持から足利義教に,天皇が称光天皇から後花園天皇にかわった年で,また疫病がはやり,全国的に飢饉の年でもあり,代替りなど時代の変り目をきっかけになされる徳政の始まりを当時の人々に予感させた。近江で徳政の沙汰があったことをきっかけに9月,京都醍醐で土民が蜂起。借用証文を奪取し,質物を奪い返してみずから徳政を実施する私徳政を行い,11月には京都市中で土一揆が私徳政を行い,さらに奈良でも土一揆が蜂起した。この動きは伊賀・伊勢・大和・紀伊・和泉・河内・播磨の各国へも波及,さらに翌年播磨・大和宇多郡・丹波・伊勢・出雲の各地で土一揆が蜂起した。このとき近江では山門(延暦寺)領を含む一国平均の徳政が行われ,大和でも地域ごとの徳政が行われた。
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…馬借は運輸業のみではなく農耕にも携わっていたから,実際は農民の一揆と馬借の蜂起とは区別しがたいのである。〈日本開白(闢)以来,土民の蜂起,これ初なり〉(《大乗院日記目録》)といわれた1428年の正長の土一揆も,坂本の馬借の蜂起にはじまり,京都から畿内一円にひろがったものである。山門統制下の馬借が土一揆で指導的役割を果たした結果,近江の土一揆は特殊な政治的色彩を帯びることもあった。…
…1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。…
…中世の民衆の集団的な蜂起。土一揆の語の初見は1354年(正平9∥文和3)だが,本格的な一揆の展開するのは1428年(正長1)の正長の土一揆以後で,15世紀を中心に16世紀にも及んだ。土一揆は土民一揆の略で〈どいっき〉と発音したと推定することも可能だが,仮名書きの史料では〈つちいっき〉と記されている。…
…1428年(正長1)以後のおもな土一揆はこの徳政一揆である。鎌倉幕府のいわゆる永仁の徳政令以来,債務破棄と土地取戻しを内容とする徳政を期待する風潮が諸階層の間に強まってきて,それを実行する各地の散発的な動きが積み重なって,正長の土一揆に爆発したといえる。徳政一揆の内容は,土倉を襲って借書を焼き質物を取り戻すことによって個別に債務を破棄するいわゆる私徳政と,幕府や守護などの地方権力に徳政令の発布を要求することの二つからなる。…
…26年には坂本の馬借が,北野の麴座の麴室(こうじむろ)独占による米価下落に端を発する強訴で,祇園社と北野社の占拠を企てて幕府軍と対峙した(《満済准后日記》)。このように,大津,坂本の馬借の蜂起は,経済的な権益をめぐる争いを,伝統的な山門の僧兵の強訴の形を踏襲して行ったものであったが,28年(正長1)のいわゆる正長(しようちよう)の土一揆以後,徳政を要求する土一揆に際して各地の馬借が活躍した。正長の土一揆で馬借の動きが史料上に確認されるのは,11月に奈良に向かった山城の馬借数千人であるが(春日神社〈社頭之諸日記〉),発端となった8月の近江の地下人(じげにん)の徳政蜂起の中に,大津,坂本の馬借も参加したと推定される。…
…また春日社領神戸四ヵ郷のうちに大楊生郷,小楊生郷があった。現在,柳生町の山沿いの道のかたわらに正長の土一揆の際の柳生徳政碑(史)があり,神戸四ヵ郷の債務破棄を明記した文言が残る。新陰流の剣法で知られる柳生氏は当地の土豪で,将軍徳川秀忠,家光の兵法師範をつとめた柳生宗矩は1636年(寛永13)大名に列し,柳生の正木坂に陣屋を置いた。…
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